
斎藤義龍(さいとう よしたつ)は、戦国時代に美濃(今の岐阜県南部)を治めた大名です。「美濃のまむし」と呼ばれた斎藤道三の長男で、弘治2年(1556年)、長良川の戦いで父・道三の軍を破りました。
その後の約5年、義龍は美濃を治め、将軍家から高い地位を認められて、晩年には「一色(いっしき)」の名字を名のりました【有力説】。道三の娘婿だった織田信長は、義龍が生きているあいだ、美濃を取ることができませんでした。しかし義龍は、永禄4年(1561年)に病気で亡くなります。
この記事では、義龍が何をした人なのか、死因と亡くなった年齢、父と戦った理由を解説します。
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わしは上杉ケンシン。今日は斎藤道三の息子、斎藤義龍の話だ。
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伊達マサムネです! お父さんを倒した人ですよね。
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そう見られがちだが、国の治め方では研究者の評価が高い人物なのだ。
ひと目でわかる斎藤義龍
知りたいところから読めるように、主な見出しへのリンクを置いておきます。
- 斎藤義龍とは何をした人?
- 斎藤義龍の死因は?いつ・何歳で亡くなった?
- 『豊臣兄弟!』の斎藤義龍は?『麒麟がくる』の高政との違い
- 斎藤義龍はなぜ父・道三と戦った?
- 斎藤義龍の身長は197cm?話の出どころは?
- 斎藤義龍と織田信長・明智光秀の関係は?
- 斎藤義龍は有能だった?政治の仕組みと一色への改姓
- 斎藤義龍の家系図は?母・妻・息子の龍興
- よくある質問
記事の中の【史実】【有力説】などのラベルは、その話がどれくらい確かかを示しています(意味は記事の最後にまとめています)。
斎藤義龍とは何をした人?
ひと言でいえば、斎藤義龍は「父・道三を倒して美濃の主となり、約5年のあいだ国をまとめ、信長に美濃を取らせなかった大名」です。本拠は稲葉山城(のちの岐阜城)でした。
義龍の一生を、大きな流れで見るとこうなります。
- 家をつぐ:天文23年(1554年)ごろ、父・道三から斎藤家をつぐ
【有力説】 - 弟を討つ:弘治元年(1555年)、父にかわいがられていた弟2人を討つ
- 父を破る:弘治2年(1556年)、長良川の戦いで父・道三の軍を破る
- 国を治める:重臣たちの連名の文書で国を動かし、幕府から「相伴衆」の待遇を得る。晩年は「一色」を名のる
- 信長と対立:道三の娘婿の信長と争い、生きているあいだ美濃を守る
- 病死:永禄4年(1561年)、病気で亡くなる
| 項目 | 内容 |
| 名前 | 呼び名は新九郎。名前は利尚 → 范可 → 高政 → 義龍。晩年は一色義龍(くわしく) |
| 生まれた年 | 大永7年(1527年)説と享禄2年(1529年)説がある【諸説あり】 |
| 父 | 斎藤道三【有力説】(「土岐頼芸の子」という話は後の時代のもの。くわしく) |
| 母 | わかっていない【不明】 |
| 本拠 | 稲葉山城(のちの岐阜城)【史実】 |
| 亡くなった日 | 永禄4年(1561年)5月11日【有力説】 |
| 死因 | 病死(何の病気かは不明) |
| あとつぎ | 息子の龍興(たつおき) |

