
濃姫(のうひめ)は、美濃(今の岐阜県南部)の大名・斎藤道三の娘で、尾張(今の愛知県西部)の織田信長の正室(正式な妻)になった女性です。「帰蝶(きちょう)」という名前でも知られています。
道三の娘が信長に嫁いだことは、信長に仕えた家臣の記録に書かれています【史実:信長公記】。ところが、そのあとの彼女のことは、記録にほとんど出てきません。本当の名前も、いつ・どこで・何が原因で亡くなったのかも、わかっていないのです【不明】。
この記事では、「濃姫」「帰蝶」という名前がどこから来たのか、最後はどうなったのかを、記録が書かれた時代とあわせて一つずつ確かめていきます。
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わしは上杉ケンシン。今日は、信長の妻・濃姫の話だ。
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伊達マサムネです! 濃姫って、本能寺で信長といっしょに薙刀で戦った人ですよね?
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ドラマではおなじみの場面だな。だが、記録をたどると話はだいぶちがう。いっしょに確かめていこう。
ひと目でわかる濃姫
- 読み方は?:のうひめ。帰蝶は「きちょう」(くわしく)
- 父は?:美濃の大名・斎藤道三
【史実】(くわしく) - 夫は?:織田信長。正室でした
【史実】 - 結婚した年は?:天文17年(1548年)か18年(1549年)(くわしく)
- 本名は?:わかっていません。「濃姫」も「帰蝶」も、後の時代の本に出てくる呼び名です(くわしく)
- 最後・死因は?:わかっていません。若くして亡くなった、本能寺で亡くなった、長生きした、などの説があります(くわしく)
- 子どもは?:濃姫が生んだ子の記録は見つかっていません(くわしく)
- 大河『豊臣兄弟!』には?:登場させない方針を、制作統括が説明しています(くわしく)
- 肖像画は?:本人の姿と確かめられる肖像画は見つかっていません(くわしく)
- 信長と濃姫の像は?:愛知県清須市の清洲公園にあります(くわしく)
知りたいところから読めるように、主な見出しへのリンクを置いておきます。
- 濃姫(帰蝶)とは?どんな人だった?
- 濃姫と帰蝶の違いは?本名や読み方、名前の由来
- 濃姫の最後や死因は?本能寺・早世・長生きの説をくらべる
- 『豊臣兄弟!』の濃姫(帰蝶)役はだれ?登場しない理由と歴代大河ドラマの濃姫
- 濃姫と信長の夫婦仲は?溺愛説や結婚の年齢差
- 濃姫に子供はいた?信忠の養母とされる話
- 濃姫の父母は?斎藤道三や明智光秀とはいとこ?
- 信長と濃姫の像はどこ?清洲公園や墓・ゆかりの地
- よくある質問
記事の中の【史実】【伝承】などのラベルは、その話がどれくらい確かかを示しています(意味は記事の最後にまとめています)。
濃姫(帰蝶)とは?どんな人だった?
ひと言でいえば、濃姫は「美濃の斎藤道三の娘で、尾張と美濃が仲直りするための結婚で、織田信長の正室になった女性」です。
戦国時代、尾張の織田信秀(信長の父)と美濃の斎藤道三は、何度も戦をしていました。やがて両家は仲直りし、そのしるしとして、信長と道三の娘の結婚が決まります【史実:信長公記】。このように、家と家を結びつけるために決められた結婚を「政略結婚」といいます。
史料ボックス『信長公記』が書く濃姫の結婚
出典
太田牛一『信長公記』首巻。牛一は信長に仕えた家臣で、首巻は信長の若いころのことを、のちにまとめた部分です(ここでは、角川文庫本の読みを引いた松浦由起氏の論文〈2014年〉によりました)
原文
「平手中務才覚にて、織田三郎信長を斎藤山城道三聟に取り結び、道三が息女尾州へ呼び取り候ひき。然る間、何方も静謐なり」
現代語訳
(信長の守り役の)平手政秀の働きで、信長を斎藤道三の婿にする縁組をまとめ、道三の娘を尾張へ迎えた。それで、(尾張と美濃の)争いがおさまった。
この記録からわかること・わからないこと
道三の娘が信長に嫁ぎ、それで尾張と美濃の争いがおさまったことがわかります。一方、娘の名前、結婚した年月日、そのときの年齢は書かれていません
わかっていることを、プロフィールの表にまとめます。
| 項目 | 内容 |
| 呼び名 | 濃姫(のうひめ)・帰蝶(きちょう)・鷺山殿(さぎやまどの)など。どれも後の時代の本に出てくる呼び名【伝承】 |
| 本名 | わかっていない【不明】 |
| 生まれた年 | 天文4年(1535年)とする本がある【伝承:美濃国諸旧記】 |
| 父 | 斎藤道三【史実】 |
| 母 | 明智氏の娘・小見の方(おみのかた)とする本がある【伝承】 |
