松平信康のプロフィール。呼び名・装備品・身長・所属・階級と、一生の短い紹介

松平信康(まつだいら のぶやす)は、徳川家康の長男です。母は築山殿で、織田信長の娘・徳姫と結婚し、岡崎城(今の愛知県岡崎市)の城主として「岡崎三郎」と呼ばれました。「徳川信康」と呼ばれることもあります。

天正7年(1579年)、信康は父・家康に岡崎城から出され、遠江の二俣城(今の静岡県浜松市天竜区)で、数え21歳で切腹したとされます。なぜそうなったのかは、今もはっきりしていません。

この記事では、信康がどんな人だったのか、なぜ切腹したのか、妻や子孫、「もし生きていたら」、最期と服部半蔵の話、墓までを、その時代の記録と後の時代の話を分けて紹介します。

ケンシン

わしは上杉ケンシン。今日は、家康の長男・松平信康の話だ。

マサムネ

伊達マサムネです! 「松平信康」と「徳川信康」、どっちが正しいんですか?

ケンシン

いい質問だ。名前のことも、切腹の理由も、記録を見ながら順に答えていこう。

ひと目でわかる松平信康

  • 読み方:まつだいら のぶやす(「徳川信康〈とくがわ のぶやす〉」とも)
  • だれ?:徳川家康の長男。母は築山殿。岡崎城の城主(くわしく)
  • 名前:当時の記録では「信康」「岡崎三郎」などと書かれています(松平か徳川か)
  • なぜ切腹?:本当の理由ははっきりしません。信長が命じたと書く記録と、家康の側の判断を重くみる研究があります(くわしく)
  • 妻・子ども:妻は織田信長の娘・徳姫。娘が2人(くわしく)
  • 最期:天正7年(1579年)9月15日、遠江の二俣城で切腹したとされます。数え21歳【有力説】(くわしく)
  • 墓:浜松市天竜区の清瀧寺に信康廟があり、岡崎市の若宮八幡宮に首塚があると伝わります(くわしく)

知りたいところから読めるように、主な見出しへのリンクを置いておきます。

記事の中の【史実】【諸説あり】などのラベルは、その話がどれくらい確かかを示しています(意味は記事の最後にまとめています)。

松平信康(徳川信康)とは?名前や生涯を紹介

ひと言でいえば、信康は「徳川家康の長男として岡崎城をまかされ、天正7年(1579年)に数え21歳で命を絶った若い武将」です。

項目内容
読み方まつだいら のぶやす
父・母父・徳川家康、母・築山殿【史実】
生まれ永禄2年(1559年)3月6日、駿府(今の静岡市)【有力説】
幼いころの名前竹千代(父の家康と同じ)【有力説】
妻織田信長の娘・徳姫(五徳)
子ども娘が2人(登久姫・熊姫)
城岡崎城(今の愛知県岡崎市)
亡くなった年天正7年(1579年)。数え21歳(満20歳)
勝蓮寺に伝わる松平信康の肖像画。上に歌を書いた短冊があり、下に黒い烏帽子をかぶり、淡い朱色の狩衣と褐色の袴を身につけて扇を持って座る武将が描かれている

画像:松平信康の肖像画(勝蓮寺蔵・岡崎市指定文化財)。江戸時代に描かれたもので、作者はわかりません。Wikimedia Commons(『新編 安城市史1』に載った写真。パブリックドメイン)

信康の肖像画は、岡崎市の勝蓮寺(しょうれんじ)に伝わるものが知られていて、岡崎市は「唯一といわれる肖像画」と紹介しています。ただし、信康が亡くなってから時がたって描かれたもので、本人の顔をそのまま写したものかは確かめられません。

信康の一生(年表)

