築山殿のプロフィール。呼び名・ゆかりの品・身長・所属・身分と、一生の短い紹介

築山殿(つきやまどの)は、徳川家康の最初の正室(正式な妻)です。家康が今川家のもとにいたころに結婚し、長男の信康と長女の亀姫を産みました。「瀬名(せな)」「瀬名姫」とも呼ばれますが、これは後の時代の呼び名とされます。

天正7年(1579年)、築山殿は長男の信康と同じ年に命を落としました。この出来事は「築山殿事件(信康事件)」と呼ばれます。事件の理由には諸説があり、最期についても違う記述があります。「悪女」という評価も、後の時代の記録と分けて考える必要があります。

この記事では、築山殿がどんな人だったのか、事件はなぜ起きたのか、死因や首塚、悪女・美人のイメージ、家康との仲までを、その時代の記録と後の時代の話を分けて紹介します。

ケンシン

わしは上杉ケンシン。今日は、家康の最初の妻・築山殿の話だ。

マサムネ

伊達マサムネです! ドラマの「瀬名」は見ました。本当はどんな人だったんですか?

ケンシン

じつは、わからないことが多い人なのだ。何が記録に書かれていて、何が後の時代の話なのか、分けて見ていこう。

ひと目でわかる築山殿

  • 読み方:つきやまどの(「築山御前〈つきやまごぜん〉」とも)
  • だれ?:徳川家康の最初の正室。今川家の一門・関口家の娘(くわしく)
  • 本当の名前:わかっていません【不明】。「瀬名」「瀬名姫」は後の時代の呼び名とされます
  • 子ども:長男・松平信康、長女・亀姫(家族)
  • 最期:天正7年(1579年)8月29日、遠江の富塚(今の静岡県浜松市)で亡くなったとされます。家臣に討たれたとする記述のほか、自害したとする説もあります【諸説あり】(くわしく)
  • なぜ有名?:家康が妻と長男を失った「築山殿事件」で知られます。理由ははっきりしていません(くわしく)
  • 墓:浜松市の西来院(月窟廟)。首塚は岡崎市の八柱神社と伝わります(ゆかりの地)

知りたいところから読めるように、主な見出しへのリンクを置いておきます。

記事の中の【史実】【諸説あり】などのラベルは、その話がどれくらい確かかを示しています(意味は記事の最後にまとめています)。

築山殿(瀬名姫)とは?どんな人?

ひと言でいえば、築山殿は「家康がまだ今川家のもとにいたころに結婚した最初の正室で、天正7年(1579年)に長男の信康と同じ年に命を落とした女性」です。

項目内容
読み方つきやまどの
夫徳川家康(結婚したころの名前は松平元信)【史実】
父関口氏純(今川家の一門。「親永」とも伝わる)【有力説】
母後の時代の系図に今川義元や井伊直平との関係が記されるが、実の親か養家かをふくめてはっきりしない【諸説あり】
生まれた年はっきりしません。天文11年(1542年)ごろとする事典が多い【不明】
子ども長男・松平信康、長女・亀姫
住んだ所駿府(今の静岡市)→ 岡崎(今の愛知県岡崎市)
亡くなった年天正7年(1579年)。数え38歳とする事典が多い(生まれた年がはっきりしないので目安)

「築山殿」という呼び名の由来

「築山殿」は本名ではなく、住んだ場所にちなむ呼び名です。家康が岡崎城に戻ったあと、築山殿は城の近くの「築山」という所に屋敷をかまえて住んだので、こう呼ばれたと考えられています【有力説】。岡崎市の観光の記事では、岡崎城の近くの康生通南のあたりが「築山御殿」の推定地として紹介されています。

本当の名前は?「瀬名」「瀬名姫」は本名?

築山殿の本当の名前は、わかっていません【不明】。

ドラマや小説では「瀬名」「瀬名姫」と呼ばれることが多いですが、これは後の時代の呼び名とされます。江戸時代中ごろの本『武徳編年集成』(1740年)には、父の家について「関口あるいは瀬名氏と称す」とあり、「瀬名」は父の家の名前として出てきます。本人を「瀬名姫」と呼んでいる例は、明治時代の本で確かめられます。

マサムネ

「瀬名」が本当の名前だったかは、確かめられていないんですね!

ケンシン

うむ。この記事では、よく使われる「築山殿」で呼んでいくぞ。

築山殿事件とは?なぜ起きた?

