一の谷形の高い兜と金色の鎧を身につけ、采配を持って立つ竹中半兵衛のイラスト

画像:(肖像画を参考にした竹中半兵衛のイメージイラスト。この記事のイラストはすべてイメージです)

豊臣秀吉がまだ「羽柴秀吉」と名乗っていたころ、そのそばで知恵をしぼった武将——それが竹中半兵衛(たけなか はんべえ)です。本当の名前(実名)は「竹中重治(しげはる)」といいます。

黒田官兵衛と並ぶ「秀吉の二人の軍師」として有名ですが、数え年36歳の若さで陣中で亡くなったこともあり、同じ時代の記録がとても少ない人物です。わたしたちが知っている「天才軍師・半兵衛」の話の多くは、江戸時代以降に作られました。

この記事では、死因、黒田官兵衛との関係、人柄、子孫、墓まで、同じ時代の記録で確かめられる話と、後の時代に生まれた話を分けて解説します。

ケンシン

わしは上杉ケンシン。今日の主役は、若き日の秀吉を支えた知恵者だ。人気は抜群だが、じつは記録の少ない、謎の多い男でもある。

マサムネ

伊達マサムネです! 官兵衛様の記事で、松寿丸を救った話が後の時代のものだと知って驚きました。半兵衛様の話は、どこまで本当なんですか?

ケンシン

よい問いだ。今日は「わかること」と「わからないこと」の境目を、一つずつ確かめていこう。

竹中半兵衛とはどんな人?名前・人物像・基本情報

扇と数珠を持って座る竹中重治(半兵衛)の肖像画

画像:竹中家に伝わった竹中重治(半兵衛)の肖像画(部分)

ひと言でいえば、竹中半兵衛は「織田家から秀吉の部隊に付けられ、調略(敵を説得して味方に引き入れること)や城攻めで秀吉を支えた美濃の武将」です。

ひと目でわかる竹中半兵衛

  • 1544年に美濃(岐阜県)で生まれ、1579年、三木城攻めの陣中で病死しました(数え年36歳)【史実】
  • 敵の武将を説得して城を手に入れる交渉で手柄を立てたことが、信長の伝記『信長公記』に記録されています【史実:信長公記】
  • 「天才軍師」の有名な話の多くは、江戸時代の軍記物や講談で作られたものです【有力説】

人柄がわかる3つのポイント

  • 力より交渉:同じ時代の記録に残る手柄は、城を力ずくで落とした話より、相手を説得して味方にした話が中心です【史実:信長公記】
  • 欲のない人として語られる:秀吉が領地を増やす約束の書状をくれようとしたのに「いりません」と破り捨てた、という話が江戸時代の本に残っています【伝承:『武功雑記』】
  • 見た目はおだやか:「その容貌、婦人の如し」(女性のようにやさしい顔立ち)と書いた本があります【伝承:『太閤記』など】

知りたいところから読めるように、主な見出しへのリンクを置いておきます。

基本プロフィール(早わかり表)

項目内容信憑性
生没年1544年〜1579年【史実】
出身地美濃国の大御堂城(岐阜県揖斐郡大野町)【有力説】
名前半兵衛(通称)/重治(実名)/重虎(若いころの名)【有力説】
主君斎藤義龍・龍興 → 織田信長(秀吉の与力として働く)【有力説】
居城菩提山城(岐阜県不破郡垂井町)【有力説】
妻得月院(安藤守就の娘)【有力説】
子ども竹中重門【史実】
家紋九枚笹(くまいざさ)・黒餅(こくもち)【有力説】
死因・享年病死(病名は不明)・36歳(数え年)【史実】

名前と読み方|重治・半兵衛・「今孔明」

「竹中半兵衛」と「竹中重治」は同じ人物です【史実】。「半兵衛」はふだんの呼び名(通称)、「重治(しげはる)」が本当の名前(実名)で、若いころは「重虎(しげとら)」と名乗っていたとされます【有力説】。

中国の三国時代の名軍師・諸葛孔明になぞらえて「今孔明(いまこうめい)」と呼ばれることもあります。ただし、このあだ名がいつから使われるようになったのかは、はっきりしません【不明】。

半兵衛の話は、どこから来ている?

