こげ茶の小袖に紺の袴の旅姿で、笠を手に持ち、緊張した顔で肩ごしに後ろをふり返る徳川家康のイラスト

画像:伊賀越えのときの徳川家康

伊賀越え(いがごえ)は、天正10年(1582年)6月、本能寺の変で織田信長が亡くなったとき、堺(今の大阪府堺市)にいた徳川家康が、わずかな家臣とともに山道を急いで通り、伊勢(今の三重県)から船で三河(今の愛知県東部)へ帰った出来事です。家康を敬う「神君」をつけて「神君(しんくん)伊賀越え」とも呼ばれます。

「本当にあったの?」と思う人もいるかもしれませんが、家康が伊賀・伊勢を通って三河の大浜に上陸したことは、当時の日記に書かれています【史実:家忠日記】。ただし、細かな道すじや日程は記録によってちがい、今も研究が続いています【諸説あり】。

この記事では、伊賀越えのルートを地図で、日付ごとの行程を表で示し、一緒にいた家臣や助けた人たち、よく聞く話がどこまで本当かを、記録と後の時代の話に分けて紹介します。

ケンシン

わしは上杉ケンシン。今日は、徳川家康の大ピンチ「伊賀越え」の話だ。

マサムネ

伊達マサムネです! 伊賀越えって、伊賀の忍者に守られて山を越えた話ですよね?

ケンシン

ふふ、記録を見ると、少しちがう姿が見えてくる。地図を見ながら確かめていこう。

ひと目でわかる伊賀越え

  • いつ?:天正10年(1582年)6月2日〜5日ごろ(当時の暦)
  • だれが?:徳川家康(数え41歳)と三十数人の家臣。信長の家臣・長谷川秀一もいっしょでした(くわしく)
  • どこからどこへ?:堺 → 宇治田原(京都府)→ 信楽(滋賀県)→ 伊賀(三重県)→ 伊勢 → 船 → 三河の大浜 → 岡崎(くわしく)
  • 何日?:2日に堺を出て、4日の夜か5日の明け方に三河に上陸し、5日に岡崎へ(藤田達生氏らの復元。記録により諸説。くわしく)
  • 何km?:全体で200km余り。桜峠を通ったと考えた場合、伊賀の国の中は約20kmです(藤田達生氏の概算。くわしく)
  • 本当?:本当にあった出来事です。ただし、有名な話の中には後の時代に書かれたものもあります(くわしく)

知りたいところから読めるように、主な見出しへのリンクを置いておきます。

記事の中の【史実】【諸説あり】などのラベルは、その話がどれくらい確かかを示しています(意味は記事の最後にまとめています)。

伊賀越えとは?家康はいつ、どこへ逃げた?

ひと言でいえば、伊賀越えは「本能寺の変のあと、堺にいた家康が、明智光秀の勢力をさけて山道を通り、伊勢から船で三河へ帰った逃避行」です。

このころ家康は、信長に招かれて安土城(滋賀県)をたずね、そのあと信長の側近・長谷川秀一(はせがわ ひでかず)の案内で、京都・大坂・堺を見物していました【史実:信長公記】。戦に行く旅ではなかったので、お供は三十数人ほどでした【有力説】。そこへ6月2日、京都の本能寺で信長が明智光秀に討たれたという知らせが届きます。

「神君(しんくん)」は、亡くなったあとの家康を敬っていう呼び名です。江戸幕府がまとめた歴史書『徳川実紀』は、このできごとを「伊賀越」と呼び、家康の「御生涯御艱難の第一」(一生でいちばんの苦難)と書いています。今の本では、三河一向一揆・三方ヶ原の戦いとならぶ「家康の三大危機」の一つともいわれます。

史料ボックス『家忠日記』が書く伊賀越え

出典
松平家忠『家忠日記』天正10年(1582年)6月4日の記事。家忠は家康の一族の武士で、毎日の出来事を日記に書き残していました(『大日本史料』第11編之1・『岡崎市史』別巻中巻などに収める。ここでは碧南市の学芸員の講話記録〈2022年〉に引かれた本文によりました。本によって送りがななどが少しちがいます)

原文(一部)
「家康いか、伊勢地を御のき候て、大浜へ御あかり候而、町迄御迎ニ越候」

現代語訳
家康様は伊賀・伊勢の道を通って退かれ、大浜(今の愛知県碧南市)にお上がりになったので、(わたしは)町まで迎えに行った。

この記録からわかること・わからないこと
家康が伊賀・伊勢を通り、船で三河の大浜に戻ったことがわかります。一方、通った峠や村、泊まった所、お供の人数、だれが案内したかは書かれていません

