
忍者(にんじゃ)は本当にいたのでしょうか。答えは、「忍び(しのび)」と呼ばれた人たちは、本当にいたです【史実】。
ただ、黒装束の覆面姿で手裏剣を投げる忍者は、江戸時代の芝居などを通じて広まったイメージです【有力説】。
この記事では、記録に出てくる本物の「忍び」と、後の時代に生まれたイメージを分けながら、各地の忍びや有名な忍者、くのいちのことまでお話しさせていただきます。
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わしは上杉ケンシン。今日は忍者の話だ。
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伊達マサムネです! 忍者って、黒い服で手裏剣を投げる人ですよね?
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その姿は、江戸時代の芝居から広まったものなんだ。本物の「忍び」を記録で見ていこう。
ひと目でわかる忍者
知りたいところから読めるように、見出しへのリンクを置いておきます。
- 忍者は本当にいた?いつの時代の人?
- 忍者は何をした?侍とのちがいは?
- くのいちは本当にいた?望月千代女は?
- 伊賀・甲賀だけじゃない?各地の忍びと仕えた大名
- 有名な忍者は実在した?8人の自己紹介
- 忍者の服装は?黒装束は本当?
- 忍者の武器や道具は?記録でわかること
- 上忍・中忍・下忍のちがいは?
- 「忍者」はいつから?呼び名と忍術書の年表
- 忍者は今もいる?資料や体験に出会える場所
- よくある質問
忍者は本当にいた?いつの時代の人?

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1541年の日記に、伊賀衆が城に忍びこんだと書いてある。実際の働きが記録に残っているんだ。
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本物の忍びは、本当にいたんですね!
奈良の興福寺の多聞院(たもんいん)の僧が書いた日記『多聞院日記』には、天文10年(1541年)11月26日の朝、「伊賀衆」が笠置城(京都府笠置町)に忍びこんだと書かれています【史実】。お坊さんの住む建物(坊舎)の一部に、火をつけたことも記されています。
史料ボックス 『多聞院日記』天文10年(1541年)11月26日条
出典
『多聞院日記』(奈良・興福寺多聞院の僧の日記)。字句は、江戸時代後期の『武家名目抄』がこの日記から引いたものによる(辻善之助編『多聞院日記』第1巻〈1935年〉の翻刻も同じ書き出し)
原文(抜粋)
「今朝伊賀衆笠置城忍ヒ入テ少々坊舎放火」
現代語訳
今朝、伊賀衆が笠置城に忍びこんで、少しばかり坊舎(お坊さんの建物)に火をつけた。
この記録からわかること
戦国時代に、伊賀の人たちが城に忍びこむ働きをしていたこと。同じ時代の人が、日記に書き残しています。
「忍び」という言葉は、もっと古い『太平記』(14世紀後半にまとまった、戦を題材にした読み物=軍記)にも出てきます。建武5年(1338年)とされる戦いで、「すぐれた忍びを八幡山に入れた」という場面です【史実:太平記】。ただ、軍記は後からまとめた物語なので、その場面が本当にあったかは分けて考えます【伝承】。
忍びがいちばん活躍したのは、戦国時代です。江戸時代になると、幕府や藩に仕えて、門の番や見張りなどをする役目に変わっていきました【有力説】。
忍者は何をした?侍とのちがいは?

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忍びは身分の名前ではなく、仕事の呼び名だ。侍や足軽、村の人などが、その働きをしたんだ。
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侍と忍者は、別の人たちだと思っていました!
忍びのいちばん大事な仕事は、敵の土地や城、兵糧(食べ物)の様子を探ることでした。ほかにも、夜討ち、火つけ、城の乗っ取り、待ちぶせ、夜の見張りなどをしました【有力説】。

伊賀・甲賀の忍びの多くは、村に住む侍(地侍)でした。戦国大名の軍では、忍びは足軽と同じようにあつかわれ、荒っぽい雇われ者がまじることもありました【有力説】。
江戸時代の「伊賀者」は、将軍に会えない身分の、幕府の下級の武士です【有力説】。「侍か、忍者か」と分けるより、侍や足軽、村の人が「忍び働き」をしたと考えるとわかりやすいでしょう。
くのいちは本当にいた?望月千代女は?

