
画像:浅井氏の時代の小谷城と清水谷
小谷城(おだにじょう)は、滋賀県長浜市の小谷山にあった山城です。戦国時代に、浅井亮政・久政・長政の浅井氏3代が約50年使いました。天正元年(1573年)、織田信長に攻められて落城し、戦国大名の浅井氏は滅びました【史実:信長公記】。
浅井長政とお市の方、そして茶々・初・江の3姉妹が暮らした城として知られています。今は「小谷城跡(小谷城址)」として国の史跡になり、日本100名城にも選ばれています。
この記事では、城跡の見どころ、ふもとの資料館、登城ルートと所要時間、そして「小谷城の戦い」で城が落ちるまでを、模式図と写真でわかりやすく紹介します。
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わしは上杉ケンシン。今日の主役は人ではなく、ひとつの城だ。
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伊達マサムネです! 小谷城って、浅井長政のお城ですよね?
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そうだ。山全体がひとつの城になっている、大きな山城だぞ。歩いて見られる場所も多い。
ひと目でわかる小谷城
- 読み方:おだにじょう
- 場所:滋賀県長浜市の小谷山(いちばん高い大嶽〈おおずく〉で標高495m)。最寄り駅はJR河毛駅(行き方)
- 城主:浅井亮政・久政・長政の浅井氏3代。落城のあと、羽柴秀吉(のちの豊臣秀吉)が一時入ったとされます
- いつ建てられた?:大永年間(1520年代)に浅井亮政が築いたと考えられています。年は1523〜25年ごろなど説が分かれます
【諸説あり】 - なぜ有名?:浅井長政とお市の城で、信長に攻められて落ちた城だから(小谷城の戦い)
- 今は?:国の史跡「小谷城跡」。日本100名城の第49番。曲輪(くるわ)や石垣が山の中に残っています(見どころ)
- 天守は?:天守があったか、どんな姿だったかは、はっきりしていません(くわしく)
【不明】
知りたいところから読めるように、主な見出しへのリンクを置いておきます。
- 小谷城とは?場所・読み方・城主
- 小谷城跡の見どころ|本丸・大堀切・山王丸の石垣
- 小谷城戦国歴史資料館|展示・開館時間・100名城スタンプ
- 小谷城の戦いとは?1573年の落城をわかりやすく
- 小谷城跡への行き方・ハイキングコースと所要時間
- 小谷城の構造|曲輪と石垣、絵図で見る縄張り
- 小谷城の歴史|築城から落城後・廃城まで
- よくある質問
小谷城とは?場所・読み方・城主をわかりやすく
ひと言でいえば、小谷城は「北近江(今の滋賀県北部)を治めた浅井氏が、山全体を使って築いた大きな城」です。
| 項目 | 内容 |
| 読み方 | おだにじょう(小谷山=おだにやま) |
| 場所 | 滋賀県長浜市(湖北町伊部・小谷郡上町など) |
| 城の種類 | 山城(やまじろ)。山の尾根を削って平らな区画(曲輪)を並べ、ふもとの谷に館や家臣の屋敷を置いた |
| 城主 | 浅井亮政 → 久政 → 長政(浅井氏3代・約50年) |
| 築城 | 大永年間(1520年代)に浅井亮政が築いたと考えられる【有力説:長浜市の保存管理計画書】 |
| 落城 | 天正元年(1573年)、織田信長の攻撃で落城【史実:信長公記】 |
| 国の史跡 | 昭和12年(1937年)に「小谷城跡」として指定。平成7年(1995年)にふもとの清水谷を追加【史実】 |
| 日本100名城 | 第49番(日本城郭協会、平成18年〈2006年〉発表)【史実】 |
| 呼び名 | 「日本五大山城」の一つと呼ばれる(国の史跡の指定とは別の呼び名) |