同じ日の日記には、いっしょに堺にいた穴山梅雪について「腹切候」(腹を切った)とも書かれています(くわしく)。細かな道すじは、後にまとめられた記録をくらべて考えていきます。次の章で地図にしてみましょう。

伊賀越えのルートは?地図で見る道すじと諸説

伊賀越えのルート地図。堺から宇治田原、信楽の小川、伊賀の柘植、加太越えを通って伊勢の長太へ進み、船で三河の大浜に上陸して岡崎へ戻る道すじを示している

画像:伊賀越えのルート(『石川忠総留書』の道のりをもとに、藤田達生氏の研究を参考に侍ロードが作成。地点の位置は大まかです。下地:国土地理院の地理院タイル)

この記事でくらべた主な記録のうち、伊賀越えの道すじをくわしく書いているのが、『石川忠総留書(いしかわ ただふさ とめがき)』です。伊賀越えでお供をした大久保忠隣の子・石川忠総が、江戸時代の初めに書き残したもので、研究者も比較的信頼できる記録と見ています【有力説】。

この記録をもとにすると、家康の一行はおよそ次の道を通りました【有力説】。

  • 6月2日:堺 → 平野(大阪市)→ 穂谷・尊延寺(大阪府枚方市)→ 草内(京都府京田辺市)で木津川を渡る → 宇治田原(京都府宇治田原町)
  • 6月3日:宇治田原 → 朝宮 → 信楽の小川(滋賀県甲賀市)
  • 6月4日:小川 → 伊賀の丸柱・柘植(三重県伊賀市)→ 加太(かぶと)越え(三重県亀山市)→ 関・亀山 → 四日市 → 長太(なご。三重県鈴鹿市)から船
  • 6月4日の夜〜5日:三河の大浜(愛知県碧南市)に上陸 → 岡崎

伊賀の国境の越え方は3つの説

道すじの中で説が分かれるのが、6月4日に信楽の小川を出て、伊賀の柘植へぬけるまでの部分です【諸説あり】。

信楽の小川から伊賀の柘植までの3つの説の地図。桜峠越え、御斎峠越え、甲賀を回る甲賀越えの道すじを色分けしている

画像:信楽の小川から伊賀の柘植までの3つの説(藤田達生「『神君伊賀越え』再考」2005年の図をもとに侍ロードが作成。地点の位置は大まかです。下地:国土地理院の地理院タイル)

説通った道と、もとになる記録伊賀の国の中の距離
桜峠越え小川 → 神山 → 桜峠 → 丸柱 → 柘植。『石川忠総留書』の地名から約20km
御斎峠越え小川 → 多羅尾 → 御斎峠(おとぎとうげ)→ 丸柱 → 柘植。江戸幕府の『徳川実紀』が書く道約25km
甲賀越え小川 → 甲賀の油日(滋賀県甲賀市)→ 柘植。藤田氏が2005年に検討した、甲賀を回る道約5km

三重大学の藤田達生氏は、2005年の論文で、桜峠越えがもっとも可能性が高く、御斎峠越えは可能性がかなり低いが、甲賀越えも否定はできない、としています。御斎峠越えは遠回りで、伊賀の中心の上野にわざわざ近づく道になるからです。甲賀越えについては、甲賀の武士の家に家康の文書が残っていることなどから、その可能性が考えられてきました。

ただし、甲賀越えの根拠の一つとされてきた『戸田本三河記』の「甲賀越」という字については、写本を見くらべて、もとは「甲越(かぶとごえ=加太越え)」と書かれていたのではないか、と指摘する声もあります。

このほか、甲賀と伊賀の境に近い五位ノ木峠を通ったと考える地元の説もありますが、記録の裏づけはないとされます。

滋賀県甲賀市と三重県伊賀市の境にある桜峠の、両側が切り立った古い山道

画像:滋賀県甲賀市と三重県伊賀市の境にある桜峠。Wikimedia Commons(撮影:Motokoka・CC BY-SA 4.0)

「伊賀越え」なのに、伊賀はわずか約20km

名前は「伊賀越え」ですが、伊賀の国(今の三重県伊賀市あたり)の中を通ったのは、道のりのほんの一部でした。藤田氏の概算では、堺から三河までの全体は200km余り。そのうち桜峠越えの道で伊賀の中を通ったのは約20kmで、全体の約10分の1ほどです。

道のりの大部分は、山城(京都府南部)、近江(滋賀県)、伊勢(三重県北部)の道と、伊勢湾の海の上でした。

マサムネ

伊賀越えなのに、伊賀は1割くらいなんですね!

ケンシン

うむ。名前と中身が少しちがうのも、この話の面白いところだ。

船はどこから乗って、どこに着いた?