画像:斎藤義竜像。岐阜市の常在寺に伝わる肖像画で、国の重要文化財です。Wikimedia Commons(パブリックドメイン。長浜市長浜城歴史博物館『戦国大名浅井氏と北近江』〈2008年〉の図版から)
岐阜県の解説によると、この肖像画は義龍が亡くなったあと、13回忌か17回忌の供養のために、元気だったころの姿を描かせたものと考えられています。亡くなった日付「永禄四年…五月十一日」と、出家したあとの名「雲峯玄竜居士」が書きこまれています。
ちなみに、「斎藤義龍」は今いちばん知られた呼び方ですが、本人は時期によって「范可」「高政」と名のり、晩年は「一色義龍」と名のっていました。名前の移り変わりは有能だった?の章の図でまとめています。
斎藤義龍の死因は?いつ・何歳で亡くなった?
結論からいうと、斎藤義龍は永禄4年(1561年)5月11日、病気で亡くなりました。病気で亡くなったことは、同じ時代の京都の僧の記録にも書かれています【有力説】。日付は、常在寺の肖像画に書きこまれた日付などによります【有力説】。
ただし、何の病気だったかは、今回確かめた当時の記録には書かれていません【不明】。インターネットなどでは死因についてさまざまな説明が見られますが、もとの記録ごとに分けると、次のようになります。
記録は義龍の死をどう書いた?
| 記録(だれが・いつ) | 書かれていること | 読むときの注意 |
| 『厳助往年記』(京都・醍醐寺の僧の記録。同じ時代) | 「美濃の稲葉山の主・長井が病死したそうだ」 | 永禄4年の6月の項にある伝え聞きの記事。「稲葉山の主・長井」を義龍とみると、その病死を伝える同じ時代の記録になる【有力説】。亡くなった日や病名は書かれていない |
| 快川紹喜(かいせん じょうき)の手紙(美濃の禅僧。同じ時代) | 義龍の「不慮の死(思いがけない死)」 | 快川は義龍と対立して国を出ていた僧で、その死を天の罰ではないかと書いた。書き手の見方で、医学的な説明ではない |
| 太田牛一『大かうさまくんきのうち』(自筆本は1610年ごろ) | 同書は、義龍と妻や子が、狐がとりついたとされる奇妙な病気で亡くなったと伝える | 『信長公記』の作者の別の本。親を討った報いの話として書いている。医学的な病名を示す記述ではない |
| 江戸時代の本(『濃陽諸士伝記』など) | 「病におかされて亡くなった」 | 病名は書かれていない |
手がかりになるのは、同じ時代の『厳助往年記』と快川の手紙です。ただし、『厳助往年記』の記事は人づてに聞いた話で、快川の手紙には義龍と対立した側の見方が入っています。『厳助往年記』は病死を伝え、快川の手紙は「思いがけない死」と表現しています。今回確認した記述からは、病名や、病気になってから亡くなるまでの期間はわかりません。
太田牛一の本は、道三と義龍の話を「親を討った者には報いがある」という教訓の例として書いています。妻や子も同じころに亡くなったという話も、この本はこう伝えている、という扱いになります。
斎藤義龍は何歳で亡くなった?
生まれた年が、大永7年(1527年)説と享禄2年(1529年)説に分かれるため、亡くなったときの年齢も数え35歳説と数え33歳説があります【諸説あり】。数え35歳は江戸時代の本『濃陽諸士伝記』などに見られます。一方、研究者の木下聡氏の研究を紹介する解説では、数え33歳とされています。
数え年は、生まれた年を1歳とし、お正月がくるたびに1歳ずつ足す数え方です。今の満年齢でいえば、30代の前半で亡くなったことになります。父・道三を破ってから、わずか5年後のことでした。
病名がわからないのはなぜ?ハンセン病説は?
今回確かめた同じ時代の記述は「病死」「思いがけない死」と書くだけで、症状の説明がありません。後の時代の本には、単に病気とするものや、狐がとりついたと語るものがありますが、病名を判断できる内容ではありません。そのため、病名は今もわかっていません。
インターネットなどでは「ハンセン病だった」という説も見かけます。しかし、今回確かめた史料では、その説を裏づける記述は見つかりませんでした【俗説】。
補足:ハンセン病について
- ハンセン病は「らい菌」による感染症ですが、うつる力は弱く、今は治療法が確立している病気です
- 国の隔離政策のもとで、患者だけでなく家族も、長く厳しい偏見や差別に苦しんできました
- 病気を、その人の行いや「罰」と結びつけることはできません(厚生労働省「ハンセン病に関する情報ページ」による)
辞世の言葉は?
江戸時代の本には、義龍が最期に残したとされる禅の言葉(辞世)がのっています【伝承】。ただし、本人が実際に残した言葉かは、当時の記録では確かめられていません。
史料ボックス 義龍の辞世とされる言葉
出典
『濃陽諸士伝記』など江戸時代の本(国立国会図書館デジタルコレクションによる)
引用
「三十余年 守護人天 刹那一句 仏祖不伝」
前半の現代語訳
三十年あまり、人間と天上の神々を守ってきた。
後半について
「刹那の一句」と、それを仏や祖師も伝えないことを言う部分です。解釈には幅があるため、ここでは前半の意味を紹介しています
言葉の説明
「人天(にんでん)」は、人間と天上の神々を指す仏教の言葉です
義龍が亡くなったあと、美濃はどうなった?
義龍のあとをついだのは、息子の龍興(たつおき)でした。このとき数え14歳だったとされます【有力説】。