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女の人を屋敷に入りこませる方法は、忍術書に書いてある。でも、女忍者の集団がいた証拠とは別なんだ。
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千代女の話も、後の時代の本から生まれたんですね。
「くノ一」は、「女」という字を「く」「ノ」「一」の3つに分けた、かくし言葉です【有力説】。
江戸時代の忍術書『萬川集海(ばんせんしゅうかい)』には「くノ一の術」が出てきます。男が入りこめない場所に、女の人を奥女中などとして入れ、話を集めさせる方法です【有力説】。これは、女性の忍者そのものを書いたものではありません。
今の作品のような女忍者の確かな記録は、見つかっていません【有力説】。女忍者の意味で「くノ一」が広まったのは、昭和、とくに1960年代の小説からとされます【有力説】。
望月千代女は実在した?
武田信玄に仕えた「くノ一の頭」として知られる望月千代女(もちづき ちよめ)ですが、戦国時代の記録に名前は見当たりません【不明】。
千代女が、巫女(神社などで祈りや祭りにかかわる女性)たちを使って武田家のために話を集めた「くノ一の頭」だった、という話は、1971年の本(稲垣史生『考証日本史』)で書かれたものです【有力説】。
研究者の吉丸雄哉さんは、その話の大部分を憶測と見ていて、平山優さんも「ほぼ架空の人物」としています【有力説】。千代女を女忍者の頭とする話は、近現代の本で広まったものです。
伊賀・甲賀だけじゃない?各地の忍びと仕えた大名

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各地の大名が忍びを使った。ただ、有名な集団の名前には、後の時代の本にしか出てこないものもあるぞ。
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伊賀と甲賀と風魔しか知りませんでした!
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一つずつ見ていこう。枠の形で、話の出どころがわかるようにしてあるぞ。
地図の枠が実線のものは同じ時代の記録に出てくる集団、青い点線は江戸時代の軍記など後の時代の本の話、灰色の点線は出どころが確かめられないものです。
研究者の平山優さんは、武田の三ツ者、伊達の黒脛巾組、上杉の軒猿、北条の風魔一党、織田の饗談などは、ごく一部をのぞいて同じ時代の史料に出てこない、とまとめています【有力説】。
| 呼び名 | 仕えた大名 | 話の出どころ |
| 伊賀衆 | 近くの大名に雇われた・徳川氏 | 同じ時代の記録 |
| 甲賀衆 | 六角氏・徳川氏 | 同じ時代の記録 |
| 風魔(風間) | 北条氏 | 北条氏の文書(小太郎の話は後の本) |
| 透波 | 武田氏 | 『甲陽軍鑑』(江戸時代の初め) |
| 三ツ者 | 武田氏とされる | 『萬川集海』など江戸時代の本 |
| 真田の透波 | 真田氏 | 研究者が史料から紹介(忍び頭の話は後の本) |
| 軒猿 | 上杉氏とされる | 出どころ不明 |
| 黒脛巾組 | 伊達氏 | 『伊達秘鑑』など江戸時代の本 |
| 早道之者 | 弘前藩(江戸時代) | 藩の記録 |
| 饗談 | 織田氏とされる | 忍術書に名前が出るだけ |
| 鉢屋衆 | 尼子氏 | 後の時代の軍記など |
| 世鬼 | 毛利氏とされる | 出どころ不明 |
| 御忍之衆 | 熊本藩(江戸時代) | 藩の記録 |
| 山くぐり | 島津氏とされる | 出どころ不明 |
伊賀衆とは?村の侍がつくった「伊賀惣国一揆」

伊賀衆は、伊賀国(三重県伊賀市・名張市)の村の侍(地侍)たちです。大名の力が届きにくい土地で、侍たちは「伊賀惣国一揆」という集まりを作り、大事なことは話し合いで決めていました【有力説】。
伊賀衆は決まった主君を持たず、近くの国の大名に雇われて働きました。天文10年(1541年)に笠置城に忍びこんだのも、この伊賀衆です【史実】。天正9年(1581年)9月には織田信長の大軍に攻められ、伊賀は制圧されました(天正伊賀の乱)【史実】。
江戸時代には、伊賀出身者やその子孫の一部が幕府の「伊賀者」となり、大奥の門の番や空き屋敷の見回りなどをしました【有力説】。伊賀者をあずかった武将については、服部半蔵の記事でくわしく紹介しています。

画像:伊賀上野城(三重県伊賀市)。今の天守は昭和10年(1935年)に建てられたもの。写真:Asturio Cantabrio(CC BY-SA 4.0/Wikimedia Commons)
甲賀衆とは?話し合いで決めた「甲賀郡中惣」