半兵衛について書かれたものは、信用できる度合いがちがう4種類に分けられます。この記事では、それぞれの話がどれにあたるかを示しながら紹介します。

半兵衛の話の出どころ(史料の種類)

  • ① 同じ時代の記録:信長の家臣・太田牛一がまとめた『信長公記』や、寺に残る文書など。いちばん信用できますが、半兵衛が出てくるのは数か所だけです
  • ② 息子が書いた本:子の竹中重門が1631年に書いた秀吉の伝記『豊鑑(とよかがみ)』。身内が書いた記録です
  • ③ 江戸時代の軍記物や家の記録:『太閤記』(1625年ごろ)、『竹中家譜』、『黒田家譜』(1688年)、逸話集など。半兵衛の死から50年以上たってから書かれたものがほとんどです
  • ④ 講談・浄瑠璃・小説:人を楽しませるための物語(創作)。「天才軍師・半兵衛」のイメージの多くは、ここで作られました

有名な話の多くは③と④に出てくるもので、①の記録はわずかです。「半兵衛の実像はよくわかっていない」といわれるのは、このためです【有力説】。

竹中半兵衛の死因は結核?何歳で亡くなった?最期についてわかること

采配を持ってあぐらをかき、少し目をふせた竹中半兵衛のイラスト

結論

  • 1579年6月13日(天正7年)、播磨の三木城(兵庫県三木市)を攻める陣中で病死しました【史実】
  • 亡くなったときの年齢は数え年で36歳(今の数え方では34〜35歳)です【史実】
  • 病名は記録に書かれておらず、わかっていません。「結核だった」というのは後の時代の推測です【諸説あり】

根拠:『信長公記』、渡邊大門「史料から読み解く秀吉を支えた天才軍師・竹中半兵衛の最期とは?」(Yahoo!ニュース エキスパート)、池内昭一編『竹中半兵衛のすべて』(1996年)

『信長公記』に書かれているのは「陣中で病死」だけ

半兵衛の死を伝える同じ時代の記録が、信長の家臣・太田牛一がまとめた『信長公記』です。そこには、秀吉の与力だった竹中半兵衛が「播州御陣にて病死」した——播磨(兵庫県)の陣中で病気で亡くなった——とだけ書かれています【史実:信長公記】。

どんな病気だったのか、どんな症状があったのかは書かれていません。歴史学者の渡邊大門さんも、長く病気だったのか、急に亡くなったのかさえわからない、と指摘しています。

「結核(労咳)だった」という説はどこから?

半兵衛の死因としてよく挙げられるのが結核(当時の呼び方では「労咳(ろうがい)」)です。日本大学教授で医学者の早川智さんは、当時の一次資料は少ないと前置きしたうえで、結核を患っていた可能性が高いと推測しています【諸説あり】。

ただし、『信長公記』をはじめ、この記事で確認した記録には症状が書かれていないため、結核だったと決めることはできません【不明】。「半兵衛=結核」は、あくまで有力な推測の一つと考えておきましょう。

根拠:プレジデントオンライン掲載の早川智(日本大学教授・医学者)の記事(2026年)

「病弱だった」というイメージはどこから?

半兵衛は「体が弱かった」と紹介されることがよくあります。これは、江戸時代の『太閤記』や『常山紀談』などに、体が細くて弱く、見た目が女性のようだった(「その容貌、婦人の如し」)という話が出てくるためです【伝承:『太閤記』『常山紀談』】。同じ時代の記録で確かめられる話ではありません。

若くして陣中で亡くなったことも、「病弱な天才軍師」というイメージを強めたと考えられます。

最期の言葉「陣中で死ぬのが武士の本望」

病が重くなった半兵衛に、秀吉は京都で養生するようすすめました。しかし半兵衛は「陣中で死ぬことこそ武士の本望」と言って断った——という話があります【伝承:『竹中家譜』】。

これは竹中家の系譜『竹中家譜』に出てくる話で、後の時代にまとめられたものです。そのまま事実とはいえませんが、半兵衛が最後まで三木城攻めの陣にいたことは『信長公記』の記録と合っています。また、亡くなる前に「三木城は兵糧攻めで落とすべき」と秀吉に進言した、という話も知られていますが、出どころははっきりしません【俗説】。

マサムネ

結核だと思っていました…。病名も書かれていないんですね。

ケンシン

記録にないことは「わからない」と言うのが誠実というものだ。わからぬからこそ、人は物語を作りたくなるのだがな。

黒田官兵衛との関係|松寿丸を救った逸話はどこまで確認できる?

陣中で地図を広げた机をはさみ、話し合う竹中半兵衛と黒田官兵衛のイラスト

画像:(陣中で作戦を話し合う半兵衛と官兵衛のイメージ)

結論からいうと、半兵衛と官兵衛は同じ時期に秀吉を支えた仲間で、後の時代に「両兵衛(りょうべえ)」「二兵衛」と並び称されるようになりました【有力説】。ただし、一緒に働いたのはおよそ1年です。有名な「半兵衛が官兵衛の息子を救った話」は後の時代の本が出どころで、記録で確かめられるのは、むしろ息子たちの代のつながりです。

