
織田信長(おだ のぶなが)は、尾張(今の愛知県西部)の大名の家に生まれ、桶狭間の戦いで今川義元を破ってから、京都を中心とする近畿地方とそのまわりに大きく勢力を広げた戦国武将です。天正10年(1582年)、家臣の明智光秀に京都の本能寺で襲われ、49歳(数え年)で亡くなりました。
「うつけ」「魔王」「革命児」など、信長にはいろいろなイメージがありますが、その中には後の時代に作られた話も多くまじっています。この記事では、桶狭間の勝利を刻んだ刀、商売の決まりを示した掟書、本能寺の最期を伝える2つの記録を読みくらべながら、同じ時代の記録でわかること・後の時代の本に書かれた話・わからないことを分けて、信長が何をした人なのか、死因、妻や子ども・子孫、性格まで紹介します。
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わしは上杉ケンシン。信長とは同じ時代を生きた…まあ、ライバルというやつだな。一時は手を結び、のちに北陸で戦うことになった。
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伊達マサムネです! 本能寺の変のとき、自分は数え16歳でした。信長公って、結局なにをした人なんですか?
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ひと言では言えぬ男よ。まずは要点から見ていこう。
まずわかること(この記事の要点)
- 何をした人?:尾張の大名から出発し、近畿地方を中心に、東海・北陸・甲信・中国地方の一部まで勢力を広げました。将軍・足利義昭を京都から追い出し、城下町や商いのしくみも整えました
【史実】(くわしく) - 死因は?:天正10年(1582年)6月2日(ユリウス暦6月21日)、京都の本能寺で家臣の明智光秀の軍に襲われて亡くなりました
【史実】。『信長公記』は、信長が自ら腹を切ったと伝えています【有力説:信長公記】(くわしく) - 妻は?:正室は美濃の大名・斎藤道三の娘です
【史実】。「濃姫」「帰蝶」の名で知られますが、どちらも後の時代の呼び名で、本当の名前や、その後の人生ははっきりしません(くわしく) - 子どもと子孫は?:信忠・信雄・信孝ら、多くの子どもがいました
【史実】。次男・信雄の家は江戸時代も大名として続き【史実】、子孫は今も続いているとされます【有力説】(くわしく) - 家紋は?:織田木瓜(おだもっこう)がよく知られ、揚羽蝶や、将軍から使うことを許された桐の紋なども使いました
【有力説】(くわしく)
史料から読む、この記事の読みどころ3つ
知りたいところから読めるように、主な見出しへのリンクを置いておきます。
- 織田信長とは何をした人?
- 死因は?本能寺の変で何があった?
- 信長の妻はだれ?濃姫と側室
- 家系図・子ども・子孫
- 年表でみる信長の生涯
- 主な戦い(桶狭間・長篠など)
- 政策と安土城
- 性格とエピソード
- 家紋・名言・肖像画・ゆかりの地
織田信長とは何をした人?功績をわかりやすく
ひと言でいえば、織田信長は「尾張の大名から出発して近畿地方を中心に勢力を広げ、のちの豊臣秀吉による天下統一の土台をつくった武将」です【有力説】。信長がしたことを、大きく3つに分けて見てみましょう。
① 戦いに勝ち、近畿地方を中心に勢力を広げた

尾張の一部を治める家に生まれた信長は、永禄3年(1560年)の桶狭間の戦いで駿河の今川義元を討ち取り、続いて美濃(岐阜県)の斎藤氏を倒しました【史実】。永禄11年(1568年)には足利義昭を立てて京都に入り、そのあと浅井・朝倉・武田などの大名や、一向一揆(浄土真宗〈一向宗〉の門徒たちの武装した集団)と戦い続けました【史実】。
ただし、本能寺の変が起きた天正10年(1582年)の時点でも、中国地方の毛利氏や北陸の上杉氏とは戦っている最中で、全国の統一はまだ途中でした【史実】。どこまで治めていたかは、政策と天下統一の章の表にまとめています。
② 室町幕府の将軍を京都から追い出した

画像:京都を去る足利義昭と信長
信長は、将軍になれずに各地を逃げていた足利義昭を助けて京都に入り、義昭を室町幕府の15代将軍にしました【史実】。しかし2人の仲はやがて悪くなり、元亀4年(1573年)、信長は義昭を京都から追い出しました【史実】。これをもって室町幕府が終わったとみるのが一般的です【有力説】。ただ、義昭はそのあとも将軍の地位を手放さず、正式にやめたのは天正16年(1588年)でした【史実】。
③ 城下町と商いのしくみを変えた

画像:安土の城下町の市を歩く信長
信長は、本拠地の城を尾張の清洲城から小牧山城、岐阜城、近江(滋賀県)の安土城へと移し、城のふもとに家臣や商人を集めて町をつくりました【史実】。美濃の加納や安土の城下町には、座(同じ商売をする人たちの組合)に入っていなくても商売ができる「楽市」の決まりを出し、通行料を取る関所もなくしていきました【史実】。こうした政策は信長が最初に始めたものではありませんが、信長は自分の領地で大きく進めました【有力説】。くわしくは政策と安土城の節で紹介します。
基本プロフィール
| 項目 | 内容 | 信憑性 |
| 名前 | 織田信長。子どものころの名は吉法師(きっぽうし)、元服してからの通称は三郎。「上総介(かずさのすけ)」「弾正忠(だんじょうのちゅう)」なども名のった | 【史実】 |
| 生まれ | 天文3年(1534年)5月。日は12日とする説がよく知られるが、確かな記録はない | 【諸説あり】 |
| 生まれた場所 | 尾張国。勝幡城(愛知県稲沢市・愛西市)とする説と、那古野城(名古屋市)とする説がある | 【諸説あり】 |
| 父 | 織田信秀(尾張の守護代・織田家に仕えた奉行の家) | 【史実】 |
| 母 | 土田御前(どたごぜん)とされる | 【有力説】 |
| 正室(妻) | 斎藤道三の娘(後の時代の呼び名で濃姫・帰蝶) | 【史実】 |
| 子ども | 長男・信忠、次男・信雄、三男・信孝など、多くの子どもがいた | 【史実】 |
| おもな城 | 那古野城 → 清洲城 → 小牧山城 → 岐阜城 → 安土城 | 【史実】 |
| いちばん高い官職 | 右大臣(天正5年〈1577年〉。翌年にやめる) | 【史実】 |
| 時代 | 戦国時代〜安土桃山時代(「安土」は信長の安土城から) | — |
| 亡くなった日 | 天正10年(1582年)6月2日(ユリウス暦6月21日)、京都の本能寺 | 【史実】 |
| 死因 | 明智光秀の軍に襲われ、本能寺で自害したと伝わる | 【有力説】 |
| 亡くなった年齢 | 49歳(数え年)。誕生日には不確かな点がある | 【史実】 |
| 身長 | わからない(宣教師フロイスは「中くらいの背丈」と書いている) | 【不明】 |
| 家紋 | 織田木瓜など | 【有力説】 |
| 墓 | 大徳寺総見院・本能寺・阿弥陀寺(いずれも京都市)など | — |
織田信長の死因は?本能寺の変で何があった?
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画像:本能寺の変で槍を手に戦う信長
織田信長が亡くなったのは、天正10年(1582年)6月2日(ユリウス暦6月21日)の明け方、京都の本能寺です。家臣の明智光秀が率いる軍に宿所の本能寺を囲まれ、わずかな供の者たちと戦ったあと、亡くなりました【史実】。これが本能寺の変です。
信長の最期を伝えるおもな記録は、信長に仕えた太田牛一が書いた『信長公記』と、宣教師たちの報告です。どちらも書いた本人が現場を見たわけではありません。『信長公記』の場面は、その場から逃がされた女性たちの話がもとになったと考えられています【有力説】。
『信長公記』が伝える最期
史料ボックス① 『信長公記』が書く本能寺の変
出典:太田牛一『信長公記』(巻15・天正10年)
内容(要約):まだ夜が明けきらないころ、信長と小姓たちは、外のさわぎを下々の者のけんかだと思った。ところが鬨の声が上がり、御殿に鉄砲が撃ちこまれてきた。信長が「これは謀反か。だれのしわざか」とたずねると、森乱(蘭丸)が「明智の者と見えます」と答えた
信長のことば:「是非に及ばず(ぜひにおよばず)」
そのあと(要約):信長ははじめ弓で戦い、弓の弦が切れると槍で戦ったが、肘に槍の傷を受けて退いた。そばにいた女性たちに「女はかまわない。急いで出よ」と言って逃がし、御殿に火がかかると、奥の部屋に入って戸を閉め、腹を切った
この記事の説明:「是非に及ばず」は、「あれこれ言ってもしかたがない」という意味に読むのがふつうです。ただ、『信長公記』は信長の死後にまとめられた記録で、ことばや動きがどこまで正確に伝わったかは確かめられません