甲賀衆は、近江国甲賀郡(滋賀県甲賀市・湖南市)の村の侍たちです。「甲賀」は「こうか」と読みます。室町時代には近江の六角氏に属し、53の家があったとされます【有力説】。
甲賀の侍たちも「甲賀郡中惣」という集まりを作り、話し合いで物事を決めました【有力説】。伊賀とは山をはさんだおとなりで、結婚などで結びつきが強く、国境で寄合(話し合い)も開いています【有力説】。三重大学の山田雄司さんは、伊賀と甲賀を宿敵として戦わせる話は作られたものだとしています【有力説】。
天正10年(1582年)6月、本能寺の変のあとの「伊賀越え」では、甲賀の侍が徳川家康を助けたことが文書に残っています【史実】。くわしくは伊賀越えの記事で紹介しています。江戸時代には、甲賀の者の一部が幕府の鉄砲隊「甲賀組」として、江戸城の門を守りました【有力説】。

画像:油日神社(滋賀県甲賀市)の廻廊。甲賀衆が寄合を開いたと伝わる場所。写真:Motokoka(CC BY-SA 4.0/Wikimedia Commons)
風魔とは?北条氏の文書に出てくる「風間」の一団

風魔(ふうま)は、小田原の北条氏に仕えた一団として知られます。北条氏の文書には「風間」という集団が出てきて、最前線で夜の守りなどを受け持っていました【有力説】。
元亀3年(1572年)の文書では、風間を村に置くので、宿や馬の草、薪を用意するよう命じています。別の文書では、百姓の訴えを受けて、風間をその村に置かないことにしました【有力説】。泊まる村に迷惑がられるほど、荒っぽい集団だったようです。
頭の「風魔小太郎」が身長約2.2mの大男で、200人を率いたという話は、江戸時代の『北条五代記』(寛永18年〈1641年〉刊)に出てきます【伝承】。
透波とは?武田信玄が雇った信濃の忍び

透波(すっぱ)は、戦国時代に忍びをさした呼び名の一つです。関東では「乱波(らっぱ)」とも呼ばれ、荒っぽい者もまじっていました【有力説】。
武田家の軍学書『甲陽軍鑑』は、信玄が信濃(長野県)の透波を雇い、裏切らないように妻や子を人質にとって働かせたと書いています【伝承】。『甲陽軍鑑』は江戸時代の初めにまとまった本なので、話の細かいところは確かめられません。
三ツ者とは?武田の忍びという話の根拠は?

三ツ者は、武田信玄の忍びとして知られる名前です。江戸時代の忍術書『萬川集海』(延宝4年〈1676年〉)は、信玄が30人の忍びを3つの役に分け、「三者」と名づけたと伝えます【伝承】。
ただ、戦国時代の確かな記録では裏づけられず、平山優さんも確かな史料には出てこないとしています。「みつもの」という読み方も確かめられません【有力説】。
真田の忍びとは?真田昌幸が使った透波

真田昌幸が多くの透波を使ったことは、確かな史料からうかがえるとされます【有力説】。平山優さんは、昌幸が数百人の透波を送って城を乗っ取ろうとしたり、大きな伏兵で敵をねらったりしたと見ています。
一方、忍び頭の出浦対馬守の話は、江戸時代の終わりの本などに出てくるものです【伝承】。猿飛佐助や霧隠才蔵がいる「真田十勇士」は、明治・大正の物語の人物です【創作】。
軒猿とは?上杉の忍びという話の出どころは不明

軒猿(のきざる)は、上杉謙信の忍びの集団として紹介されることが多い名前です。ただ、上杉家の軍記には見当たらず、だれが言い出したのかはわかっていません【不明】。
江戸時代の忍術書『萬川集海』には「簷猿」とあり、敵の内情を探る役と説明されています【有力説】。江戸時代の軍記『北条記』の一部の本には、北条氏照の配下の物見(偵察する者)を「軒猿」と呼ぶ記述があります【有力説】。
黒脛巾組とは?伊達政宗の忍びとされる50人

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伊達家にも忍びがいたんですね!
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そう伝わっている。ただ、その話は江戸時代の本から出てくるんだ。
黒脛巾組(くろはばきぐみ)は、伊達政宗の忍びとして、江戸時代の伊達家の軍記『伊達秘鑑』などで語られる集団です【伝承】。
人数や具体的な活動は、確かな記録で裏づけられていません。平山優さんも、同じ時代の史料に出てこない集団の一つに挙げています【不明】。
早道之者とは?明治まで続いた弘前藩の忍び

