本多忠勝のプロフィール。呼び名・装備品・身長・所属・階級と、一生の短い紹介

本多忠勝(ほんだ ただかつ)は、徳川家康に少年のころから仕えた戦国武将です。家康の主な戦いのほとんどに加わり、のちに上総大多喜(千葉県)と伊勢桑名(三重県)の大名になりました。酒井忠次・榊原康政・井伊直政とともに「徳川四天王」の一人に数えられます。

鹿の角の兜と大きな数珠、名前のついた槍「蜻蛉切(とんぼきり)」、「生涯57回の戦いで一度も傷を負わなかった」という話など、本多忠勝には有名な話がたくさんあります。この記事では、身長・死因・兜・家紋・子孫などのよくある疑問に答えながら、その時代の記録でわかることと、後の時代の本に書かれた話を分けて紹介します。

ケンシン

わしは上杉ケンシン。今日の主役は、家康の家臣の中でも「最強」と名高い武将だ。

マサムネ

伊達マサムネです! 鹿の角の兜の人ですよね? 本当に一度もけがをしなかったんですか?

まずわかること(この記事の要点)

  • 何をした人?:徳川家康に少年のころから仕えた武将。主な戦いに加わり、大多喜・桑名の大名になりました。家康の連絡役・交渉役もつとめました(くわしく)
  • 身長は?:確かな身長はわかっていません(くわしく)
  • 死因は?:はっきりしません。慶長15年(1610年)10月18日、桑名で数え63歳で亡くなりました。その前の年に眼の病気で隠居したとされます(くわしく)
  • 兜と数珠は?:本物の甲冑は国の重要文化財で、兜に大きな鹿の角、肩に大きな数珠がついています(くわしく)
  • 家紋は?:立葵(たちあおい)。徳川家の三つ葉葵とはちがう紋です(くわしく)
  • 本当に最強?:「57回の戦いで無傷」などの話は、今回参照した同じ時代の記録では確かめられない、伝説的な話です(くわしく)
  • 子孫は?:長男・忠政の家が、江戸時代に岡崎藩主として明治まで続きました。娘の小松殿は真田信之に嫁ぎました(くわしく)

知りたいところから読めるように、主な見出しへのリンクを置いておきます。

本多忠勝は何をした人?徳川四天王の生涯と年表

はちまきをしめ、少年用の黒い鎧を着た少年時代の本多忠勝のイラスト

画像:少年のころの本多忠勝

ひと言でいえば、本多忠勝は「少年のころから一生、徳川家康のそばで戦い、働き続けた家臣」です。

項目内容信憑性
名前本多忠勝(ほんだ ただかつ)。通称は平八郎。子どものころの名前(幼名)は鍋之助とされる通称:【史実】/幼名:【有力説】
生まれた年・場所天文17年(1548年)、三河国の蔵前(今の愛知県岡崎市西蔵前町)【有力説】
家本多家は、家康の家(松平家)に古くから仕えた家。父の本多忠高は、忠勝が数え2歳のときに戦いで亡くなった【有力説】
主君徳川家康【史実】
官位従五位下・中務大輔(なかつかさのたいふ)【有力説】
領地天正18年(1590年)上総大多喜(千葉県)10万石 → 慶長6年(1601年)伊勢桑名(三重県)10万石【有力説】
亡くなった日慶長15年(1610年)10月18日(旧暦)、桑名で。数え63歳【有力説】
墓桑名の浄土寺、大多喜の良玄寺など【有力説】

年齢はすべて数え年(生まれた年を1歳とし、お正月がくるたびに1歳ずつ足していく、昔の年齢の数え方)です。

何をした人?3つのポイント

  • ①少年のころから家康に仕え、主な戦いのほとんどに加わった:13歳(数え年)の初めての戦いから、姉川・三方ヶ原・長篠・小牧長久手・関ヶ原まで、家康の大きな戦いに加わりました【有力説】
  • ②大多喜・桑名の大名になった:家康が関東に移ると上総大多喜で10万石、関ヶ原のあとは伊勢桑名で10万石の大名になりました。桑名では城を広げ、城下町をつくり直したとされます(「慶長の町割り」)【有力説】
  • ③家康の連絡役・交渉役もつとめた:家康の手紙に添える手紙を書いたり、ほかの大名との連絡役をつとめたりしたことが、残された文書からわかると研究で紹介されています【有力説】。関ヶ原の戦いの前日の日付で、井伊直政と2人で毛利方の吉川広家らにあてた約束の文書(起請文)も伝わっています

「徳川四天王」は、酒井忠次・本多忠勝・榊原康政・井伊直政の4人をまとめた呼び名です。後の時代のまとめ方で、同じ時代の記録でこの呼び名が使われていたことは、今回確認できていません。