画像:本能寺で、森乱の知らせを聞く信長(『信長公記』巻15の場面)
宣教師ルイス・フロイスがまとめた報告(1582年の日本年報の補遺。のちの『日本史』にも取りこまれました)にも、本能寺の変のようすが書かれています。フロイスは当時九州にいて、京都などから届いた宣教師の報告をもとに書いたと考えられています【有力説】。それによると、信長は手と顔を洗い終えたところを背中から矢で射られ、薙刀(なぎなた)を取って戦い、腕に鉄砲の傷を受けて部屋に入りました。最後は自分で腹を切ったとも、火の中で亡くなったともいわれる、と書かれています【史実:フロイスの報告】。
| 記録 | だれが・いつ書いた | 最期の書き方 |
| 『信長公記』巻15 | 信長の家臣・太田牛一が、信長の死後にまとめた | 弓で戦い、弦が切れると槍で戦って、肘に傷。女性たちを逃がし、奥の部屋で腹を切った |
| フロイスの報告 | 宣教師ルイス・フロイスが、京都などから届いた報告をもとに、変の年の11月に九州の口之津でまとめた。本人は現場を見ていない | 手と顔を洗い終えたところを矢で射られ、薙刀で戦って腕に鉄砲の傷。腹を切ったとも、火の中で死んだとも |
牛一もフロイスも、本能寺での信長の最期を直接見たわけではありません。それでも、「信長は自分で戦ったあと、御殿の中で亡くなった」という大筋は一致しています。武器やけがの場所など、細かいところは記録によってちがいます。
信長を殺したのはだれ?なぜ?

信長を討ったのは、家臣の明智光秀です【史実】。光秀は、近江の坂本城と丹波(京都府・兵庫県)をまかされた信長の重臣で、このときは中国地方で毛利氏と戦う羽柴秀吉を助けに行くよう命じられていました【史実】。
光秀は、変のあとに細川藤孝・忠興父子へ送った書状で、息子や忠興たちに権力を渡すためだったと説明しています【史実】。ただし、味方を求めるための説明でもあり、信長を討った本当の理由はいまも決着していません。うらみ説、天下を取りたかった説、四国の長宗我部氏をめぐる方針の対立(四国説)、将来への不安など、いくつもの説があります【諸説あり】。朝廷・足利義昭・秀吉・家康などが裏で動かしたという「黒幕説」もありますが、どれも決め手になる証拠はありません【諸説あり】。
光秀が信長を討った理由の説や、本能寺の変のあとの光秀については、明智光秀の記事でくわしく紹介しています。
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「是非に及ばず」って、言い訳もしないで受け止めたってことですか…。
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そう読まれることが多いな。だが、書き残されたのは信長の死後だ。どこまで本人のことばかは、わからぬ。
信長の遺体と首は見つかった?

画像:本能寺の変を描いた明治時代の錦絵
本能寺は焼け落ち、信長の遺体や首は見つかりませんでした【有力説】。フロイスの報告は、信長の毛髪一本も残らず灰になった、と書いていますが、遺体のようすを確かめた記録ではありません。遺体が見つからなかったことは、のちに「信長は生きのびた」という話が語られるもとにもなりましたが、それを示す記録はありません【俗説】。
京都の阿弥陀寺には、住職の清玉上人が信長の遺骨をひそかに運び出して葬ったという話が伝わっています【伝承】。寺に伝わる記録によるもので、同じ時代の記録では確かめられません。
信忠と森蘭丸も亡くなった

画像:森蘭丸(成利)
信長の長男で、すでに織田家の家督(家の主の地位)を継いでいた織田信忠も、京都の宿所の妙覚寺から二条御所(二条新御所)に移って光秀の軍と戦い、同じ日に自害しました【史実】。信忠が亡くなったことで、織田家は跡継ぎを一度に失いました。
信長のそば近くに仕えた小姓の森成利と、その弟の力丸・坊丸も、本能寺で討ち死にしています【史実:信長公記】。成利は『信長公記』(巻15)では「森乱」と書かれていて、よく知られる「森蘭丸」という書き方は、後の時代に広まったものです【有力説】。
何歳で亡くなった?『敦盛』の歌との関係

信長が亡くなったのは49歳(数え年)のときです【史実】。数え年は、生まれた年を1歳とし、正月がくるたびに1歳ずつ足す数え方です。生まれた月日には不確かな点があるため、この記事では数え年で統一しています。
桶狭間の朝に信長が舞ったと伝わる幸若舞『敦盛』に「人の一生は五十年」という意味の一節があるため、「信長は50年を生きずに亡くなった」と結びつけて語られることがよくあります。『敦盛』の原文と訳は、桶狭間の戦いの史料ボックス②で紹介します。
織田信長の妻はだれ?正室・濃姫と側室

画像:信長と濃姫
信長の正室(正式な妻)は、美濃(岐阜県)の大名・斎藤道三の娘です【史実】。争っていた尾張の織田家と美濃の斎藤家が仲直りするための結婚で、天文17年(1548年)か天文18年(1549年)ごろのことと考えられています【有力説】。
正室・濃姫(帰蝶)はどんな人?最後は?

画像:濃姫
この女性は「濃姫(のうひめ)」の名で知られていますが、これは「美濃から来た姫」という意味の呼び名で、本当の名前はわかっていません【不明】。「帰蝶(きちょう)」という名前は、江戸時代に書かれた『美濃国諸旧記』に出てくるものです【伝承】。
『信長公記』には、道三の娘が信長に嫁いだことは書かれていますが、そのあとの彼女については、ほとんど何も書かれていません【史実】。その後の足どりや最後、死因は、記録からは決められません【不明】。信長との夫婦仲を伝える同じ時代の記録もありません。
名前の出どころや、最後をめぐるいくつもの説は、濃姫(帰蝶)の記事で、記録ごとにくらべています。
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あんなに有名なのに、わからないことだらけなんですね。
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戦国の世では、大名の妻のことはあまり書き残されなかった。だからこそ、物語がふくらんだのだ。
側室と、子どもを生んだ女性たち

戦国時代の大名は、正室のほかに側室を持つのがふつうでした。濃姫とのあいだに子どもがいたという確かな記録はなく、信長の子どもの多くは側室が生んだとされます【有力説】。
| 女性 | わかっていること | 信憑性 |
| 生駒氏の娘 | 長男・信忠、次男・信雄、娘の徳姫の母とされる。よく知られる「吉乃(きつの)」という名前は、後の時代の記録に出てくるもの | 【有力説】 |
| 坂氏の娘 | 三男・信孝の母とされる | 【有力説】 |
| お鍋の方 | 近江の武士の妻だった女性。信高・信吉らの母とされる | 【有力説】 |
織田信長の家系図|子ども・兄弟・子孫は?