弘前藩(青森県)の津軽家には、「早道之者」という忍びの役目がありました。藩の名簿に約60人の名前があり、活動の一部が藩の日記に書かれています【有力説】。
明治3年(1870年)まで続いたとされ、記録の上では最後のほうの忍びの例です【有力説】。
饗談とは?信長の忍びと伝える『萬川集海』

饗談は、織田信長が大事にした忍びとして、江戸時代の忍術書『萬川集海』に名前が出てきます【伝承】。ほかの記録にはほとんど出てこず、どんな組織だったのかはわかりません【不明】。
鉢屋衆とは?尼子経久の城の取り返しを助けた一団

鉢屋衆(はちやしゅう)は、出雲(島根県)の尼子経久を助けた一団として伝わります。「鉢屋賀麻党」とも呼ばれました【伝承】。
文明18年(1486年)の元日、鉢屋賀麻党が、経久の月山富田城の取り返しを助けたと、後の時代の本は伝えています【伝承】。元日の夜明け前に70人あまりが城に入った、とする本もあります。
世鬼とは?毛利の忍びとされるが出どころは不明

世鬼は、毛利元就の忍びの一族として紹介されることがある名前です。ただ、そう書いたいちばん古い本は見つかっていません【不明】。
毛利方が忍びを使ったこと自体は、吉川元春の手紙(天正6年〈1578年〉とされる)に、織田方の陣所へ忍びを送れるかという話が出てきます【有力説】。
御忍之衆とは?島原の乱で城を探った熊本藩の忍び

熊本藩の細川家には、「御忍之衆」という忍びの集団がいました。頭の吉田助右衛門のもとに名簿があり、忍びの道具を鍛冶屋に作らせた注文書も残っています【有力説】。
寛永14年(1637年)に始まった島原の乱では、原城の様子を探ったことが、細川家の記録からわかっています【有力説】。
山くぐりとは?島津の忍びとされるが出どころは不明

山くぐりは、島津氏の忍びとして紹介されることがある名前です。ただ、出どころの本は見つかっていません【不明】。
九州では、熊本県の相良家の日記『八代日記』に、永禄8年(1565年)5月、忍びが城に火をつけに来て消し止められた、という記録があります【有力説】。
有名な忍者は実在した?8人の自己紹介

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服部半蔵や石川五右衛門は、実在した人だ。でも、猿飛佐助は物語の人物なんだ。
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実在の人と物語の人を分けて見ると、おもしろいですね!
有名な「忍者」には、実在した人、実在がはっきりしない人、物語の人物がまじっています。カードの「人物は?」は本人の記録、「忍者の話は?」は、忍者としての話の出どころです。
服部半蔵は忍者?伊賀者を率いた槍の武将

服部半蔵(正成)は、徳川家康に仕えた実在の武将です【有力説】。槍で戦い、伊賀出身の者たちをあずかって率いました。本人が忍術を使ったと確かめられる記録はありません【有力説】。
「忍者・服部半蔵」のイメージは、昭和30年代の小説や漫画で広まりました【有力説】。くわしくは服部半蔵の記事で紹介しています。
風魔小太郎は実在した?北条五代記の大男

風魔小太郎は、北条氏の乱波(忍び)の頭として、江戸時代の『北条五代記』に出てくる人物です【伝承】。身長は七尺二寸(約2.2m)と書かれています。
北条氏の文書には「風間」の集団が出てきますが、小太郎本人を同じ時代の記録で確かめることはできていません【不明】。小太郎と服部半蔵をライバルとする話は、昭和の漫画などの創作です【創作】。
百地丹波は実在した?後の本に名が出る伊賀の侍

百地丹波(ももち たんば)は、伊賀の有力な侍として、後の時代の本や言い伝えに名前が出てくる人物です【伝承】。事典などでは、伊賀の有力な家を「上忍」と呼ぶことがあります。
江戸時代の伊賀の地誌『三国地誌』には「百地丹波の砦」の名が出てきますが、同じ時代の記録で本人を確かめることはできていません【不明】。物語に出てくる「百地三太夫」と同じ人とする説もありますが、確かではありません【諸説あり】。
石川五右衛門は忍者?記録に残る大泥棒