根拠:『信長公記』(1577年の福原城攻め)、『黒田家譜』(1688年)、竹中重門と黒田長政の関ヶ原での陣跡

竹中半兵衛・竹中重門と黒田官兵衛・黒田長政のつながりを示した図

画像:竹中家と黒田家のつながり(侍ロード作成)。画像をタップ(クリック)すると拡大できます

本人どうし:一緒に働いたのは約1年

2人が同じ戦場にいたことは『信長公記』で確かめられます。1577年11月、秀吉の播磨攻めで、半兵衛は官兵衛とともに福原城(佐用城・兵庫県佐用町)を攻めました【史実:信長公記】。

しかし翌1578年の秋、官兵衛は荒木村重の有岡城に閉じこめられ、半兵衛は、官兵衛がまだ牢の中にいた1579年6月に亡くなります。2人が並んで秀吉を支えたのは、およそ1年でした。この記事で確認した範囲では、2人がどれほど親しかったのかを直接示す同じ時代の記録は見当たりません【不明】。

官兵衛の生涯については、黒田官兵衛の記事でくわしく紹介しています。

松寿丸の逸話:最初に出てくるのは1688年の『黒田家譜』

有名なのは次の話です。1578年、有岡城に入ったまま戻らない官兵衛を、信長は「裏切った」と考え、人質としてあずかっていた官兵衛の息子・松寿丸(のちの黒田長政)を殺すよう命じました。ところが半兵衛は、にせの首を差し出して松寿丸をかくまい、自分の領地で守った——というものです。

この話が最初に出てくるのは、半兵衛の死から100年以上たった1688年に、黒田家がまとめた『黒田家譜』です。同じ時代の記録では確かめられず、後の時代に生まれた話の可能性が高いとする見方が、研究者の間で多数になっています【伝承:『黒田家譜』】。

くわしくは、黒田官兵衛の記事の「竹中半兵衛との関係」をご覧ください。

次の世代:息子どうしは関ヶ原で並んで戦った

関ヶ原の黒田長政・竹中重門陣跡の石碑

画像:関ヶ原の戦いの「黒田長政・竹中重門陣跡」(岐阜県関ケ原町)。写真:立花左近(CC BY-SA 3.0/Wikimedia Commons)

記録でたどれるのは、子どもたちの代のつながりです。半兵衛の息子・竹中重門と、官兵衛の息子・黒田長政は幼なじみだったとされます【有力説】。1600年の関ヶ原の戦いで、重門ははじめ西軍に属していましたが、井伊直政の仲立ちで東軍に移り、本戦では長政の隊とともに戦いました【史実】。関ケ原町には、2人の陣跡を示す石碑がいっしょに建っています。

さらに、重門の子の一人・竹中重次は、長政との縁で福岡藩の黒田家に重臣として仕えました【有力説】。黒田家が使った「黒餅(こくもち)」の家紋は竹中家から譲られた、という言い伝えもあります【伝承】。

ただし、息子どうしの交流は、父親どうしが親しかったことや、松寿丸を救った話が本当だったことの証明にはなりません。「次の世代に確かなつながりがあった」ことと「救出の話が事実だった」ことは、分けて考える必要があります。

ケンシン

父の代の友情は確かめられずとも、子の代では関ヶ原で肩を並べた。これもまた縁よな。

マサムネ

息子さんたちが幼なじみで、いっしょに関ヶ原で戦っていたなんて知りませんでした!

人柄がわかる逸話|記録と伝承を分けて紹介

高い兜と鎧を身につけ、采配を持ってほほえむ竹中半兵衛のイラスト

半兵衛の人柄を伝える話はたくさんありますが、同じ時代の記録に残るものはごくわずかです。ここでは、記録で確かめられる話と、後の時代の本に出てくる話を分け、出どころを示しながら紹介します。

同じ時代の記録に残る話

  • 交渉で城を手に入れ、信長から銀100両:1578年、宇喜多方の備前八幡山城(岡山県)の城主を説得して寝返らせました。半兵衛は京都で信長に報告し、ほめられて銀子100両を与えられています【史実:信長公記】
  • 鳳凰をかたどった花押:亡くなる1579年に使っていた花押(サイン)は、「千年おおとり」(千年生きるという鳳凰)の文字を形にした、とても珍しいものでした【史実】。信長の「麟」の字の花押と同じように、平和への願いがこめられているともいわれます【諸説あり】
竹中半兵衛の花押「千年おおとり」

画像:竹中半兵衛の花押「千年おおとり」(佐藤進一『花押を読む』より/Wikimedia Commons)

刀や槍の武勇伝ではなく、「説得で城を手に入れた」ことが信長の伝記に書き残されているのは、半兵衛らしいところです。

後の時代の本に出てくる話(言い伝え)

次の話は、江戸時代以降の本や逸話集に出てくるもので、同じ時代の記録では確かめられません【伝承】。それでも、後の時代の人が半兵衛を「どんな人」だと思っていたのかがよくわかります。