画像:南から見た小谷山(2008年撮影)。Wikimedia Commons(撮影:ブレイズマン・パブリックドメイン)
小谷山は、南北に長い山です。城の中心は、山頂ではなく、山頂から南へのびる尾根の上にありました。いちばん高い所の大嶽(標高495m)は、ふもとから400mほどの高さがあります。
浅井氏は、もとは近江の北半分を治める京極氏の家臣でした。浅井亮政が力をのばし、この小谷山に城を築いたのが始まりです。その後、孫の長政の代まで、浅井氏の本拠地でした。
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長政さんは、信長の妹のお市さんと結婚したんですよね。
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うむ。ところが長政は、のちに信長と敵対した。その最後の舞台が、この小谷城なのだ。
長政の人生については浅井長政とは何をした人?、お市についてはお市の方の生涯の記事でくわしく紹介しています。
小谷城跡の見どころ|本丸・大堀切・山王丸の石垣
小谷城跡では、山の尾根にそって並ぶ曲輪(くわしくは構造の章)を、南から北へ歩いて見ることができます。まずは全体の位置関係を、模式図で確かめましょう。

画像:小谷城のつくりの模式図(侍ロード作成。位置や形は正確ではありません)。画像をタップ(クリック)すると拡大できます
城は、東の尾根(主な尾根)と西の尾根が、ふもとの清水谷をはさむ形をしています。主な見どころは、東の尾根の上に南から順に並んでいます。
| 見どころ | どんな場所? | おすすめポイント |
| 番所跡 | 城の中心部への入口(標高284m) | 車やシャトルバスで来られる所。ここから歩きはじめる人が多い |
| 桜馬場跡 | 琵琶湖の眺めがよい曲輪 | 竹生島や長浜の町を見わたせる |
| 大広間跡(千畳敷) | 城でいちばん広い曲輪 | 建物の土台の石や井戸の跡が見つかった |
| 本丸跡と大堀切 | 城の中心と、城を前後に分ける大きな空堀 | この北にある京極丸を秀吉が取り、久政と長政を切りはなした落城の話につながる |
| 赤尾屋敷跡 | 長政が最期を迎えた場所と伝わる所 | 「浅井長政公自刃之地」の碑が立つ |
| 京極丸跡・小丸跡 | 本丸の北に続く曲輪 | 落城のときの父・久政と秀吉の話の舞台 |
| 山王丸跡の大石垣 | 主な尾根のいちばん高い所(344m) | 大きな石を積んだ高さ約5mの石垣 |
| 大嶽 | 山頂(495m)。最初の城の中心だったと考えられる | 道がけわしく、登山の準備が必要 |
| 清水谷 | ふもとの谷。浅井氏の館や家臣の屋敷があった | 平らで歩きやすく、資料館もここにある |
曲輪の大きさや標高は、長浜市教育委員会『史跡小谷城跡保存管理計画書』(2014年)によります。
番所跡・桜馬場跡:琵琶湖を見わたす眺め
番所跡は、城の中心部の入口にあたる曲輪です。林道の終点で、近くに駐車場とトイレがあります。ここから北へ、御茶屋跡・御馬屋跡と続きます。

画像:桜馬場跡(2008年撮影)。Wikimedia Commons(撮影:ブレイズマン・パブリックドメイン)
その先の桜馬場跡は、眺めのよさで知られる曲輪です。建物の土台の石(礎石)が残り、浅井氏をとむらう供養塔も立っています。

画像:小谷城跡から見た琵琶湖と竹生島(2022年撮影)。Wikimedia Commons(撮影:m-louis .®・CC BY-SA 2.0)
晴れた日には、長浜の町の向こうに琵琶湖と竹生島が見えます。浅井氏の人たちも、同じ景色を見ていたのかもしれません。
大広間跡(千畳敷):城でいちばん広い曲輪