石川五右衛門は、文禄3年(1594年)8月に京都で処刑された、実在の大泥棒です【史実】。公家の山科言経の日記や、スペインの商人の記録にも出てきます。
五右衛門を「忍術使い」にしたのは、18世紀後半の本や歌舞伎です【有力説】。伏見城に忍びこむ話は、こうした物語から広まりました【創作】。

画像:歌川国貞「東海道五拾三次之内 京 石川五右衛門」。パブリックドメイン(国立国会図書館蔵/Wikimedia Commons)
望月千代女は実在した?「くノ一の頭」は1971年の本から

くのいちの見出しで見たように、千代女の名前は戦国時代の記録に見当たりません【不明】。「くノ一の頭」とする話は、1971年の本から広まったとされます【有力説】。
猿飛佐助は実在した?明治・大正の物語のヒーロー

猿飛佐助は、明治の終わりの講談(語りものの本)で生まれた物語の人物です。明治36年(1903年)の講談の本に、もう名前が出てきます【有力説】。
大正時代に、子ども向けの「立川文庫」で大人気になりました【有力説】。真田幸村の家来の忍術名人として描かれ、名前は孫悟空にあやかったとされます。
霧隠才蔵は実在した?真田十勇士の忍術名人

霧隠才蔵も物語の人物です。明治の終わり(1912年)の講談の本に出てきて、大正3年(1914年)の立川文庫『霧隠才蔵』で人気になりました【有力説】。
加藤段蔵は実在した?「飛び加藤」の物語

加藤段蔵の実在を確かめる記録は、見つかっていません【不明】。知られている逸話は、寛文6年(1666年)刊とされる『伽婢子(おとぎぼうこ)』の「飛加藤」など、江戸時代の物語につながります。上杉謙信の屋敷から長刀を盗む話です【創作】。
「加藤段蔵」という名前は、幕末の本から出てきたとされます【有力説】。
忍者の服装は?黒装束は本当?

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黒も当時はふつうの色の一つだ。でも、黒い覆面姿は芝居で広まったんだ。
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案内役の黒装束の忍者さんも、芝居の姿なんですね!
本物の忍びは、ふだんは目立たない服を着ていました。三重大学の山田雄司さんは、夜は紺や茶色の仕事着、昼は旅芸人や僧に変装したと説明しています【有力説】。
江戸時代の忍術書『正忍記』(延宝9年〈1681年〉)には、虚無僧・出家・山伏・商人・放下師(大道芸人)・猿楽師・ふだんの姿という7つの変装「七方出」が書かれています【有力説】。服の色は茶・柿・黒・紺とあり、黒もふつうの色の一つでした。
黒装束に覆面の姿は、江戸時代の歌舞伎などで、遠くの客にも「忍びの役」とひと目でわかるようにした衣装から広まったとされます【有力説】。


画像:葛飾北斎『北斎漫画』六編(文化14年〈1817年〉)に描かれた、縄をのぼる忍び。パブリックドメイン(Wikimedia Commons)
忍者の武器や道具は?記録でわかること

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忍びが手裏剣を使ったという確かな記録は、見つかっていない。忍術書に多いのは、火薬や、登る・開ける道具なんだ。
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水蜘蛛は、浮き具として使ったという説があるんですね!
『萬川集海』は道具を、登る道具・水の道具・開ける道具・火の道具に分けています。火の道具だけで200種類をこえます【有力説】。
水蜘蛛は、両足にはいて水の上を歩く道具だと思われてきましたが、座って使う浮き具だったと考える研究があります【諸説あり】。昭和の本の図が、もとの忍術書にない鼻緒を書き足したことで、「水の上を歩く」イメージが広まりました【有力説】。

画像:甲賀市くすり学習館に展示されている鉄まり・まきびし・苦無。写真:Motokoka(CC BY-SA 4.0/Wikimedia Commons)
忍者は手裏剣を使った?
手裏剣そのものは本当にあり、武術の流派で、おもに武士が使いました。ただ、忍びが手裏剣を使ったという確かな記録や、忍術書に使い方を書いた所は見つかっていません【有力説】。
「忍者といえば手裏剣」のイメージは江戸時代の歌舞伎から、星形の平たい手裏剣は昭和の本から広まったとされます【有力説】。
道具ごとの使い方や忍術書の絵、本物の忍びが注文した道具の一覧は、忍者の武器・道具図鑑の記事で紹介しています。
上忍・中忍・下忍のちがいは?