| 夫 | 織田信長(正室として嫁ぐ)【史実】 |
| 結婚した年 | 天文17年(1548年)か18年(1549年)【諸説あり】 |
| 子ども | 生んだ子の記録は見つかっていない【不明】 |
| 亡くなった年・死因 | わかっていない。慶長17年(1612年)に亡くなったとする説もある【諸説あり】 |

画像:濃姫の生涯で、記録からわかること・わからないこと(侍ロード作成)
図のように、濃姫本人につながるおもな手がかりは、『信長公記』の結婚の記事と、永禄12年(1569年)の公家の日記に出てくる「信長本妻」の記事です。ただし、日記のほうには名前が書かれていません(くわしく)。そのほかの話の多くは、江戸時代より後に書かれた本や、言い伝えです。
肖像画も、本人の姿と確かめられるものは見つかっていません【不明】。岐阜城(岐阜市)の中で「濃姫」として展示されていた絵の写真がありますが、だれがいつ描いたものかは確かめられませんでした(岐阜城の天守閣と資料館は、改修のため令和9年〈2027年〉10月末まで休館の予定です。2026年10月20日確認)。
ここまではわかる/ここからはわからない
- わかる:斎藤道三の娘が、尾張と美濃の仲直りのために織田信長に嫁いだこと
- わからない:本当の名前、生まれた年、どんな顔や性格だったか
濃姫と帰蝶の違いは?本名や読み方、名前の由来
結論からいうと、「濃姫」と「帰蝶」は、どちらも同じ女性を指す呼び名です。ただし、どちらも本人が生きていた時代の記録には出てきません。本当の名前はわかっていないのです【不明】。
名前の出どころは、松浦由起氏(豊田工業高等専門学校)の論文「近世地誌・軍記・系譜等における濃姫の呼称『帰蝶・胡蝶・桔梗』について」(2014年)がくわしく調べています。それをもとに、名前が出てくる本を年の順に並べてみました。

画像:濃姫の呼び名が出てくる本の年表(松浦由起氏の論文〈2014年〉をもとに侍ロード作成。年は、その本が書かれた年や出た年です)
「濃姫」は「美濃の姫」という意味
「濃姫」は、「美濃(みの)から来た姫」という意味の呼び名です【伝承】。松浦氏の調査で確認された、いちばん古い例は、正徳6年(1716年)に出た読み物『武将感状記(ぶしょうかんじょうき)』でした。そのあと、寛政9年(1797年)から出た『絵本太閤記』にも出てきます。
おもしろいのは読み方です。江戸時代の本では「のひめ」とふりがながついていて、「のうひめ」ではありませんでした。幕末の本には「美濃姫(みのひめ)」と書くものもあり、松浦氏は「濃姫」を「美濃姫」を短くした形とみています。「のうひめ」という読みは、幕末から明治の初めにまとめられた『名将言行録』から見られるそうです。
「帰蝶」は『美濃国諸旧記』に出てくる名前
「帰蝶」は、美濃の歴史をまとめた江戸時代の本『美濃国諸旧記(みののくに しょきゅうき)』に出てくる名前です【伝承】。松浦氏が調べた古い本の中では、この本に見えるだけでした。
史料ボックス『美濃国諸旧記』が書く「帰蝶」
出典
『美濃国諸旧記』(作者はわかりません。元の本は見つかっておらず、大正4年〈1915年〉に出た活字本で読まれています。その編者の黒川真道は、寛永の末から正保のころ〈1640年代ごろ〉に書かれたと推定していますが、確かではありません。ここでは、松浦由起氏の論文〈2014年〉に載った活字本の図版によりました)
原文(一部)
「其後天文十八年二月廿四日、尾州古渡の城主織田上総介信長に嫁す。帰蝶の方といふ。又鷺山殿ともいふ」
現代語訳
その後、天文18年(1549年)2月24日、尾張の古渡(ふるわたり)の城主・織田上総介信長に嫁いだ。帰蝶の方という。また鷺山殿(さぎやまどの)ともいう。
注意
黒川の推定に従っても、ここに書かれた結婚(1549年)から90年ほどあとにまとめられた本で、ほかの記録では確かめられません。濃姫の生まれた年(天文4年〈1535年〉)や、母の名前も、この本に出てくる話です
ほかに、『武功夜話(ぶこうやわ)』という本には「胡蝶(こちょう)」と書かれています。ただしこの本は、昭和の中ごろになって知られるようになったもので、後の時代に作られたのではないかという「偽書説」が根強い本です。
松浦氏は、くずし字では「帰」と「胡」の形がよく似ていることから、「帰蝶」はもともと「胡蝶」を読みまちがえたものではないか、と推測しています。松浦氏自身も推測の段階だとことわっていて、確かめられたことではありません。
名前が広まったのは小説『国盗り物語』から
「濃姫(のうひめ)」「帰蝶(きちょう)」という名前を広く知らせたのは、司馬遼太郎の小説『国盗り物語』(昭和38年〈1963年〉から雑誌に連載)でした。松浦氏によると、この小説がふりがなつきで2つの名前を使い、そこから一般に広まったようです。