画像:織田信長の家系図(主な人物だけ)。画像をタップ(クリック)すると拡大できます
信長の父・信秀は、尾張の守護代(守護にかわって国を治める役)の織田家に仕える奉行の一人でしたが、戦いと商業都市の津島・熱田を押さえた財力で、尾張でいちばんの実力者になりました【有力説】。信長は、父・信秀の跡継ぎとして育てられました【有力説】。
子どもは何人?息子たち

信長には、信忠・信雄・信孝をはじめ、多くの子どもがいました【史実】。全部で何人いたかは系図によって数え方がちがい、はっきりしません【諸説あり】。おもな子どもは次のとおりです。
| 名前 | 信長との関係 | その後 |
| 織田信忠 | 長男。天正3年(1575年)に家督と岐阜城をゆずられた(そのあとも政治と軍事の中心は信長だった) | 本能寺の変の日に、京都の二条御所で自害 |
| 織田信雄(のぶかつ) | 次男。伊勢の北畠家の養子になる | 家康と組んで秀吉と戦ったのち、秀吉と和睦する。のちに領地を失うが、江戸時代は徳川家のもとで大名として家が続く |
| 織田信孝 | 三男。伊勢の神戸家の養子になる | 信長の死後、柴田勝家と組んで秀吉と対立し、天正11年(1583年)に自害 |
| 羽柴秀勝(於次丸) | 四男。羽柴秀吉の養子になる | 天正13年(1585年)12月に病死 |
| 織田信高 | 信長の子。母はお鍋の方とされる | 子孫は江戸幕府の旗本として続いたとされる |
| 徳姫 | 娘。徳川家康の長男・信康の妻 | 信康の死後、織田家にもどる |
| 冬姫 | 娘。蒲生氏郷の妻 | 江戸時代のはじめまで生きた |
弟・兄弟姉妹は?

信長には、信広・信勝・長益・お市の方など、多くの兄弟姉妹がいました【史実】。とくに知られているのは次の人たちです。
| 名前 | 信長との関係 | どんな人 |
| 織田信勝(信行) | 同じ母の弟 | 家督をめぐって信長と争い、弘治2年(1556年)の稲生の戦いで敗れる。のちに信長に殺された |
| 織田長益(有楽斎) | 弟 | 茶人として知られる。子どもの家が江戸時代に大名として続いた |
| お市の方 | 妹 | 浅井長政の妻、のちに柴田勝家の妻。娘に茶々(淀殿)・初・江 |
| 織田信広 | 兄(母がちがう) | 信長に仕え、天正2年(1574年)の長島一向一揆との戦いで戦死 |
信勝は、柴田勝家が家老として仕えていた人物でもあります。信勝との争いは柴田勝家の記事、お市の方と3人の娘のその後はお市の方の記事で紹介しています。
東京の「有楽町」という地名は、有楽斎の屋敷があったことから名づけられたという話がありますが、確かな証拠はありません【俗説】。
織田信長の子孫は今もいる?

信長の子孫は、今も続いています【有力説】。記録をたどれるのは、次男・信雄の子どもたちの家で、江戸時代には出羽の天童藩(山形県)や、後期の丹波柏原藩(兵庫県)の藩主として続き、明治時代をむかえました【史実】。ほかにも、信長の子どもたちの家のいくつかは、旗本(将軍に直接仕える武士)などとして続いたとされます【有力説】。この記事では、江戸時代の大名・旗本として記録をたどれる家だけを紹介しています。
年表でみる織田信長の生涯

画像:織田信長の生涯の年表。画像をタップ(クリック)すると拡大できます
| 年 | 年齢 | できごと |
| 天文3年(1534年) | 1歳 | 尾張で、織田信秀の子として生まれる |
| 天文15年(1546年) | 13歳 | 元服して「三郎信長」と名のる |
| 天文17〜18年(1548〜49年)ごろ | 15〜16歳 | 斎藤道三の娘と結婚する |
| 天文21年(1552年)ごろ | 19歳 | 父・信秀が亡くなり、家を継ぐ(天文20年とする説もある) |
| 天文24年(1555年) | 22歳 | 清洲城に移る |
| 弘治2年(1556年) | 23歳 | 斎藤道三が戦死。稲生の戦いで弟・信勝の軍を破る |
| 永禄3年(1560年) | 27歳 | 桶狭間の戦いで今川義元を討つ |
| 永禄5年(1562年) | 29歳 | 松平元康(徳川家康)と同盟を結んだとされる |
| 永禄10年(1567年) | 34歳 | 美濃の斎藤氏を倒して稲葉山城を手に入れ、井口を「岐阜」と改める。「天下布武」の印を使い始める |
| 永禄11年(1568年) | 35歳 | 足利義昭を立てて京都に入り、義昭が将軍になる |
| 元亀元年(1570年) | 37歳 | 浅井長政に背かれ、金ヶ崎から撤退。姉川の戦い。石山本願寺との戦いが始まる |
| 元亀2年(1571年) | 38歳 | 比叡山延暦寺を焼き討ちする |
| 元亀4年・天正元年(1573年) | 40歳 | 足利義昭を京都から追い出す。朝倉氏・浅井氏をほろぼす |
| 天正3年(1575年) | 42歳 | 長篠の戦いで武田勝頼を破る。家督を信忠にゆずる |
| 天正4年(1576年) | 43歳 | 安土城を築き始める |
| 天正5年(1577年) | 44歳 | 右大臣になる |
| 天正8年(1580年) | 47歳 | 石山本願寺が大坂から退き、10年にわたる戦いが終わる |
| 天正9年(1581年) | 48歳 | 京都で大がかりな馬ぞろえ(軍の行進)を行う。弥助を家来にする |
| 天正10年(1582年) | 49歳 | 3月に武田氏をほろぼす。6月2日、本能寺の変で亡くなる |
※年齢は数え年(生まれた年を1歳とし、正月ごとに1歳ずつ足す数え方)です。
若いころの信長|なぜ「うつけ」と呼ばれた?

画像:『信長公記』に書かれた若いころの信長の身なり
若いころの信長は、まわりから「大うつけ(大ばか者)」と呼ばれていたと『信長公記』は書いています【有力説:信長公記】。どんな姿だったのでしょうか。
『信長公記』が書く若いころの姿

画像:馬の稽古をする若いころの信長
『信長公記』の最初の巻(首巻)は、10代の信長のようすを次のように書いています【有力説:信長公記】。
- 湯帷子(ゆかたびら)の袖を外して着て、半袴をはいていた
- 髪は茶筅髷(ちゃせんまげ)に結い、紅色やもえぎ色(黄緑)の糸で巻き立てていた
- 腰には火打ち袋などをいくつもぶら下げ、朱色の鞘の太刀を差していた
- 町を歩くときは、栗や柿、瓜をかじり、立ったまま餅をほおばり、人に寄りかかったり、肩にぶら下がったりして歩いた
一方で同じ巻には、信長が毎日のように馬の稽古をし、水泳や弓・鉄砲・兵法を学び、家来たちに竹槍で模擬の合戦をさせて、長い槍のほうが有利だと考えた、とも書かれています【有力説:信長公記】。変わった身なりの裏で、武芸や戦い方の研究に熱心だったことがうかがえます。
ただし首巻は、太田牛一が何十年もあとに、自分の思い出や聞いた話をもとに書いた部分です。細かいところまで正確とは限りません。
父の葬儀と、斎藤道三との会見