伊勢から船に乗った場所は、記録によってちがいます【諸説あり】。『石川忠総留書』は長太(なご。今の三重県鈴鹿市)、『三河物語』や『徳川実紀』は白子(しろこ。鈴鹿市)と書いています。三重県の解説も、「白子・若松説」と「長太浦・四日市説」があり、確実なことは言えないとしています。

一方、三河で船からおりた場所は、当時の『家忠日記』に大浜(愛知県碧南市)と書かれています【史実:家忠日記】。

記録ごとの道すじのちがい

主な記録が書く道すじをくらべると、次のようになります。

記録(書かれた時期)通った所船
『家忠日記』(同じ時代の日記)「伊賀・伊勢の道」とだけ書く大浜に上陸
『信長公記』(信長の家臣・太田牛一がのちにまとめた記録)宇治田原越え桑名から熱田へ(ほかの記録と合わない)
『三河物語』(1626年ごろ)伊賀の国白子から乗り、大野(愛知県常滑市)に上陸
『石川忠総留書』(江戸時代の初め)宇治田原・信楽・丸柱・柘植・加太・関・四日市長太から乗り、大浜に上陸
『徳川実紀』(1843年に完成)宇治田原・信楽・御斎峠・柘植・加太白子から乗り、大浜に上陸

奈良(大和)を通ったという説も

江戸時代の初めの年代記『当代記』には、家康が「大和路」(奈良県の道)にかかり、高田の城(奈良県大和高田市)に寄った、と書かれています【伝承:当代記】。また、江戸幕府が集めた古文書の写しの中には、「今度大和越之節」(このたび大和を越えたとき)という言葉で始まる家康の手紙もあります。こうした記録をもとに、家康は奈良を通ったと考える説もあり、新聞などでも取り上げられました【諸説あり】。ただし、具体的な道すじや、根拠とされる文書の評価には、まだ検討が必要です。この記事の地図では、『石川忠総留書』にもとづく道すじを示しています。

伊賀越えは何日かかった?日程や距離を解説

『石川忠総留書』をもとに藤田達生氏らが復元した日程は、次のとおりです【有力説】。道のりは記録に書かれた「里」の数です。km は1里を約3.9kmとして換算した目安で、実際に歩いた距離を正確に示すものではありません。

日付通った所・泊まった所道のり
6月2日堺を出て、尊延寺・草内を通り、木津川を渡る。宇治田原の山口氏の館に泊まる13里(約50km)
6月3日宇治田原から朝宮を通り、信楽・小川の多羅尾氏の館に泊まる6里(約23km)
6月4日小川から伊賀の丸柱・柘植へ。加太越えで伊勢に入り、関・亀山・四日市へ。長太から船に乗る四日市まで17里(約66km)
6月4日の夜〜5日船の上で夜を過ごし、三河の大浜に上陸。5日に岡崎城へ海の上

1日目は約50km、2日目はほかの日より短い約23km、3日目は約66kmも進んでいます。藤田氏が紹介する歴史学者・今谷明氏の推測では、2日目は伊賀の北の様子を見きわめるために小川で慎重に泊まり、3日目は敵がいなかったので一気に進んだのではないか、と考えられています。

京都府宇治田原町の山口城跡の近く。茶畑の間の道と案内の標識

画像:1日目に泊まったと伝わる山口氏の城跡のあたり(京都府宇治田原町)。Wikimedia Commons(撮影:officeshema・CC BY 3.0)

夕方の峠の下り坂を、汗だくの徳川家康と家臣たちが急いで駆け下りてくるイラスト

画像:加太越えの山道を急ぐ家康の一行

三河に着いたのは何日?

三河に着いた日も、記録によってちがいます。

記録三河への上陸岡崎に着いた日
『家忠日記』(同じ時代の日記)6月4日の日記に、大浜に上陸したと書く書かれていない
『石川忠総留書』と藤田氏の復元4日の深夜か5日の明け方5日
『徳川実紀』(1843年に完成)6日に伊勢の白子に着き、そこから船7日

江戸幕府の『徳川実紀』は7日に岡崎に帰ったと書きますが、当時の『家忠日記』と合いません。昭和の『岡崎市史』(1934年)も、7日とする本はあるが『家忠日記』に従う、としています。『家忠日記』は6月4日の条に大浜への上陸を記しています。藤田達生氏らの復元では、4日の深夜から5日の明け方に上陸し、5日に岡崎へ戻ったとされます。記録によって日程にちがいがあります【諸説あり】。

マサムネ

堺から3日ほどで、200km以上も! 今の車ならすぐですが、当時は歩きと馬と船ですもんね。

ケンシン

しかも、いつおそわれるかわからない道だ。なぜそんな道を選んだのか、次に見てみよう。

家康はなぜ伊賀越えをした?逃げた理由と危険

家康が堺にいたわけ

天正10年(1582年)5月、家康は、武田家との戦いのあと信長から駿河(静岡県)をあたえられたお礼に、穴山梅雪とともに安土城の信長をたずねました。信長は家康に「京都・大坂・奈良・堺をゆっくり見物するように」と言い、側近の長谷川秀一を案内役につけました【史実:信長公記】。家康は5月29日に堺に入り、6月1日には茶会でもてなされています【史実:宇野主水日記】。

知らせを聞いたのはどこ?