画像:数え14歳で家をついだ龍興
『信長公記』によると、義龍の死の2日後の5月13日、信長は木曽川・飛騨川を舟で渡って西美濃へ攻めこみ、翌14日、森部(今の岐阜県安八町)で美濃の軍と戦って勝ちました。信長のもとを追い出されていた前田利家が、この戦いで手柄を立てて、信長に許されたことでも知られます(前田利家の記事)。
ここまではわかる/ここからはわからない
- わかる:永禄4年(1561年)に病気で亡くなったこと。その直後に信長が美濃へ攻めこんだこと
- わからない:何の病気だったか。生まれた年と、亡くなったときの正確な年齢
『豊臣兄弟!』の斎藤義龍は?『麒麟がくる』の高政との違い
2026年の大河ドラマ『豊臣兄弟!』では、第1回(2026年1月4日放送)から、斎藤義龍が信長の暗殺をたくらむ美濃の大名として物語にかかわります。
この話のもとになったと考えられるのが、『信長公記』の「刺客」の話です。信長が京へ上ったとき、美濃から来た5〜6人の主だった者たち(お供を合わせて30人ほど)が「信長を討つために上ってきた」と話し、鉄砲で撃つ相談までしていたのを、清洲の那古野弥五郎の家来・丹羽兵蔵が見抜いた、という話です。ただし、『信長公記』には、刺客を送った人の名前は書かれていません。義龍が送ったとする解説が多いのですが、記録から言い切ることはできません。この出来事は永禄2年(1559年)とされますが、『信長公記』のこの段には年も書かれていません。
ちなみに、史実の義龍が亡くなるのは、この話から2年ほどあとの永禄4年(1561年)です(くわしく)。
2020年の大河ドラマ『麒麟がくる』に出てきた「斎藤高政」は、義龍と同じ人です。義龍は若いころ「高政」と名のっていたとみられ、ドラマではこの名前が使われました。
斎藤義龍はなぜ父・道三と戦った?
義龍は天文23年(1554年)ごろ、父の道三から家をつぎました【有力説】。ただ、道三はその後も力を持ち続けたとみられ、親子の間にはみぞができていきました。
『信長公記』は、対立のきっかけを次のように書いています。
- 道三は、長男の義龍を「ぼんやり者」と思いこみ、弟の孫四郎・喜平次ばかりを「かしこい」と大事にした
- 三男の喜平次には、名門の名字「一色」を名のらせた
- 弟たちは、兄の義龍を軽く見るようになった
義龍はこれに対し、思い切った手を打ちます。『信長公記』によると、義龍は天文24年(1555年)10月13日から重い病気のふりをして、館の奥にこもりました。そして、年号が弘治に変わったあとの弘治元年11月22日、道三が山のふもとの屋敷へ移ったすきに、一族の長井道利を使いにして、「もう長くないので、ひと言話したい」と弟2人を呼び寄せ、家臣に討たせました。
この年は閏10月(10月が2回ある年)があったので、病気のふりは2か月あまり続いたことになります。