画像:父の葬儀で抹香を投げる信長
父・信秀の葬儀では、信長はいつもの格好のまま現れ、仏前の抹香をつかんで投げつけて帰った、と『信長公記』は書いています【有力説:信長公記】。
天文22年(1553年)ごろ、妻の父・斎藤道三が、尾張と美濃の境に近い正徳寺(愛知県一宮市)で信長と会った話も、『信長公記』の首巻にあります【伝承:信長公記】。道中ではうつけの格好だった信長が、会見の場には正装で現れ、長い槍や弓・鉄砲を持つ兵をたくさん連れていたので、道三がおどろいた、という筋です。会見のようすと道三のことばは、斎藤道三の記事で漫画にしています。
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「うつけ」は見た目だけで、中身はしっかり考えていたってことですか!
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『信長公記』は、道三が信長を高く評価したと伝えておる。ただし、その場の会話を直接書きとめた記録ではないぞ。
弟・信勝との争いと尾張の統一

画像:母と弟の信勝の願いを聞く信長
父の死後、信長は尾張の中で、親せきの織田家や、同じ母を持つ弟・信勝(信行)と争いました。弘治2年(1556年)の稲生の戦いでは、信勝の家老の柴田勝家らの軍を破っています【史実】。
このとき信長は、母の願いもあって信勝を許しました。しかし信勝がふたたび背こうとしたため、信長は病気のふりをして信勝を清洲城に呼び、殺させたと『信長公記』は書いています【有力説:信長公記】。この出来事は弘治3年(1557年)11月とされることが多いものの、異説もあります【諸説あり】。
その後、信長は永禄2年(1559年)ごろまでに、尾張のほぼ全体をまとめました【有力説】。
織田信長の主な戦い|桶狭間の戦い・長篠の戦いなど
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画像:甲冑姿で刀をかまえる信長
信長が生涯で戦った主な戦いを、順に見ていきます。
桶狭間の戦い(1560年)|なぜ勝てた?
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画像:幸若舞『敦盛』を舞う信長
桶狭間の戦いは、永禄3年(1560年)5月19日(ユリウス暦6月12日)、尾張の桶狭間(今の名古屋市緑区・愛知県豊明市のあたり)で起きた戦いです。駿河・遠江・三河を治める大大名の今川義元が尾張に攻めこみ、信長がこれを迎え撃って、義元を討ち取りました【史実】。
『信長公記』の首巻によると、今川軍が織田方の砦を攻め始めたと知らせを受けた夜明け、信長は幸若舞『敦盛』の一節を舞い、ほら貝を吹かせて鎧を着け、立ったまま食事をとって、わずかな供だけで清洲城を飛び出しました【伝承:信長公記】。
史料ボックス② 『信長公記』が伝える桶狭間の朝
出典:太田牛一『信長公記』首巻「今川義元討死之事」。牛一が信長の死後に、若いころの記憶や聞いた話をもとにまとめた巻です(本文は Wikisource の『信長公記』(我自刊我書本)により、字体を今の字に改め、濁点・送り仮名・句読点を補いました)
原文(一部):「此時、信長、敦盛の舞を遊ばし候。〈人間五十年、下天の内をくらぶれば、夢幻の如く也。一度生を得て、滅せぬ者の有べきか〉とて、〈螺ふけ、具足よこせよ〉と被仰、御物具めされ、たちながら御食を参り、御甲をめし候て御出陣被成」
現代語訳:このとき信長は、敦盛の舞を舞った。「人の一生の五十年は、天の世界の時間にくらべれば、夢や幻のようなもの。一度この世に生まれて、ほろびないものがあるだろうか(いや、ない)」と舞い、「ほら貝を吹け、鎧をよこせ」と命じて鎧を着け、立ったまま食事をとり、かぶとをかぶって出陣された
この記録からわかること・わからないこと:「人間五十年」は信長が作ったことばではなく、幸若舞『敦盛』の一節です。信長の享年(49歳)と結びつける話はここから広まりました。ただ、首巻は後年の記憶によるもので、その朝のようすが細かいところまで正確かは確かめられません

画像:出陣の前に『敦盛』を舞う信長(清洲城)
兵の数は、『信長公記』では今川軍が4万5千、信長の軍が2千足らずと書かれています。今川軍の数は大げさだとみる研究者が多いものの、信長の軍が今川軍よりずっと少なかったことは確かだと考えられています【有力説】。

画像:今川義元
なぜ勝てた? 昔は、「信長は山の裏をまわり、休んでいた今川軍の本陣を横から奇襲した」と説明されてきました。しかしこれは、江戸時代の小瀬甫庵『信長記』や、明治時代の陸軍の研究をもとにした説明です。『信長公記』を読むと、信長は前線の中島砦から今川軍のほうへまっすぐ進み、突然の激しい雨がやんだところで攻めかかったと書かれていて、最近は正面から攻めたとみる説が有力です【有力説】。
義元は退く途中で討たれました。最初に槍をつけたのは服部小平太、首を取ったのは毛利新介(良勝)だったと『信長公記』は書いています【有力説:信長公記】。大将の義元が討たれたことで、今川軍はくずれました【史実】。
信長が手に入れた義元の刀「義元左文字」

画像:「義元左文字」の茎(なかご=刀の柄に入る部分)。Wikimedia Commons(パブリックドメイン)
信長は、義元が持っていた刀を手に入れ、刀身を短くしたうえで、義元を討った日と自分の名を金で入れさせました【史実】。この刀は「義元左文字(よしもとさもんじ。宗三左文字とも)」と呼ばれ、今は京都の建勲神社に伝わり、国の重要文化財です【史実】。
史料ボックス③ 義元左文字の金象嵌銘
出典:刀〈義元左文字〉の茎に金で入れられた文字(金象嵌銘)。建勲神社蔵・重要文化財(1950年指定。文化遺産オンライン)。銘の読みは国指定文化財等データベースによりました
原文:(表の樋〈ひ=刀の溝〉の中)「永禄三年五月十九日」/(表)「義元討捕刻彼所持刀」/(裏)「織田尾張守信長」
現代語訳:永禄3年5月19日、義元を討ち取ったときに、彼が持っていた刀。織田尾張守信長
この記録からわかること・わからないこと:桶狭間の勝利の日付と刀の来歴を、信長の名と結びつけて示した文字が、刀そのものに残っています。一方、この銘だけでは、進んだ道すじや兵の数、奇襲か正面攻撃かといった戦い方までは決められません

画像:義元の刀を職人に渡す信長(清洲城)
戦いの場所は、名古屋市緑区の「桶狭間古戦場公園」と、豊明市の「桶狭間古戦場伝説地」(国の史跡)の2か所が、それぞれ戦いの地とされています。どちらが正しいかは決着していません【諸説あり】。
この戦いのあと、今川家の人質だった松平元康(のちの徳川家康)は岡崎城にもどって今川家から離れ、やがて信長と手を結びました【史実】。
美濃を取り、「天下布武」の印を使い始める

画像:「天下布武」の印を押す信長
尾張をまとめた信長は、美濃の斎藤氏(道三の孫・龍興)と戦い、永禄10年(1567年)に稲葉山城を落としました【史実】。信長はここを「岐阜」と名づけ、拠点を移したとされます【有力説】。美濃攻めのころ、のちに秀吉の軍師となる竹中半兵衛が稲葉山城を一時乗っ取った話も有名です(竹中半兵衛の記事)。
このころから信長は、「天下布武(てんかふぶ)」という文字の印を手紙に押すようになりました【史実】。昔は「武力で天下(日本全国)を治める」という意味だとされてきましたが、最近は、この「天下」を、京都を中心とする将軍が治める範囲(畿内)と考え、将軍を支えて京都の政治を立て直そうとした信長の立場と結びつけてとらえる研究者が多くなっています。ただ、印の文字にこめた意味については議論があります【諸説あり】。
足利義昭と京都へ|室町幕府の終わり