6月2日の朝、家康は堺を出て京都へ向かいました【史実:宇野主水日記】。本能寺の変の知らせを受けた場所は、記録によってちがいます【諸説あり】。

  • 京都へ向かう途中、河内の飯盛山(大阪府四條畷市・大東市)の近く:『石川忠総留書』など。先に京都へ向かった本多忠勝が、京都から来た商人の茶屋四郎次郎と出会い、引き返して家康に知らせた、と書きます
  • 堺:『信長公記』『三河物語』、宣教師フロイスの手紙など
街道で、片ひざをついた本多忠勝から知らせを聞き、目を見開いておどろく徳川家康のイラスト

画像:本能寺の変の知らせを聞く家康(『石川忠総留書』などが伝える話)【伝承】

知恩院へ行って切腹すると言った?

よく知られているのが、知らせを聞いた家康が「京都の知恩院で、信長の後を追って腹を切る」と言い、本多忠勝らに説得されて三河へ帰ることにした、という話です【伝承】。

この話は、今回確かめた記録では『石川忠総留書』に見え、江戸幕府の『徳川実紀』(1843年)にも書かれています。一方、家康の家臣・大久保忠教が書いた『三河物語』(1626年ごろ)には出てきません。

なぜ危なかった?

家康の一行が危なかった理由は、主に3つあります。

  • 人数が少ない:お供は三十数人で、戦うための軍勢ではありませんでした【有力説】
  • 主な道は明智方:京都や近江(滋賀県)の大きな街道は、明智光秀の勢力が押さえていました【有力説】
  • 落ち武者狩り:戦乱のときには、土地の武士や村人、野盗などが、逃げる武士をおそって刀や持ち物をうばうことがありました。いっしょに堺にいた穴山梅雪は、帰る途中で命を落としています【史実:家忠日記】

伊賀には特別な事情もありました。伊賀は前の年の天正9年(1581年)に信長に攻められて平定されたばかりで【史実:信長公記】、信長の味方の家康にとっては、気の許せない土地でした。藤田氏は、本能寺の変の直後、伊賀で信長方の城を攻める一揆が起きたことを、江戸時代の記録『勢州軍記』から紹介しています。

なぜこの道を選んだ?

それでも家康がこの道を選んだのは、伊賀をぬけた先の伊勢(三重県北部)に、信長の子・織田信雄ら織田方の勢力があったからと考えられています。伊勢から船で伊勢湾をわたれば、三河はすぐです【有力説】。

また、信楽や甲賀(滋賀県甲賀市)の武士たちとのつながりもありました。江戸時代の記録には、案内役の長谷川秀一が信楽の多羅尾光俊(たらお みつとし)と親しく、案内を頼んだと書かれています【伝承】。

木陰で考えこむ徳川家康に、本多忠勝が遠くの山を指さして伊賀と伊勢の山道を通って三河へ帰ろうと説く漫画のコマ

画像:帰り道を決める家康と本多忠勝

マサムネ

知らない山道を通るなんて、こわかったでしょうね。

ケンシン

だからこそ、道を知る人の助けが大事だった。次は、いっしょにいた人と助けた人を見ていこう。

伊賀越えのメンバーは?同行した家臣と協力者

お供の家臣

『石川忠総留書』には、堺で家康のお供をした人として、34人の名前が載っています【伝承:石川忠総留書】。これは一行全体の人数を確定する名簿ではありませんが、主な家臣の顔ぶれがわかります。「徳川四天王」とよばれる4人も、全員そろっていました【有力説】。

名前どんな人
酒井忠次家康の家臣の中でいちばんの重臣。徳川四天王の一人
本多忠勝槍の名手。徳川四天王の一人
榊原康政徳川四天王の一人
井伊直政このとき数え22歳の若い家臣。徳川四天王の一人
石川数正酒井忠次とならぶ重臣
大久保忠隣のちの江戸幕府の重臣。『石川忠総留書』を書いた石川忠総の父
服部正成(半蔵)伊賀者を率いた槍の武将
渡辺守綱「槍半蔵」とよばれた武将