画像:病気のふりをして、長井道利に弟たちへの伝言をたのむ義龍
長良川の戦いで父・道三を破る
弟たちが討たれたことを知った道三は、兵を集めて稲葉山を出て、北の山県(今の岐阜県山県市)の山中へ退きました。太田牛一は、国中の武士がみな義龍のもとへ集まり、道三の兵はしだいに少なくなった、と伝えています。
そして弘治2年(1556年)4月20日、両軍は長良川のほとりで戦いました。『信長公記』によると、義龍方の一番手が川を渡って攻めかかり、続いて義龍自身が大軍で川を越えました。『信長公記』は、この戦いで道三が討ち取られたと伝えています。ただし、道三を討ったのは義龍の家臣で、義龍自身が手を下したわけではありません。戦いの流れは斎藤道三の記事でくわしく紹介しています。
道三は最後に義龍をほめた?
太田牛一の別の著作『大かうさまくんきのうち』には、『信長公記』にはない話がのっています。川を渡ってくる義龍の軍の見事な動きを見た道三が、思わず義龍をほめた、というのです。
史料ボックス『大かうさまくんきのうち』の道三の言葉
出典
太田牛一『大かうさまくんきのうち』(自筆本は慶應義塾大学蔵で、慶長15年〈1610年〉前後の成立と推定されています。ここでは奥田尚氏の論文〈2011年〉の翻刻によりました)
引用(一部)
「さすか、たうさんかこにて候。みののくに、おさむへきもの也」
現代語訳
さすが道三の子だ。美濃の国を治めるべき者だ。
この記録からわかること・わからないこと
牛一は、道三がさらに「わしがまちがっていた」と言い、聞いた者がみな涙を流した、とも書いています。ただし、『信長公記』にはこの話がなく、研究者の奥田尚氏は、牛一が書き加えた可能性も指摘しています。道三が本当にこう言ったかはわかりません
次の漫画は、この『大かうさまくんきのうち』の話をもとにした場面です【伝承】。

画像:長良川で、川を渡ってくる義龍の軍を見て感心する道三
「范可(はんか)」という名前のなぞ
『信長公記』は、長良川で父を討ったあと、義龍は「范可」と名のった、と書いています。昔の中国に、父を討ったのに孝行とされた「范可」という人がいた、というのが牛一の説明です。そのうえで牛一は、義龍のしたことは親不孝だ、と厳しく評しています。
ところが、『岐阜市史』(1928年)が紹介する、美江寺(岐阜市)にあてた弘治元年(1555年)12月の禁制(寺を守るための決まりを書いた文書)には、すでに「范可」の名があります。翌年の長良川の戦いより前、弟を討った直後のことです。どちらかを「うそ」と決めつけることはできませんが、少なくとも文書の上では、父との戦いの前からこの名を使っていたことになります。

画像:岐阜市美江寺町の美江寺。『岐阜市史』(1928年)は、「范可」の名がある禁制をこの寺の文書として紹介しています。Wikimedia Commons(撮影:先従隗始・CC BY-SA 4.0)
義龍は本当は道三の子ではない?
「義龍は、本当は道三の主君・土岐頼芸の子だった」という話があります。母の深芳野が、頼芸の子を身ごもったまま道三に与えられた、というものです。しかし、これは江戸時代の本に出てくる話です【俗説】。
江戸時代の初め(1630年ごろ)には、美濃の古老の間で「土岐殿の子か道三の子か疑わしい」という話がすでに語られていたことが、寛文9年(1669年)の『乙夜之書物』からわかります。ただ、それだけで生まれを確かめることはできません。一方、義龍が生きていた永禄3年(1560年)に近江の大名・六角承禎が書いた手紙は、義龍を道三の子として扱っています。
ここまではわかる/ここからはわからない
- わかる:義龍が弟2人を討ち、長良川の戦いで父・道三の軍を破ったこと
- わからない:道三が本当に義龍をほめたかどうか。親子それぞれが本当は何を考えていたか
斎藤義龍の身長は197cm?話の出どころは?
義龍は「身長197cmの大男だった」とよくいわれます。もとになっているのは、江戸時代の逸話集『武将感状記』です。そこには、義龍の母は背が六尺(約182cm)ほどもあり、義龍は六尺四、五寸(約194〜197cm)あった、と書かれています【伝承】。寛政3年(1791年)ごろの『翁草』も、同じ話を「六尺五寸(約197cm)」として書いています。
岐阜城の解説(観光庁の多言語解説文)でも「197cm」と紹介されていますが、もとはこうした江戸時代の本の話で、実際に測った記録ではありません。今回確かめた範囲では、義龍が生きていた時代の記録に身長のことは出てきません【不明】。