年数え年できごと
永禄2年(1559年)1歳駿府で生まれる。父の家康は、このころ今川家のもとにいた【有力説】
永禄5年(1562年)ごろ4歳家康の家臣・石川数正が、駿府から信康と母の築山殿を岡崎へ取りもどしたとされる【有力説】
永禄10年(1567年)9歳織田信長の娘・徳姫と結婚【有力説】
元亀元年(1570年)12歳元服したとされ、家康が浜松へ移ったあと岡崎城主になる【有力説】
天正3年(1575年)17歳長篠の戦いに、家康とともに出陣したとされる【有力説】。9月には、大井川の近くから退くときに最後尾を守った話が伝わる【伝承】
天正4年(1576年)18歳長女・登久姫が生まれる【有力説】
天正5年(1577年)19歳次女・熊姫が生まれる【有力説】
天正7年(1579年)4月21歳異母弟の長松(のちの徳川秀忠)が浜松で生まれる【有力説】
天正7年(1579年)8月4日21歳岡崎城を出され、大浜(今の愛知県碧南市)へ移される【史実:家忠日記】
天正7年(1579年)9月15日21歳遠江の二俣城で切腹したとされる【有力説】

「松平信康」と「徳川信康」どちらが正しい?

どちらも同じ人を指しています。

信康が生きていたころの記録では、名前は「信康」「三郎」「岡崎三郎」などと書かれています【史実】。たとえば、家康の一族の武将・松平家忠の日記『家忠日記』は「信康」、信長の家臣・太田牛一の記録『安土日記』は「三州岡崎三郎殿」(三河の岡崎三郎どの)と書いています。今回確かめた当時の記録には、「徳川信康」と書いたものは見当たりませんでした。

家康が名字を「松平」から「徳川」に変えたのは、永禄9年(1566年)の暮れです。事典には、しばらくのあいだ徳川を名のったのは家康1人だった、という説明があります【有力説】。そのため、研究者の本や論文では「松平信康」と書かれることが多くなっています。

ただ、事典にも「徳川信康」の見出しがあり、家康の長男だとすぐにわかる呼び名なので、こちらも広く使われています。「徳川信康はまちがい」というわけではありません。

呼び名どんな名前?
竹千代幼いころの名前。父の家康と同じ
信康元服したあとの名前。「信」は信長から、「康」は家康からもらったと説明されることが多い。江戸幕府の歴史書『本朝通鑑』(1670年)は、信長の婿なので「信」の字をもらった、と書いている(同じ時代の記録では確かめられていません)
三郎・岡崎三郎当時の記録に出てくる呼び名。岡崎城の城主だったことから「岡崎」がつく
次郎三郎元服のあとに名のったと事典にある呼び名。家康もはじめ名のった名前
松平信康研究者の本や事典で多い書き方
徳川信康事典の見出しや一般の本、ドラマなどで使われる書き方。江戸時代の軍記『織田軍記』にも「徳川次郎三郎信康」という書き方がある
マサムネ

「信」は信長の字だったんですね!

ケンシン

そう説明されることが多いが、書いてあるのは江戸時代の本だ。当時の記録では、まだ確かめられていないのだぞ。

松平信康はなぜ切腹した?理由にはどんな説がある?

先に答えをまとめると、信康が切腹に至った本当の理由は、ひとつに絞れません。

確かなのは、天正7年(1579年)8月、家康が浜松から岡崎へ来て、信康を岡崎城から出したことです。『家忠日記』には、8月4日に信康が大浜(今の愛知県碧南市)へ移り、9日に遠江の堀江城(今の浜松市)へ移ったことが書かれています【史実:家忠日記】。そのあと信康は二俣城へ移され、9月15日に命を絶ったとされます【有力説】。

理由について、江戸時代初めに家康の家臣が書いた『三河物語』は、「妻の徳姫が父の信長に信康のことを訴え、信長が切腹させるよう家康に求めた」と書いています【伝承】。昔はこれが通説でした。一方、近年は、家康の側の判断を重くみる研究もあります。

説どんな説?気をつけたいこと
信長が命じた徳姫の訴えを聞いた信長が、家康に信康の切腹を求めた『三河物語』の話。同じく江戸時代初めの『当代記』は、信長は「家康の思うとおりに」と答えたと書く
武田家との関係母の築山殿が、敵の武田家とひそかに通じた疑いがあり、信康もそれに巻きこまれた研究者の見方が分かれる
徳川家の中の対立浜松の家康と岡崎の信康のあいだで、家臣を巻きこんだ食い違いがあった研究者の見方が分かれる
信康のふるまい・夫婦の不和信康のふるまいや、徳姫との仲が問題になった話の多くは江戸時代の記録。夫婦の仲だけで切腹にまで至ったと考えるのはむずかしい