このほか、高力清長・菅沼定政・阿部正勝・大久保忠佐・永井直勝らの名前があります。ただし、この名簿は江戸時代の初めに書かれたものです。家臣のほかに、長谷川秀一や身の回りの世話をする者もいたとみられ、全体で何人だったかはわかっていません【不明】。

家康を助けた人たち

人したこと確かさ
長谷川秀一(信長の側近)信長が見物の案内役につけた。変のあとも家康といっしょに進み、信楽や甲賀の武士との仲立ちをした見物の案内役は【史実:信長公記】、仲立ちは【伝承】
茶屋四郎次郎(京都の商人)本能寺の変を知らせた【伝承】(江戸時代の多くの記録が書く)
山口光広(宇治田原の武士)1日目の宿でもてなした【有力説】
多羅尾光俊(信楽の武士)2日目の宿。子が伊賀の丸柱まで案内した宿は【有力説】、案内は【伝承】
和田定教(甲賀の武士)家康に人質を出したことが、6月12日付の家康の起請文(写し)からわかる。具体的な案内の役割は藤田氏の推定人質は【史実】
角屋七郎次郎(伊勢の船商人)船を用意した【伝承】

史料ボックス 家康が和田八郎にあてた起請文(写し)

出典
天正10年(1582年)6月12日付で、徳川家康が甲賀の武士・和田八郎(定教)にあてた起請文(神仏に誓いを立てて書く文書)の写し。和田家文書・江戸幕府の「記録御用所本古文書」に伝わる(徳川林政史研究所『徳川家康文書総目録』。原文は藤田達生「『神君伊賀越え』再考」による)

原文(一部)
「今度質物早速被出候段、祝着之事」「御身上向後見放申間敷候」

現代語訳
このたび、人質をすぐに出してくださったことを、うれしく思います。あなたの身の上を、これから先も見放すことはありません。

藤田氏は2005年の論文で、『愛知県史』に収められた伊賀越えの関係史料31点のうち、このときに作られた家康の文書として、甲賀の武士の家に伝わる2点を重く見ています。この起請文と、6月4日に家康が安土城の蒲生賢秀・氏郷父子にあてて「ぜひ光秀を成敗する」と書いた手紙の控え(甲賀の山中家に伝わる)です。一方、家康を守ったといわれる伊賀者の家に伝わる当時の文書は、確かめられないと指摘しています。

夕方、信楽の山あいの館の門の前で、地元の武士に迎え入れられ、ほっとした顔の徳川家康と家臣たちのイラスト

画像:信楽の館に迎え入れられる家康の一行

甲賀や伊賀の侍たちがどんな集団だったのかは、忍者は本当にいた?の記事で、各地の忍びと一緒に紹介しています。

服部半蔵は何をした?

伊賀越えといえば、服部半蔵(正成)が伊賀者を集めて家康を守った話が有名です。『石川忠総留書』の名簿には、正成もお供の一人として記されています【有力説】。ただし、道案内をした、伊賀者を集めた、という話をくわしく語るのは後の時代の記録です【伝承】。記録ごとのちがいは、服部半蔵の記事(伊賀越えで何をした?)でくらべています。

伊賀越えは嘘?当時の記録と後の時代の話をくらべる

「伊賀越えは嘘?」と聞かれたら、答えは「伊賀越えそのものは本当にあった」です。家康が伊賀・伊勢を通って三河の大浜に戻ったことは、当時の『家忠日記』に書かれています【史実:家忠日記】。宣教師フロイスも翌年の手紙で、家康が危ない道を通りぬけたことを伝えています。

夜、灯明の明かりの下で文机に向かい、真剣な顔で日記を書く松平家忠のイラスト

画像:日記を書く松平家忠

ただし、伊賀越えの有名な話には、事件から何十年、何百年もあとに書かれたものも多くあります。後の時代に書かれた話がすべて作り話というわけではありませんが、どの記録に書かれているかを分けて読むことが大切です。

伊賀越えを伝える記録は、いつ書かれた?

