
斎藤道三(さいとう どうさん)は、戦国時代に美濃(今の岐阜県南部)を治めた大名です。娘を織田信長に嫁がせたので、信長の義理の父にあたります。最後は、自分の息子・義龍の軍と長良川のほとりで戦って亡くなりました【史実】。
「油売りから一代で国を盗った『美濃のまむし』」として有名ですが、今の研究では、その出世は道三一人ではなく、父と道三の親子二代のものだったとみる考え方が有力です【有力説】。
この記事では、道三が何をした人なのか、死因や息子との対立、娘・濃姫と信長との関係、国盗りの本当の姿を、記録が書かれた時代とあわせて紹介します。
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わしは上杉ケンシン。今日は「美濃のまむし」こと斎藤道三の話だ。
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伊達マサムネです! 油売りから大名になった、すごい成り上がりの人ですよね?
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そう伝えられてきたが、じつは父と子の二代の物語だったかもしれないのだ。
ひと目でわかる斎藤道三
- 読み方は?:さいとう どうさん(「どうざん」とも)
- 何をした人?:守護・土岐氏の家臣の家から、美濃を治める大名になった(くわしく)
- 死因は?:弘治2年(1556年)4月20日、長良川の戦いで息子・義龍の軍に討ち取られた(くわしく)
- 何歳で亡くなった?:はっきりしない。数え63歳説と53歳説がある(くわしく)
- 息子と戦ったのはなぜ?:家をついだ義龍と道三が対立し、義龍が弟二人を討った(くわしく)
- 娘は?:織田信長の正室になった娘(濃姫)がいる(くわしく)
- 油売りは本当?:江戸時代の本に出てくる話。国盗りは親子二代とみる説が有力(くわしく)
- 家紋は?:「二頭立波(にとうたつなみ)」として知られる(くわしく)
- 城・墓は?:本拠は稲葉山城(のちの岐阜城)。墓は岐阜市の道三塚(くわしく)
- 大河『豊臣兄弟!』には?:第5回(2026年2月1日放送)から登場(くわしく)
知りたいところから読めるように、主な見出しへのリンクを置いておきます。
- 斎藤道三とは何をした人?
- 斎藤道三の死因は?長良川の戦いと殺した人
- 斎藤道三はなぜ息子・義龍と対立した?
- 斎藤道三の娘は濃姫|織田信長との関係は?
- 斎藤道三の国盗りは親子二代?油売りと「まむし」の由来
- 大河ドラマ『豊臣兄弟!』の斎藤道三は?
- 斎藤道三の家紋は?二頭立波の図柄と由来
- 斎藤道三の城は?稲葉山城や墓・ゆかりの地
- 斎藤道三の家系図と子孫は?
- よくある質問
記事の中の【史実】【有力説】などのラベルは、その話がどれくらい確かかを示しています(意味は記事の最後にまとめています)。
斎藤道三とは何をした人?
ひと言でいえば、斎藤道三は「美濃の守護・土岐氏の家臣の家から出て、守護を追い出し、美濃を治める大名になった人」です。稲葉山城(のちの岐阜城)を本拠にし、尾張の織田家と戦ったあと仲直りして、娘を織田信長に嫁がせました。
昔は「油売りから一代で国を盗った」と語られてきましたが、今の研究では、その歩みには父の活動もまざっていて、父と子の二代で成し遂げたとみる説が有力です【有力説】(くわしく)。
道三の一生を、大きな流れで見るとこうなります。
- 父の出世:京都のお寺の僧だった父が美濃へ来て、長井氏に仕えて出世する
【有力説】 - 道三の台頭:父の跡をついだ道三が、斎藤の名字を名のり、稲葉山城を本拠に力をのばす
- 美濃の主に:守護の土岐頼芸を追い出して、美濃を治める
- 信長との縁組:争っていた尾張の織田家と仲直りし、娘を信長に嫁がせる
- 息子との対立と最期:家をついだ義龍と対立し、長良川で戦って亡くなる
| 項目 | 内容 |
| 名前 | 長井新九郎規秀 → 斎藤利政 → 出家して道三(くわしく) |
| 生まれた年 | わかっていない。明応3年(1494年)説・永正元年(1504年)説など【諸説あり】 |
| 父 | 長井新左衛門尉(もと京都の妙覚寺の僧)【有力説】 |
| 本拠 | 稲葉山城(のちの岐阜城)【史実】 |
| おもな子ども | 義龍、信長に嫁いだ娘(濃姫)【史実】。『信長公記』には孫四郎・喜平次も出てくる |
| 亡くなった日 | 弘治2年(1556年)4月20日【史実】 |
| 死因 | 長良川の戦いで、義龍の軍に討ち取られた【史実】 |
| 墓 | 道三塚(岐阜市長良福光) |