築山殿事件は、天正7年(1579年)に、家康の正室・築山殿と長男・信康が相次いで命を落とした出来事です。研究では「松平信康事件」「信康事件」と呼ばれることも多い出来事です。

結論を先に書くと、家康が信康を岡崎城から出したことは、その時代の記録で確かめられます。しかし、2人が命を落とした本当の理由は、はっきりしていません【諸説あり】。

天正7年(1579年)の流れ

月日は、当時の暦(旧暦)です。

月日できごと
6月4日家康が浜松から岡崎へ来て、信康と、だれかとの「仲直し」をする。だれとの仲直しかは、日記の字が虫に食われていて読めない【史実:家忠日記】
7月16日家康の重臣・酒井忠次が、安土の織田信長に馬を贈る【史実:信長公記】。『当代記』は、7月に忠次を通して信康のことを信長へ内々に伝えた、と書く
8月3日家康が浜松から岡崎へ来る【史実:家忠日記】
8月4日信康が岡崎城を出て、大浜(今の愛知県碧南市)へ移される【史実:家忠日記】
8月8日この日付の、家康が信長の家臣・堀秀政にあてた手紙の写しが伝わる(年は天正7年と推定)。研究者は、信康を岡崎から出したことを信長方に知らせた手紙として紹介している
8月9日信康が大浜から遠江の堀江城(今の浜松市)へ移される【史実:家忠日記】
8月10日三河の武士たちが「信康とひそかに連絡を取らない」と誓う文を書く【史実:家忠日記】
8月29日築山殿が亡くなるとされる【有力説】。場所は、浜松の近くの富塚と伝わる
9月15日信康が、遠江の二俣城(今の浜松市天竜区)で命を絶つとされる【有力説】。数え21歳
築山殿事件の地図。信康が岡崎城から大浜、堀江城、二俣城へ移されたことと、築山殿が浜松の近くの富塚で亡くなったとされることを示している

画像:築山殿事件の地図(侍ロード作成。位置は大まかです)。画像をタップ(クリック)すると拡大できます

表のうち、6月から8月10日までの多くは、家康の一族の武将・松平家忠がつけていた日記『家忠日記』に書かれています。その時に書かれた、とても大事な記録です。ただし、この日記には、築山殿と信康が亡くなったことは書かれていません。

信康の側から見た最期(二俣城での切腹や、介錯をめぐる記録のちがい)は、松平信康の記事で紹介しています。

史料ボックス①『家忠日記』の8月4日

出典
松平家忠『家忠日記』天正7年8月4日条(原本の読みは、岩沢愿彦「家忠日記の原本について」『東京大学史料編纂所報』第2号による)

原文
「御親子被仰様候て、信康大濱へ被退候」(岩沢の翻刻による。家忠が「信長」と書いてから「康」に直した所は「信康」に整えた。明治時代に出版された本では「御親子被仰談候て、信康大濱江御返候」)

現代語訳
(家康と信康の)親子のあいだで言葉のやりとりがあり、信康は大浜へ退いた。

同じ日のことでも、本によって文が少しちがいます。研究者の岩沢愿彦は、原本の文を「言い争いのすえの物別れ」と読んでいます。ただ、親子がどんな話をしたのかは、書かれていません【不明】。

処分を決めたのはだれ?信長の命令だった?

昔は、「信長の命令で、家康がやむなく妻と息子を死なせた」と説明されることが多くありました。この話のもとになったのは、江戸時代の初めに家康の家臣・大久保忠教が書いた『三河物語』です。

史料ボックス②『三河物語』が書く「十二か条」

出典
大久保忠教『三河物語』下巻(寛永3年〈1626年〉ごろ。Wikisource 所収の国民文庫本)

原文(一部)
「信康之御前様寄、信康をさゝへさせ給ひて、十二ヶ条かき立被成而、坂井左衛門督にもたせたまひて、信長へつかわし給ふ」「腹をきらせ給へと、家康へ可被申」

現代語訳
信康の妻(徳姫。信長の娘)が、信康について訴える12か条を書き立て、酒井忠次に持たせて信長へ送った。(信長は)「切腹させなさい」と家康に伝えよ(と言った)。

ただし、『三河物語』は事件から40年以上たってから書かれた本です。この段に書かれているのは信康のことだけで、築山殿のことにはふれていません。年も「天正6年」と、ほかの記録と1年ずれています。