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上忍・中忍・下忍という全国共通の三つの階級は、昔の記録では確認できないんだ。
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上忍は、いちばん偉い忍者ではないんですか?
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山田雄司さんは、上忍は腕のいい忍びのことだったようだと説明しているぞ。身分とは分けて見よう。
今の漫画やゲームでは、上忍が作戦を立て、中忍が指揮をし、下忍が動く、という三つの階級がおなじみです。ですが、同じ時代の記録や忍術書に、身分の区分としては出てきません【有力説】。
三重大学の山田雄司さんは、「あくまで術が上手い人を『上忍』と呼んでいたようです」と話しています【有力説】。一方で、何人かの「忍び頭」が下の忍びをまとめる仕組みはありました。熊本藩の御忍之衆にも頭がいました【有力説】。
実際の忍びの立場は、戦国時代なら村の侍や足軽、江戸時代なら幕府や藩の下級の武士でした【有力説】。
「忍者」はいつから?呼び名と忍術書の年表

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当時の呼び名は「忍び」だ。「にんじゃ」と読むのが広まったのは、昭和30年代なんだ。
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忍術書も、戦国時代ではなく江戸時代の本なんですね。
戦国時代には、「忍び」のほかに、透波(すっぱ)・乱波(らっぱ)・草(くさ)・かまりなど、地方によってさまざまな呼び名がありました【有力説】。慶長8年(1603年)に出た日本語とポルトガル語の辞書『日葡辞書』にも、「Xinobi」が戦のときに城や陣に入りこんで様子を探る者として出てきます【史実】。
「忍者(にんじゃ)」という呼び方が広まったのは、昭和30年代の小説や漫画からです【有力説】。
忍術書『萬川集海』とは?だれが書き、何が書かれている?
江戸時代になって戦がなくなると、忍びの技を伝えるために忍術書がまとめられました【有力説】。三大忍術書とされるのは、『萬川集海』(延宝4年〈1676年〉)、『正忍記』(延宝9年〈1681年〉)、『忍秘伝』(承応4年〈1655年〉にまとめたとされる)です。
『萬川集海』は全22巻で、伊賀の藤林保武がまとめたとされます【有力説】。中身は、心がまえ(正心)、忍びを使う大将の心得(将知)、姿を見せて入りこむ術(陽忍)、姿をかくして入りこむ術(陰忍)、天気や時刻を読む術(天時)、道具(忍器)に分かれています。はじめの「正心」では、心を正しくし、自分の欲のために術を使わないことを説いています【有力説】。
ただ、平和な江戸時代にまとめた本なので、書かれた方法がすべて戦国時代に使われたとは限りません。

画像:滋賀県甲賀市の「忍の里プララ」に展示された『萬川集海』。写真:Motokoka(CC BY-SA 4.0/Wikimedia Commons)
江戸時代の物語では、忍者は大蛇やガマを操る妖術使いとしても描かれました。『児雷也豪傑譚』(天保10年〈1839年〉〜)の児雷也が、その例です【創作】。

画像:歌川国芳「盗賊地雷也」(安政2年〈1855年〉)。パブリックドメイン(国立国会図書館蔵/Wikimedia Commons)
忍者は今もいる?資料や体験に出会える場所

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幕府や藩に仕える忍びの役目は、明治への移り変わりの中でなくなった。でも、博物館などで本物の資料に出会えるぞ。
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伊賀や甲賀に行ってみたくなりました!
職業としての忍びは、江戸時代の終わりとともになくなりました【有力説】。記録の上では、弘前藩の早道之者が明治3年(1870年)まで続いたとされます【有力説】。

今「最後の忍者」と呼ばれる人もいますが、流派の教えを受け継いだと名乗る人で、昔の忍びの家とのつながりを外から確かめる資料はありません【不明】。
伊賀流忍者博物館(三重県伊賀市)では、からくり屋敷や忍術の実演、手裏剣打ちの体験ができます(2026年10月に公式サイトで確認)。三重大学は伊賀市に国際忍者研究センターを置いて、忍者の研究を続けています。
甲賀市には、甲賀流忍術屋敷や甲賀の里 忍術村などがあります。伊賀市と甲賀市は、日本遺産「忍びの里 伊賀・甲賀―リアル忍者を求めて―」にも認定されています(2017年)。