年表でみる本多忠勝の生涯

年年齢できごと
天文17年(1548年)1歳三河の蔵前(今の岡崎市)で生まれる
永禄3年(1560年)5月13歳初めての戦い。のちの家康(松平元康)が大高城へ兵糧(食料)を運び入れたときに従う
元亀元年(1570年)6月23歳姉川の戦い
元亀3年(1572年)25歳武田信玄が攻めこむ。一言坂・見付のあたりで退く味方を守ったと伝わる。12月、三方ヶ原の戦いで徳川軍が大敗
天正3年(1575年)5月28歳長篠の戦い
天正10年(1582年)6月35歳本能寺の変。家康とともに伊賀を越えて三河へもどる
天正12年(1584年)37歳小牧・長久手の戦い
天正18年(1590年)43歳上総大多喜10万石の大名になる
慶長5年(1600年)9月53歳関ヶ原の戦い
慶長6年(1601年)54歳伊勢桑名10万石へ移る
慶長14年(1609年)62歳眼の病気で隠居し、長男・忠政に家を任せる
慶長15年(1610年)10月63歳桑名で亡くなる

年表は、事典や江戸幕府がまとめた系図集『寛政重修諸家譜』などによります。合戦での細かい働きの多くは、江戸時代の本に書かれた話です(最強伝説の章)。

初めての戦い:大高城への兵糧入れ

夜の道を、米俵を積んだ馬とともに大高城へ向かう若い松平元康と少年の本多忠勝のイラスト

画像:大高城へ兵糧を運ぶ若い家康(松平元康)と、少年の忠勝

永禄3年(1560年)5月、桶狭間の戦いの直前に、のちの家康(このころは今川家に属していた松平元康)が、尾張の大高城(名古屋市緑区)へ食料を運び入れました。13歳の忠勝は、これに従ったのが初めての戦いだったとされます【有力説】。くわしくは徳川家康の記事で紹介しています。

姉川の戦いでの本多忠勝

元亀元年(1570年)の姉川の戦いでは、忠勝がただ一人で敵の大軍にかけこんだという話が江戸時代の本にあります【伝承】。朝倉方の真柄直隆と一騎打ちをしたという話は、後の時代の講談などで広まったものです【俗説】。くわしくは姉川の戦いの記事で紹介しています。

ケンシン

少年のころから晩年まで、家康に仕え続けたのだな。

本多忠勝の身長は?確かな数字はわかっている?

本多忠勝の確かな身長はわかっていません【不明】。今回参照した史料や研究、事典では、裏づけのある数字を確認できませんでした。

インターネットでは「○○cmあった」という数字を見かけることがありますが、今回見た記事では、数字の根拠となる記録を確認できませんでした。本物の甲冑は残っていますが(兜と甲冑の章)、甲冑の大きさから身長を割り出した研究や博物館の発表も、見つかりませんでした。

マサムネ

強そうなので大きな人を想像しちゃいますけど、本当のところはわからないんですね。

ケンシン

そうだ。わからないことは「わからない」と言うのが、歴史を正しく知る第一歩だ。

本多忠勝の死因は?最期・眼病・辞世の句

紺色の肩衣と袴を着て扇を持つ、晩年の本多忠勝のイラスト

画像:晩年の本多忠勝

本多忠勝は、慶長15年(1610年)10月18日(旧暦)、伊勢の桑名で亡くなりました。数え63歳でした【有力説】。

死因ははっきりしていません【不明】。亡くなる前の年の慶長14年(1609年)には、眼の病気をわずらって隠居し、長男の忠政に家を任せたとされます【有力説】。ただし、眼の病気が死因だったかどうかはわかりません。

「小刀で指を切った」話は本当?

亡くなる少し前に小刀で指を切った、という話もよく紹介されます。しかし、この話の古い出典は今回確認できず、指の傷と忠勝の死を結びつける根拠も確認できませんでした。出典のわからない逸話です【俗説】。

辞世の句は?

忠勝の辞世(亡くなる前に詠む歌)として、「死にともな 嗚呼死にともな 死にともな 深きご恩の君を思えば」(死にたくない。死んでしまったら、殿から受けた深い恩に報いられない)という歌が紹介されることがあります(かっこの中は意味の説明です)。ただし、どの本に最初に出てくるのか、本人の作かどうかは確認できませんでした【伝承】。

晩年の本多忠勝と桑名

桑名の城から、新しくつくられる城下町と川を見わたす晩年の本多忠勝のイラスト

画像:晩年の忠勝と桑名の城下町

慶長6年(1601年)に桑名に移った忠勝は、城を広げ、城下の町並みを大きくつくり直したとされます。この「慶長の町割り」が、今の桑名の町の土台になったといわれます【有力説】。戦う武将としてだけでなく、町をつくる大名としての仕事もしていたのです。

本多忠勝の兜と甲冑|鹿の角・数珠の意味は?