今回確認した同じ時代の記録だけでは、事件の理由をひとつにしぼれません【諸説あり】。研究者ごとの考え方や、8月の記録の原文は、築山殿の記事の「築山殿事件とは?なぜ起きた?」でくわしく紹介しています。

築山殿事件の地図。信康が岡崎城から大浜、堀江城、二俣城へ移されたことと、築山殿が浜松の近くの富塚で亡くなったとされることを示している

画像:信康が移された道すじ(侍ロード作成。位置は大まかです)。画像をタップ(クリック)すると拡大できます

マサムネ

夫婦げんかで切腹になった……というほど、単純な話ではないんですね。

ケンシン

うむ。母の築山殿も同じ年に命を落としている。家の中のもっと大きな問題と結びつけて考える研究もあるのだ。

信康の妻・徳姫や子どもは?子孫は今もいる?

武家屋敷の広間で向かい合って座り、照れくさそうに徳姫を見る子どもの信康と、恥ずかしそうにおじぎをする徳姫のイラスト

画像:子どもの信康と徳姫の婚礼

妻・徳姫(五徳)

信康の妻は、織田信長の娘・徳姫です。「五徳(ごとく)」「岡崎殿」とも呼ばれます。徳川家と織田家の結びつきを強めるための結婚で、永禄10年(1567年)、ともに数え9歳で結婚したとされます【有力説】。

2人のあいだには、天正4年(1576年)と天正5年(1577年)に娘が生まれました【有力説】。

夫婦の仲については、江戸時代の記録に、仲が悪くなったという話や、徳姫が父の信長に信康のことを訴えたという話が残っています【伝承】。ただし、どこまで本当かはわかりません。

信康が亡くなったあと、徳姫は天正8年(1580年)2月に2人の娘を残して岡崎を離れました。その後は再婚せず、寛永13年(1636年)に数え78歳で亡くなったとされます【有力説】。

娘は2人。嫁いだ先は?

娘生まれた年夫亡くなった年
登久姫(とくひめ。福姫とも)天正4年(1576年)小笠原秀政(信濃の小笠原家の武将)慶長12年(1607年)
熊姫(くまひめ。国姫とも)天正5年(1577年)本多忠政(本多忠勝の長男。のちに姫路藩主)寛永3年(1626年)

父を亡くした2人の娘は、祖父の家康のもとで育てられたとされます【有力説】。そして、徳川家と大名の家を結びつける結婚をしました【有力説】。熊姫が嫁いだのは、本多忠勝の長男・忠政です。

孫の代になると、信康の孫娘たちも大名の家に嫁ぎました。岡崎市立中央図書館が資料をもとにまとめた回答によると、次のとおりです【有力説】。

孫娘母夫
万姫(氏姫とも)登久姫蜂須賀至鎮(阿波徳島藩主)
千代姫登久姫細川忠利(のちの肥後熊本藩主)
国姫熊姫有馬直純(日向延岡藩主)
亀姫熊姫小笠原忠脩、のちにその弟の小笠原忠真
松平信康の家系図。父の徳川家康と母の築山殿、妻の徳姫と父の織田信長、娘の登久姫と熊姫、その夫の小笠原秀政と本多忠政を示している

画像:松平信康の家系図(侍ロード作成)。画像をタップ(クリック)すると拡大できます

子孫は今もいる?

今回確認した資料では、信康に息子がいたことを確かめられる記録は見つかりませんでした【不明】。

ただ、2人の娘を通じて、信康の血は江戸時代の大名家につながりました。登久姫の子・小笠原忠真は、のちに豊前小倉藩(今の福岡県北九州市)15万石の大名になりました【有力説】。孫娘たちも、蜂須賀家・細川家・有馬家などの大名家に嫁いでいます。

「今の子孫はだれか」については、今回の調査では、現在の子孫を確かめられる資料までは見つかりませんでした【不明】。

マサムネ

本多忠勝の息子のお嫁さんが、信康の娘だったんですね!