記録の種類主な記録わかること・注意点
同じ時代の記録『家忠日記』、本願寺の宇野主水の日記、フロイスの手紙、家康の手紙と起請文(控えや写しで伝わる)伊賀越えがあったこと、穴山梅雪が亡くなったこと、甲賀の武士が家康に人質を出したことがわかる。ただし、道すじや人数はほとんど書かれていない
少しあとにまとめた記録『信長公記』、『三河物語』(1626年ごろ)、『石川忠総留書』道すじや人の名前がくわしい。同行した人の家に伝わった話も入り、記録どうしで食いちがう所もある
後の時代の記録伊賀者の由緒書(享保11年〈1726年〉に成立とされるものなど、いくつかある)、『寛政重修諸家譜』(文化9年〈1812年〉成立)、『徳川実紀』(1843年)伊賀者や家々の働きをくわしく書く。家の手柄を伝えるために書かれたものもあり、同じ時代の記録と合わない日付もある

よく聞く話の出どころ

よく聞く話出どころ確かさ
家康が「知恩院へ行って切腹する」と言った『石川忠総留書』、『徳川実紀』など(『三河物語』にはない)【伝承】
茶屋四郎次郎が銀を配って道を開いた茶屋家の由緒書、『徳川実紀』【伝承】
本多忠勝が木津川で柴舟を引き寄せ、渡ったあと舟をたたき割った『徳川実紀』(1843年)【伝承】
多羅尾の館で赤飯をふるまわれた『石川忠総留書』など【伝承】
服部半蔵が伊賀者を集めて守った伊賀者の由緒書、『寛政重修諸家譜』など【伝承】
家康がお金を使って危ない所を通りぬけたフロイスの手紙(同じ時代。ただし本人が見た記録ではない)。『石川忠総留書』にも家康が金を配った話がある同じ時代の手紙が伝える

宣教師ルイス・フロイスが1583年2月13日付でイエズス会に送った手紙(『大日本史料』第11編之1 に訳文がある)は、家康が兵とお金を十分に用意していたので、おどしたり物をあたえたりして通りぬけることができた、と伝えています。フロイスはその場にいたわけではありませんが、伊賀越えの翌年に書かれた、同じ時代の記録です。

「伊賀は通っていない」は本当?

伊賀の国の中を通ったのは約20kmほどで、甲賀を回る説なら約5kmです(ルートの章)。そのため「本当は甲賀越えだった」と言われることもあります。ただし、桜峠越えでも御斎峠越えでも、伊賀の北部の丸柱や柘植を通る道になります。甲賀を回る説でも、最後に通る柘植は伊賀です。「伊賀をまったく通っていない」とまでは言えません。

「そんなに危なくなかった」は本当?

藤田氏は、想定したどの道でも伊賀の国の中は半日以内で通りぬけられたとし、この区間の苦労は、これまで言われてきたほどではなかったのではないか、と見ています。甲賀や伊賀の武士たちが家康のもとに集まって守ったことも、その理由に挙げています。

ただし、これは伊賀の中の区間についての見方です。いっしょに堺にいた穴山梅雪が帰る途中で命を落としたように、少ない人数で敵の多い土地をぬける旅そのものは、命がけでした。

マサムネ

「嘘」ではないけれど、話が大きくなっている所もあるんですね。

ケンシン

そうだ。いつ、だれが書いた記録かを見れば、本当の姿に近づける。

穴山梅雪はどうなった?家康と別れたあとの最期

穴山梅雪(あなやま ばいせつ。名は信君〈のぶただ〉)は、武田信玄の一族の武将です。母は信玄の姉、妻は信玄の娘でした【有力説】。天正10年(1582年)に武田家をはなれて織田・徳川方につき、家康とともに安土城の信長をたずね、堺にも来ていました【史実】。

田舎道の分かれ道で、家来と右の道へ進みながら、遠くの家康の一行を横目で見る穴山梅雪のイラスト

画像:家康の一行と別の道を進む穴山梅雪

本能寺の変のあと、梅雪は家康の一行とは別に、少しおくれて自分の家来だけで進みました。その理由を、『三河物語』は「家康をうたがって後ろに下がった」と書き、フロイスは「出発がおくれ、家来も少なかった」と書いています【諸説あり】。

梅雪が帰る途中で亡くなったことは、当時の記録で確かめられます【史実】。ただし、最期の様子は記録によってちがいます【諸説あり】。『家忠日記』は「腹を切った」と書き、『三河物語』やフロイスの手紙は、一揆勢(土地の武士や村人などの集団)におそわれて「殺された」と書いています。場所は、宇治田原(京都府)のあたりとも、木津川のあたり(京都府京田辺市)ともいわれます【諸説あり】。

静岡市清水区の霊泉寺には、梅雪が亡くなった翌年に子の信吉が描かせた肖像画が伝わり、静岡県の文化財になっています。

マサムネ

同じ堺にいたのに、帰り道で運命が分かれたんですね…。

ケンシン

うむ。家康が無事だったのは、道を知る人の助けと、すばやい決断のおかげでもあるのだろう。

伊賀越えのあと、家康はどうした?