画像:小谷城跡の千畳敷(大広間跡)(2008年撮影)。Wikimedia Commons(撮影:ブレイズマン・パブリックドメイン)
大広間跡は、東西約35m・南北約85m、広さ約3,000㎡の、城でいちばん広い曲輪です【史実:遺構】。「千畳敷(せんじょうじき)」とも呼ばれます。
発掘調査では、建物の土台の石、石で組んだ井戸、蔵の跡が見つかりました。3万点を超える素焼きの皿(かわらけ)をはじめ、たくさんの品が出土しています。大勢が集まる、城の中心的な場所だったと考えられます。
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3,000㎡って、学校の教室40こ分より広いんですね! 山の上なのに!
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尾根を削って平らにしたのだ。当時の人の力仕事を想像してみるとよい。
本丸跡と大堀切:城を二つに分ける空堀

画像:本丸跡(2008年撮影)。Wikimedia Commons(撮影:ブレイズマン・パブリックドメイン)
大広間の北にあるのが本丸跡(標高335m)です。上下2段になっていて、すそに石垣があります。江戸時代の絵図には「天守とも鐘丸ともいう」と書かれていますが、どんな建物があったかはわかっていません【不明】。

画像:本丸跡の北にある大堀切(2008年撮影。Commons では「大空堀跡」)。Wikimedia Commons(撮影:ブレイズマン・パブリックドメイン)
本丸の北には、尾根を深く断ち切った大堀切(おおほりきり)があります。この堀で、城は南の「本丸側」と北の「京極丸・小丸側」に大きく分かれます。
天正元年の落城のとき、羽柴秀吉は城のまん中の京極丸を取って、父・久政と長政の間を切りはなしました(小谷城の戦い)。曲輪が尾根にそって並ぶこの地形を見ると、その意味がよくわかります。
赤尾屋敷跡:長政の最期の地と伝わる場所

画像:浅井長政公自刃之地の碑(赤尾屋敷跡)。Wikimedia Commons(撮影:Heartoftheworld・CC BY-SA 3.0)
本丸・大広間の東側の斜面の下には、浅井氏の重臣・赤尾氏の屋敷跡と伝わる赤尾屋敷跡があります。長政はここで最期を迎えたと伝えられ、「浅井長政公自刃之地」の碑が立っています【伝承】。
ただし、同じ時代の記録『信長公記』には、長政が自害した場所は書かれていません。「赤尾屋敷で」というのは、後の時代の記録や言い伝えによるものです。
京極丸跡・小丸跡・山王丸跡:大石垣が残る城の奥
大堀切の北には、中丸跡、京極丸跡、小丸跡が続きます。京極丸は、大広間に次ぐ広さの曲輪です。名前は、主君の京極氏を住まわせたことによるとされます【伝承】。
小丸は、長政の父・久政が隠居して住み、落城のときに自害した曲輪とされています。ただし『信長公記』は「久政の居城」と書くだけで、「小丸」という名前は出てきません。小丸とするのは、後の時代の記録や江戸時代の絵図の書き込みです【有力説:東浅井郡志・長浜市の保存管理計画書】。

画像:小谷城跡の大石垣(2008年撮影)。Wikimedia Commons(撮影:ブレイズマン・パブリックドメイン)
主な尾根のいちばん高い所が山王丸跡(標高344m)です。大きな石を積んだ高さ約5mの大石垣が残っています【史実:遺構】。城の最後の守りを受けもつ曲輪だったと考えられています。小谷城は土の城のイメージが強いですが、大事な所には石垣が使われていました。

画像:山王丸跡(2008年撮影)。Wikimedia Commons(撮影:ブレイズマン・パブリックドメイン)
2026年4月には、久政が家臣に小谷城の石垣のための石を運ばせた(石引き)手紙が、約100年ぶりに見つかったと、長浜市が発表しました。昭和2年(1927年)の『東浅井郡志』に写しがのっていたものの、行方がわからなくなっていた手紙です。
大嶽:初期の城の中心と考えられる山頂