画像:斎藤道三像(部分)。岐阜市の常在寺に伝わる肖像画で、国の重要文化財です。Wikimedia Commons(パブリックドメイン)
この肖像画には、「弘治第二…四月廿日」と、道三が亡くなった日付が書きこまれています。岐阜県の解説によると、出家して頭をそる前の姿を描いたもので、生きているうちか、亡くなってまもないころに描かれたと考えられています。
斎藤道三の死因は?長良川の戦いと殺した人
結論からいうと、斎藤道三の死因は戦死です。弘治2年(1556年)4月20日、長良川のほとりで、息子・義龍の軍と戦い、討ち取られました【史実】。この戦いを「長良川の戦い」といいます。
道三は、この少し前から稲葉山城を出て、北の山県(今の岐阜県山県市)のほうへ退いていました。4月18日、道三は長良川の北の鶴山(今の岐阜市打越のあたり)に陣を置き、国中を見下ろしました。
史料ボックス『信長公記』が書く長良川の戦い
出典
太田牛一『信長公記』首巻。牛一は信長に仕えた家臣で、首巻は信長の若いころのことを、のちにまとめた部分です(ここでは、明治14年〈1881年〉の活字本〈Wikisource〉によりました)
引用(一部。読みやすく表記を整えています)
「四月廿日辰剋…新九郎義龍人数を出し候、道三も鶴山をおり下り、奈加良川端迄人数を出され候」
現代語訳
4月20日の朝、辰の刻(午前7〜9時ごろ)に、義龍(新九郎)が兵を出した。道三も鶴山を下りて、長良川のほとりまで兵を出した。
この記録からわかること・わからないこと
道三と義龍の軍が、長良川のほとりで戦ったことがわかります。一方、戦った正確な場所や、両軍全体の兵の数は書かれていません(義龍方の一番手は約600人と書いています)

画像:長良川の戦いの位置関係(『信長公記』の記述をもとに侍ロードが作成。戦った場所や軍の動きは推定です。下地:国土地理院の地理院タイル)
『信長公記』によると、義龍方の一番手は「中の渡り」という場所で川を渡り、道三の陣に攻めかかりました。道三方はこの一番手を退けましたが、その後は次々に川を渡ってくる義龍方におされていった、と伝えています。