画像:「わたしの名前は…?」と記録をのぞきこむ濃姫
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じゃあ、「濃姫」も「帰蝶」も、本人は呼ばれたことがないかもしれないんですね。
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そういうことだ。どちらも、ずっとあとの本に出てくる名前なんだ。
ここまではわかる/ここからはわからない
- わかる:「濃姫」は江戸時代の読み物に、「帰蝶」は江戸時代の『美濃国諸旧記』に出てくる呼び名であること
- わからない:本当の名前。生きていた時代に、まわりから何と呼ばれていたか
濃姫の最後や死因は?本能寺・早世・長生きの説をくらべる
結論:濃姫の最後はわかっていない
- いつ亡くなった?:わかっていません。慶長17年(1612年)とする説もあります
【諸説あり】 - 何が原因で?(死因):どの説でも、死因を書いた記録は見つかっていません
【不明】 - どこで?:わかっていません。本能寺で亡くなったという話は、記録では確かめられません
【俗説】
濃姫の最後については、「若くして亡くなった」「離縁された」「本能寺で信長と亡くなった」「長生きした」など、いろいろな説があります。どの説が正しいかを考えるうえで大事な手がかりが、次の日記の記事です。
手がかりは1569年の日記の「信長本妻」
京都の公家・山科言継(やましな ときつぐ)は、毎日の出来事を日記に書いていました。その『言継卿記(ときつぐきょうき)』の永禄12年(1569年)7月27日の記事に、「信長本妻」という言葉が出てきます。
史料ボックス『言継卿記』の「信長本妻」
出典
山科言継『言継卿記』永禄12年(1569年)7月27日の記事(ここでは、東京大学史料編纂所のデータベースの本文を引いた松浦由起氏の論文〈2014年〉によりました)
原文(一部)
「故一色義龍後家壷可為所持、可被出之由信長連々被申、一乱之刻被失云々、尚於責乞者可自害云々、然者信長本妻兄弟女子十六人可為自害」
現代語訳
亡くなった一色義龍(斎藤義龍)の未亡人(夫に先立たれた妻)が持っているはずの茶つぼを出すように、信長がたびたび求めた。未亡人は「戦乱のときになくした」と言い、それでも求めるなら自害する、という。そうなれば、「信長本妻」とかかわりのある16人が自害することになる、という。
この記録からわかること・わからないこと
1569年に「信長本妻(信長の正室)」とよばれる女性がいたことがわかります。ただし名前は書かれていません。また最後の部分は区切り方で意味が変わるため、16人がだれなのか、その内訳ははっきりしません
義龍は道三の長男で、濃姫のきょうだいにあたる人物です(江戸時代の本は、母がちがう兄としています)。晩年は「一色」と名のっていました。義龍の未亡人をめぐるこの記事に「信長本妻」が出てくることから、この本妻は道三の娘、つまり濃姫を指すとみる考え方が有力です【有力説】。
もしそうなら、濃姫は1569年(天文4年生まれ説なら数え35歳)にも生きていて、信長の正室だったことになります。つまり、「それより前に若くして亡くなった」「それより前に離縁された」という説とは合いません。
最後の説をくらべる
おもな説を、根拠と弱いところに分けて並べます。
| 説 | 根拠(書かれた時代) | 弱いところ |
若くして亡くなった(早世説)【諸説あり】 | 記録から姿が消えること。江戸時代の『濃陽諸士伝記』(1638年ごろ)の話 | 1569年の「信長本妻」が濃姫なら、それより前の死とは合わない |
離縁された(離縁説)【俗説】 | 父の道三が亡くなった弘治2年(1556年)のあと、結婚の意味がなくなった、という推測 | 当時の記録の根拠は見つからない。1569年の「本妻」が濃姫なら、それより前の離縁とは合わない |
本能寺で亡くなった【俗説】 | 明治の錦絵、昭和の大河ドラマ、岐阜市の遺髪塚の言い伝え | 当時の記録にない。『信長公記』は、信長がそばの女たちを外へ出したと書く |
「安土殿」として生きた【諸説あり】 | 信長の次男・信雄の家臣と領地の一覧『織田信雄分限帳』(天正年間)の「安土殿」 | 「安土殿は濃姫だ」と書いた記録は見つかっていない |
慶長17年(1612年)に亡くなった(養華院説)【諸説あり】 | 18世紀半ば以後にまとめられたとされる寺の名簿の「信長公御台」 | 伝えられる成立の時期が正しければ、亡くなってから100年以上あとの名簿。同じ人かどうかは見方が分かれる |
本能寺で信長と戦って死んだ?