画像:大嶽のあたり(2008年撮影。Commons では「大嶽丸」)。Wikimedia Commons(撮影:ブレイズマン・パブリックドメイン)
小谷山の山頂、大嶽(おおずく。「おおづく」とも)は標高495m。浅井亮政が最初に城を築いたのは、この大嶽だったと考えられています【有力説:長浜市の保存管理計画書】。のちに城の中心は、今の本丸の尾根に移りました。いつ移ったかはわかっていません【不明】。
信長との戦いでは、助けに来た朝倉氏の軍がここを守りました。山王丸から先は道がけわしくなるので、行くときは登山の準備をしてください。
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見どころは南から北へ一本の尾根に並んでいる。まずは番所跡から本丸を目指すとよい。
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歩く時間は、行き方の章で確かめておきます!
小谷城戦国歴史資料館|展示・開館時間・100名城スタンプ

画像:浅井長政
ふもとの清水谷の入口にある小谷城戦国歴史資料館は、浅井氏3代と小谷城について学べる施設です。城跡に登る前に立ち寄ると、見どころがわかりやすくなります。
| 項目 | 内容(基本情報は2026年10月15日、年末年始の休館日は10月24日に公式サイトで確認) |
| 場所 | 滋賀県長浜市小谷郡上町139(清水谷の入口) |
| 主な展示 | 浅井氏3代やお市の肖像画、城跡からの出土品、江戸時代の小谷城の絵図、曲輪の復元イラストなど |
| 開館時間 | 午前9時〜午後5時(入館は午後4時30分まで) |
| 休館日 | 毎週火曜日(祝日の場合は翌平日)、年末年始(今回は2026年12月28日〜2027年1月5日。資料館の2026年10月21日のお知らせを10月24日に確認) |
| 日本100名城スタンプ | 資料館に置かれています(休館日の代わりの設置場所は、今回確認できていません) |
開館日や臨時の休館は、小谷城戦国歴史資料館の公式サイトに載っています。
資料館の建物は、昭和57年(1982年)に建てられた湖北町の児童館を改修して、平成19年(2007年)に開館したものです【史実:長浜市の保存管理計画書】。長浜市は、ふもとの「戦国ガイドステーション」の場所に新しい施設を建てる計画を公表しています。
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資料館で絵図や出土品を見てから登ると、もっと楽しめそうですね。
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うむ。浅井氏3代の肖像画も見ておくとよい。顔を知ってから城跡を歩くと、ぐっと身近になるぞ。
小谷城の戦いとは?1573年の落城をわかりやすく

画像:金色の鍬形の兜をかぶった浅井長政
小谷城の戦いは、ひと言でいえば「天正元年(1573年)、織田信長が小谷城を攻め落とし、戦国大名の浅井氏が滅びた戦い」です。ただし、信長と浅井の戦いは、その3年前から続いていました。
3年あまり続いた信長と浅井の戦い
| 年 | できごと |
| 元亀元年(1570年)4月 | 浅井長政が信長から離れ、敵になる |
| 元亀元年(1570年)6月 | 21日、信長が小谷城の町を焼き、22日にいったん退く。28日、姉川の戦いで織田・徳川が勝つ。そのあとも信長は、高くけわしい小谷城にはすぐに攻め上らなかった【史実:信長公記】 |
| 元亀3年(1572年)7月 | 信長が小谷城の向かいの虎御前山に砦を築かせる。のちに羽柴秀吉を守りに置く【史実:信長公記】 |
| 天正元年(1573年)8〜9月 | 信長が小谷城を攻め落とし、戦国大名の浅井氏が滅びる【史実:信長公記】。長政の没日は8月28日説と9月1日説がある【諸説あり】 |

画像:東から見た虎御前山(2026年撮影)。Wikimedia Commons(撮影:運動会プロテインパワー・CC BY-SA 4.0)
虎御前山(とらごぜんやま)は、小谷城の南西にある細長い山です。信長はここにじょうぶな砦を築き、小谷城を見はるための拠点にしました。今は展望台や公園があり、小谷山を正面に見ることができます。
『信長公記』によると、信長の座敷からは、北の大嶽にこもる浅井・朝倉の軍が見えたといいます。それほど近い場所でした。
天正元年(1573年)の落城までの流れ
『信長公記』をもとに、落城までの流れを見てみましょう。ここから出てくる月日は、すべて当時の暦(旧暦)です。