画像:足利義昭を立てて京都に入る信長(1568年)
永禄11年(1568年)、信長は、兄の13代将軍・足利義輝を殺されて各地を逃げていた足利義昭を立てて京都に入り、義昭を15代将軍にしました【史実】。信長は義昭から副将軍などの地位をすすめられましたが断り、かわりに足利家の紋である桐と二つ引両を使うことを許されたと、『信長公記』は書いています【有力説:信長公記】。
しかし、将軍として力をふるいたい義昭と、政治の実権をにぎる信長の仲は、しだいに悪くなります。義昭は武田信玄や浅井・朝倉などと結んで信長に対抗し、元亀4年(1573年)、ついに信長と戦いました。信長は義昭を京都から追い出し、これをもって室町幕府は終わったとみるのが一般的です【有力説】。
浅井長政の裏切りと姉川の戦い(1570年)

画像:金ヶ崎から京都へ急いでひきあげる信長
信長は妹のお市の方を北近江の浅井長政に嫁がせ、浅井家と同盟を結んでいました【史実】。ところが元亀元年(1570年)4月、信長が越前の朝倉義景を攻めたとき、長政は朝倉方について信長の背後をおびやかしました。信長は金ヶ崎(福井県敦賀市)から、わずかな供で京都へ逃げもどっています【史実】。このとき、軍の最後尾で追ってくる敵をおさえた武将の一人が、木下(羽柴)秀吉だったとされます【有力説】。
同じ年の6月28日(1570年7月30日)、信長は徳川家康とともに、近江の姉川で浅井・朝倉の連合軍と戦って勝ちました【史実】。浅井家と朝倉家は、天正元年(1573年)にほろぼされます【史実】。くわしくは姉川の戦いの記事で紹介しています。
比叡山の焼き討ちと一向一揆

画像:比叡山の焼き討ち(1571年)を見る信長
元亀2年(1571年)9月12日(ユリウス暦9月30日)、信長は、浅井・朝倉の軍に味方した比叡山延暦寺(滋賀県大津市・京都市)を攻め、建物を焼き、多くの人を殺しました【史実】。『信長公記』や公家の日記には、僧だけでなく女性や子どもまで、数千人が殺されたと書かれています【史実】。
ただ、比叡山の発掘調査では、この時期に焼けたとみられる跡は、根本中堂など一部の建物でしか見つかっていないという報告もあります。そのため、山全体が焼きつくされたという話は大げさで、焼けた範囲はもっとせまかったとみる研究者もいます【諸説あり】。多くの人が殺されたことまで否定されているわけではありません。
信長は、浄土真宗(一向宗)の本願寺や、その門徒たちの一向一揆とも、元亀元年(1570年)から天正8年(1580年)まで、10年にわたって戦いました(石山合戦)【史実】。伊勢の長島(三重県桑名市)では、天正2年(1574年)に一揆勢を囲み、降参して出てきた人たちも含めて、多くの人を殺しています【史実:信長公記】。
長篠の戦い(1575年)|鉄砲の三段撃ちは本当?

画像:長篠合戦図屏風(部分)。馬を防ぐ柵の内側から鉄砲を撃つ織田・徳川軍が描かれています。江戸時代に描かれたものです
長篠の戦いは、天正3年(1575年)5月21日(ユリウス暦6月29日)、三河の長篠城(愛知県新城市)の西にある設楽原(したらがはら)で起きた戦いです。信長と徳川家康の連合軍が武田勝頼の軍を破り、武田方は山県昌景・馬場信春など多くの重臣を失いました【史実】。
信長は、陣の前に馬を防ぐ柵を作らせ、鉄砲隊を使って武田軍を迎え撃ちました【史実:信長公記】。『信長公記』には、鉄砲「千挺ばかり」を選んで前に出したと書かれています。ただしこれは選んで送り出した部隊の数で、連合軍がこの戦いで使った鉄砲の総数はわかっていません【諸説あり】。
教科書などでおなじみの「鉄砲隊が3列に並び、交代で撃ち続けた(三段撃ち)」という話のもとは、江戸時代の小瀬甫庵『信長記』です。そこには、鉄砲3,000挺を1,000挺ずつ入れかわりで撃たせたと書かれていますが、同じ時代の記録には見えません【伝承】。3列にきちんと並んで撃つような細かな形は、さらに後の時代に広まった説明です。何らかの形で交代しながら撃つ工夫があったかどうかは、研究者の間でも議論が続いています【諸説あり】。
武田信玄・上杉謙信との関係

甲斐の武田信玄とは、はじめは信長の養女を信玄の子・勝頼に嫁がせるなどして、手を結んでいました【史実】。しかし元亀3年(1572年)、信玄は信長と同盟する徳川家康の領地に攻めこみ、三方ヶ原の戦いで家康を破ります【史実】。信玄は翌年、病気で亡くなりました【史実】。天正10年(1582年)3月、信長と信忠は武田家を攻め、勝頼を自害に追いこんで武田家をほろぼしました【史実】。
越後の上杉謙信とも、はじめは使者をやりとりして手を結んでいました【史実】。信長が謙信に「洛中洛外図屏風」を贈ったという話も伝わっています【有力説】。しかし天正4年(1576年)ごろに仲が切れ、天正5年(1577年)には加賀の手取川のあたりで、柴田勝家らの織田軍が謙信の軍に敗れました【有力説】。
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わしが手取川で織田軍を破ったことは、わしの手紙にも書いておる。ただ、どれほどの戦いだったかは、ほかの記録では確かめにくいらしい。
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信玄公もケンシンさんも、はじめは信長公と手を結んでいたんですね。
信長の政策と天下統一|楽市楽座・関所・安土城
信長が自分の領地で進めた政策と、本拠地の城を見ていきます。
楽市楽座とは?関所の廃止

画像:洛中洛外図屏風(部分)に描かれた、戦国時代の京都の町のにぎわい
楽市楽座は、特定の市場や城下町で、座(同じ商売をする人たちの組合)に入っていなくても商売ができるようにし、税などを免除した政策です。何を免除したかは、場所や時期によってちがいます【有力説】。
信長は、永禄10年(1567年)に美濃の加納(岐阜市)の市場を「楽市場」と認める制札(立て札)を出し、天正5年(1577年)には安土の城下町に、楽市楽座や、よそから来た人も住めることなどを定めた掟を出しました【史実】。城下町に商人を集め、町をにぎわせるねらいがあったと考えられています【有力説】。加納に出された制札は、今も岐阜市の円徳寺に伝わっています【史実】。
史料ボックス④ 安土山下町中掟書(安土の楽市令)の第1条・第2条
出典:織田信長が安土の城下町(山下町)にあてて出した13か条の掟書。天正5年(1577年)6月。原本は滋賀県近江八幡市に伝わり、国の重要文化財です(文化遺産オンライン)。本文は安野眞幸「安土山下町中宛信長朱印状」(『弘前大学教育学部紀要』第93号、2005年)8ページの翻刻によりました(字体・句読点も同じ論文のとおりです)
原文(第1条・第2条):「一 当所中為楽市被仰付之上者、諸座諸役諸公事等、悉免許事」「一 往還之商人、上海道相留之、上下共至当町可寄宿、但、於荷物以下之付下者、荷主次第事」
現代語訳:一つ、この町を楽市と定めたからには、座に関する負担や、さまざまな税・役は、すべて免除する。一つ、街道を行き来する商人は、上街道(山手を通る道)の通行をやめ、上り下りとも安土の町に泊まること。ただし、荷物などの付けおろしは、荷主の判断に任せる
この記録からわかること・わからないこと:安土の町を楽市とし、諸座・諸役・諸公事にかかわる免除を定めたことと、街道の商人を町に泊まらせて人を集めようとしたことがわかります。一方、これは安土の町だけに向けた決まりで、全国の座や税を一度になくしたとは言えません。また「諸座」をふくむ第1条の区切り方や意味には、研究上の議論があります