明け方の大浜の浜辺で、船からおりて肩の力が抜け、大きく息をはく徳川家康と家臣たちのイラスト

画像:船で三河の大浜に着いた家康

藤田達生氏らの復元では、家康は6月4日の夜から5日の明け方に大浜に上陸し、5日に岡崎城へ戻りました【諸説あり】。そして、光秀を討つ準備を急ぎ、天正10年(1582年)6月14日には兵を率いて尾張の鳴海(名古屋市緑区)まで進みました【史実】。この日の家康の手紙には「上様(信長)のとむらいのため、京へのぼる」とあります。

しかし、その前日の天正10年(1582年)6月13日、中国地方から急いで戻った羽柴秀吉が、山崎の戦いで光秀を破っていました【史実】。光秀が討たれたという知らせを受けた家康は、兵を引き返したとされます【有力説】。

このあと家康は、信長の死後、織田方の支配が崩れて混乱した甲斐・信濃(山梨県・長野県)へ兵を出し、その土地をめぐって北条氏などと争いながら、領地を大きく広げていきます。この争いを天正壬午(てんしょうじんご)の乱といいます。

甲賀や伊賀の者が、のちに徳川家に仕えたことも知られています。伊賀越えでの働きと召しかかえを結びつける話は、後の時代の由緒書などに見えます【伝承】。家康のその後は、徳川家康の記事で紹介しています。

伊賀越えのルートは今たどれる?ゆかりの史跡

伊賀越えの道すじには、今も碑や城跡が残り、歩いてたどれる散策コースもあります。ただし、家康が本当にその場所を通ったか、立ち寄ったかは、記録で確かめられるものと、言い伝えのものがあります。

場所(今の住所)今あるもの家康とのかかわり
京田辺市(京都府)近鉄三山木駅前と観音寺に「家康公伊賀越えの道」の碑草内のあたりで木津川を渡った【有力説】
宇治田原町(京都府)山口城跡。町の散策コース「信楽街道〜家康伊賀越えの道〜」1日目に山口氏の館に泊まった【有力説】
小川城跡(滋賀県甲賀市信楽町)多羅尾氏の城跡2日目に小川の多羅尾氏の館に泊まった【有力説】
桜峠・御斎峠(甲賀市と伊賀市の境)峠道。御斎峠には碑が立つどちらの峠を通ったかは説が分かれる【諸説あり】
徳永寺(とくえいじ。三重県伊賀市柘植町)家康が立ち寄ったと伝わる寺。江戸時代の藤堂家からの寄進状が残る立ち寄ったという話は【伝承】
加太(三重県亀山市)鹿伏兎(かぶと)城跡加太越えで伊勢へ入った【有力説】
白子・長太(三重県鈴鹿市)港町船に乗った場所の候補【諸説あり】
大浜(愛知県碧南市)港町船で上陸した【史実:家忠日記】
京都府京田辺市の普賢寺地区にある「家康公伊賀越えの道」の石碑と説明板

画像:京都府京田辺市の普賢寺地区(観音寺)にある「家康公伊賀越えの道」の碑。Wikimedia Commons(撮影:Asset utilitist・CC0)

滋賀県甲賀市と三重県伊賀市の境の御斎峠に立つ石碑

画像:御斎峠の碑(滋賀県甲賀市と三重県伊賀市の境)。Wikimedia Commons(撮影:Motokoka・CC BY-SA 4.0)

三重県鈴鹿市の白子港。岸壁に漁船が並んでいる

画像:船に乗った場所の候補の一つ、白子(三重県鈴鹿市)の今の港。Wikimedia Commons(撮影:Si-take.・CC BY-SA 3.0)

よくある質問

伊賀越えの読み方は?

「いがごえ」です。家康を敬う「神君」をつけた「神君伊賀越え」は、「しんくん いがごえ」と読みます。

伊賀越えは何kmで、何日かかった?

堺から三河までの全体で200km余りです(藤田達生氏の概算)。6月2日の朝に堺を出て、4日の夜か5日の明け方に三河の大浜に上陸し、5日に岡崎に戻ったとする復元(藤田達生氏ら)があります。記録によって日程にちがいがあります(くわしく)。

伊賀越えの何がすごいの?

少ない人数で堺を出た家康が、各地の協力を得ながら、敵の多い土地を短い日数で通りぬけ、無事に三河へ帰り着いたことです。信楽や甲賀の武士たちの協力と、すばやい決断があったからこそでした。生きのびた家康は、のちに江戸幕府を開きます。

ドラマの伊賀越えは史実?

大河ドラマ『真田丸』(2016年)や『どうする家康』(2023年)などでも、伊賀越えが描かれました。山の中でおそわれる場面や、人物どうしの会話などは、ドラマのための演出をふくみます【ドラマの創作】。記録でわかることは、この記事の「伊賀越えは嘘?」の章を見てください。

『伊賀越道中双六』と関係ある?