画像:小谷城が落ちるまで(侍ロード作成)。画像をタップ(クリック)すると拡大できます
| 月日 | できごと |
| 8月8日 | 小谷城の西の山本山城を守る阿閉貞征(あつじ さだゆき)が信長方につく。信長はその夜に出陣【史実:信長公記】 |
| 8月12日 | 大嶽の下の焼尾を守る浅見対馬守が信長方を引き入れる。信長が自ら大嶽に攻め上り、守っていた朝倉の兵が降参【史実:信長公記】 |
| 8月13日〜 | 信長は退く朝倉軍を追い、刀根坂(今の福井県敦賀市)で破る。越前に攻めこまれた朝倉義景は8月20日ごろに自害し、朝倉家が滅びる【史実:信長公記】(義景の自害の日付は【有力説】) |
| 8月27日の夜 | 羽柴秀吉が京極丸に攻め上り、久政と長政の間を断ち切る。まず久政の曲輪を取り、久政は自害【史実:信長公記】 |
| その翌日など | 長政が自害し、浅井氏が滅びる。日付は8月28日(『信長公記』)とも9月1日とも【諸説あり】 |
史料ボックス『信長公記』が書く秀吉の働き
出典
太田牛一『信長公記』巻六「阿閉謀叛之事」(Wikisource 所収の我自刊我書本)
原文(一部)
「八月廿七日 夜中に羽柴筑前守京極つぶらへ取上 浅井下野同備前父子之間を取切 先下野居城を乗取候」
現代語訳
8月27日の夜中に、羽柴筑前守(秀吉)が京極丸に攻め上り、浅井下野守(久政)と備前守(長政)の父子の間を断ち切って、まず久政の城(曲輪)を攻め取った。
「つぶら」は、ここでは曲輪を指します。この記録からわかるのは、秀吉が城のまん中の京極丸を取って、父と子を切りはなしたことです。秀吉がどの道を通って京極丸に上ったかは、書かれていません【不明】。

画像:夜、京極丸を攻め取る羽柴秀吉と兵たち
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城のまん中を取られたら、父と子は連絡を取りにくくなりますね。
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そうだ。京極丸を取られたことで、父と子は助け合いにくくなったのだ。
なぜ小谷城は落ちたのか
信長と浅井の戦いは、元亀元年(1570年)から3年あまり続きました。それが天正元年(1573年)8月に入ると、1か月足らずで決着します。次の3つが重なったためと考えられます。
- 味方の寝返り:山本山城の阿閉氏や、焼尾の浅見氏が信長方についた。研究者の太田浩司は、山本山城と小谷城を結ぶ守りがくずれたことを、落城の直接の原因とみています
- 朝倉軍の撤退と滅亡:大嶽を守っていた朝倉の軍が退き、朝倉家そのものが滅びて、助けが来なくなった
【史実:信長公記】 - 城の中心を分断された:京極丸を取られ、久政と長政が切りはなされた
【史実:信長公記】
長政の最期の日付や、残された言葉については、浅井長政の記事の「最期」の章でくわしく紹介しています。
お市と三姉妹は小谷城からどうやって逃げた?

画像:お市と三姉妹が城を出る場面(後の時代の物語が伝える話)
お市の方と3人の娘(茶々・初・江)は、落城に際して生き延び、織田家に引き取られたとされています【有力説】。『信長公記』の落城の記事には、お市たちが城を出たようすは書かれていません。
江戸時代の『浅井三代記』は、落城の前に、長政が家臣の藤掛三河守をつけて、お市と娘たちを信長のもとへ送ったと書いています【伝承】。くわしくはお市の方の記事で紹介しています。
長政の長男・万福丸のその後は、万福丸の記事をご覧ください。
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お市さんと娘たちが助かったから、のちの茶々(淀殿)や江の物語につながるんですね。
小谷城跡への行き方・ハイキングコースと所要時間