「濃姫は本能寺で薙刀を持って信長と戦った」という場面は、ドラマなどでおなじみです。でも、本能寺の変(天正10年〈1582年〉6月2日)のようすを書いた『信長公記』を読むと、ちがう姿が見えてきます。
史料ボックス『信長公記』が書く本能寺の女たち
出典
太田牛一『信長公記』巻十五(本能寺の変の段。ここでは、明治14年〈1881年〉の活字本〈Wikisource〉によりました)
原文(一部)
「是迄御そはに女共付そひて居申候を、女はくるしからす、急罷出よと被仰、追出させられ」
現代語訳
それまで信長のそばには女たちが付きそっていたが、(信長は)「女たちは、ここにとどまらなくてよい。急いで外へ出よ」とおっしゃって、外へ出させた。
この記録からわかること・わからないこと
信長が、そばにいた女たちを外へ出したことがわかります。女たちの名前は書かれていないので、この中に濃姫がいたかどうかはわかりません
このあと信長は、御殿の奥へ入って自害しました【史実:信長公記】。

画像:本能寺で、そばにいた女性たちに逃げるよう叫ぶ信長
一方、明治時代の錦絵(多色刷りの版画)には、本能寺で薙刀をふるう女性が描かれたものがあります。

画像:楊斎延一(ようさい のぶかず)『本能寺焼討之図』(明治29年〈1896年〉・名古屋市蔵)の一部。中央に薙刀をふるう長い髪の女性、右に部屋の中から外を見る織田信長が描かれています。絵の中に、この女性の名前は書かれていません。Wikimedia Commons(パブリックドメイン)
この錦絵の女性には名前が書かれておらず、濃姫だとは言えません。一方、昭和の大河ドラマには、濃姫が本能寺で薙刀を持って戦う場面があります。けれども、絵もドラマも本能寺の変からずっとあとに作られたもので、濃姫が本能寺にいた証拠にはなりません【俗説】。
岐阜市には、本能寺の変のあと、逃げのびた家臣が濃姫の遺髪を埋めたと伝わる「お濃の墓(遺髪塚)」もあります【伝承】(くわしく)。
本能寺のあとも生きていた?「安土殿」と「養華院」
反対に、濃姫は本能寺の変のあとも長く生きた、という説もあります【諸説あり】。手がかりは2つあり、別々に見ていく必要があります。
1つめは「安土殿(あづちどの)」です。信長の次男・織田信雄(のぶかつ)の家臣や領地などを書いた帳面『織田信雄分限帳(ぶげんちょう)』に、「安土殿」という女性が出てきます。信長の妻の一人が、安土城にちなんでこう呼ばれたとみて、これを濃姫とする説があります。ただし、「安土殿は濃姫だ」と書いた記録は見つかっていません。
2つめは「養華院(ようかいん)」です。18世紀半ば以後にまとめられたとされる寺の名簿『泰巌相公縁会名簿』に、慶長17年(1612年)7月に亡くなった「養華院殿要津妙玄大姉」という女性が、「信長公御台(信長の正室)」として書かれている、と紹介されています(侍ロードは名簿の原文を確かめられていません)。養華院を濃姫とし、さらに天文4年(1535年)生まれ説をとると、数え78歳まで生きたことになります。
ただ、この名簿は、伝えられる成立の時期が正しければ、亡くなってから100年以上あとのもので、この人が濃姫と同じ人かどうかは、研究者の間でも見方が分かれています。事典の中には、この説をとって「1535〜1612年」と書くものもありますが、安土殿も養華院も、濃姫と同じ人だと確かめられているわけではありません。
濃姫の死因は?