  • わざと安い馬に乗った:秀吉に「その身分で、その貧相な馬はないだろう」と言われると、「名馬だと、盗まれるのが惜しくて馬を降りられず、戦う機会をのがします。いつでも乗り捨てられる馬がよいのです」と答えた【伝承:『名将言行録』】
  • 加増の約束状を破り捨てた:秀吉が領地を増やす約束の書状を渡そうとすると、「こんなものがあると、いつか息子が『父はここまでしてもらったのに』と殿を恨む種になります」と言って破った【伝承:『武功雑記』】
  • 息子に「軍談の席を立つな」:戦の話を聞かせている最中に、トイレに立った幼い息子を叱り、「たとえもらしてでも、軍談の席を立ってはならない。竹中の子が話に聞き入って座敷を汚したと言われるなら、むしろ家の誉れだ」と言った【伝承:『武辺咄聞書』】
  • 見た目は女性のよう:体が細く、顔立ちが女性のようで、戦場でも静かに馬に乗っているだけだった【伝承:『太閤記』『常山紀談』】

欲がなく、見栄より実を取り、子どもには武士の心がまえをきびしく教える——後の時代の人々が思い描いた半兵衛は、そんな「意外とまじめで、無欲な人」だったようです。

作り話とされる話:官兵衛の約束状を燃やした

官兵衛が、秀吉の約束した加増がいつまでも実行されないと不満を言いに来たとき、半兵衛がその約束状を取り上げて燃やし、「こんなものがあるから不満が生まれるのです」とさとした——という話も有名です。しかし歴史学者の高柳光寿は、同じような話が伊達政宗にも伝わることから、作り話にちがいないとしています【創作】。

ことわざ「知らぬ顔の半兵衛」の由来

知っているのに知らないふりをすることを「知らぬ顔の半兵衛」といいます。この「半兵衛」は、一説には竹中半兵衛のことだとされます。ただし、元になった話は、江戸時代の人形浄瑠璃『木下蔭狭間合戦(このしたかげはざまかっせん)』(1789年)などのお芝居の中で作られたもので、史実ではありません【創作】。

ケンシン

欲のない男だった、という話が多いのはおもしろい。後の人は、半兵衛に「無欲の名軍師」の姿を重ねたのだろう。

マサムネ

安い馬の話、合理的でかっこいいです! でも、言い伝えなんですね。

稲葉山城の乗っ取りはどこまで確認できる?

遠くの山城を背に、地図を前にして考えこむ竹中半兵衛のイラスト

画像:(遠くの山城を見すえて策をねる半兵衛のイメージ)

半兵衛の名を一気に有名にしたのが、主君・斎藤龍興の居城だった稲葉山城(のちの岐阜城)の乗っ取りです。

結論

  • 1564年2月、半兵衛は妻の父・安藤守就とともに稲葉山城を占拠しました【有力説】
  • 占拠は少なくとも7月末ごろまで続き、8月ごろには龍興の側に取り返されたとみられます【有力説】
  • 「わずかな人数で乗っ取った」「顔に小便をかけられた仕返し」などの細かい話は、後の時代の本に出てくるものです【伝承】

根拠:『敬念寺文書』(占拠が7月まで続いていたことを示す寺の文書)、勝俣鎮夫「美濃斎藤氏の盛衰」(『岐阜県史 通史編 原始・古代・中世』1980年)

確かめられること

1564年(永禄7年)2月6日、半兵衛は舅(妻の父)の安藤守就の軍勢とともに稲葉山城を襲い、龍興の側近だった斎藤飛騨守らを討って、龍興を城から追い出しました【有力説】。寺に伝わる『敬念寺文書』から、この占拠が7月末ごろまで続いていたことがわかります【史実:敬念寺文書】。

その後、城は龍興の側に戻ります。江戸時代の本では「龍興をいさめるために城を奪い、目的を果たしたので返した」と美談として語られますが、半年ほど争いが続いていたことから、龍興を支える勢力に攻められて手放した、とみるのが自然だとされています【有力説】。

後の時代に加わった話

江戸時代の本には、次のような話が出てきます。見た目がおとなしい半兵衛は斎藤家の家臣たちにあなどられ、龍興のお気に入りだった斎藤飛騨守に、城の櫓の上から顔に小便をかけられた。数日後、半兵衛は城にいた弟の看病を口実に、武具を隠した箱を運びこんで城に入り、飛騨守を斬って城を乗っ取った——【伝承】。乗っ取った人数を「16人」などとする話もあります。