画像:小谷城跡への行き方と登城ルート(侍ロード作成。位置関係は大まかです)。画像をタップ(クリック)すると拡大できます
小谷城跡には、ふもとから歩いて登る方法と、中腹の番所跡まで車やシャトルバスで行く方法があります。ここでは、2026年10月15日に公式の案内で確かめた内容を紹介します。
電車・車での行き方
| 方法 | 行き方(目安) |
| 電車 | JR北陸本線の河毛(かわけ)駅から、小谷城戦国歴史資料館まで約2.2km・歩いて約30分(資料館の案内)。河毛駅から戦国ガイドステーションまで、タクシーで約10分(観光協会の案内) |
| 車 | 北陸自動車道の小谷城スマートIC(ETC専用)から戦国ガイドステーションまで約5〜7分(観光協会の案内。ページによって5分・7分と書かれています) |
| シャトルバス | 期間限定で、ふもとの戦国ガイドステーションと番所跡を結ぶバスが走ります。運行日・料金は長浜米原観光協会の案内に載っています |
| 林道(車) | 番所跡まで林道があり、車で上れます。道がせまく、大型バスは通れません。シャトルバスの運行期間中は一般の車は通れません。冬は雪や凍結に注意 |
ふもとの案内所と駐車場は、観光協会の案内では「戦国ガイドステーション」と呼ばれています。河毛駅でレンタサイクルを借りた場合も、林道を自転車で上ることはできません。ふもとに止めて歩きましょう。
ハイキングコースと所要時間(片道)
長浜米原観光協会の案内による、歩く時間の目安(片道)です。
| 区間 | 歩く時間(片道) | メモ |
| ふもと(戦国ガイドステーション)→ 番所跡 | 約40分 | 標高約100m → 284m |
| 番所跡 → 本丸跡 | 約30分 | 桜馬場・大広間を通る。主な見どころがここまでに集まる |
| 本丸跡 → 山王丸跡 | 約20分 | 大堀切・京極丸・小丸を通る |
| 山王丸跡 → 大嶽 | 約60分 | 道がけわしい。登山の装備が必要 |
| 大嶽 → 清水谷 → 資料館 | 約80分 | 下り道。清水谷を通ってふもとへ |
たとえばふもとから歩いて本丸跡まで行き、同じ道を戻る場合、案内の片道の時間(40分+30分=約70分)を単純に往復にすると、歩く時間だけで約2時間20分です。見学の時間も考えて、余裕をもって出かけましょう。

画像:今の小谷城跡を登る家族
山の中の道なので、歩きやすい靴と飲み物を用意しましょう。小谷山にはツキノワグマがすんでいます。鈴などを身につけて歩きましょう。
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番所跡まで車で行けば、本丸までは30分くらいなんですね。
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うむ。だが、ふもとから歩くと、城がどれだけ高い所にあったかが体でわかるぞ。
小谷城の構造|曲輪と石垣、絵図で見る縄張り
小谷城は、山の上だけの城ではありません。尾根の上の曲輪、山頂の大嶽、ふもとの清水谷の館や屋敷、谷の前の城下町までをふくめた、ひとつの大きな城と考えられています【有力説:長浜市の保存管理計画書】。
| 場所 | 主な曲輪・遺構 | 役割 |
| 東の尾根(主な尾根) | 番所・桜馬場・大広間・本丸・中丸・京極丸・小丸・山王丸 | 城の中心。段々に曲輪が並ぶ |
| 山頂 | 大嶽 | 最初の城の中心と考えられる。信長との戦いでは朝倉軍が守った |
| 西の尾根 | 福寿丸・山崎丸 | 朝倉氏が築いたと考えられる曲輪【有力説】 |
| 北東の裏手 | 月所丸 | 城の裏口(搦手)を守る |
| 清水谷 | 浅井氏の館、家臣の屋敷、寺の跡、谷の入口をふさぐ堀 | 城主と家臣のふだんの暮らしの場 |
平成元年(1989年)の調査では、山の中に大小の平らな区画が1,100か所あまり見つかっています。小谷城が、山全体を使った城だったことがわかります。
石垣は、大広間(高さ約4m)、黒金門の跡、本丸、山王丸(高さ約5m)など、大事な場所に使われました。ほかの所は、土を盛った土塁や、崖のように削った斜面で守っていました。
江戸時代の絵図に描かれた小谷城