一方、江戸時代初めの別の記録『当代記』は、家康が酒井忠次を通して信長に内々に伝えたところ、信長は「家康の思うとおりに(家康存分次第)」と答えた、と書いています。また、信長の家臣・太田牛一が書いた『安土日記』にも、信康に「逆心(謀反の心)」のうわさがあり、8月4日に国の端へ追い出した、という記事があると、研究者の論文で紹介されています。

こうした記録から、信康への処分について、家康の側の判断を重くみる研究があります【諸説あり】。ただし、2人が命を落とした理由や、信長がどこまで関わったかには、議論が残っています。たとえば研究者の黒田基樹氏も、家康が処分した理由のひとつに信長への配慮を挙げていて、「信長はまったく関係なかった」という意味ではありません。

理由は何?主な説

説中身ラベル
武田家との内通築山殿が天正3年(1575年)の大岡弥四郎事件で武田方と通じ、それがのちに信長に知られたことを、1579年の処分の背景とみる。信康は1575年の計画には関わっていなかった可能性が高い、とみる(黒田基樹氏の説)【諸説あり】
家の中の路線の対立武田家と戦い続けるか、手を結ぶかをめぐって、浜松の家康と、岡崎の信康のまわりとで考えが分かれていた、とみる見方(研究者の岩沢愿彦や柴裕之氏などの見方として紹介される)【諸説あり】
夫婦・家族の不和信康と徳姫の夫婦げんかや、築山殿と徳姫の不仲が原因、とする話。江戸時代の記録が強く書く【諸説あり】
信長が信康の才能をおそれた信長が、自分の子より優れた信康を消そうとした、とする話。根拠はうすいとされる【俗説】

この記事で確かめた同じ時代の記録だけでは、どの説が正しいかをひとつにしぼれず、事件の理由も決められません。『家忠日記』などからは、家康が信康を岡崎から出した経過がわかります。

城の一室で、文机に向かって手紙を書く徳川家康の漫画のコマ

画像:天正7年(1579年)8月、手紙を書く家康

マサムネ

信長が命令したのか、家康が決めたのか……記録によって書き方がちがうんですね。

ケンシン

そうだ。だれが何を決めたのか、わからない点も残っておる。だから、どの記録に何が書いてあるかを見比べることが大切なのだ。

記録くらべ:どの本に何が書いてある?

記録いつ書かれた?何が書いてある?
『家忠日記』その時(家康の一族・松平家忠の日記)信康が岡崎城を出て大浜・堀江へ移ったこと、三河の武士たちの誓い。2人の死は書いていない
家康の手紙その時(8月8日付。年は天正7年と推定。写しが伝わる)信康を岡崎から出したことを、信長方に知らせたと紹介される
『安土日記』信長の家臣・太田牛一の記録信康の「逆心」のうわさ、8月4日に追い出したこと(研究者の論文の引用による)
『当代記』江戸時代の初め信長は「家康の思うとおりに」と答えた。母(築山殿)も浜松で「生害」させられた(日付や方法は書いていない)。追放の日は8月5日とする
『三河物語』寛永3年(1626年)ごろ徳姫の十二か条の訴え、信長が切腹を命じた(この段では信康のことだけ)
『松平記』江戸時代の前期築山殿が唐人の医師を近づけ、武田家と通じた、という話
『武徳編年集成』元文5年(1740年)築山殿を嫉妬深い人物として描く

表を見ると、時代が下るにつれて、築山殿のことがくわしく、悪く書かれるようになっていることがわかります。ただし、後の時代の本が古い記録をもとにしている場合もあるので、「新しい本はすべてうそ」というわけではありません。

築山殿の死因は?最期や首塚について

築山殿は、天正7年(1579年)8月29日、遠江の富塚(今の浜松市中央区、佐鳴湖の近く)で亡くなったとされます【有力説】。この日付は、墓のある寺の記録や事典などによるものです。

死因(どのように亡くなったか)については、家康の家臣に討たれたとする記述のほか、自害したとする説もあります【諸説あり】。江戸時代初めの『当代記』は、「浜松で命を絶たれた」とだけ書き、死に方は書いていません。

年齢は数え38歳とする事典が多いですが、生まれた年がはっきりしないので目安です。

晴れた日の佐鳴湖の岸辺。水辺の草と、湖にそった遊歩道

画像:今の佐鳴湖(2010年撮影)。Wikimedia Commons(撮影:sewmew・パブリックドメイン)