痛快な話ですが、いずれも後の時代の本に出てくるもので、同じ時代の記録では確かめられません。

マサムネ

小便をかけられた仕返し…! ドラマみたいな話ですね。

ケンシン

うむ、話としてはおもしろすぎる。おもしろすぎる話ほど、出どころを確かめるのだ。

生涯と功績|簡潔な年表

年(西暦)年齢※できごとひとことメモ
1544年1美濃の大御堂城(岐阜県大野町)で生まれる父は竹中重元
1559年16父とともに菩提山城(垂井町)に移る父が築いた山城
1560年ごろ17家督を継ぎ、斎藤家に仕える父の死去または隠居による
1564年21稲葉山城を占拠半年ほどで手放す
1567年24斎藤家がほろび、浅井長政のもとに身を寄せる約1年で去り、岩手(垂井町)に戻る
1570年27秀吉の与力になる『豊鑑』に記録
1573年30息子・重門が生まれるのちの『豊鑑』の作者
1577年34秀吉の播磨攻めに加わり、官兵衛と福原城を攻める『信長公記』に記録
1578年35備前八幡山城を寝返らせ、信長から銀子100両秋、官兵衛が有岡城に幽閉される
1579年36三木城攻めの陣中で病死6月13日

※年齢は数え年(生まれた年を1歳とし、正月ごとに1つ年をとる数え方)です。

秀吉の家臣になったのはいつ?「三顧の礼」は本当?

斎藤家がほろんだあと、半兵衛は浅井長政のもとに身を寄せましたが、1年ほどで去り、故郷の岩手(垂井町)に戻りました【有力説】。

1570年、織田軍が浅井氏を攻めたとき、秀吉が「美濃の竹中氏らを与力にほしい」と信長に願い出て許された、と息子の重門が書いた『豊鑑』にあります【有力説:『豊鑑』】。このことから、半兵衛は秀吉の家臣になったのではなく、織田家から秀吉の部隊に付けられた「与力(よりき)」だったと考えられています【有力説】。弟の重矩と同じように、まず信長に召し抱えられ、そのうえで秀吉の下についた、という見方もあります【諸説あり】。

一方、「秀吉が隠れ住む半兵衛のもとに3度通い、ついに家臣にした」という三顧の礼の話は有名ですが、中国の『三国志演義』で劉備が諸葛孔明を3度訪ねた話を当てはめたものだと指摘されています【創作】。

ケンシン

秀吉が、孔明を口説く劉備か。うまくできすぎておるな。

播磨攻めでの働き

1577年からの秀吉の播磨(兵庫県)攻めでは、官兵衛とともに福原城を攻め【史実:信長公記】、翌1578年には宇喜多方の備前八幡山城を調略で手に入れて、信長から銀子100両を与えられました【史実:信長公記】。信長の伝記にこうした手柄が書き残されていることから、半兵衛が秀吉の部隊の中で重要な立場にいたのは間違いない、とみる研究者もいます【有力説】。

そして翌1579年、別所長治がこもる三木城を囲む陣の中で、半兵衛は亡くなりました。三木城が落ちたのは、その半年あまり後の1580年1月のことです【史実】。

妻・得月院と息子・竹中重門

妻・得月院|安藤守就の娘

半兵衛の妻は、西美濃の有力な武将・安藤守就(あんどう もりなり)の娘で、仏門での名前を得月院(とくげついん)といいます【有力説】。稲葉山城の占拠を半兵衛とともに行ったのが、この妻の父・守就でした。

ただ、得月院自身の本名や生まれた年、半兵衛の死後の暮らしなどは、くわしい記録が少なく、わからないことの多い人物です【不明】。

息子・竹中重門|秀吉の伝記『豊鑑』の作者

石垣の上に建つ竹中氏陣屋跡の白壁の櫓門

画像:竹中氏陣屋跡の櫓門(岐阜県垂井町)。重門が築いた屋敷の門が残っています。写真:Monami(CC BY-SA 3.0/Wikimedia Commons)

息子の竹中重門(しげかど、1573〜1631年)は、父が亡くなったとき、まだ7歳(数え年)でした。一族の竹中重利の後見を受けて秀吉に仕え、小牧・長久手の戦いや小田原攻め、朝鮮出兵にも加わっています【史実】。

1600年の関ヶ原の戦いでは、先に書いたとおり東軍として長政の隊とともに戦いました。戦場となった自分の領地では、家康から戦死者の首塚を造ることや、傷んだ寺社の修理を命じられています。また、伊吹山に逃げていた西軍の小西行長をとらえ、家康のもとに送ったのも重門です【史実】。

重門は、山の上の菩提山城にかわって麓に屋敷(のちの竹中氏陣屋)を築き、関ヶ原の戦いのあとも、旗本としてこの岩手(垂井町)の領地を認められました【有力説】。晩年の1631年には、秀吉の伝記『豊鑑(とよかがみ)』を書きあげています【史実】。父の主君だった秀吉の姿を、息子が書き残したことになります。