ケンシン

そうだ。家康は、孫娘たちを大事な家臣や大名と結びつけたのだ。

信康が生きていたら?秀忠との跡継ぎの関係

城の一室で扇を持って座る松平信康のイラスト

画像:岡崎城の一室にいる信康

信康は家康の長男で、跡継ぎとされていました【有力説】。元服のあとに名のった「次郎三郎」は、家康もはじめ名のった名前で、跡継ぎであることを示す呼び名だったという説明もあります【諸説あり】。

では、信康が亡くなったあと、家康の跡はだれが継いだのでしょうか。

息子生まれその後
長男・信康永禄2年(1559年)天正7年(1579年)に亡くなる
次男・於義丸(のちの結城秀康)天正2年(1574年)天正12年(1584年)、豊臣秀吉の養子になる。のち結城家を継ぐ【有力説】
三男・長松(のちの徳川秀忠)天正7年(1579年)4月跡継ぎになり、慶長10年(1605年)に江戸幕府の2代将軍になる【有力説】

秀忠が生まれたのは、信康が亡くなる約5か月前です。事典には、長兄の信康が亡くなり、次兄の秀康が秀吉の養子になったので、秀忠が自然に跡継ぎの立場についた、という説明があります【有力説】。

徳川家康の3人の息子、信康と秀康と秀忠のその後と、秀忠が跡継ぎになるまでを示した図

画像:家康の3人の息子と跡継ぎ(侍ロード作成)。画像をタップ(クリック)すると拡大できます

もし信康が生きていたら、長男の信康が家康の跡を継いでいた可能性はあります。ただし、信康が将軍になったか、徳川家が同じ道を歩んだかまでは、記録からは決められません【不明】。

家康自身が信康を思い出した、という話も残っています。江戸幕府がまとめた歴史書『徳川実紀』の附録には、関ヶ原の戦い(慶長5年〈1600年〉)のとき、家康が「やれやれ、年をとって骨が折れることだ。せがれがいたら、これほどではないだろうに」とひとりごとを言った、と書かれています【伝承】。信康が亡くなってから200年以上あとにまとめられた本の話で、「〜とか」という伝え聞きの形で書かれています。

なお、「もし生きていたら」という仮の話と、「信康は実は生きのびていた」という生存説は、別の話です。生存説については、よくある質問で取り上げます。

マサムネ

信康が生きていたら、2代将軍は信康だったかもしれないんですね。

ケンシン

かもしれん。だが、それは「もし」の話だ。記録からわかるのは、秀忠が跡継ぎになったところまでだぞ。

信康の最期は?二俣城や服部半蔵・村正の話

秋の夕方、山あいの城の館の縁側に座り、ひざの上でこぶしをにぎって思いつめた顔で川をながめる松平信康のイラスト

画像:二俣城にいたころの信康

岡崎城を出てから二俣城へ

日にち(天正7年〈1579年〉。月日は旧暦)できごと
8月3日家康が浜松から岡崎へ来る【史実:家忠日記】
8月4日信康が岡崎城を出て、大浜へ移される【史実:家忠日記】
8月9日信康が大浜から遠江の堀江城へ移される【史実:家忠日記】
8月10日三河の武士たちが「信康とひそかに連絡を取らない」と誓う文を書く【史実:家忠日記】
8月29日母の築山殿が、浜松の近くで亡くなるとされる【有力説】
日にちは不明信康が堀江城から二俣城へ移される【有力説】
9月15日二俣城で切腹したとされる。数え21歳【有力説】

二俣城は、天竜川と二俣川にはさまれた山の上の城で、このころは家康の家臣・大久保忠世がまもっていました【有力説】。

信康が二俣城で9月15日に亡くなったことは、江戸時代初めの『当代記』や、寺の伝え、江戸幕府の系図などが同じように書いています(『三河物語』も日を15日としていますが、年を1年ずらして書いています)。日付と場所は、江戸時代初めの記録などにもとづいて広く採られている説明です。この記事では、同じ時代の史料で確かめられることと区別して、【有力説】としています。なお、同じ時代の『家忠日記』には、信康が亡くなった記事はありません。

史料ボックス『当代記』が書く信康の最期

出典
『当代記』天正7年の条(江戸時代初め。『史籍雑纂』第二、1911年)

原文
「遠州堀江へ移、又二股に移給ふ」「九月十五日、於彼地生害し給」

現代語訳
(信康は)遠江の堀江へ移り、また二俣へお移りになった。9月15日、その地で自害なさった。

今の二俣城跡は国の史跡で、石垣や天守台が残っています。ただし、これらは信康が亡くなったあと、天正18年(1590年)以後にこの城に入った堀尾氏のころのものと考えられていて、信康がいたころの城の姿とはちがいます。

介錯をしたのはだれ?服部半蔵の話は本当?