浜松には、築山殿が舟で佐鳴湖に入り、岸に上がったところで討たれた、という言い伝えがあります。浜松市も、この話を「伝説」として紹介しています【伝承】。

岡崎の八柱神社には首塚が、浜松の西来院には墓所が伝わります【伝承】。場所はゆかりの地で紹介しています。

マサムネ

今も、地元の人たちが大切にお祀りしているんですね。

ケンシン

うむ。今も地元の人たちに大切にされている場所だ。

築山殿は悪女?美人だった?

先に答えを書くと、今回確かめた資料では、築山殿の人柄や顔立ちを伝える同じ時代の記録は見つかっていません【不明】。「悪女」のイメージは、主に後の時代の記録から広まったものです。美人だったかどうかも、確かめられていません。

武家屋敷の一室で正座し、手紙を読む築山殿のイラスト

画像:手紙を読む築山殿

「悪女」のイメージはどこから来た?

築山殿を悪く書いているのは、江戸時代の記録です。

  • 『松平記』(江戸時代の前期):築山殿が、甲斐から来た唐人(中国の人)の医師を近づけ、武田家とひそかに通じた、という話を書く【伝承】
  • 『武徳編年集成』(1740年):築山殿を、心がひねくれていて嫉妬深い人物として描く【伝承】
  • 『改正三河後風土記』(1837年):築山殿が家康をうらむ手紙を書いた話など、さらに話がふくらむ【伝承】

こうした話は、昭和の小説やドラマでも使われ、「嫉妬深い悪女」の築山殿が広まりました。家康を悪く見せないために、築山殿が悪く書かれたのではないか、という見方もあります【諸説あり】。

武田家と内通していたのは本当?

天正3年(1575年)には、岡崎の町の奉行(役人)だった大岡弥四郎らが、武田方と通じる計画を立てたとされます(大岡弥四郎事件)【有力説】。

しかし、築山殿がこれに関わっていたかどうかは、研究者のあいだでも見方が分かれます【諸説あり】。黒田基樹氏は関わっていたと考えていますが、同じ時代の記録で、築山殿の内通をはっきり示すものは見つかっていません。

美人だったの?

築山殿の顔立ちを確かめられる、同じ時代の記録は見つかっていません【不明】。浜松の西来院に肖像画が伝わっていますが、いつ描かれたかが確かめられず、本人の顔を写したものと確かめられる資料ではありません。

マサムネ

悪女も美人も、はっきりした証拠はないんですね。

ケンシン

うむ。わからないことは「わからない」と言うのが、歴史を学ぶ者の作法だ。

築山殿と家康の仲は?

駿府の館の縁側に並んで座り、庭の梅の花を見る若い徳川家康と築山殿のイラスト

画像:駿府での若い家康と築山殿

家康は子どものころ、今川家の人質として駿府(今の静岡市)で暮らしていました。築山殿と結婚したのは、弘治2〜3年(1556〜57年)ごろ、家康が数え15〜16歳のころとされます【諸説あり】。家康は、この結婚で今川家の一門とつながりました。

永禄3年(1560年)の桶狭間の戦いのあと、家康は岡崎に戻り、今川家から離れました。築山殿と子どもたちも、永禄5年(1562年)ごろに岡崎へ移ったとされます【有力説】。人質の交換で岡崎へ迎えた、という話もありますが、江戸時代の記録によるものです【伝承】。

別々に暮らした夫婦

元亀元年(1570年)、家康は遠江の浜松城に移りました。築山殿は岡崎に残り、2人は別々に暮らすようになります【有力説】。

石垣の上に立つ浜松城の天守。今の天守は昭和に建てられたもの

画像:浜松城(今の天守は昭和に建てられたもの)。Wikimedia Commons(撮影:Saigen Jiro・CC0)

天正6年(1578年)2月には、「信康の母上(築山殿)から便りがあった」と『家忠日記』に書かれています【史実:家忠日記】。築山殿が岡崎で、家臣たちとつながりを持っていたことがうかがえます。

築山殿は亡くなるまで家康の正室だったとみられ、家康はそのあいだ別の正室を迎えていません【有力説】。2番目の正室・朝日姫(豊臣秀吉の妹)を迎えたのは、天正14年(1586年)です。ただし、ここから2人の仲がよかったのか悪かったのかを決めることはできません【不明】。

家康の一生については、徳川家康とは何をした人?の記事でくわしく紹介しています。

築山殿の家族や子どもは?