ケンシン

半兵衛が秀吉の与力になったいきさつも、この息子の本に書かれておる。半兵衛の名が今に伝わるのは、この息子のおかげでもあるな。

子孫は今もいる?家系の続きと確認できる範囲

竹中重元から竹中半兵衛・竹中重門を経て明治時代までの竹中家の家系図

画像:竹中半兵衛の家系図(侍ロード作成)。画像をタップ(クリック)すると拡大できます

結論

  • 竹中家は、江戸幕府の旗本として幕末まで続き、明治時代に士族となりました【史実】
  • ただし江戸時代の途中で他家から養子を迎えており、竹中家の当主がずっと半兵衛の血を引いているとは言い切れません【有力説】
  • 現在も「子孫」として紹介される家はありますが、本サイトでは系図などで確かめられていません【不明】

根拠:松田敬之『〈華族爵位〉請願人名辞典』(吉川弘文館・2015年)、大森映子『お家相続 大名家の苦闘』(角川選書・2004年)

江戸時代〜明治:旗本「交代寄合」として続いた

重門の家は、江戸幕府の旗本として岩手(垂井町)の領地を代々治めました。領地は5,000石ほどで大名(1万石以上)には届きませんが、「交代寄合」という家格を与えられ、大名と同じように参勤交代をしていました【史実】。

幕末の当主・竹中重固(しげかた)は幕府の陸軍奉行となり、1868年の鳥羽・伏見の戦いで旧幕府軍を指揮しました。その後も箱館戦争まで新政府軍と戦ったため、竹中家は領地を取り上げられます。重固は死罪をまぬがれ、なんと福岡藩主・黒田長知にあずけられました【史実】。家名は、前の当主・重明に300石が与えられて残り、1881年に士族と認められています【史実】。

半兵衛の死から300年近くたっても、竹中家と黒田家のつながりが顔を出すのは、ふしぎな縁です。

「家」と「血筋」は別:途中で養子が入っている

江戸時代の武家では、跡継ぎがいないと家が取りつぶされるため、養子を迎えて家を続けるのはふつうのことでした。竹中家でも、一族から養子を迎えた代のほか、1700年代の後半には鳥居家から養子を迎えています【史実】。

さらに、その養子の子が幼くして亡くなったとき、竹中家はそれを表に出さず、備中の大名・池田家の男子をひそかに身代わりに立てて家を継がせたことが、歴史学者の大森映子さんの研究で指摘されています【有力説】。幕末の重固も、竹中家の分家から養子に入った人です。

つまり、「竹中家が続いた」ことと「半兵衛の血が続いた」ことは同じではありません。当主の家系がずっと半兵衛と血がつながっているとは言い切れない、というのが正確なところです。

現在の子孫は?

東京都荒川区で雛人形などを作る人形師の家が、地元のメディアで「竹中家の先祖は竹中半兵衛」と紹介されています。幕末の当主・重固の娘から人形づくりが始まった、という話もインターネット上で見られます。ただ、本サイトでは、それを確かめられる系図などの資料を確認できていません【不明】。

芸能人の子孫説は?

「芸能人に竹中半兵衛の子孫がいる」という話も見かけますが、本サイトが調べた範囲では、系図などで確かめられた例は見当たりません【不明】。ただし、「確認できない」ことは「子孫ではない」ことを意味しません。また、名字が同じ「竹中」だからといって、半兵衛の子孫とは限らない点にも注意が必要です。

マサムネ

家は続いても、血のつながりはわからないこともあるんですね…。

ケンシン

家を残すことが何より大事な時代だったからな。「家」と「血」を分けて考えるのが、子孫の話を読むコツだ。

竹中半兵衛の墓はどこ?3か所の場所と由来

兵庫県三木市平井山にある「竹中半兵衛重治墓」と刻まれた墓石

画像:兵庫県三木市平井山にある竹中半兵衛の墓。写真:松岡明芳(CC BY-SA 3.0/Wikimedia Commons)

半兵衛の墓とされる場所は、おもに3か所あります。亡くなった三木(兵庫県)に2か所、故郷の垂井(岐阜県)に1か所です。

場所どんなところ?行くときのメモ
平井山の墓
(兵庫県三木市平井)
半兵衛が亡くなった陣の近くにある、白い塀に囲まれた墓。毎年7月13日に、地元の平井地区の人たちを中心に法要が開かれる神戸電鉄の恵比須駅から徒歩約30分。墓の前の道には車を止められないので、平井公民館の横か秀吉本陣跡の駐車場を利用(三木市の案内)
栄運寺
(兵庫県三木市志染町安福田)
三木市内にあるもう一つの墓所三木市観光協会も「志染町安福田にもある」と案内
禅幢寺
(岐阜県不破郡垂井町岩手)
竹中家の菩提寺。息子の重門が、半兵衛の墓をこの寺に移したと伝わる。2019年に地元の顕彰会の呼びかけで墓所が改修された毎年6月に法要がある。寺の裏手に菩提山城跡へのハイキングコースの入口がある