信康の最期について、よく知られているのが「服部半蔵が介錯を命じられたが、泣いて果たせなかった」という話です。介錯(かいしゃく)とは、切腹のときに、本人の苦しみを長引かせないよう最後を手助けする役目のことです。

ところが、記録をくらべると、本によって書かれていることがちがいます。

まず知っておきたいのは、家康の家臣のうち、この話で混同しやすい「半蔵」が2人いることです。服部半蔵正成と渡辺半蔵守綱で、2人は別の人です。江戸幕府の歴史書『徳川実紀』の附録は、「服部半蔵は鬼半蔵、渡辺半蔵は槍半蔵」と呼ばれたという、土地の歌を紹介しています。

記録(書かれた年)二俣城へ遣わされた人介錯した人手が出なかった「半蔵」村正の話
『三河物語』(寛永3年〈1626年〉ごろ)天方山城と服部半蔵書いていない書いていない書いていない
『寛政重修諸家譜』の服部正成の項(1812年ごろ)服部正成が、天方通綱とともにかかわった書いていない書いていない(「本意ではない」と思った、まで)書いていない
『徳川実紀』の附録(19世紀前半。『柏崎物語』という本を引く)立ち会い役として、渡辺半蔵守綱と天方通興天方渡辺半蔵(手がふるえて刀をとれなかった)ある
『改正三河後風土記』(天保8年〈1837年〉)天方通経と服部半蔵正成天方服部半蔵(泣きくずれて手が出なかった)今回の確認では見つからず

※表の「書いていない」は、それぞれの本の信康の最期についての部分を確かめた範囲でのことです。『寛政重修諸家譜』、『徳川実紀』の附録、『改正三河後風土記』は、国立国会図書館の全文検索で読んだものをふくみます。

この表で比べた4つの記録のうち、最も早く書かれた『三河物語』は、天方山城と服部半蔵の2人に命じたと書くだけです。だれが介錯したかも、半蔵が泣いて果たせなかったことも、書いていません。

「半蔵が果たせず、天方が代わりに介錯した」という話は、19世紀の幕府の本や、江戸時代の後のほうの本に出てきます【伝承】。しかも、手が出なかった「半蔵」は、本によって渡辺半蔵だったり、服部半蔵だったりします。

『徳川実紀』の附録には、家康が介錯の刀の作者をたずね、村正だと知って、これからは村正の刀を腰に差さないよう命じた、という話も書かれています【伝承】。

家康が「鬼の半蔵も、主君の子は斬れなかったか」と言ったというせりふもよく紹介されますが、この形の出典は見つかっていません【俗説】。

また、江戸幕府の系図『寛政重修諸家譜』には、服部半蔵正成が、のちに信康をとむらう寺を建てたと書かれています。この寺が、今の東京都新宿区にある西念寺のもとになったと伝わります(墓・首塚)。

マサムネ

有名な話でも、どの本にどう書かれているか、確かめる必要があるんですね。

ケンシン

うむ。この表で最も早く書かれた記録に何があるかを、まず確かめるのが大事だ。

最期のことばは?辞世の句はある?

江戸時代の後のほうの本『改正三河後風土記』(1837年)には、信康が「武田勝頼に味方しようなどとは、思ってもいない。このことだけは父上によく伝えてほしい」と言い残した、と書かれています【伝承】。『徳川実紀』の附録も、信康が最期に言い残したことを、立ち会い役の2人が泣きながら家康に伝えたと書いていますが、その中身は書いていません。

今回確認した資料では、辞世の句(死ぬ前に残す歌)と確かめられる歌は見つかりませんでした【不明】。勝蓮寺の肖像画には、紅葉をよんだ信康の歌とされる短冊がそえられていますが、この歌を辞世の句とする根拠は見つかっておらず、本人が作った歌かどうかも確かめられていません。