画像:甲賀流忍術屋敷(滋賀県甲賀市)。写真:Mocchy(パブリックドメイン/Wikimedia Commons)
よくある質問
忍者は暗殺者だった?
忍びのいちばん大事な仕事は、敵の様子を探る情報集めでした。忍びが暗殺をしたという確かな証拠は少ない、と見る研究者が多いです。
忍者と侍は戦った?
忍び働きをした人が、敵方の侍と戦うことはありました。ただし、忍びは侍と別の身分ではなく、侍自身が忍び働きをすることもありました。
忍者の給料は高かった?
三重大学の山田雄司さんは、忍びの給料は高くなく、戦国時代は働きに応じて支払われたと見ています。江戸時代の伊賀者も、幕府の下級の武士でした。
忍者は「ござる」「にんにん」と話した?
「にんにん」のような忍者だけの掛け声は、昔の記録では確かめられていません。「ござる」は昔からある言葉ですが、忍びだけの話し方ではありません。
忍者の日はいつ?
2月22日です。「ニン(2)ニン(2)ニン(2)」の語呂合わせです。
まとめ|忍者は本当にいた?
まとめ
- 「忍び」は本当にいて、天文10年(1541年)の日記に、伊賀衆が城に忍びこんだと書かれています。
- 仕事は、敵の様子を探る、城に忍びこむ、夜討ちなど。侍や足軽、村の人が忍び働きをしました。
- 黒装束の覆面姿や「忍者といえば手裏剣」、女忍者、上忍・中忍・下忍の階級は、後の時代の作品で広まったイメージです。
- 各地の忍びの集団には、同じ時代の記録に出てくるものと、後の時代の本にしか出てこないものがあります。
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記録の中の忍びと、物語の忍者。分けて見ると、どちらもずっとおもしろくなるな。
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伊賀越えや服部半蔵の記事も読んでみます!
伊賀の者たちと家康の話は伊賀越えの記事、伊賀者を率いた武将の話は服部半蔵の記事で紹介しています。
参考にした史料・この記事の書き方
この記事は、おもに次の記録や資料をもとに書いています。
- 同じ時代の記録:『多聞院日記』(辻善之助編、第1巻、1935年)、『信長公記』、『日葡辞書』(1603年)、北条氏の文書(『小田原市史』史料編による紹介)、『八代日記』・吉川元春の書状(平山優『戦国の忍び』の引用による)
- 後の時代の本:『太平記』、『甲陽軍鑑』、『北条五代記』(1641年刊)、『萬川集海』(1676年)、『正忍記』(1681年)、『伊達秘鑑』、『武家名目抄』
- 研究:山田雄司さんのインタビュー「深化する三重大学の忍者研究」(三重大学、2021年)・「『忍び』の本領」(nippon.com、2023年)、平山優「戦国時代の忍びの実像」(『忍者研究』3号、2020年)・『戦国の忍び』(角川新書、2020年)、吉丸雄哉「望月千代女伝の虚妄」(『忍者の誕生』勉誠出版、2017年)・「軒猿のはなし」(三重大学国際忍者研究センター、2021年)、上田哲也「熊本藩細川家の忍び」(『忍者研究』3号、2020年)
- 公的な資料:国立国会図書館 電子展示「本の万華鏡 第33回 NINJA 虚像(エンタメ)と実像(ホンモノ)」(2023年)、伊賀流忍者博物館・三重大学国際忍者研究センター(公式サイト、2026年10月閲覧)、観光庁 多言語解説文データベース(甲賀市の解説)
- 画像:伊賀上野城(Asturio Cantabrio・CC BY-SA 4.0)、油日神社の廻廊・まきびしと苦無・萬川集海の展示(Motokoka・CC BY-SA 4.0)、甲賀流忍術屋敷(Mocchy・パブリックドメイン)、葛飾北斎『北斎漫画』・歌川国貞・歌川国芳の浮世絵(パブリックドメイン)は Wikimedia Commons のものです。地図は国土地理院の地理院地図をもとにしています。
記事中のラベルの意味
【史実】同じ時代の史料などで確かめられること(【史実:○○】は、その記録にそう書かれていること)【有力説】研究者の間で広く受け入れられている見方【諸説あり】見解が分かれていること【不明】確かめられる資料が見つかっていないことなど、今わかっていないこと【伝承】後の時代の記録や言い伝えによる話【創作】小説や物語のために作られた話
「記録にそう書かれていること」と、「書かれた出来事が実際にあったこと」は、分けて考えています。
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