画像:安土の町で、高札の掟書を読む商人たち
ただ、楽市の決まりは信長より前、天文18年(1549年)に近江の六角氏が出した例があり、信長が初めて考えたものではありません【史実】。また、全国の座をなくしたわけではなく、特定の町や市場に向けた政策でした【有力説】。
信長はまた、自分の領地の関所(通る人や荷物からお金を取る場所)を次々になくし、道や橋も整えました【史実:信長公記】。人や物の行き来をさかんにするねらいがあったと考えられています【有力説】。
鉄砲をたくさん使った

画像:鉄砲の稽古をする若いころの信長
鉄砲は、天文12年(1543年)ごろ種子島に伝わったとされます【有力説】。『信長公記』には、信長が若いころから鉄砲の稽古をしていたことが書かれています【有力説:信長公記】。信長は、鉄砲づくりがさかんだった堺(大阪府堺市)や近江の国友を押さえ、鉄砲と弾薬(火薬の原料の硝石や、弾の材料の鉛)を手に入れやすくしていたと考えられています【有力説】。
信長の城はどこ?清洲城から安土城まで
信長は、戦う相手が変わるたびに、本拠地の城を前へ前へと移していきました【有力説】。
| 城 | 今の場所 | 信長がいた時期 |
| 那古野城 | 名古屋市中区(今の名古屋城のあたり) | 子どものころから |
| 清洲城 | 愛知県清須市 | 天文24年(1555年)から |
| 小牧山城 | 愛知県小牧市 | 永禄6年(1563年)から |
| 岐阜城 | 岐阜県岐阜市(金華山) | 永禄10年(1567年)から |
| 安土城 | 滋賀県近江八幡市 | 天正4年(1576年)に築き始め、天正7年(1579年)から住む |

画像:今の岐阜城(金華山の上。天守は昭和31年〈1956年〉に建てられたもの)。Wikimedia Commons(撮影:Alpsdake・CC BY-SA 3.0)
岐阜にあった信長の御殿は、永禄12年(1569年)に訪れた宣教師フロイスが、そのすばらしさをくわしく書き残しています【史実:フロイスの記録】。
安土城とは?天主と、その後

画像:安土城の天主台のあと。礎石(柱を立てる土台の石)が並んでいます。Wikimedia Commons(撮影:Haruno Akiha・CC BY-SA 3.0)
安土城は、信長が天正4年(1576年)から近江の安土山(滋賀県近江八幡市)に築いた城です。琵琶湖に面し、京都にも北陸・東海にも出やすい場所にありました【史実】。天正7年(1579年)5月、信長は完成した天主(天守のこと。安土城では「天主」と書く)に移り住みました【史実:信長公記】。
『信長公記』は、天主を、石垣の上に6階、石垣の中に1階の建物として、各階の部屋の絵や飾りまでくわしく書いています【史実:信長公記】。高い石垣の上に何階もの天主を建てた城は、その後の城づくりのお手本になりました【有力説】。
本能寺の変のあと、天正10年(1582年)6月に、天主や本丸のあたりは焼けてしまいました【史実】。だれが火をつけたのかは、明智方とする説、信長の次男・信雄とする説、混乱の中での放火や失火とする説などがあり、わかっていません【諸説あり】。
今は国の特別史跡で、石垣や天主台のあとを歩いて見ることができます。近くの「安土城天主 信長の館」では、天主の上の2つの階を、実物と同じ大きさで再現したものが展示されています。
天下統一はどこまで進んでいた?

本能寺の変が起きた天正10年(1582年)6月の時点で、信長と家臣たちが治めていたのは、おおよそ次の地域でした【有力説】。
| 地方 | 治めていた主な地域 | おもな担当 |
| 近畿 | 山城(京都)・近江・大和・摂津・河内・和泉・伊勢・伊賀など | 信長本人と一族・重臣 |
| 東海・中部 | 尾張・美濃と、武田家から取った甲斐・信濃(駿河は徳川家康にあたえた) | 信忠・河尻秀隆・森長可ら |
| 関東 | 上野(群馬県)など | 滝川一益 |
| 北陸 | 越前・若狭・加賀・能登と越中の一部 | 柴田勝家ら |
| 中国 | 播磨・但馬・因幡など(毛利氏と戦っている最中) | 羽柴秀吉 |
| 丹波・丹後 | 丹波(京都府中部・兵庫県東部)・丹後(京都府北部) | 明智光秀・細川藤孝ら |
三河・遠江・駿河は、同盟相手の徳川家康の領地でした。まだ信長に従っていなかったのは、中国地方の毛利氏、北陸・越後の上杉氏、四国の長宗我部氏(攻める準備をしていた)、九州や東北の大名などです。関東の北条氏は、信長に従う姿勢を見せていました【有力説】。信長が亡くなったとき、全国の統一はまだ途中だったのです。
信長の死後、羽柴秀吉が光秀を討ち、信長の家臣たちをまとめて、天正18年(1590年)に全国を統一します。秀吉の天下統一については豊臣秀吉の記事で紹介しています。
織田信長の性格は?怖い人?優しい人?
信長の性格について、いちばん具体的に書き残しているのは、信長に何度も会ったポルトガル人の宣教師ルイス・フロイスです。
フロイスが書いた信長

画像:宣教師フロイスと話す信長
史料ボックス⑤ フロイスが見た信長
出典:ルイス・フロイス『日本史』(信長に会った宣教師が、のちにまとめた記録)
見た目(要約):中くらいの背丈で、きゃしゃな体つき。ひげは少なく、声はとてもよく通る
性格(要約):戦いを好み、武芸にはげみ、名誉を重んじる。気が短く、はげしく怒ることもあるが、ふだんはそうでもない。家来の意見はほとんど聞かず、みなにおそれうやまわれていた。ときには人情や思いやりも見せた。酒は飲まず、食事はひかえめで、眠る時間は短く、朝早く起きた
宗教について(要約):神や仏をおがむことや、占いなどを軽んじていた
この記事の説明:フロイスは信長にキリスト教の布教を許してもらった立場の人で、ヨーロッパの読者に向けて書いています。信長をよく書いている部分や、ヨーロッパの考え方で見ている部分もあると考えて読む必要があります
怖い一面と、やさしい一面

信長には、比叡山の焼き討ちや長島の一向一揆のように、敵対した人たちにとてもきびしい面がありました【史実】。天正6年(1578年)に家臣の荒木村重が背いたあとには、捕らえた村重の一族や家来の妻子ら数百人を処刑しています【史実:信長公記】。この謀反では、説得に行った黒田官兵衛が捕らえられて閉じこめられました(黒田官兵衛の記事)。
一方で、家臣の妻をなぐさめる、思いやりのこもった手紙も残っています。羽柴秀吉の妻・ねね(おね)にあてた手紙で、信長は、久しぶりに会ったねねが前よりも美しくなっていたとほめ、夫の秀吉が不満を言うのはとんでもないことだ、あの「はげねずみ」があなたほどの妻をまた見つけることはできないのだから、と書いています【史実:信長の書状】。最後には、この手紙を秀吉にも見せるようにと書きそえています【史実】。
身分にとらわれずに人を取り立てたことも、信長の特徴です。身分の低い家の出とされる秀吉や、もとは足利義昭にも仕えていた明智光秀を、重臣に取り立てました【史実】。その一方で、天正8年(1580年)には、長年仕えた重臣の佐久間信盛を、働きが足りないと責める書状を送って追放しています【史実:信長公記】。
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「冷酷」とも「合理的」とも言われる男だ。どちらの見方にも、うなずける所がある。立場がちがえば、見え方も変わるものよ。
南蛮の文化が好き?金平糖の話