早く亡くなった説でも、長生きした説でも、濃姫が何の病気で、どのように亡くなったかを書いた記録は見つかっていません【不明】。慶長17年説でも、手がかりは名簿に書かれた養華院の亡くなった年月日だけで、濃姫本人の死因はわかりません。「老衰だった」「京都で亡くなった」というのは推測です。
ここまではわかる/ここからはわからない
- わかる:1569年に「信長本妻」とよばれる女性がいたこと。本能寺の変のとき、信長がそばの女たちを外へ出したこと
- わからない:濃姫がいつ・どこで・何が原因で亡くなったか。本能寺にいたかどうか
『豊臣兄弟!』の濃姫(帰蝶)役はだれ?登場しない理由と歴代大河ドラマの濃姫
2026年の大河ドラマ『豊臣兄弟!』では、制作統括が、濃姫(帰蝶)を登場させない方針を説明しています。2026年10月20日に侍ロードが確かめた範囲でも、濃姫の登場や配役を知らせる発表は見つかりませんでした。信長のそばで本音を聞く相手として描かれているのは、妹の市(お市の方)です。
その理由について、ドラマの制作統括(チーフ・プロデューサー)は、2026年2月の取材で、おおよそ次のような考えを説明しています(TVガイドWeb、2026年2月14日の記事より要約)。
- 秀吉・秀長の兄弟と、信長・市の兄妹をくらべて描きたい
- 信長の「孤独」を大切にしたい。妻や子が出てくると、その孤独がぼやけてしまう
なお、同じ取材で制作統括は、大人になった息子の信忠・信孝は登場すると話しています。
別の取材記事では、帰蝶は物語の中にいないのではなく、姿を見せていないだけ、という扱いだとも紹介されています(木俣冬さんの記事、Yahoo!ニュース エキスパート、2026年2月15日)。
つまりこれは、ドラマの人物の描き方についての説明です。史実の濃姫について、何か新しいことがわかったという話ではありません。

画像:ドラマや小説の濃姫を案内する濃姫
大河ドラマや小説の濃姫(帰蝶)
濃姫は、これまで多くのドラマや小説に登場してきました。おもな作品を紹介します。
| 作品(年) | 描かれ方 | 史実とのちがい |
| 小説『国盗り物語』(1963年から連載) | 「濃姫」「帰蝶」の名で登場。この作品から2つの名前が広まった | 性格や会話は小説の創作【ドラマの創作】 |
| 大河ドラマ『国盗り物語』(1973年) | 本能寺の変で、薙刀を持って戦い、亡くなる | 本能寺にいた記録は見つかっていない【ドラマの創作】 |
| 大河ドラマ『麒麟がくる』(2020年) | 「帰蝶」の名で、明智光秀のいとことして登場 | いとこ説は江戸時代の本の話。光秀とのやりとりは創作【ドラマの創作】 |
| 映画『レジェンド&バタフライ』(2023年) | 信長と濃姫の夫婦を主役にした映画 | 夫婦のやりとりは創作【ドラマの創作】 |
ここまではわかる/ここからはわからない
- わかる:『豊臣兄弟!』の制作統括が、信長の孤独を描くために妻を登場させないと説明していること
- わからない:ドラマや小説で描かれた濃姫の性格や会話が、実際にどうだったか
濃姫と信長の夫婦仲は?溺愛説や結婚の年齢差
「信長は濃姫を溺愛していた」「2人はラブラブだった」という話を見かけることがあります。しかし、今回確認した当時の記録には、2人の夫婦仲を書いたものはありません【不明】。仲がよかったとも悪かったとも、記録からは言えないのです。
結婚したのはいつ?何歳で?
『信長公記』は、結婚した年を書いていません。研究者の小和田哲男氏は、織田と斎藤の最後の戦いが天文16年(1547年)なので、仲直りと結婚はその翌年の天文17年(1548年)だろうと考えています。一方、『美濃国諸旧記』は天文18年(1549年)2月24日としています【諸説あり】。
信長は天文3年(1534年)5月の生まれなので、結婚のときは数え15か16歳です。濃姫の生まれた年ははっきりしませんが、『美濃国諸旧記』の天文4年(1535年)生まれ説に立つと、数え14か15歳。信長との年齢差は1歳ということになります(数え年は、生まれた年を1歳とし、正月ごとに1歳ずつ足す数え方です)。

画像:美濃から尾張へ嫁ぐ濃姫
信長の前に、別の人と結婚していた?