根拠:三木市「竹中半兵衛の墓」、三木市観光協会「竹中半兵衛の墓」、岐阜県観光公式サイト「禅幢寺」、豊臣 岐阜旅「竹中半兵衛ゆかりの地」(いずれも2026年10月に確認)

「本当のお墓はどれ?」と思うかもしれませんが、遺骨がどこに納められているかは、案内によって書き方がちがいます。垂井町の禅幢寺の側は「重門が墓(遺骨)を移した」と案内し、三木市の側も平井山を「半兵衛の墓」として大切に守っています。どれか一つを「本物」と決めることはできず、それぞれが半兵衛をしのぶ場所として受け継がれてきた、と考えるのがよいでしょう【諸説あり】。

なお、滋賀県東近江市の浄土寺にも竹中家の墓がありますが、これは竹中家の家臣団の一人・竹中筑後守のものとされています。

お参りに行くときは、法要の日程や駐車場などを、三木市・垂井町や各寺の最新の案内で確かめてください。

家紋・兜・ゆかりの地

家紋は「九枚笹」と「黒餅」

竹中家の家紋「九枚笹」と「黒餅」

画像:竹中家の家紋(Mukai 作・CC BY-SA 3.0 の画像の白黒を反転して作成)

竹中家の家紋として知られるのは、笹の葉3枚を1組にして、3組を組み合わせた「九枚笹(くまいざさ)」です【有力説】。江戸時代の中ごろからは、丸で囲んだ「丸に九枚笹」も使われました【有力説】。

もう一つが、黒い丸だけの「黒餅(こくもち)」です。戦場で胸に矢を受けたが、懐に入れていた餅のおかげで助かった、という由来話が伝わります【伝承】。黒田家も黒餅(石餅)の紋を使っており、竹中家から譲られたという話がありますが、確かではありません【伝承】。

兜は「一の谷形兜」

一の谷形兜をかぶり、鎧を着て床几に腰かける竹中半兵衛の肖像画

画像:竹中半兵衛の肖像画(岐阜県垂井町 禅幢寺蔵)。頭にかぶっているのが一の谷形兜です

禅幢寺に伝わる肖像画(垂井町の文化財)で、半兵衛がかぶっているのが「一の谷形兜(いちのたになりかぶと)」です。源平合戦で源義経が駆け下りた一ノ谷の崖をかたどったといわれる、縦に高くそびえる形の兜です【有力説】。この兜の形を半兵衛自身が考えた、という話もありますが、確かではありません【伝承】。

この肖像画は江戸時代に描かれたもので、JR垂井駅前にある半兵衛の銅像も、この絵をもとに作られています【有力説】。

ゆかりの地

  • 竹中氏陣屋跡(岐阜県垂井町岩手):息子の重門が構えた屋敷の跡。白壁の櫓門と石垣が残り、岐阜県の史跡になっている。入口の近くに半兵衛の銅像がある
  • 菩提山城跡(垂井町):半兵衛と父・重元の居城だった山城。西美濃でも最大級の規模で、ハイキングコースがある
  • 禅幢寺(垂井町):竹中家の菩提寺。半兵衛の墓と肖像画が伝わる
  • 大御堂城跡(岐阜県揖斐郡大野町):半兵衛が生まれた城とされる
  • 平井山(兵庫県三木市):半兵衛が亡くなった三木城攻めの陣があった場所。近くに秀吉の本陣跡もある
  • 黒田長政・竹中重門陣跡(岐阜県関ケ原町):関ヶ原の戦いで、息子たちが並んで陣をしいた場所

よくある質問(FAQ)

竹中半兵衛の読み方は?

「たけなか はんべえ」と読みます。本当の名前(実名)の「重治」は「しげはる」です。

竹中半兵衛は何歳で亡くなった?

1579年6月13日(天正7年)、三木城攻めの陣中で病死しました。数え年で36歳、今の数え方では34〜35歳です。病名は記録に書かれておらず、わかっていません。

竹中半兵衛は何をした人?

織田家から秀吉の部隊に付けられた武将(与力)として、敵方の武将を説得して味方に引き入れる調略や城攻めで、秀吉の播磨攻めを支えました。1564年に、主君・斎藤龍興の稲葉山城を占拠したことでも知られます。

黒田官兵衛とどちらがすごい?