岡崎城主として何をした?武田との戦いや人柄

紺色の鎧と鍬形の兜をつけ、采配を持って立つ松平信康のイラスト

画像:鎧姿の信康

12歳で岡崎城主に

元亀元年(1570年)、父の家康は遠江の浜松城へ移り、数え12歳の信康が岡崎城をまかされました【有力説】。このときから、家康は浜松、信康と母の築山殿は岡崎と、別々に暮らすことになります。

若い城主を支えたのは、幼いころからの養育係だった平岩親吉や、家老の石川数正たちでした【有力説】。『三河物語』には、平岩親吉が家康に「軽々しく切腹させれば、きっと後悔なさいます」と言って止めようとした話が書かれています【伝承】。

春の木々の向こうに見える岡崎城の白い天守

画像:岡崎城(愛知県岡崎市)。今の天守は、昭和になってから建て直されたものです。Wikimedia Commons(撮影:来島海峡大橋・CC0)

武田家との戦い

信康は、父とともに武田家との戦いに出陣したと伝えられています。天正3年(1575年)の長篠の戦いについて、『三河物語』は、信康(数え17歳)が父の家康とともに出陣したと書いています【有力説】。

同じ年の9月ごろの話とみられるのが、『三河物語』にある「退き戦(のきいくさ)」の話です【伝承】。『三河物語』によると、家康と信康が遠江の小山城(今の静岡県吉田町)を攻めていると、武田勝頼が助けに現れ、武田軍の一部が大井川を越えてきたため、徳川軍は城の包囲を解いて退いたといいます。

敵に背を向けて退くとき、いちばん危ないのは最後尾です。このとき信康は、「ここからは敵を後ろにして退くのですから、父上が先にお退きください。親を後ろに残して、子が先に退くことなどできません」と言い張りました。家康は「早く退け」と何度も言いましたが、信康がどうしても退かないので、最後は家康が折れて先に退き、信康はそのあとから静かに退いた、と書かれています。

大井川の近くの野原で、必死な顔の松平信康が父の家康に先に退くよう指さしてうながし、家康が心配そうにふり返る漫画のコマ

画像:父・家康に先に退くよううながす信康(『三河物語』が伝える話)【伝承】

史料ボックス『三河物語』の退き戦

出典
大久保忠教『三河物語』下巻(寛永3年〈1626年〉ごろ。Wikisource 所収の国民文庫本)。『三河物語』はこの話を「天正5年」の段に書いていますが、内容から天正3年(1575年)9月の話とみられます【有力説】

原文(一部)
「是寄は敵をあとにして引のき申せば、先上様のかせられ給へ。何方にか親をあとにおき申而、子の身として、先へのく事の御座可有哉」

現代語訳
ここからは敵を後ろにして退くのですから、まず父上がお退きください。どこの世に、親を後ろに残して、子が先に退くことがありましょうか。

事典の『日本大百科全書』も、天正3年(1575年)9月に大井川で武田勝頼と向かい合ったとき、信康が危険の多い殿(しんがり=最後尾の守り)を望んで務めた、と紹介しています。

信康はどんな人?乱暴だった?勇ましかった?

信康の人柄については、ほめる記録と、悪く書く記録の両方があります。

記録書かれていること
『三河物語』(江戸時代初め)「これほどの殿は、また出ないだろう」と信康の死を惜しむ。昼も夜も武勇の話を好み、ほかは馬と鷹のことばかりだった、とも書く
『当代記』(江戸時代初め)父の命令にいつも背き、信長を軽んじ、家来にひどいことをした
『松平記』(江戸時代前期)とても荒々しく、思いやりを知らない人だった(研究者の紹介による)
家康の手紙(8月8日付の写し)信康を「不覚悟」(心がまえが足りない)と書く

乱暴なふるまいをしたという具体的な話は、どれも江戸時代の記録に出てくるもので、本当にあったかは確かめられません【伝承】。一方で、勇ましくりっぱな武将だったという話も、江戸時代の記録によるものです。

研究者の見方も分かれています。黒田基樹氏は、信康のよくないふるまいはおそらく実際にあったと見ています。本多隆成氏は、信康の資質や徳姫との不和に加えて、母の築山殿と連動するような動きがあり、謀反の疑いを受けたと見ています。

マサムネ

勇ましかった話も乱暴だった話も、多くはあとの時代の記録なんですね。

ケンシン

そうだ。家康の手紙の写しのように事件のころの記録もあるが、細かい話の多くは後の時代のものだ。片方だけを信じず、見くらべることが大事だぞ。

信康の墓・首塚はどこ?