画像:長良川で、川を渡ってくる義龍の軍の知らせを受ける道三
道三を討ったのはだれ?
『信長公記』によると、義龍方の長井忠左衛門が道三に組みつき、生けどりにしようとしたところへ、小牧源太(『信長公記』では小真木源太)が走ってきて、道三を討ち取ったとされます。
ただし、後の時代の本には、別の武将が討ったと書くものもあります。また、道三を討った軍の大将は息子の義龍ですが、義龍自身が手を下したわけではありません。
信長の援軍は間に合わなかった
『信長公記』によると、娘の夫である信長も、道三を助けるために尾張から兵を出し、木曽川を舟で渡って、大良(今の岐阜県羽島市のあたり)に陣を置きました。しかし、道三が討たれたという知らせを聞いて兵を引き、信長は自ら最後尾を守りながら川を渡って、尾張へ帰ったとされます。
斎藤道三は何歳で亡くなった?
道三が生まれた年は、当時の記録ではわかっていません【不明】。そのため、亡くなったときの年齢も、数え63歳説(明応3年〈1494年〉生まれ)と数え53歳説(永正元年〈1504年〉生まれ)に分かれています【諸説あり】。どちらも後の時代の本の記述から計算したものです。
一方、亡くなった年月日は、『信長公記』の「4月20日」と、常在寺の肖像画に書かれた「弘治2年4月20日」の日付などから、弘治2年(1556年)4月20日と考えられています。
道三が葬られたと伝わる「道三塚」は、今も岐阜市に残っています(くわしく)。
ここまではわかる/ここからはわからない
- わかる:弘治2年(1556年)4月20日、長良川のほとりで義龍の軍と戦って亡くなったこと
- わからない:戦った正確な場所、兵の数、亡くなったときの年齢
斎藤道三はなぜ息子・義龍と対立した?
道三は、亡くなる2年ほど前の天文23年(1554年)ごろ、家と稲葉山城を長男の義龍にゆずっていたとみられています【有力説】。ただ、これは自分から進んでではなく、家臣たちにおされて引退させられた結果だったとみる研究者もいます。家をゆずったあとも、道三は力を持ちつづけていたため、親子の間にみぞができていきました。
『信長公記』は、対立のきっかけを次のように伝えています。
- 道三は、長男の義龍を「おろか者」と思いこみ、弟の孫四郎・喜平次ばかりを「かしこい」と大事にした
- 弟たちは兄の義龍を軽く見るようになった
- 義龍は病気のふりをして館の奥にこもり、弘治元年(1555年)11月、弟二人を呼び寄せて家臣に討たせた
- これを知った道三はおどろいて兵を集め、稲葉山を出て、北の山県の山中へ退いた

画像:弟たちばかりをほめる道三と、それを見る義龍
義龍は道三の本当の子ではなかった?
「義龍は、本当は道三の主君・土岐頼芸の子だった。だから道三と争った」という話があります。しかし、これは江戸時代の本に出てくる話で、木下聡氏らの研究者は、後の時代に作られた話とみています【俗説】。道三の死後、義龍が生きていた永禄3年(1560年)の六角承禎の手紙は、義龍を道三の子として扱っています(この手紙は写しで伝わっています)。
義龍と斎藤家のその後
道三を倒した義龍は美濃を治めましたが、永禄4年(1561年)に病気で亡くなりました。義龍の生涯や死因は、斎藤義龍の記事でくわしく紹介しています。あとをついだ孫の龍興は、永禄10年(1567年)に信長に稲葉山城を攻め落とされ、美濃の支配を失います。龍興はその後も信長と戦いつづけ、天正元年(1573年)に越前(今の福井県)で討ち死にしました。
龍興の時代には、家臣の竹中半兵衛が、妻の父・安藤守就とともに稲葉山城を一時乗っ取る出来事もありました(竹中半兵衛の記事)。
ここまではわかる/ここからはわからない
- わかる:義龍が弟二人を討ち、父の道三と戦ったこと
- わからない:道三と義龍が、それぞれ本当は何を考えていたか
斎藤道三の娘は濃姫|織田信長との関係は?
道三は、尾張(今の愛知県西部)の織田信秀(信長の父)と、美濃をめぐって何度も戦いました。9月22日には、稲葉山城のふもとまで攻めこんできた信秀の軍を、引き上げるところで大いに打ち破っています(『信長公記』。年は天文13年〈1544年〉説と天文16年〈1547年〉説があります)。
その後、両家は仲直りし、そのしるしとして、道三の娘が信長に嫁ぎました【史実:信長公記】。天文17年(1548年)か18年(1549年)ごろのことです。この娘が、のちに「濃姫」「帰蝶」と呼ばれる女性です。濃姫の名前や、その後については、濃姫(帰蝶)の記事でくわしく紹介しています。
正徳寺の会見:娘の夫はどんな人物か、見に行った
若いころの信長は、派手な格好で町を歩き、まわりから「大うつけ(大ばか者)」と呼ばれていました。道三は、そのうわさの婿に会ってみることにします。場所は尾張の富田(今の愛知県一宮市)の正徳寺でした。
『信長公記』によると、道三は会う前に、町はずれの小屋にこっそり隠れて、信長の行列をのぞき見したといいます。行列には、長い朱色の槍を持った兵が500人ほど、弓や鉄砲を持った兵が500人ほどもいました。