画像:部屋の入り口で身をかがめる大男の義龍(江戸時代の本が伝える話)
同じ本には、義龍は見た目はぼんやりしているようで、じつはとても賢く、家臣をいたわって人の心をつかんだ、とも書かれています【伝承】。
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197cmって、今のバスケットボールの選手みたいですね!
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ただし江戸時代の本の話で、測った記録があるわけではないぞ。
斎藤義龍と織田信長・明智光秀の関係は?
信長は、道三の娘(濃姫)の夫です。つまり義龍にとって信長は、妹の夫であり、父・道三の味方をした相手でした。長良川の戦いのとき、信長は道三を助けに出陣しましたが間に合わず、義龍方に追われながら、自ら最後尾を守って尾張へ引き上げています(『信長公記』)。
その後も、義龍と信長は対立を続けました。記録には、次のような話が出てきます。
- 信長の腹ちがいの兄・織田信広と申し合わせ、信長が出陣したすきに清洲城をうばう計画を立てた。信長が気づいて失敗した(『信長公記』。年は書かれていない)
- 尾張の岩倉城の織田伊勢守と結んで、信長と争った
【有力説】 - 信長が京にいたとき、美濃から刺客が来た(『信長公記』。送り主の名前は書かれていない。くわしく)

画像:稲葉山城から尾張の方角をにらむ義龍
信長は義龍を恐れていた?
「信長は義龍を恐れていた」と書く解説もありますが、今回確かめた資料では、そう書いた当時の記録は見つかりませんでした。記録から言えるのは、義龍が生きているあいだ、信長は美濃を取れなかったということです。
義龍が亡くなると、信長はその2日後に西美濃へ攻めこみました(森部の戦い)。それでも美濃攻めには時間がかかり、稲葉山城が落ちたのは、龍興の時代の永禄10年(1567年)でした【有力説】。信長はこの地を「岐阜」と名づけ、天下統一への拠点にします(織田信長の記事・稲葉山城の記事)。

画像:長良川と金華山。山頂には、稲葉山城の跡に建つ今の岐阜城(昭和に再建された天守)が見えます。Wikimedia Commons(撮影:そらみみ・CC BY-SA 3.0)
明智光秀との関係は?
江戸時代の本『美濃国諸旧記』には、長良川の戦いのあとの弘治2年(1556年)9月、道三についた明智光安(光秀のおじとされる人)が明智城にこもり、義龍の軍に攻められて城が落ち、光秀は城をのがれた、という話があります【伝承】。
ただし、光秀の動きを確実にたどれる史料として知られているのは、永禄9年(1566年)の文書からです。それより前に、光秀が美濃で義龍とどうかかわったかは、当時の記録ではわかりません【不明】。くわしくは明智光秀の記事をどうぞ。

画像:岐阜県可児市の明智城址公園にある石碑。碑には「弘治2年(1556年)斎藤義竜により落城」と刻まれていますが、これは江戸時代の本などが伝える話です。Wikimedia Commons(撮影:KKPCW・CC BY-SA 4.0)
ここまではわかる/ここからはわからない
- わかる:義龍と信長が対立し、義龍が生きているあいだは信長が美濃を取れなかったこと
- わからない:刺客を送ったのが義龍だったかどうか。義龍と光秀のかかわり
斎藤義龍は有能だった?政治の仕組みと一色への改姓
結論からいうと、義龍の国の治め方は、研究者から高く評価されています【有力説】。事典にも「織田信長の侵攻をよく防いだ」と書かれています(『日本人名大辞典』)。評価されている点は大きく3つ、うまくいかなかったことが1つあります。

画像:斎藤義龍の年表(『信長公記』『厳助往年記』などをもとに侍ロード作成)
①重臣たちの連名の文書で国を動かした
義龍の時代には、6人の重臣が、連名で文書を出して政治を担っていたことが、研究で知られています【有力説】。日根野弘就・竹腰尚光・日比野清実・長井衛安・桑原直元(のちの氏家卜全)・安藤守就の6人です。義龍一人の命令だけにたよらず、重臣たちがまとまって国を動かす仕組みだったとみられます。
父を討って国の主になった義龍にとって、重臣たちをまとめることは何より大切だったはずです。