画像:小谷城跡絵図(小谷城址保勝会所蔵・長浜市指定文化財)。Wikimedia Commons(パブリックドメイン)。画像をタップ(クリック)すると拡大できます
小谷城の姿を伝える絵図は、何枚も残っています。この絵図は、西の空から見下ろすように、尾根に並ぶ曲輪とふもとの谷を描いたものです。
ただし、これらは江戸時代に描かれたり写されたりしたもので、戦国時代の姿そのものではありません。書き込みにも、言い伝えが多くふくまれています。
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絵図は、昔の人が城跡をどう見ていたかを知る手がかりだ。発掘や記録とあわせて読むのが大切だぞ。
小谷城の歴史|築城から落城後・廃城まで

画像:豊臣秀吉
| 年 | できごと |
| 大永年間(1520年代) | 浅井亮政が小谷城を築く。最初の中心は山頂の大嶽だったと考えられる【有力説】(年は1523〜25年ごろなど【諸説あり】) |
| 大永5年(1525年) | 南近江の六角定頼が攻め寄せ、亮政が一時城を追われたという記録がある【史実:記録】 |
| 天文3年(1534年) | 亮政が、主君の京極高清・高延の父子を館に招いてもてなす【史実】 |
| 元亀元年(1570年) | 長政が信長と敵対。姉川の戦い |
| 元亀3年(1572年) | 信長が虎御前山に砦を築く。朝倉義景が大嶽に陣をしく【史実:信長公記】 |
| 天正元年(1573年)8〜9月 | 小谷城が落ち、戦国大名の浅井氏が滅びる【史実:信長公記】。長政の没日は8月28日説と9月1日説がある【諸説あり】 |
| 天正元年(1573年)〜 | 北近江の浅井の領地が秀吉にあたえられ、秀吉が小谷城に入ったとされる【有力説】 |
| 天正2年(1574年)ごろ〜 | 秀吉が琵琶湖のそばの今浜(のちの長浜)に城を築き始め、天正3〜4年ごろに移る【有力説】 |
| 時期は不明 | 小谷城が使われなくなる(廃城)【不明】 |
| 昭和12年(1937年) | 国の史跡に指定。平成7年(1995年)に清水谷を追加【史実】 |
| 平成18年(2006年) | 日本100名城(第49番)に選ばれる【史実】 |
落城のあと、秀吉は琵琶湖に面した長浜に新しい城を築き、小谷城を離れました。今回確かめた資料では、小谷城がいつ使われなくなったかを示す確かな記録は見つかりませんでした【不明】。
「小谷城の建物や石を長浜城に運んだ」「小谷城の天守が長浜城や彦根城に移された」という話もありますが、どれも「〜といわれる」という言い伝えで、今回確かめた資料では確かな記録は見つかりませんでした【伝承】。
秀吉がここから大名として出世していく話は、豊臣秀吉の記事で紹介しています。
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小谷城が落ちたことが、秀吉が長浜城の城主になるきっかけだったんですね。
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そうだ。ひとつの城の終わりが、別の武将の始まりになったのだ。
よくある質問(FAQ)
日本五大山城とは?
春日山城(新潟県)・七尾城(石川県)・観音寺城(滋賀県)・小谷城(滋賀県)・月山富田城(島根県)の5つを指す呼び名です。観光の案内などで広く使われています。国の史跡の指定とは別の呼び名で、だれがいつ選んだかは確認できませんでした。なお小谷城は、日本城郭協会の「日本100名城」(第49番)に選ばれています。
小谷城と長浜城の関係は?
小谷城が落ちたあと、北近江をまかされた秀吉が、小谷城のかわりに琵琶湖のそばの今浜に築いたのが長浜城です(天正2〜4年ごろ)。小谷城の資材を長浜城に使ったという話は、言い伝えとして残っています。
小谷城の天守はあった?