信康をまつる場所は、亡くなった二俣城の近く、城主だった岡崎、そして東京にもあります。

場所何がある?所在地
清瀧寺(せいりゅうじ)信康廟。信康を葬ったと伝わる。毎年、現在の暦の9月15日に法要が行われる静岡県浜松市天竜区二俣町
若宮八幡宮(わかみやはちまんぐう)信康の首塚と伝わる塚愛知県岡崎市朝日町
西念寺(さいねんじ)信康の供養塔(新宿区指定史跡)。服部半蔵が信康を弔うために建てた寺がもとと伝わり、半蔵の墓もある東京都新宿区若葉
二俣城跡信康が亡くなった城の跡(国の史跡)静岡県浜松市天竜区二俣町
勝蓮寺(しょうれんじ)信康の肖像画(岡崎市指定文化財)愛知県岡崎市矢作町
浜松市天竜区の清瀧寺にある松平信康の廟の赤い門と、門へ続く石畳の道

画像:清瀧寺の信康廟の門(浜松市天竜区)。Wikimedia Commons(撮影:ホンダ・CC BY-SA 4.0)

清瀧寺は信康の菩提寺(とむらいの寺)です。天正9年(1581年)に家康がお参りし、寺の名を「清瀧寺」と改めたと伝わります【伝承】。信康の法名(亡くなったあとの名前)は記録によって書き方がちがい、この寺の名にちなんで「清瀧寺殿」とも呼ばれました。

岡崎市の若宮八幡宮にある松平信康の首塚。石の塔と玉垣のうしろに「岡崎三郎信康公」と書かれた黒い旗が並ぶ

画像:若宮八幡宮の信康の首塚(愛知県岡崎市)。Wikimedia Commons(撮影:IshizakiA・CC BY-SA 4.0)

岡崎の若宮八幡宮には、信康の首を葬ったと伝わる首塚があります【伝承】。信康の首は信長のもとへ送られ、そのあと岡崎に葬られたと伝わります。

東京都新宿区の西念寺にある松平信康の供養塔。石の柵に囲まれた五輪塔と、新宿区の説明板

画像:西念寺の信康の供養塔(東京都新宿区)。Wikimedia Commons(撮影:故城一片之月・CC BY 3.0)

東京・四谷の西念寺は、服部半蔵正成が信康を弔うために建てた寺がもとになったと伝わります【伝承】。境内には、信康の供養塔と、半蔵の墓があります。

よくある質問

松平信康は何歳で亡くなった?

数え21歳(満20歳)です。永禄2年(1559年)に生まれ、天正7年(1579年)9月15日に亡くなったとされます【有力説】。『三河物語』のように、年や年齢を少しちがえて書く記録もあります。

信康が生きていたという説はある?

「身代わりが葬られて、本人は山の中に逃れた」という言い伝えが、明治時代の本で紹介されたことがあります【伝承】。ただし、今回確認した資料では、この言い伝えを裏づける確かな記録は見つかりませんでした。

服部半蔵と信康の関係は?

江戸時代初めの『三河物語』に、信康のいる二俣城へ遣わされた一人として名前が出てきます。「半蔵が泣いて介錯できなかった」という話は後の時代の本に出てくるもので、本によって半蔵が服部半蔵だったり渡辺半蔵だったりします【伝承】。服部半蔵は、のちに信康をとむらう寺(今の東京都新宿区の西念寺のもと)を建てたと伝わります(くわしく)。

信康の肖像画は本人の顔?

岡崎市の勝蓮寺に伝わる肖像画は、岡崎市が「唯一といわれる肖像画」と紹介するものです。ただし、江戸時代に、信康が亡くなってから時がたって描かれたもので、作者はわからず、本人の顔をそのまま写したものかは確かめられません。

信康と徳姫の仲は悪かった?

江戸時代の記録には、仲が悪くなったという話や、徳姫が信長に信康のことを訴えた話があります【伝承】。ただし、同じ時代の記録では確かめられず、夫婦の仲だけで信康の切腹を説明することはできません(くわしく)。

大河ドラマの信康は史実どおり?