道三の娘が、信長より前に、美濃の守護(国を治める役目の家)の土岐氏に嫁いでいたという話があり、これを濃姫の最初の結婚とみる説があります【諸説あり】。ただ、その娘が濃姫だったとは確かめられていません。
夜中に抜け出す信長の話は本当?
江戸時代の読み物『武将感状記』(1716年)や『絵本太閤記』には、こんな話が出てきます。
信長が毎晩、濃姫が眠ったころにこっそり起きて外へ出ていく。わけを聞くと、信長は「道三の家老が裏切って道三を討つ手はずで、その合図ののろしを待っているのだ」と打ち明ける。濃姫がこれを父に知らせると、道三はその家老を斬ってしまった。じつはこれこそが信長の計略だった――という話です。
よくできた話ですが、江戸時代に書かれた読み物の話で、当時の記録では確かめられません【伝承】。
信長の正室・側室については、織田信長の記事「信長の妻はだれ?」でも紹介しています。
ここまではわかる/ここからはわからない
- わかる:天文17年(1548年)か18年(1549年)ごろに結婚したこと
- わからない:結婚したときの濃姫の年齢、2人の夫婦仲
濃姫に子供はいた?信忠の養母とされる話
濃姫が子どもを生んだという記録は見つかっていません【不明】。
江戸時代の本には、子どもについて書いたものがあります。寛永15年(1638年)の『勢州軍記』は、信長の御台(正室)である道三の娘には「男の子がなかった」と書き、元文3年(1738年)の『美濃明細記』は、信長の正室には「子がなかった」と書いています【伝承】。
また、側室(正室のほかの妻)の生駒氏の娘が生んだ長男・信忠を、濃姫が養子にして跡継ぎにした、という話も江戸時代の本に見えます【伝承】。ただし、本当に養子にしたのか、濃姫が実際に信忠を育てたのかは、わかっていません。
「子どもの記録がない」ことから、「夫婦仲が悪かった」「体が弱かった」と考える人もいますが、記録がないだけで、そこまでは言えません。
信長の子どもの多くは、側室が生んだとされます【有力説】。長男の信忠は弘治3年(1557年)の生まれで、母は生駒氏の娘とされます【有力説】。信長の子どもたちは織田信長の記事の家系図にまとめています。

画像:御殿の縁側で考えごとをする濃姫
ここまではわかる/ここからはわからない
- わかる:江戸時代の本が「子がなかった」と書いていること
- わからない:濃姫に子どもがいたかどうか。信忠を養子にしたのが本当かどうか
濃姫の父母は?斎藤道三や明智光秀とはいとこ?

画像:濃姫の家系図(実線は記録で確かめられる関係、点線は江戸時代の本などに出てくる関係です。侍ロード作成)
父・斎藤道三は「美濃のまむし」
父の斎藤道三は、美濃の守護・土岐氏の家臣の家から身をおこし、美濃を治めるまでになった戦国大名です。そのしたたかさから「美濃のまむし」とも呼ばれますが、これは後の時代についたあだ名です。
娘を信長に嫁がせたあと、道三は息子の義龍と対立し、弘治2年(1556年)4月、長良川のほとりで義龍の軍勢と戦って亡くなりました【史実】。道三の生涯や長良川の戦いについては、斎藤道三の記事でくわしく紹介しています。

画像:信長との縁談を娘の濃姫に伝える道三
母は「小見の方」?
母は、明智氏の娘の「小見の方(おみのかた)」だったと、『美濃国諸旧記』は書いています【伝承】。同じ本は、義龍の母を別の女性(深芳野〈みよしの〉)とし、義龍と濃姫を母のちがう兄と妹としています【伝承】。
明智光秀とはいとこ?