築山殿の家系図。父の関口氏純と母、夫の徳川家康、長男の松平信康と妻の徳姫、長女の亀姫と夫の奥平信昌、信康の娘2人を示している

画像:築山殿の家系図(侍ロード作成)。画像をタップ(クリック)すると拡大できます

築山殿の父は、今川家の一門の関口氏純です【有力説】。よく知られる「関口親永」という名前は、後の時代の系図に多い名前です。母については、後の時代の系図に今川義元や井伊直平との関係が記されますが、実の親か養家かをふくめてはっきりしません【諸説あり】。

子ども生まれた年その後
長男・松平信康永禄2年(1559年)信長の娘・徳姫と結婚。岡崎城主になるが、天正7年(1579年)に数え21歳で亡くなる
長女・亀姫永禄3年(1560年)奥平信昌と結婚。寛永2年(1625年)に数え66歳で亡くなる

信康と徳姫の間には娘が2人いて、のちに小笠原秀政・本多忠政に嫁ぎました。築山殿の血は、亀姫と信康の娘たちを通じて、後の時代に続いています。

武家屋敷の庭の縁側で、凧を持つ男の子と手まりを持つ女の子にほほえむ築山殿のイラスト

画像:子どもたちと過ごす築山殿

マサムネ

信康の娘が、本多忠勝の息子の忠政と結婚したんですね!

ケンシン

そうだ。本多忠勝の家とも、つながっておるのだ。

築山殿の墓やゆかりの地はどこ?

場所どんな所?ある所
西来院(月窟廟)築山殿の墓所と伝わる寺。霊廟「月窟廟(げっくつびょう)」がある静岡県浜松市中央区広沢2丁目
八柱神社(首塚)築山殿の首塚と伝わる塚がある神社愛知県岡崎市欠町石ヶ崎
祐傳寺(ゆうでんじ)首塚が最初にあったと伝わる寺愛知県岡崎市両町
佐鳴湖・太刀洗の池の碑築山殿の最期の伝説が残る湖と池の跡静岡県浜松市中央区
築山御殿の推定地築山殿が住んだとされる「築山」のあたり愛知県岡崎市(岡崎城の近く)
二俣城跡・清瀧寺信康が亡くなった城と、信康の廟(お墓)がある寺静岡県浜松市天竜区二俣町
浜松市の西来院にある築山殿の霊廟・月窟廟の門と、緑の生け垣

画像:西来院の月窟廟(浜松市)。Wikimedia Commons(撮影:立花左近・CC BY-SA 3.0)

浜松の西来院(せいらいいん)には、築山殿の霊廟「月窟廟」があります。今の建物は、昭和53年(1978年)に建て直されたものです。

岡崎市の八柱神社の参道。木々の間に白い鳥居と石段が見える

画像:八柱神社(岡崎市)。Wikimedia Commons(撮影:ネコチャーン・CC BY-SA 4.0)

岡崎の八柱神社の境内には、築山殿の首塚と伝わる塚があります。首塚は最初、祐傳寺にあり、正保3年(1646年)に欠村石ヶ崎(今の八柱神社の境内にあたる場所)へ移されたと伝わります【伝承】。昭和9年(1934年)には、神社のほうがこの場所に移ってきて、築山殿をまつる「築山神明宮」をあわせてまつりました。今の塔は、昭和52年(1977年)に建て直されたものです。

浜松市天竜区の清瀧寺にある松平信康の廟の赤い門と、門へ続く石畳の道

画像:清瀧寺の信康廟の門(浜松市天竜区)。Wikimedia Commons(撮影:ホンダ・CC BY-SA 4.0)

信康が亡くなった二俣城の近くには、信康の廟がある清瀧寺(せいりゅうじ)があり、旧暦の命日と同じ月日にあたる現在の暦の9月15日に、毎年法要が行われています。

よくある質問(FAQ)

築山殿の本名は「瀬名」?

本当の名前はわかっていません。「瀬名」「瀬名姫」は後の時代の呼び名とされ、ドラマや小説で広まりました(くわしく)。

築山殿の首塚はどこにある?