画像:小屋に隠れて信長の行列をのぞく道三
しかも信長は、いつもの変わった格好でやってきたのに、会見の前に髪を結い直し、正式な服に着がえて現れたといいます。会見は無事に終わり、道三は美濃へ帰っていきました。
史料ボックス『信長公記』が書く会見の帰り道
出典
太田牛一『信長公記』首巻(明治14年〈1881年〉の活字本〈Wikisource〉による)
引用(一部。読みやすく表記を整えています)
「されば無念なる事に候。山城が子共、たわけが門外に馬を繋ぐべき事、案の内にて候」
現代語訳
(家臣の猪子兵介が「どう見ても上総介〈信長〉はたわけ〈おろか者〉でした」と言うと、道三は答えた)残念なことだが、私の子どもたちは、あのたわけの家の門の外に馬をつなぐ(=家来になる)ことになるだろう。思ったとおりだ。
この記録からわかること・わからないこと
『信長公記』は、このあと道三の前で信長を「たわけ」と言う人はいなくなった、と書いています。ただし、会見の年は書かれていません。天文22年(1553年)ごろとされますが、確定していません【諸説あり】

画像:正徳寺の会見の帰り道で、猪子兵介と話す道三
会見の前後の若い信長については、織田信長の記事もどうぞ。
国譲り状:美濃を信長に譲った?
道三は、長良川の戦いの前の日に、「美濃を信長に譲る」という手紙を書いた、という話が有名です。これは「国譲り状」と呼ばれますが、次の3つを分けて考える必要があります。
| もの | わかっていること |
| 信長あての「譲り状」 | 残っていない【不明】 |
| 子どもあての遺言状 | 弘治2年(1556年)4月19日付で、出家する子にあてた手紙。京都の妙覚寺などに写しが伝わる。その中に「譲り状を信長に渡した」と書かれている |
| 遺言状は本物か | 写しとみられ、本物かどうかは研究者の意見が分かれている【諸説あり】 |
史料ボックス 道三の遺言状(写し)
出典
弘治2年(1556年)4月19日付、斎藤道三から子にあてた手紙(京都の妙覚寺などに伝わる写し。ここでは『岐阜市史』〈1928年〉の翻刻によりました)
書かれていること(要約)
(美濃を任せるという)譲り状を、信長に渡した。美濃の南の入口には、まもなく信長が出陣してくる。おまえは約束どおり、京都の妙覚寺に入って僧になりなさい、など
注意
この遺言状が本物かどうかには議論があり、道三が実際に譲り状を信長に渡したとは言い切れません。また、信長が美濃を手に入れたのは、道三が亡くなってから11年後の永禄10年(1567年)で、龍興との戦いの結果でした

画像:陣の中で手紙を書く道三(遺言状が本物かどうかには議論があります)
ここまではわかる/ここからはわからない
- わかる:道三の娘が信長に嫁いだこと。道三と信長が正徳寺で会ったこと
- わからない:道三が本当に「美濃を信長に譲る」と書いたかどうか
斎藤道三の国盗りは親子二代?油売りと「まむし」の由来
道三といえば、「油売りから身をおこし、一代で美濃の国を盗った」という話が有名です。しかし今の研究では、道三一人の出世として語られてきた経歴には、父・長井新左衛門尉の活動も含まれていたと考えられています【有力説】。ただし、油売りや一文銭の話まで確かめられたわけではありません【伝承】。