はっきりしていません。江戸時代の絵図に、本丸を「天守とも鐘丸ともいう」と書いたものはありますが、どんな建物だったかはわかっていません(本丸跡の説明)。
ほかにも「小谷城」はある?
兵庫県加西市には「小谷城(こだにじょう)」の跡があり、大阪府堺市には「小谷城郷土館(こたにじょうきょうどかん)」という施設があります。どちらも、浅井氏の小谷城とは別のものです。小谷城戦国歴史資料館の前身は郷土館ではなく、湖北町の児童館です。
戦国まつりはいつ?
資料館の前の広場で、毎年秋ごろ「小谷城戦国まつり」が開かれています。2026年は10月4日に開かれ、甲冑を着た武者行列や火縄銃の演武などがありました。日程は年によって変わります。
まとめ|小谷城とは
小谷城は、滋賀県長浜市の小谷山にあった浅井氏3代の山城です。尾根の上に曲輪が並び、ふもとの清水谷に館や屋敷がある、山全体を使った大きな城でした。
天正元年(1573年)、信長の攻撃で落城し、戦国大名の浅井氏は滅びました。秀吉が城のまん中の京極丸を取り、久政と長政を切りはなしたことが『信長公記』に書かれています。お市と三姉妹は生き延び、織田家に引き取られたとされます。
今は国の史跡で、日本100名城の一つです。大広間跡や本丸跡、大堀切、山王丸の大石垣などを歩いて見ることができます。ふもとの資料館で予習してから登るのがおすすめです。
関係する人物や戦いについては、浅井長政、お市の方、万福丸、姉川の戦い、豊臣秀吉の記事もあわせてどうぞ。
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山の上の曲輪、ふもとの谷、向かいの虎御前山。地形を知ると、小谷城の戦いがぐっとわかりやすくなる。
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今度は、資料館から本丸まで歩いてみたいです!
参考にした史料・この記事の書き方
この記事は、おもに次の記録や資料をもとに書いています。
- 同じ時代に近い記録:太田牛一『信長公記』巻三・巻五・巻六(Wikisource 所収の我自刊我書本)
- 後の時代の記録:『浅井三代記』(Wikisource 所収)
- 公的な資料:長浜市教育委員会『史跡小谷城跡保存管理計画書』(2014年)、長浜市『(仮称)小谷城戦国体験ミュージアム基本計画』(2024年)、日本城郭協会「日本100名城」
- 観光の案内(2026年10月15日確認):小谷城戦国歴史資料館、長浜米原観光協会「小谷城跡」「小谷城シャトルバス」
- 研究・事典:太田浩司「戦国大名浅井氏と家臣たちの動向」(明治大学 博士論文要旨、2024年度)、小和田哲男『近江浅井氏の研究』、コトバンク(『日本大百科全書(ニッポニカ)』『日本歴史地名大系』『日本の城がわかる事典』など)、久政の書状の再発見の報道(2026年4月)
- 画像:小谷城跡の写真(ブレイズマン・パブリックドメイン、Heartoftheworld・CC BY-SA 3.0)、竹生島の眺め(m-louis .®・CC BY-SA 2.0)、虎御前山(運動会プロテインパワー・CC BY-SA 4.0)、小谷城跡絵図(パブリックドメイン)は Wikimedia Commons のものです。模式図・地図・図・漫画・イラストは侍ロードのオリジナルです
記事中のラベルの意味
【史実】同じ時代の史料や、城跡に残る遺構で確認できること(【史実:○○】は、その出どころ)【有力説】研究者の間で広く受け入れられている見方(【有力説:○○】は、その出どころ)【諸説あり】見解が分かれていること【不明】今回確認した史料では、確かめられないこと【伝承】後の時代の記録や言い伝えによる話【俗説】広まっているが、根拠の確かでない説
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