画像:金平糖をもらって喜ぶ信長
信長は、ヨーロッパから来た宣教師たちが京都や安土に住み、教会(南蛮寺)を建てることを許しました【史実】。宣教師から見せられた地球儀や時計などにも強い関心を示したと、宣教師の記録に書かれています【有力説:宣教師の記録】。
永禄12年(1569年)にフロイスが信長に会ったとき、ガラスの瓶に入った金平糖(ポルトガル語の「コンフェイト」から来た砂糖菓子)を贈ったという話は、よく知られています【有力説】。信長が甘いものを特に好んだと書いた同じ時代の記録は見当たりませんが、南蛮の珍しい品をよろこんだことは、宣教師の記録からうかがえます【有力説】。
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画像:南蛮風の鎧(南蛮胴)にマントを着けた信長
相撲・鷹狩り・茶の湯|信長の好きなもの

画像:歌川国芳「勧進大相撲土俵入之図」(江戸時代の相撲の絵)
信長は相撲が大好きでした。『信長公記』によると、天正6年(1578年)8月、安土に近江や京都などから1,500人ほどの相撲取りを集めて相撲を取らせ、強かった者を家臣に取り立てています【史実:信長公記】。
鷹狩りもたびたび行ったことが、『信長公記』に書かれています【史実:信長公記】。茶の湯にも力を入れ、「名物」と呼ばれる茶道具を集めたり、手柄を立てた家臣にだけ茶会を開くことを許したりして、茶の湯を政治にも使いました【有力説】。
京都風の薄味の料理を「水っぽい」と嫌い、塩からい味つけを好んだ、という料理人の話もありますが、これは江戸時代の『常山紀談』などに出てくる話です【伝承】。
「第六天魔王」と名のったのは本当?

信長といえば「魔王」というイメージがあります。そのもとになったのが、元亀4年(1573年)ごろの宣教師フロイスの手紙です。それによると、武田信玄が信長あての手紙に「天台座主沙門信玄」(比叡山の長である僧・信玄)と書いてきたので、信長は「第六天魔王信長」(仏の教えをさまたげる魔王)と書いて返した、とあります【諸説あり】。
ただ、2人の手紙そのものは残っておらず、日本側の記録でも確かめられません。比叡山を焼いた信長に対して信玄が仏教の守り手を名のり、信長がそれをからかい返した、という話として伝わっています。
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坊主を名のる大名どうしの手紙のやりとりとしては、ありそうな話ではあるがな。わしも出家した身ゆえ、少々耳が痛い。
弥助を家来にした

画像:南蛮屏風の一部。南蛮人の行列で、アフリカ出身とみられる従者が日傘をさしかける場面
天正9年(1581年)、信長は、宣教師ヴァリニャーノに連れられて来たアフリカ出身の男性に京都で会い、強い関心を持って、自分に仕えさせました【史実】。この人が弥助です。『信長公記』は、弥助を「年は26か27ほど、牛のように黒く、十人力」と書いています【史実:信長公記】。年齢は当時の数え年による見た目の見積もりで、実際の生年はわかりません。徳川家の家臣・松平家忠の日記には、身長が「六尺二分」(約182cm)だったと書かれています【史実:家忠日記】。
弥助が「侍」だったのかどうかは、最近よく話題になりますが、記録からはっきり決めることはできません【諸説あり】。記録に何が書かれているかは、弥助の記事でくわしく紹介しています。
信長の家臣と、秀吉・光秀・家康との関係
信長のもとには、のちに有名になる武将がたくさんいました。おもな家臣と、同盟相手の徳川家康を表にまとめます。
| 人物 | 信長との関係 | 本能寺の変のとき |
| 柴田勝家 | 重臣。北陸の攻略をまかされる | 越中(富山県)で上杉方と戦っていた |
| 丹羽長秀 | 重臣。安土城づくりの責任者 | 大坂で四国攻めの準備をしていた |
| 羽柴(豊臣)秀吉 | 身分の低い家の出から取り立てられた重臣。中国地方の攻略をまかされる | 備中高松城(岡山市)で毛利軍と戦っていた |
| 明智光秀 | 重臣。近江の坂本城と丹波をまかされる | 本能寺の信長を襲った |
| 滝川一益 | 重臣。武田家をほろぼしたあと、関東をまかされる | 上野(群馬県)にいた |
| 前田利家 | 若いころからの家臣。北陸で柴田勝家のもとで戦う | 北陸にいた |
| 森成利(蘭丸) | 小姓(主君のそば近くで仕える若い家来) | 本能寺で討ち死に |
| 弥助 | アフリカ出身の家来 | 本能寺の変の場にいたとされる |
| 徳川家康 | 家臣ではなく、同盟相手 | 堺の見物のあと、伊賀を越えて三河へにげもどった |
秀吉・光秀とはどんな関係?

画像:秀吉と光秀に役目を命じる信長
秀吉は尾張の身分の低い家の出で、信長に仕えてから大きく出世しました【史実】。信長は秀吉の働きを高く買い、北近江の領地を与えて(秀吉はそこに長浜城を築きます)、中国地方の攻略をまかせました【史実】。光秀は、足利義昭と信長の両方に仕えていた時期を経て信長の重臣となり、近江の志賀郡を与えられて坂本城を築きました【史実】。
2人は、信長の家臣の中でもとくに大きな役目をまかされていました。信長の死後、秀吉は山崎の戦いで光秀の軍を破り、信長の後継者の地位をつかんでいきます【史実】。
徳川家康との同盟

画像:信長と若いころの徳川家康(松平元康)
徳川家康(はじめは松平元康)とは、永禄5年(1562年)ごろに同盟を結んだとされます(清洲同盟)【有力説】。家康の長男・信康には信長の娘・徳姫が嫁ぎ、両家はつながりを深めました【史実】。家康は姉川の戦いや長篠の戦いで信長とともに戦い、信長が亡くなるまで同盟を守りました【史実】。
天正7年(1579年)に家康の長男・信康が自害した事件には、信長が命じたという説と、家康自身の判断だったという説があります【諸説あり】。くわしくは築山殿の記事(事件の経過と説の比べ)や徳川家康の記事で紹介しています。
信長・秀吉・家康の3人は「三英傑」と呼ばれます。江戸時代には「織田がつき 羽柴がこねし 天下餅 座りしままに 食うは徳川」という歌も作られました【伝承】。
織田信長の家紋・名言・肖像画・ゆかりの地
織田信長の家紋は?織田木瓜と4つの紋

画像:信長が使った主な紋。左から織田木瓜・揚羽蝶・五三桐・永楽銭。Wikimedia Commons の図(Mukai ほか・CC BY-SA 3.0)をもとに作成
信長の家紋としていちばんよく知られるのが織田木瓜(おだもっこう)です。5つの丸みを組み合わせた木瓜紋で、織田家の代々の紋とされます【有力説】。木瓜紋は、もとは鳥の巣を図案化した「窠(か)紋」で、ウリの切り口という説明は後からついたものとする見方が有力です【有力説】。
ほかにも信長は、平氏の流れを名のった家がよく使った揚羽蝶の紋を使い、将軍・足利義昭からは五三桐と二つ引両を使うことを許されました【有力説】。また、旗印には、中国の銅銭「永楽通宝」の図柄を使ったと伝わります【有力説】。
織田信長の名言は?

| ことば | 出どころ | この記事の判断 |
| 「是非に及ばず」 | 『信長公記』の本能寺の変の場面 | 【有力説】 |
| 幸若舞『敦盛』の一節 | 桶狭間への出陣前に舞ったと『信長公記』首巻が伝える。原文と訳は史料ボックス② | 【伝承:信長公記】 |
| 「鳴かぬなら殺してしまえホトトギス」 | 江戸時代の随筆『甲子夜話』に、信長・秀吉・家康の性格をたとえた句として出てくる | 【伝承:甲子夜話】 |
桶狭間の朝に舞ったと伝わる歌は、信長が作ったことばではなく、源平の戦いで討たれた平敦盛を題材にした幸若舞『敦盛』の一節です。「人の一生の50年は、天上の世界の時間にくらべれば、夢や幻のように短い」という意味です。
「鳴かぬなら殺してしまえホトトギス」も、信長本人のことばではなく、3人の性格のちがいを江戸時代の人がたとえた句です。「信長の名言」として広まっていることばの中には、このように出どころがはっきりしないものや、後の時代に作られたものが多くあります。
織田信長の身長は?