画像:斎藤道三の国盗りを、一代の話と親子二代の見方でくらべた図(草津市の解説、研究者の論文などをもとに侍ロード作成)
大事な手がかりになったのが、近江(今の滋賀県)の大名・六角承禎が書いた手紙の写しです。
史料ボックス「六角承禎条目写」
どんな手紙?
六角承禎が、息子の縁談(相手は道三の孫娘)に反対して、息子付きの家臣たちを叱った手紙の写しです。冒頭が欠けています。滋賀県草津市が持っています(春日家文書)
書かれていること(草津市の解説にもとづく要約)
道三の父(義龍の祖父)の長井新左衛門尉は、もとは京の僧で、美濃で身をおこした。道三は、父が築いた地位をつぎ、はかりごとを重ねて、さらに上の地位を手に入れた
注意して読むところ
承禎は斎藤家と対立していたので、斎藤家を悪く書く目的があります。それでも、道三の父と道三を分けて書いている、ほぼ同時代の大事な手がかりです
この手紙は、昭和の『岐阜県史』づくりの中で知られるようになりました。研究者の整理では、父はもと京都・妙覚寺の僧で、美濃へ来て長井氏に仕え、長井の名字を名のるまでに出世し、天文2年(1533年)ごろに亡くなって道三が跡をついだとみられています【有力説】。岐阜県の文化財の解説も、道三は「父長井新左衛門尉の美濃一国に築いた地位を基盤として勢力を伸ばした」と書いています。
現在は、親子二代の歩みとみる説が有力です。ただし、『信長公記』は道三一人の出世として書いていて、父と道三それぞれが何をどこまでしたのかには、まだわからない部分があります。
名前の移り変わり
道三はいくつもの名前を持っていました。同じ時代の文書で確かめられるものと、後の時代の本にだけ出てくるものがあります。
| 名前の種類 | 名前 | 確かさ |
| 名のり(実名) | 規秀(のりひで)→ 利政(としまさ) | 同じ時代の文書に署名がある【史実】 |
| 名字・通称 | 長井新九郎 → 斎藤新九郎 | 【史実】 |
| 官職の名 | 左近大夫 → 山城守 | 【史実】 |
| 出家後の名(法名) | 道三 | 【史実】 |
| 本にだけ出てくる名 | 峯丸・法蓮房・松波庄五郎・秀龍 など | 江戸時代の本が道三の名として伝えるもの【伝承】 |
| 父の名とされる名 | 西村勘九郎 | 江戸時代の本では道三の名だが、近年の研究では父・長井新左衛門尉が名のった名と整理されている【有力説】 |
「油売り」「一文銭」の話はいつから?
油売りの話は、今回確認した道三と同じ時代の記録には出てきません。今わかっている早い例は、江戸時代の寛文9年(1669年)に書かれた『乙夜之書物(いつやのかきもの)』です。そこでは、道三は「山城の山崎の油屋だった」とされています【伝承】。

画像:「油売り」「まむし」の話が出てくる本の年表(萩原大輔氏の論文〈2022年〉などをもとに侍ロード作成)
有名な「一文銭の穴から油を注ぐ」話は、江戸時代の『美濃国諸旧記』に出てきます。油売りの庄五郎が、漏斗を使わずに一文銭の穴から油を注いでみせ、「こぼれたらお代はいらない」と言って評判になった、という話です【伝承】。

画像:一文銭の穴から油を注ぐ油売りの庄五郎(江戸時代の本が伝える話)
なぜ「美濃のまむし」と呼ばれる?
「美濃のまむし」というあだ名も、今回確認した当時の記録には出てきません。萩原大輔氏の論文によると、研究者の木下聡氏は、道三を「マムシ」と呼んだ最初の例を、坂口安吾の小説『信長』(1952〜53年に新聞連載)としています。今では、策略を使って勢力を広げた道三のイメージと結びついた呼び名になっています。
ただ、『信長公記』は、道三が小さな罪の人にも重い刑罰を科した、と書いています。少なくとも『信長公記』では、道三は厳しい人物として描かれています。
土岐頼芸を追い出して美濃の主に
道三は、美濃の守護・土岐家のお家争いの中で、土岐頼芸(とき よりのり。よりあきとも)を守護に立てて力をのばしました。そして最後には、その頼芸を追い出し、美濃の主になります【史実:信長公記】。追い出した年は天文11年(1542年)説から天文21年(1552年)説まであり、最近の研究では天文19年(1550年)ごろとみる説が出ています【諸説あり】。
『信長公記』は、道三が土岐家の次郎という人を娘婿にしたあと、毒で殺した、とも書いています。同書には、主君や娘婿を害した道三を責める落書き(「主君を斬り、婿を殺すのは身の破滅。昔は長田、今は山城〈道三〉」)も載っています。ただし、この記述だけで毒殺が事実だったとは確かめられず、次郎は病気で亡くなったとみる研究者もいます【諸説あり】。
ここまではわかる/ここからはわからない
- わかる:道三が土岐氏の家臣の家から出て、美濃の主になったこと。父がもと京都の僧で、美濃で出世したこと
- わからない:父と道三が、それぞれどこまでしたのか。油売りの話が本当にあったのか
大河ドラマ『豊臣兄弟!』の斎藤道三は?
2026年の大河ドラマ『豊臣兄弟!』では、斎藤道三は第5回(2026年2月1日放送)から登場しました。土岐家の重臣から下剋上(家臣など下の立場の人が、主君をしのぐ力を持つこと)で美濃一国を治める戦国大名になった人物として描かれています。
道三は、これまでもドラマや小説で人気の人物でした。おもな作品を紹介します。
| 作品(年) | 描かれ方 | 史実とのちがい |
| 小説『国盗り物語』(1963〜66年に連載) | 油売りから一代で美濃を盗る道三。前半の主人公 | 親子二代説が知られる前の作品。油売りは江戸時代の伝承にもとづく設定で、人物の会話や細かな場面には小説の創作をふくむ |
| 大河ドラマ『国盗り物語』(1973年) | 小説をもとにしたドラマ。放送が決まったことをきっかけに、前年の昭和47年(1972年)に岐阜で「道三まつり」が始まった | 会話や場面にはドラマの創作をふくむ【ドラマの創作】 |
| 大河ドラマ『麒麟がくる』(2020年) | 明智光秀が仕える主君として前半に登場 | 光秀が道三に仕えた話は、記録では確かめられない【ドラマの創作】 |
| 木下昌輝の小説『まむし三代記』(2020年) | 親子二代の国盗りを取り入れた小説 | 物語の細部は小説の創作 |