画像:重臣6人の連名の文書をととのえる義龍
②将軍家から高い待遇を得た
義龍は、京都の朝廷や幕府とのつながりを強め、次のような地位を得ました。朝廷の官職と、幕府での待遇は別のものです。
| 年 | 得た地位 | どんなもの |
| 弘治4年/永禄元年(1558年) | 治部大輔(じぶのたいふ) | 朝廷の官職【有力説】 |
| 永禄2年(1559年)4月 | 相伴衆(しょうばんしゅう) | 幕府での高い待遇。将軍の宴などに同席できる、格の高い家にだけ許された【史実】 |
| 永禄4年(1561年)2月 | 左京大夫(さきょうのだいぶ) | 朝廷の官職。肖像画にも「前左京兆(もと左京大夫)」と書かれている【有力説】 |
相伴衆については、京都の醍醐寺の僧の記録『厳助往年記』に、「美濃の道三の子・斎藤が相伴衆を許され、代理の者が京へ上ってお礼を納めた」とあります。この記事で京へ上ったと書かれているのは代理の者で、義龍本人ではない点に注意が必要です。父を討った義龍が、幕府から大名として認められたことを示す出来事でした。
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同じ年の同じ月、越後のわし(長尾景虎)も京へ上っておる。義龍とは同じころに、将軍家とのつながりを深めていたのだな。

画像:相伴衆に加えられたという知らせに喜ぶ義龍
③なぜ「一色」と名のった?
義龍は晩年、名字を斎藤から「一色(いっしき)」に変えました。永禄12年(1569年)の公家の日記『言継卿記』は、亡き義龍を「故一色義龍」と書いています【史実】。
一色氏は、足利将軍家の一族の名門で、美濃の守護だった土岐氏より格が上とされていました。理由ははっきり書き残されていませんが、研究者の木下聡氏は、土岐氏をこえる立場を示すためだったとみています。江戸時代の本には、道三との関係を断つためだったと説明するものもあります【伝承】。ただし、本人が理由を書き残した記録は確認できません。重臣たちの名字も一色家の家臣の名字に変えさせたといわれ、桑原直元が「氏家」になったのはその一例です。
一色を名のり始めた正確な時期は、今回確認した資料だけでは確定できません。
名前の移り変わり

画像:斎藤義龍の名前の移り変わり(『信長公記』、『岐阜市史』〈1928年〉、岐阜県の解説などをもとに侍ロード作成)
「斎藤義龍」は今いちばん知られた呼び方ですが、本人がこの組み合わせで名のったことはない、とみる研究者もいます。若いころの「高政」は、ドラマ『麒麟がくる』の役名にも使われました。
うまくいかなかったこと:別伝の乱
義龍は、別伝(べつでん)という禅僧を重んじ、城下の近くに伝灯護国寺(以下、伝灯寺)という寺を建てて、別伝を、寺を開いた僧として迎えました。これを「開山」といいます。そして永禄3年(1560年)12月、美濃の禅寺をすべて伝灯寺の下に置くよう命じました【有力説】。国の寺々を自分の信頼する寺のもとにまとめ、国の支配を固めるねらいがあったとみられます。
ところが、快川紹喜ら美濃の禅僧たちはこれに強く反発し、国の外へ出ていってしまいます。京都の妙心寺も別伝を認めませんでした。合戦ではありませんが、国の大事な寺々を敵に回したこの騒ぎは「別伝の乱(別伝騒動)」と呼ばれます。義龍は将軍に願って伝灯寺の格を上げようとしましたが、実現しないうちに亡くなりました。

画像:禅寺をまとめる命令に反対して国を出る禅僧と、困る義龍
ここまではわかる/ここからはわからない
- わかる:重臣たちが連名で文書を出していたこと。幕府から相伴衆の待遇を得たこと。晩年に「一色」を名のったこと。禅寺をまとめる命令で禅僧たちと対立したこと
- わからない:「一色」を名のり始めた時期と、そのはっきりした理由
斎藤義龍の家系図は?母・妻・息子の龍興