愛知県岡崎市欠町の八柱神社の境内にあると伝わります。最初は同じ岡崎市の祐傳寺にあり、江戸時代に今の場所へ移されたと伝わります(ゆかりの地)。

大河ドラマの築山殿(瀬名)は史実どおり?

大河ドラマ『どうする家康』(2023年)では「瀬名」の名前で、争いのない国をめざす姿が描かれましたが、これはドラマの創作です。『おんな城主 直虎』(2017年)の、母が井伊家の出身という設定は、後の時代の系図にある説のひとつです。天正7年(1579年)に信康と同じ年に亡くなったという結果は、史実と同じです。

まとめ|築山殿とは

築山殿は、徳川家康の最初の正室です。今川家の一門・関口家の娘で、長男・信康と長女・亀姫を産みました。「瀬名」「瀬名姫」は後の時代の呼び名とされ、本当の名前はわかっていません。

天正7年(1579年)、家康は信康を岡崎城から出し、そのあと築山殿は8月29日に浜松の近くで、信康は9月15日に二俣城で亡くなったとされます。昔は「信長の命令」とされましたが、家康の側の判断を重くみる研究もあります。ただし、本当の理由はわかっていません。

「悪女」のイメージは、主に江戸時代の記録から広まったものです。今回確かめた資料では、人柄や顔立ちを伝える同じ時代の記録は見つからず、わからないことの多い人物です。

関係する人物については、徳川家康、織田信長、本多忠勝の記事もあわせてどうぞ。

ケンシン

何が記録にあって、何が後の時代の話なのか。それを分けると、築山殿の本当の姿に少し近づける。

マサムネ

ドラマを見るときも、記録とくらべてみたくなりました!

参考にした史料・この記事の書き方

この記事は、おもに次の記録や資料をもとに書いています。

  • 同じ時代の記録:松平家忠『家忠日記』(文科大学史誌叢書本、1897年。国立国会図書館デジタルコレクション)、岩沢愿彦「家忠日記の原本について」(『東京大学史料編纂所報』第2号。『安土日記』の引用もこの論文による)、徳川家康の手紙の写し(8月8日付・堀秀政あて。徳川林政史研究所「徳川家康文書総目録」No.3006)、太田牛一『信長公記』巻十二(Wikisource)
  • 後の時代の記録:『当代記』(『史籍雑纂』第二、1911年)、大久保忠教『三河物語』(Wikisource)、『松平記』、木村高敦『武徳編年集成』(国立公文書館デジタルアーカイブ)、『改正三河後風土記』
  • 研究:黒田基樹「なぜ徳川家康は正妻と嫡男を自害させたのか」(PRESIDENT Online、2023年4月14日)、コトバンク(『日本大百科全書(ニッポニカ)』『改訂新版 世界大百科事典』『デジタル版 日本人名大辞典+Plus』など)
  • 公的な資料:浜松市『浜松市歴史的風致維持向上計画』、浜松市「家康の散歩道」、浜松市天竜区「清瀧寺で松平信康の法要」、岡崎市観光協会「八柱神社」、岡崎市シティプロモーション「築山殿の由来となった場所」、八柱神社の由来の碑と首塚の碑(Wikimedia Commons の写真で確認)
  • 画像:佐鳴湖(sewmew・パブリックドメイン)、浜松城(Saigen Jiro・CC0)、西来院の月窟廟(立花左近・CC BY-SA 3.0)、八柱神社(ネコチャーン・CC BY-SA 4.0)、清瀧寺の信康廟の門(ホンダ・CC BY-SA 4.0)は Wikimedia Commons のものです。地図・家系図・漫画・イラストは侍ロードのオリジナルです

記事中のラベルの意味

  • 【史実】同じ時代の史料などで確かめられること(【史実:○○】は、その出どころ)
  • 【有力説】研究者の間で広く受け入れられている見方
  • 【諸説あり】見解が分かれていること
  • 【不明】確かめられる資料が見つかっていないことなど、今わかっていないこと
  • 【伝承】後の時代の記録や言い伝えによる話
  • 【俗説】広まっているが、根拠の確かでない説

「記録にそう書かれていること」と、「書かれた出来事が実際にあったこと」は、分けて考えています。

この記事は侍ロード編集部が作成し、公開後も新しい研究やご指摘を受けて見直しています。内容の誤りにお気づきの場合は、お問い合わせからお知らせください。確認のうえ修正します。