画像:ドラマや小説の道三をふり返る道三
斎藤道三の家紋は?二頭立波の図柄と由来
斎藤道三の家紋としてよく知られているのが、「二頭立波(にとうたつなみ)」です。大きな波が二つ立ち上がり、しぶきが飛ぶ形をしています。

画像:二頭立波の図(Wikimedia Commons〈Gameposo 作図・Marnanel、CC BY-SA 4.0〉を使って侍ロード作成)
ただし、道三がこの紋を使ったことを、道三が生きていた時代の記録や持ち物で確かめた資料は見つかっていません【不明】。「潮の満ち引きを戦い方にたとえて道三が自分で考えた」という説明も見かけますが、これも確かめられない話です【伝承】。
斎藤道三の城は?稲葉山城や墓・ゆかりの地
道三ゆかりの場所は、今の岐阜市を中心に残っています。記録で確かめられるものと、言い伝えのものを分けて紹介します。
稲葉山城(のちの岐阜城)
道三の本拠は、金華山(岐阜市)の上にあった稲葉山城です【史実:信長公記】。道三は城と城下町を整えたといわれます。のちに信長がこの城を手に入れて、ふもとの町の名を「岐阜」と改め、天下統一への拠点にしました。城の歴史は稲葉山城の記事でくわしく紹介しています。今の天守は昭和31年(1956年)に建てられた復興天守で、改修のため令和9年(2027年)10月末まで休館の予定です(2026年10月21日確認)。

画像:金華山の上の岐阜城(かつての稲葉山城)。Wikimedia Commons(撮影:Alpsdake・CC BY-SA 4.0)
道三塚(墓)
岐阜市長良福光の住宅街には、道三が葬られたと伝わる「道三塚」があります。岐阜市の史跡です。もとは崇福寺の近くにありましたが、長良川の洪水でたびたび流されたため、天保8年(1837年)に常在寺の住職が今の場所へ移したといいます。今の道三塚は移されたものなので、この場所を道三が討ち死にした地点とみることはできません。

画像:岐阜市長良福光の道三塚。Wikimedia Commons(撮影:立花左近・CC BY-SA 3.0)
常在寺(斎藤家の菩提寺)
岐阜市梶川町の常在寺は、斎藤家の菩提寺(先祖の供養をする寺)です。道三と義龍の肖像画(国の重要文化財)が伝わり、ふだんは複製が見られます。境内には道三の供養碑もあります。毎年4月の「道三まつり」のときには、道三をしのぶ行事が行われます。