大河ドラマ『どうする家康』(2023年)では、母の瀬名(築山殿)とともに、争いのない国をめざす純粋な若者として描かれましたが、その計画の話はドラマの創作です。母と子が同じ年に命を落としたという結果は、史実と同じです。

まとめ|松平信康とは

松平信康は、徳川家康の長男で、岡崎城の城主として「岡崎三郎」と呼ばれた若い武将です。「徳川信康」とも呼ばれますが、当時の記録では「信康」「岡崎三郎」などと書かれています。

天正7年(1579年)、家康は信康を岡崎城から出し、信康は9月15日に二俣城で数え21歳で切腹したとされます。昔は「信長の命令」とされましたが、家康の側の判断を重くみる研究もあり、本当の理由はわかっていません。

妻の徳姫とのあいだに娘が2人生まれ、その子どもたちを通じて、信康の血は江戸時代の大名家につながりました。服部半蔵や村正の話は、後の時代の本に出てくる言い伝えです。

関係する人物については、築山殿、徳川家康、織田信長、本多忠勝の記事もあわせてどうぞ。

ケンシン

同じ時代の記録に何が書かれ、後の時代の本が何を伝えているのか。それを分けると、信康の本当の姿が少し見えてくる。

マサムネ

服部半蔵の話も、最も早い記録とはちがっていたなんて、びっくりしました!

参考にした史料・この記事の書き方

この記事は、おもに次の記録や資料をもとに書いています。

  • 同じ時代の記録:松平家忠『家忠日記』(文科大学史誌叢書本、1897年。国立国会図書館デジタルコレクション)、岩沢愿彦「家忠日記の原本について」(『東京大学史料編纂所報』第2号。『安土日記』の引用もこの論文による)
  • 後の時代の記録:『当代記』(『史籍雑纂』第二、1911年)、大久保忠教『三河物語』(Wikisource)、林鵞峰ほか『本朝通鑑』、『寛政重修諸家譜』(服部正成の項。国立国会図書館デジタルコレクション)、『東照宮御実紀附録』(『徳川実紀』の附録。『国史大系』第9巻ほか)、成島司直『改正三河後風土記』(『通俗日本全史』第10巻、1912年)。国立国会図書館の全文検索(NDL Lab)で読んだものを含みます
  • 研究・事典:黒田基樹「なぜ徳川家康は正妻と嫡男を自害させたのか」(PRESIDENT Online、2023年4月14日)、本多隆成「徳川家康の決断」(婦人公論.jp、2023年7月2日)、コトバンク(『日本大百科全書(ニッポニカ)』『改訂新版 世界大百科事典』『デジタル版 日本人名大辞典+Plus』『山川 日本史小辞典』など)、レファレンス協同データベース「徳川家康の長男松平信康の子女・女孫の名前と亡くなった年を知りたい。」(岡崎市立中央図書館)
  • 公的な資料:岡崎市「絹本著色徳川信康像」、岡崎市観光協会「若宮八幡宮」「家康公の子どもたち」、浜松市天竜区「清瀧寺で松平信康の法要」、新宿区「新宿ゆかりの人物」、文化遺産オンライン「二俣城跡及び鳥羽山城跡」
  • 画像:肖像画(勝蓮寺蔵。『新編 安城市史1』に載った写真・パブリックドメイン)、岡崎城(来島海峡大橋・CC0)、清瀧寺の信康廟の門(ホンダ・CC BY-SA 4.0)、若宮八幡宮の首塚(IshizakiA・CC BY-SA 4.0)、西念寺の供養塔(故城一片之月・CC BY 3.0)は Wikimedia Commons のものです。地図・家系図・図・漫画・イラストは侍ロードのオリジナルです

記事中のラベルの意味

  • 【史実】同じ時代の史料などで確かめられること(【史実:○○】は、その出どころ)
  • 【有力説】研究者の間で広く受け入れられている見方
  • 【諸説あり】見解が分かれていること
  • 【不明】確かめられる資料が見つかっていないことなど、今わかっていないこと
  • 【伝承】後の時代の記録や言い伝えによる話
  • 【俗説】広まっているが、根拠の確かでない説

「記録にそう書かれていること」と、「書かれた出来事が実際にあったこと」は、分けて考えています。

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