画像:斎藤義龍の家系図(実線はこの図で採用した親子・結婚の関係、点線は確かさに注意が必要な関係です。侍ロード作成)
義龍の父は斎藤道三です。弟には、義龍に討たれた孫四郎・喜平次がいました。妹には、織田信長の正室になった女性(濃姫)がいます。
母は、当時の記録ではわかっていません【不明】。江戸時代の本には、土岐頼芸の側室だったとされる「深芳野(みよしの)」とする説と、家臣の稲葉一鉄の姉妹とする説があります【伝承】。
妻については、浅井氏の娘とする説や、太田牛一が書く「一条家の娘」などがあります【諸説あり】。「近江の方」という名で紹介されることもありますが、江戸時代の本でこの名が出てくるのは息子の龍興の妻としてで、義龍の妻の名とする根拠は確かめられませんでした。義龍が亡くなったあと、永禄12年(1569年)には義龍の未亡人が生きていて、信長から茶つぼを差し出すよう求められたことが、公家の日記に書かれています(濃姫の記事)。
息子・龍興のその後
義龍のあとをついだ龍興は、数え14歳で斎藤家の当主になりました【有力説】。しかし、永禄7年(1564年)には家臣の竹中半兵衛らに稲葉山城を一時乗っ取られ(竹中半兵衛の記事)、永禄10年(1567年)には信長に稲葉山城を落とされて、美濃を失います。
その後も龍興は信長と戦い続け、越前(今の福井県)の朝倉義景をたよりましたが、天正元年(1573年)、越前で討ち死にしました。
斎藤義龍の子孫は?
大名としての斎藤家の本家は、龍興の死で途絶えました。今につながる義龍の子孫は、今回の資料では確認できませんでした。
墓・ゆかりの地
斎藤家の菩提寺(先祖の供養をする寺)は、岐阜市梶川町の常在寺です。義龍の肖像画(国の重要文化財)が伝わり、ふだんは複製が見られます。