画像:岐阜市の常在寺の門。Wikimedia Commons(撮影:先従隗始・CC0)
大桑城跡・鷺山城跡
山県市の大桑城は、守護の土岐頼芸がいた城です。道三はここにいた頼芸を追い出したと『信長公記』は書いています。岐阜市の鷺山は、道三が晩年に住んだ城があったとされる山です【伝承】。2026年1月には、岐阜市が鷺山のふもとで戦国時代の館の堀などを見つけ、道三が頼芸の館として整えた可能性がある、と発表しました。

画像:山県市の大桑城跡がある古城山。Wikimedia Commons(撮影:Sendaimo・CC BY-SA 4.0)
| 場所 | 今あるもの | 道三とのかかわり |
| 稲葉山城(岐阜市・金華山) | 岐阜城の天守と城跡(国の史跡) | 道三の本拠【史実】 |
| 道三塚(岐阜市長良福光) | 塚と碑(市の史跡) | 道三が葬られたと伝わる【伝承】 |
| 常在寺(岐阜市梶川町) | 本堂・供養碑・肖像画(複製) | 斎藤家の菩提寺 |
| 大桑城跡(山県市) | 山の上の城跡 | 道三が追い出した土岐頼芸の城 |
| 鷺山(岐阜市) | 山頂の碑・ふもとの館の跡 | 道三が晩年に住んだとされる【伝承】 |
斎藤道三の家系図と子孫は?