関係ありません。『伊賀越道中双六(いがごえ どうちゅう すごろく)』は、寛永11年(1634年)に伊賀上野(三重県伊賀市)の鍵屋の辻で起きた仇討ちをもとにした、江戸時代の人形浄瑠璃です。家康の伊賀越えより50年以上あとの、別の出来事です。

服部半蔵は伊賀越えで何をした?

『石川忠総留書』の名簿には、家康のお供の一人として記されています。道案内をした、伊賀者を集めて守った、という話は後の時代の記録によるものです。くわしくは服部半蔵の記事でくらべています。

まとめ|伊賀越えとは

伊賀越えは、天正10年(1582年)6月、本能寺の変のあと堺にいた徳川家康が、伊賀・伊勢を通り、船で三河へ帰った出来事です。当時の『家忠日記』に書かれた、本当にあった出来事です。

道すじは、『石川忠総留書』をもとにすると、堺から宇治田原、信楽の小川、伊賀の丸柱・柘植、加太越えで伊勢に入り、長太から船で大浜へ、というものでした。伊賀の中を通ったのは約20kmほどで、伊賀国境の越え方には、桜峠・御斎峠・甲賀越えの説があります。

知恩院へ行って切腹すると言った話や、伊賀者が大活躍した話は、後の時代の記録によるものです。一方、甲賀の武士が家康に人質を出して協力したことは、当時の家康の文書(写し)からわかります。

関係する人物や出来事については、徳川家康、服部半蔵、本多忠勝、明智光秀、織田信長の記事もあわせてどうぞ。

ケンシン

地図と記録を見くらべると、伊賀越えの本当の姿が見えてくるな。

マサムネ

桜峠や御斎峠、いつか歩いてみたいです!

参考にした史料・この記事の書き方

この記事は、おもに次の記録や資料をもとに書いています。

  • 同じ時代の記録:松平家忠『家忠日記』(天正10年6月4日の記事。『大日本史料』第11編之1・『岡崎市史』別巻中巻、碧南市の学芸員・豆田誠路氏の講話記録〈2022年〉による)、宇野主水の日記(『大日本史料』第11編之1 による)、ルイス・フロイスの書簡(1583年2月13日付。同)、徳川家康の起請文の写し(和田家文書)と書状の控え(山中文書。藤田達生氏の論文、徳川林政史研究所『徳川家康文書総目録』による)
  • 少しあと・後の時代の記録:太田牛一『信長公記』(Wikisource)、大久保忠教『三河物語』(Wikisource)、『石川忠総留書』『当代記』(『大日本史料』第11編之1 による)、『東照宮御実紀』(『徳川実紀』。Wikisource)
  • 研究:藤田達生「『神君伊賀越え』再考」(『愛知県史研究』9号、2005年)、東京大学史料編纂所『大日本史料』第11編之1、太田浩司「歴史シリーズ『近江と徳川家康』② 神君甲賀・伊賀越え」(ここ滋賀、2023年)、『戸田本三河記』の字の読みについては、ブログ「忍びの館の忍者コラム」(2024年)の写本の比較を参考にしました
  • 公的な資料:三重県「家康の『伊賀越え』と甲賀・伊賀者」、堺市博物館「博物館資料からみる徳川家康と堺」、静岡県「絹本着色穴山梅雪画像」(しずおか文化財ナビ)
  • 地図と画像:地図の下地は国土地理院の地理院タイルを使い、侍ロードが道すじを書き加えました。桜峠・御斎峠の碑(Motokoka・CC BY-SA 4.0)、山口城跡のあたり(officeshema・CC BY 3.0)、観音寺の碑(Asset utilitist・CC0)、白子港(Si-take.・CC BY-SA 3.0)は Wikimedia Commons のものです。漫画・イラストは侍ロードのオリジナルです

記事中のラベルの意味

  • 【史実】同じ時代の史料などで確かめられること(【史実:○○】は、その出どころ)
  • 【有力説】研究者の間で広く受け入れられている見方
  • 【諸説あり】見解が分かれていること
  • 【不明】確かめられる資料が見つかっていないことなど、今わかっていないこと
  • 【伝承】後の時代の記録や言い伝えによる話
  • 【俗説】広まっているが、根拠の確かでない説
  • 【ドラマの創作】ドラマや物語のために作られた話

「記録にそう書かれていること」と、「書かれた出来事が実際にあったこと」は、分けて考えています。

この記事は侍ロード編集部が作成し、公開後も新しい研究やご指摘を受けて見直しています。内容の誤りにお気づきの場合は、お問い合わせからお知らせください。確認のうえ修正します。