比べるのは難しいところです。半兵衛は1579年に亡くなり、同じ時代の記録が少ないため、活躍の多くは後の時代の本で語られたものです。官兵衛は書状などの記録が多く残り、秀吉の天下統一から関ヶ原まで長く活躍したことが確かめられます。

大河ドラマ『豊臣兄弟!』で竹中半兵衛を演じたのは?

2026年のNHK大河ドラマ『豊臣兄弟!』の竹中半兵衛役は、菅田将暉さんです。ドラマには創作の場面も含まれるため、この記事では史料にもとづく半兵衛の姿を紹介しています。

竹中半兵衛の子孫に芸能人はいる?

本サイトが調べた範囲では、系図などで確かめられた例は見当たりません。竹中家そのものは江戸時代に旗本として続き、明治時代に士族となりましたが、途中で他家から養子も入っています。

まとめ|竹中半兵衛とは

正面を向き、采配を持って立つ竹中半兵衛のイラスト

竹中半兵衛は、織田家から秀吉のもとに付けられ、交渉と城攻めで播磨攻めを支えた美濃の武将でした。1579年、三木城攻めの陣中で、数え年36歳の若さで亡くなっています。

「天才軍師」「三顧の礼で迎えられた」「松寿丸を救った」といった有名な話の多くは、江戸時代以降に作られたものです。同じ時代の記録に残る半兵衛はわずかですが、そこからは、相手を説得して城を手に入れる交渉の名手だった姿が浮かびます。

そして息子の重門は関ヶ原で黒田長政と並んで戦い、竹中家は幕末まで続きました。記録が少ないにもかかわらず、半兵衛の名がこれほど語り継がれてきたのは、後の時代の人々が、この若くして亡くなった知将に強く心をひかれてきたからなのでしょう。

半兵衛とともに秀吉を支えた官兵衛については黒田官兵衛とは?竹中半兵衛との関係・幽閉・死因・子孫を史実で解説、半兵衛が仕えた秀吉については豊臣秀吉とは何をした人?死因・妻と弟・6本指の真相を史実で解説、秀吉の弟については豊臣秀長とは?妻は誰?直・慶は実在?死因と子孫を史実で解説、半兵衛に銀100両を与えた信長については織田信長とは?死因・性格・家紋・名言から弥助まで史実をわかりやすく解説もあわせてどうぞ。

ケンシン

記録は少なくとも、後の人がこれほど語り継ぎたくなった男——それが竹中半兵衛なのだろう。

マサムネ

「わからないこと」も含めて、半兵衛様のことがもっと好きになりました!

参考にした史料・この記事の書き方

この記事は、おもに次の記録や研究をもとに書いています。

  • 『信長公記』(太田牛一):福原城攻め、八幡山城の調略と銀子100両、陣中での病死
  • 『豊鑑』(竹中重門・1631年):秀吉が半兵衛らを与力に求めたこと
  • 『敬念寺文書』:稲葉山城の占拠が7月まで続いていたこと
  • 江戸時代以降にまとめられた本(『太閤記』、『常山紀談』、『竹中家譜』、『黒田家譜』1688年、『名将言行録』、『武功雑記』、『武辺咄聞書』、人形浄瑠璃『木下蔭狭間合戦』など):人柄の逸話、稲葉山城の細かい話、松寿丸の話などの出どころ。本記事では【伝承】【創作】などで区別しています
  • 研究書・記事:池内昭一編『竹中半兵衛のすべて』(新人物往来社・1996年)、佐藤進一『花押を読む』(平凡社・1988年)、大森映子『お家相続 大名家の苦闘』(角川選書・2004年)、松田敬之『〈華族爵位〉請願人名辞典』(吉川弘文館・2015年)、渡邊大門氏(Yahoo!ニュース エキスパート)・早川智氏(プレジデントオンライン)の記事
  • 自治体・観光協会の案内:三木市、三木市観光協会、垂井町、岐阜県観光連盟(墓とゆかりの地)
  • 画像:竹中重治像(竹中家旧蔵)・竹中半兵衛像(禅幢寺蔵)・花押は Wikimedia Commons でパブリックドメインとして公開されているもの、平井山の墓(松岡明芳氏)・竹中氏陣屋(Monami氏)・関ヶ原の陣跡(立花左近氏)の写真と家紋(Mukai氏)は CC BY-SA 3.0 の画像を使用しています。関係図・家系図・イラストは侍ロードのオリジナルです

記事中のラベルの意味

  • 【史実】同じ時代の史料で確認できること(【史実:○○】は、その出どころ)
  • 【有力説】研究者の間で広く受け入れられている見方
  • 【諸説あり】見解が分かれていること
  • 【不明】史料がなく、わかっていないこと
  • 【伝承】【創作】【俗説】後の時代に作られた話や、根拠の乏しい話(【伝承:○○】は、その話が出てくる本)

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