『美濃国諸旧記』は、濃姫を明智光秀のいとことしています【伝承】。母の小見の方が明智氏の出身だから、というわけです。
ただ、今回確認した資料では、この本のほかにいとこ説を裏づける記録は見つかりませんでした。光秀自身も、生まれた年や親がはっきりしない人物です。大河ドラマ『麒麟がくる』(2020年)では、光秀のいとことして帰蝶が登場し、この説がよく知られるようになりました。光秀については明智光秀の記事をどうぞ。
お市の方とは義理の姉妹
信長の妹・お市の方から見ると、濃姫は兄の妻、つまり義理の姉にあたります。今回確認した資料では、2人が会ったことは確かめられませんでした。お市についてはお市の方の記事で紹介しています。
ここまではわかる/ここからはわからない
- わかる:父が斎藤道三であること
- わからない:母がだれか。明智光秀のいとこだったかどうか
信長と濃姫の像はどこ?清洲公園や墓・ゆかりの地
濃姫にゆかりがあるとされる場所は、愛知県・岐阜県・京都にあります。ただし、記録で確かめられるものと、言い伝えのものがあるので、分けて紹介します。
信長と濃姫の像(清洲公園)
愛知県清須市の清洲公園には、信長の銅像と、その信長を見上げるように立つ濃姫の像があります。どちらも今の時代に作られた像です。

画像:清洲公園の濃姫像(左)と織田信長像(右)。Wikimedia Commons(撮影:baggio4ever・CC BY 3.0)
お濃の墓(濃姫遺髪塚)
岐阜市不動町には、「お濃の墓(濃姫遺髪塚)」があります。本能寺の変のあと、逃げのびた家臣が濃姫の遺髪を埋めたと伝えられる場所です【伝承】。昭和20年(1945年)の岐阜空襲で焼け、昭和51年(1976年)に地元の人たちが建て直しました。国や市の史跡ではありません。

画像:岐阜市不動町の「お濃の墓(濃姫遺髪塚)」。Wikimedia Commons(撮影:先徒隗始・CC0)
京都・大徳寺総見院
京都市北区の大徳寺総見院は、豊臣秀吉が信長の一周忌のために建てた寺です。信長の一族の墓があり、その中に、慶長17年(1612年)に亡くなった「養華院」(長生き説で濃姫とされる女性)の墓とされる五輪塔(供養のための石の塔)がある、といわれます【諸説あり】。ふだんは公開されておらず、特別公開のときに拝観できることがあります。
鷺山城跡と、ふもとの新しい発掘(岐阜市)
岐阜市の鷺山(さぎやま)は、道三が晩年に住んだ城があったとされる小さな山です【伝承】。『美濃国諸旧記』が濃姫を「鷺山殿」と呼んでいることから、濃姫が育った場所と紹介されることもありますが、記録で確かめられる話ではありません【伝承】。

画像:鷺山の山頂にある鷺山城跡の碑(岐阜市)。Wikimedia Commons(撮影:Hide-sp・CC BY-SA 3.0)
2026年1月に発表された、鷺山のふもとの発掘
- 岐阜市は令和7年度(2025年度)の発掘調査で、鷺山の東のふもとから、戦国時代の館の堀と、両側を石垣で補強した土橋(堀を渡るために土で造った通り道)を見つけました(2026年1月25日に現地説明会)
- 市は、道三が土岐頼芸(ときよりのり)の館として整えた可能性を示しています
- 濃姫とのかかわりは、市の資料には書かれていません
主なゆかりの地を、表にまとめます。
| 場所 | 今あるもの | 濃姫とのかかわり |
| 清洲公園(愛知県清須市) | 信長像と濃姫像 | 今の時代に作られた像 |
| お濃の墓(岐阜市不動町) | 遺髪塚 | 遺髪を埋めたと伝わる【伝承】 |
| 大徳寺総見院(京都市北区) | 信長の一族の墓 | 長生き説に立った場合の墓とされる【諸説あり】 |
| 鷺山城跡(岐阜市) | 山頂の碑・ふもとの館の跡 | 「鷺山殿」の呼び名から結びつけられる【伝承】 |
| 岐阜城(岐阜市) | 昭和31年(1956年)に建てられた復興天守(改修のため令和9年〈2027年〉10月末まで休館の予定) | 1569年の「信長本妻」の記事は、信長が岐阜を本拠にしていたころのもの。濃姫が住んだという記録は見つかっていない |
よくある質問
濃姫の読み方は?
「のうひめ」です。江戸時代の本では「のひめ」とふりがながついていました。「帰蝶」は「きちょう」と読みます(くわしく)。
濃姫は何歳で結婚した?
はっきりしません。天文4年(1535年)生まれ説に立つと、結婚した天文17年(1548年)か18年(1549年)には数え14か15歳です(くわしく)。
信長と濃姫の年齢差は?
天文4年(1535年)生まれ説に立つと、天文3年(1534年)生まれの信長の1歳年下です。ただし濃姫の生まれた年は、江戸時代の本にしか出てきません。
濃姫は美人だった?