信長の身長を数字で書いた同じ時代の記録は、今回確認した資料には見つからず、正確な身長はわかりません【不明】。宣教師フロイスは「中くらいの背丈」と書いています【史実:フロイスの記録】。
ネットなどで「170cm」「180cm」といった数字を見かけることがありますが、どれも確かな根拠は見当たりません。とくに「180cm」という説は、裏づけになる史料が確認できません【俗説】。
肖像画と顔|写真はある?

画像:長興寺(愛知県豊田市)に伝わる織田信長の肖像画(部分。狩野宗秀 筆と伝わる・国の重要文化財)。Wikimedia Commons(パブリックドメイン)
信長の顔を伝える絵として、いちばんよく知られているのが、愛知県豊田市の長興寺に伝わる肖像画です。絵の下の文には、信長の一周忌にあたる天正11年(1583年)6月2日に、家臣の与語正勝が描かせて長興寺に納めたことが書かれています。国の重要文化財です【史実】。面長の顔に、細い口ひげを生やした姿で描かれています。
写真の技術が日本に伝わったのは江戸時代の終わりなので、信長の写真は残っていません【史実】。ネットで「信長の写真」とされているものは、肖像画や、後の時代の人の写真などです。
織田信長ゆかりの城・寺・墓
信長ゆかりの地のうち、今も訪ねることができるおもな場所です。
| 場所 | どんなところ | 今の住所 |
| 本能寺 | 信長が亡くなった寺。今の本能寺は、変のあとに秀吉の命令で移されたもので、事件の場所とはちがう。境内に信長公廟がある | 京都市中京区 |
| 大徳寺総見院 | 信長の死後、秀吉が葬儀を行い、信長を弔うために建てた寺。信長の木像(国の重要文化財)がある | 京都市北区 |
| 阿弥陀寺 | 信長と信忠の墓がある寺。住職が信長の遺骨を葬ったという話が伝わる | 京都市上京区 |
| 建勲神社 | 明治時代に、信長をまつるために建てられた神社。義元左文字を伝える | 京都市北区(船岡山) |
| 安土城跡 | 信長の最後の城のあと。国の特別史跡 | 滋賀県近江八幡市 |
| 岐阜城 | 信長が本拠地とした城。今の天守は昭和に建てられたもの | 岐阜県岐阜市 |
| 清洲城 | 信長が若いころに本拠地とした城。今の天守は平成に建てられたもの | 愛知県清須市 |
| 桶狭間古戦場 | 桶狭間の戦いの地とされる2か所 | 名古屋市緑区・愛知県豊明市 |

画像:今の本能寺(京都市中京区)にある信長公廟。Wikimedia Commons(撮影:そらみみ・CC BY-SA 3.0)

画像:大徳寺総見院(京都市北区)。Wikimedia Commons(撮影:hiro・CC BY-SA 3.0)
よくある質問(FAQ)
織田信長は何時代の人?
戦国時代から安土桃山時代にかけての人です。「安土桃山時代」の「安土」は、信長が築いた安土城からとった名前です。
織田信長は天下統一できたの?
できていません。信長が亡くなったとき、近畿地方を中心に広い地域を治めていましたが、中国地方の毛利氏や北陸の上杉氏とは戦っている最中でした。全国の統一をなしとげたのは、信長の家臣だった豊臣秀吉です。
織田信長と豊臣秀吉・徳川家康はどんな関係?
秀吉は信長の家臣、家康は信長の同盟相手でした。信長の死後に秀吉が全国を統一し、秀吉の死後に家康が江戸幕府を開きました。この3人は「三英傑」と呼ばれます。
信長が生きのびたという話は本当?
本能寺の変のあとに信長が生きていたことを示す確かな記録はありません。くわしくは死因の章をご覧ください。
織田信長の写真は残っている?
残っていません。信長の顔を伝える肖像画は、肖像画の節で紹介しています。
織田信長の誕生日はいつ?
天文3年(1534年)5月とされます。日は12日とする説がよく知られていますが、確かな記録はありません。
まとめ|織田信長とは
織田信長は、桶狭間の戦いで今川義元を破ってから近畿地方を中心に勢力を広げ、全国統一の途中の天正10年(1582年)に、本能寺の変で亡くなった戦国武将です。その勢力は、家臣だった秀吉に引き継がれました。
「うつけ」「魔王」のような強いイメージには、後の時代に広まった話も多くまじっています。一方で、義元の刀に刻ませた文字、安土の町に出した掟書、ねねを思いやる手紙のように、信長自身にさかのぼる記録も残っています。記録を一つずつ見ていくと、こわいだけではない信長の姿が見えてきます。
信長のまわりの人物については、豊臣秀吉・明智光秀・徳川家康・柴田勝家・お市の方・弥助の記事もあわせてどうぞ。
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信長は“終わり方”ばかり有名だが、本当に面白いのは“生き方”だな。
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次は、信長公の後を継いだ秀吉様のことも知りたいです!
参考にした史料・この記事の書き方
この記事は、おもに次の記録や資料をもとに書いています。
- 同じ時代の人が残した記録:太田牛一『信長公記』(信長に仕えた人が、のちにまとめた記録)、ルイス・フロイス『日本史』(のちにまとめた記録)・イエズス会の書簡、『言継卿記』(公家・山科言継の日記)、『家忠日記』(松平家忠の日記)、信長の書状(ねねあてなど)、楽市令(加納の制札、安土山下町中掟書。安土の本文は安野眞幸「安土山下町中宛信長朱印状」『弘前大学教育学部紀要』第93号〈2005年〉の翻刻による)、義元左文字の銘(文化遺産オンライン・国指定文化財等データベース)
- 後の時代の記録:小瀬甫庵『信長記』、『美濃国諸旧記』、『常山紀談』、『甲子夜話』、阿弥陀寺に伝わる記録
- 研究:桶狭間の戦いの正面攻撃説(藤本正行『信長の戦争』)、「天下布武」の「天下」を畿内とみる説(神田千里『織田信長』ほか)、安土山下町中掟書の読み方(安野眞幸、2005年)
- 画像:長興寺の肖像画、義元左文字の茎の写真、長篠合戦図屏風、洛中洛外図屏風、歌川国芳の相撲絵、本能寺の錦絵、南蛮屏風は、Wikimedia Commons などでパブリックドメインとして公開されているものです。家紋の図(Mukai ほか・CC BY-SA 3.0 をもとに作成)、安土城の天主台(Haruno Akiha・CC BY-SA 3.0)、岐阜城(Alpsdake・CC BY-SA 3.0)、本能寺の信長公廟(そらみみ・CC BY-SA 3.0)、大徳寺総見院(hiro・CC BY-SA 3.0)の写真も Wikimedia Commons のものです。年表・家系図とイラストは侍ロードのオリジナルです
記事中のラベルの意味
【史実】同じ時代の史料で確認できること(【史実:○○】は、その出どころ)【有力説】研究者の間で広く受け入れられている見方(【有力説:○○】は、その出どころ)【諸説あり】見解が分かれていること【不明】今回確認した史料では、確かめられないこと【伝承】【俗説】後の時代に作られた話や、根拠がうすい言い伝え
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