画像:岐阜市梶川町の常在寺の本堂。Wikimedia Commons(撮影:杉山宣嗣・CC BY-SA 4.0)
| 場所 | 今あるもの | 義龍とのかかわり |
| 常在寺(岐阜市梶川町) | 本堂・斎藤家の五輪塔・肖像画(ふだんは複製) | 斎藤家の菩提寺。義龍の肖像画が伝わる |
| 稲葉山城(岐阜市・金華山) | 岐阜城の天守と城跡 | 義龍の本拠【史実】。岐阜市によると、天守は耐震化工事と展示リニューアルのため令和8年(2026年)5月19日から休館中で、令和9年(2027年)10月末まで続く予定 |
| 美江寺(岐阜市美江寺町) | 寺と山門 | 「范可」の名がある禁制が伝わったとされる寺 |
| 明智城跡(可児市) | 城跡公園と石碑 | 義龍の軍に攻められたと伝わる【伝承】 |
| 森部(安八町) | 森部川古戦場薬師堂 | 義龍の死の直後に、信長と美濃の軍が戦った場所 |
ここまではわかる/ここからはわからない
- わかる:父が道三で、息子の龍興があとをついだこと。妹が信長に嫁いだこと
- わからない:母と妻がだれだったか
よくある質問
斎藤義龍の読み方は?
「さいとう よしたつ」です。「斎藤義竜」と書かれることもあります。
斎藤義龍はいつ死んだ?
永禄4年(1561年)5月11日に、病気で亡くなりました。西暦の日付に直すと、1561年6月23日(ユリウス暦)です(くわしく)。
斎藤義龍の家紋は?
今回確かめた資料では、義龍が使った家紋を示す当時の記録や持ち物は見つかりませんでした
【不明】。父・道三の家紋として知られる「二頭立波」も、道三が使ったことを確かめられる根拠は見つかりませんでした(道三の家紋)。
斎藤義龍の辞世の句は?
江戸時代の本に、義龍の辞世とされる禅の言葉が伝わっています
【伝承】。本人が実際に残した言葉かは確かめられていません(くわしく)。
『麒麟がくる』の斎藤高政は義龍?
同じ人です。義龍は若いころ「高政」と名のっていたとみられます。ただし、ドラマの中の人間関係には創作が多くふくまれます(くわしく)。
斎藤義龍の墓はどこ?
斎藤家の菩提寺は岐阜市の常在寺で、境内に斎藤家の五輪塔があります。ただし、義龍一人の墓の場所をはっきり示す公的な資料は見つけられませんでした(くわしく)。
斎藤義龍の肖像画はある?
あります。岐阜市の常在寺に伝わる「斎藤義竜像」が、父・道三の肖像画とともに国の重要文化財になっています。亡くなったあとに描かれたものと考えられています(くわしく)。
まとめ|斎藤義龍とは
斎藤義龍は、斎藤道三の長男で、弘治2年(1556年)の長良川の戦いで父の軍を破り、美濃を治めた大名です。父を討ったことで知られますが、その後の約5年は、重臣たちの連名の文書で国を動かし、幕府から相伴衆の待遇を得て、晩年は名門「一色」を名のりました。
道三の娘婿の織田信長は、義龍が生きているあいだ美濃を取れませんでした。しかし義龍は、永禄4年(1561年)5月11日、病気で亡くなります。何の病気だったかは、今回確かめた当時の記録には書かれていません。
「父を討った悪役」として描かれることの多い義龍ですが、記録をたどると、短い期間で国をまとめた大名の姿が見えてきます。
関係する人物については、斎藤道三、濃姫、織田信長、明智光秀、竹中半兵衛、前田利家の記事もあわせてどうぞ。
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父を討った人物だが、国を治める力は確かだったようだな。
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もう少し長生きしていたら、信長の歴史も変わっていたかもしれませんね……。
参考にした史料・この記事の書き方
この記事は、おもに次の記録や資料をもとに書いています。
- 同じ時代の記録:『厳助往年記』(『史籍集覧』所収。国立国会図書館デジタルコレクションによる)、快川紹喜の手紙(『岐阜市史』1928年の引用による)、美江寺あての禁制(同)、『言継卿記』、六角承禎条目写(草津市の解説による)
- 亡くなったあとの資料:常在寺の斎藤義竜像の墨書(岐阜県の解説による。後の供養のために描かせたものと考えられています)
- 少しあと・後の時代の記録:太田牛一『信長公記』首巻(Wikisource の明治14年の活字本による)、太田牛一『大かうさまくんきのうち』(奥田尚氏の論文の翻刻による)、『乙夜之書物』(萩原大輔氏の論文による)、『濃陽諸士伝記』『美濃国諸旧記』『武将感状記』『翁草』(国立国会図書館デジタルコレクションによる)
- 研究:奥田尚「版本『天正軍記』の斉藤道三と義龍の物語」(『アジア学科年報』4号、追手門学院大学、2011年)、萩原大輔「『乙夜之書物』に記された「斎藤道三の国盗り」伝承」(『加賀藩研究』12号、2022年)、『岐阜市史』(1928年)、木下聡『斎藤氏四代』(2020年)の見方は研究の紹介による、『日本人名大辞典』(コトバンク)
- 公的な資料:岐阜県「斎藤道三像・斎藤義竜像」、観光庁 多言語解説文データベース「岐阜城の歴代城主 4 斎藤義龍」、草津市「怒りの手紙が明かしたあの人の意外なプロフィール」(2020年)、厚生労働省「ハンセン病に関する情報ページ」、岐阜市「岐阜城天守閣の長期休館のお知らせ」(2026年5月15日)、文化庁 国指定文化財等データベース「大かうさまくんきのうち」、岐阜県観光連盟・岐阜観光コンベンション協会の案内
- ドラマについて:大河ドラマ『豊臣兄弟!』第1回の放送内容の報道(2026年1月)
- 画像:斎藤義竜像(パブリックドメイン)、美江寺(先従隗始・CC BY-SA 4.0)、岐阜城の遠景(そらみみ・CC BY-SA 3.0)、明智城跡の石碑(KKPCW・CC BY-SA 4.0)、常在寺の本堂(杉山宣嗣・CC BY-SA 4.0)は Wikimedia Commons のものです。年表・名前の図・家系図・漫画・イラストは侍ロードのオリジナルです
記事中のラベルの意味
【史実】同じ時代の史料などで確かめられること(【史実:○○】は、その出どころ)【有力説】研究者の間で広く受け入れられている見方【諸説あり】見解が分かれていること【不明】確かめられる資料が見つかっていないことなど、今わかっていないこと【伝承】後の時代の記録や言い伝えによる話【俗説】広まっているが、根拠の確かでない説【ドラマの創作】ドラマや物語のために作られた話
「記録にそう書かれていること」と、「書かれた出来事が実際にあったこと」は、分けて考えています。後の時代にまとめられた記録に書かれていることは、その記録の名前を本文で示し、すべてを【史実】とは扱っていません。
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