顔や姿を書いた当時の記録は見つかっておらず、本人の姿と確かめられる肖像画も見つかっていません。「美人だった」「気が強かった」という人物像は小説やドラマでおなじみですが、今回確認した当時の記録では裏づけられません。
濃姫は本当にいた人?
はい。道三の娘が信長に嫁いだことは『信長公記』に書かれています
【史実】。わからないのは、名前やその後の人生です。
道三が濃姫に短刀を渡した話は本当?
「信長がうつけ者なら、この刀で刺せ」と道三が短刀を渡し、濃姫が「この刀は父上を刺すことになるかもしれません」と答えた、という有名な話があります。しかし侍ロードが調べた範囲では、この話の出どころとなる古い記録は見つかりませんでした
【俗説】。
『麒麟がくる』の帰蝶は史実?
『麒麟がくる』(2020年)の帰蝶は、明智光秀のいとことして描かれました。いとこ説は江戸時代の『美濃国諸旧記』に出てくる話で、ドラマの中の会話や活躍の多くは、ドラマのための創作です
【ドラマの創作】。
まとめ|濃姫とは
濃姫は、美濃の斎藤道三の娘で、尾張と美濃の仲直りのために織田信長に嫁いだ正室です。結婚したことは、『信長公記』に書かれた確かな話です。
一方、「濃姫」「帰蝶」という名前は江戸時代より後の本に出てくる呼び名で、本当の名前はわかっていません。最後や死因もわかっていません。1569年の日記に出てくる「信長本妻」が、結婚のあとの濃姫を考える大きな手がかりです。
本能寺で薙刀を持って戦う濃姫の姿は、昭和の大河ドラマなどでおなじみですが、当時の記録では確かめられません。
関係する人物については、織田信長、明智光秀、お市の方、豊臣秀吉の記事もあわせてどうぞ。
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記録が少ないからこそ、どこまでわかって、どこからわからないかを分けて考えることが大事なんだ。
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名前の出どころまでたどれて、おもしろかったです!
参考にした史料・この記事の書き方
この記事は、おもに次の記録や資料をもとに書いています。
- 同じ時代の記録:山科言継『言継卿記』(永禄12年7月27日の記事。松浦由起氏の論文に引かれた東京大学史料編纂所のデータベースの本文による)
- 少しあと・後の時代の記録:太田牛一『信長公記』(首巻は松浦氏の論文に引かれた角川文庫本、巻十五と道三の最期は Wikisource の明治14年の活字本による)、『美濃国諸旧記』(国史叢書、1915年。松浦氏の論文の図版による)、『勢州軍記』『美濃明細記』『武将感状記』『絵本太閤記』(松浦氏の論文による)
- 研究:松浦由起「近世地誌・軍記・系譜等における濃姫の呼称『帰蝶・胡蝶・桔梗』について―二十一巻本『武功夜話』巻一の表記―」(『豊田工業高等専門学校研究紀要』46号、2014年。小和田哲男氏・桑田忠親氏の見方も、この論文の引用による)
- 公的な資料:岐阜市「お濃の墓」、岐阜市「令和7年度 鷺山市場遺跡発掘調査現場説明会 資料」(2026年)、岐阜県観光連盟「濃姫遺髪塚」「鷺山城跡」
- ドラマについて:TVガイドWeb「松川CPが語る後編……『豊臣兄弟!』の設計図」(2026年2月14日)、木俣冬「時代考証スタッフも気にした帰蝶(濃姫)が『豊臣兄弟!』に姿を見せない理由」(Yahoo!ニュース エキスパート、2026年2月15日)、サライ.jp「信長正室・帰蝶(濃姫)への期待【麒麟がくる 満喫リポート】」(2020年3月21日)
- 画像:楊斎延一『本能寺焼討之図』(名古屋市蔵・パブリックドメイン)、清洲公園の像(baggio4ever・CC BY 3.0)、お濃の墓(先徒隗始・CC0)、鷺山城跡(Hide-sp・CC BY-SA 3.0)は Wikimedia Commons のものです。年表・家系図・漫画・イラストは侍ロードのオリジナルです
記事中のラベルの意味
【史実】同じ時代の史料などで確かめられること(【史実:○○】は、その出どころ)【有力説】研究者の間で広く受け入れられている見方【諸説あり】見解が分かれていること【不明】確かめられる資料が見つかっていないことなど、今わかっていないこと【伝承】後の時代の記録や言い伝えによる話【俗説】広まっているが、根拠の確かでない説【ドラマの創作】ドラマや物語のために作られた話
「記録にそう書かれていること」と、「書かれた出来事が実際にあったこと」は、分けて考えています。
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