画像:斎藤道三の家系図(実線はこの図で採用した親子・結婚の関係、点線は確かさに注意が必要な関係です。侍ロード作成)
道三の息子として『信長公記』に出てくるのは、長男の義龍、次男の孫四郎、三男の喜平次の3人です。娘には、信長の正室になった女性(濃姫)がいます。信長の家臣として活躍し、本能寺の変のときに二条御所で討ち死にした斎藤利治も、道三の末の子とされています【有力説】。
妻については、明智氏の娘の「小見の方」、土岐頼芸から与えられた「深芳野」などの名前が知られますが、どちらも江戸時代の本に出てくる話です【伝承】。
斎藤道三の子孫は今もいる?
道三の家をついだ本家は、孫の龍興が天正元年(1573年)に討ち死にして絶えました。
一方、岐阜市立図書館の調べでは、江戸時代の系譜(『寛政重修諸家譜』など)に、道三の娘が稲葉貞通(稲葉一鉄の子)に嫁ぎ、その子孫が稲葉家・勧修寺家を通じて皇室へつながる系統が記されています。ただし、これは系譜類にもとづくもので、すべてを同じ時代の記録で確かめたという意味ではありません。
明智光秀との関係は?
江戸時代の本は、道三の妻・小見の方が明智氏の出身で、明智光秀は濃姫のいとこにあたる、と書いています【伝承】。ただし、道三が生きていた時代の記録では確かめられません。光秀については明智光秀の記事、濃姫については濃姫の記事をどうぞ。
ここまではわかる/ここからはわからない
- わかる:義龍・孫四郎・喜平次と、信長に嫁いだ娘がいたこと
- わからない:道三の妻がだれだったか
よくある質問
斎藤道三の読み方は?
「さいとう どうさん」です。「どうざん」と読まれることもあります。
斎藤道三は何歳で亡くなった?
生まれた年がわからないため、はっきりしません。数え63歳説(明応3年〈1494年〉生まれ)と数え53歳説(永正元年〈1504年〉生まれ)があります(くわしく)。
なぜ「美濃のまむし」と呼ばれるの?
当時の記録には出てこない呼び名で、研究者は戦後の小説(坂口安吾『信長』)が最初の例と指摘しています。今では、策略で勢力を広げた道三のイメージと結びついています(くわしく)。
楽市楽座は道三が始めた?
道三が楽市を開いたことを示す文書は見つかっていません。岐阜(加納)の「楽市」の制札(決まりを書いた立て札)は、道三が亡くなったあとの永禄10年(1567年)に信長が出したものです。
斎藤道三の名言は?
有名なのは、正徳寺で信長に会った帰り道の「私の子どもたちは、あのたわけ(信長)の家来になるだろう」という言葉です。『信長公記』に書かれています(くわしく)。
斎藤道三の肖像画はある?
あります。岐阜市の常在寺に伝わる肖像画が国の重要文化財になっています。出家する前の姿を描いたものと考えられ、亡くなった日付が書きこまれています(くわしく)。
『麒麟がくる』の道三は史実?
『麒麟がくる』(2020年)では、明智光秀が道三に仕える姿などが描かれましたが、ドラマのための創作が多くふくまれます。光秀が道三に仕えたことは、当時の記録では確かめられません
【ドラマの創作】。
まとめ|斎藤道三とは
斎藤道三は、美濃の守護・土岐氏の家臣の家から出て、美濃を治める大名になった人物です。今の研究では、その出世は父・長井新左衛門尉と道三の親子二代のものとみる説が有力です。
娘を織田信長に嫁がせ、『信長公記』によれば、正徳寺の会見で婿の信長を高く評価しました。しかし最後は、家をついだ息子・義龍と対立し、弘治2年(1556年)4月20日、長良川の戦いで討ち取られました。
「油売り」「美濃のまむし」の話は後の時代に広まったものですが、そうした伝説が生まれるほど、道三は戦国時代の下剋上を代表する人物だったといえます。
関係する人物については、濃姫、織田信長、明智光秀、竹中半兵衛の記事もあわせてどうぞ。
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一代の成り上がりと思われてきたが、父と子の二代の歩みと考えられているのだな。
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漫画で見ると、長良川の戦いのところは切ないですね……。
参考にした史料・この記事の書き方
この記事は、おもに次の記録や資料をもとに書いています。
- 同じ時代の記録:六角承禎条目写(草津市蔵・春日家文書。草津市の解説による)、常在寺の斎藤道三像の墨書(岐阜県の解説による)
- 少しあと・後の時代の記録:太田牛一『信長公記』首巻(Wikisource の明治14年の活字本による)、斎藤道三の遺言状(写し。『岐阜市史』1928年の翻刻による)、『乙夜之書物』『老人雑話』『美濃明細記』『美濃国諸旧記』(萩原大輔氏の論文・国立国会図書館デジタルコレクションによる)
- 研究:萩原大輔「『乙夜之書物』に記された「斎藤道三の国盗り」伝承」(『加賀藩研究』12号、2022年。木下聡『斎藤氏四代』〈2020年〉の見方も、この論文の引用による)、『日本大百科全書』『世界大百科事典』(コトバンク)
- 公的な資料:草津市「怒りの手紙が明かしたあの人の意外なプロフィール」(2020年)、岐阜県「斎藤道三像・斎藤義竜像」、岐阜市「道三塚」、岐阜市立図書館のレファレンス事例「斎藤道三と天皇家のつながり」(国立国会図書館レファレンス協同データベース)、岐阜県観光連盟「岐阜の旅ガイド」
- ドラマについて:大河ドラマ『豊臣兄弟!』の出演者発表の報道(2026年1月)
- 地図と画像:地図の下地は国土地理院の地理院タイルを使い、侍ロードが地名と軍の動きを書き加えました。斎藤道三像(パブリックドメイン)、岐阜城(Alpsdake・CC BY-SA 4.0)、道三塚(立花左近・CC BY-SA 3.0)、常在寺(先従隗始・CC0)、大桑城跡(Sendaimo・CC BY-SA 4.0)、二頭立波の図(Gameposo・Marnanel・CC BY-SA 4.0)は Wikimedia Commons のものです。年表・家系図・漫画・イラストは侍ロードのオリジナルです
記事中のラベルの意味
【史実】同じ時代の史料などで確かめられること(【史実:○○】は、その出どころ)【有力説】研究者の間で広く受け入れられている見方【諸説あり】見解が分かれていること【不明】確かめられる資料が見つかっていないことなど、今わかっていないこと【伝承】後の時代の記録や言い伝えによる話【俗説】広まっているが、根拠の確かでない説【ドラマの創作】ドラマや物語のために作られた話
「記録にそう書かれていること」と、「書かれた出来事が実際にあったこと」は、分けて考えています。後の時代にまとめられた記録に書かれていることは、その記録の名前を本文で示し、すべてを【史実】とは扱っていません。
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