本多忠勝の甲冑の古い写真に、鹿の角の脇立、黒い糸の鎧、大きな数珠の位置を示した図

画像:本多忠勝の甲冑(1915年の本『家康忠勝両公三百年祭紀要』の写真。Wikimedia Commons・パブリックドメイン)に、侍ロードが説明を加えたもの。画像をタップ(クリック)すると拡大できます

本多忠勝が着たと伝わる甲冑は、今も残っていて、国の重要文化財に指定されています(昭和52年〈1977年〉指定)。正式な名前は「黒糸威胴丸具足〈鹿角脇立兜・小具足付/(本多忠勝所用)〉」です。

  • 鹿角脇立兜(しかつのわきだてかぶと):兜の左右に、大きな鹿の角の形の飾り(脇立)がついています
  • 黒糸威(くろいとおどし):鉄の板を黒い糸でつづった、黒い鎧です
  • 大きな数珠:肩から大きな数珠をかけています

文化庁の解説も、兜の大きな鹿の角と、肩にかけた大きな数珠をこの甲冑の特色として挙げています。今どこで見られるかは、展覧会によって変わります。

史料ボックス①『甲陽軍鑑』が書く鹿の角の兜

出典
『甲陽軍鑑』品第三十九(江戸時代の初めにまとめられた、武田家の軍学書。Wikisource 所収)

原文(一部)
「本多平八郎其歳廿五歳なれ共」「甲にくろきかの角を立」

現代語訳
「本多平八郎は、そのとき25歳だったが」「兜に黒い鹿の角を立て」

前後の内容
このあと、命を惜しまず敵と味方の間に馬を乗り入れ、味方の退却を助けた、と続きます

この記事の説明
元亀3年(1572年)、武田軍が攻めこんできたときの場面です。江戸時代の初めには、鹿の角の兜が忠勝の目印として語られていたことがわかります

大きな数珠には、どんな意味がある?

大きな数珠は、この甲冑のいちばんの特徴の一つです。「戦いで亡くなった人をとむらうため」と説明されることがありますが、そのもとになる記録は確認できませんでした【不明】。本当の意味は、はっきりわかっていません。

マサムネ

鹿の角に大きな数珠……。遠くからでも一目で忠勝だとわかりますね!

本多忠勝の家紋は立葵|徳川の三つ葉葵との違い

本多家の家紋「本多立ち葵」と、徳川家の家紋「丸に三つ葉葵」を並べてくらべた図

画像:本多家と徳川家の家紋をくらべた図(紋の画像:本多立ち葵=Mukai・パブリックドメイン、丸に三つ葉葵=Mukai・CC BY-SA 3.0。いずれも Wikimedia Commons。配置:侍ロード)。画像をタップ(クリック)すると拡大できます

本多忠勝の家(本多家)の家紋は、立葵(たちあおい)です。丸の中に、まっすぐ立った葵の茎と葉を描いた紋で、「本多立ち葵」とも呼ばれます【有力説】。

徳川家の家紋「三つ葉葵」も葵の紋ですが、3枚の葉を丸く並べた形で、本多家の立葵とはちがいます。「徳川家の葵は、本多家の葵からもらったものだ」という言い伝えもありますが、それを裏づける記録は、今回確認できませんでした【伝承】。

旗印については、江戸幕府がまとめた系図集『寛政重修諸家譜』に、若いころは扇の形の指物(背中にさす目印)を使い、のちに家康の望みでそれをさし出して、代わりに「中黒(白地のまん中に太い黒の横帯を入れた模様)」の旗をもらった、という話があります【伝承】。

本多忠勝の像はどこ?肖像画と岡崎・桑名の銅像

鹿の角の兜と黒い鎧を身につけ、大きな数珠を肩にかけて床几に座る本多忠勝の肖像画

画像:本多忠勝像(良玄寺蔵・千葉県立中央博物館大多喜城分館保管)。Wikimedia Commons(パブリックドメイン)

本多忠勝の肖像画として知られるのが、千葉県大多喜町の良玄寺(りょうげんじ)に伝わる「紙本著色本多忠勝像」です。千葉県の文化財(平成元年〈1989年〉指定)で、千葉県立中央博物館大多喜城分館で保管されています。千葉県の解説によると、嘉永2年(1849年)に書かれた画像由来記は、この絵を、文禄4年(1595年)に描かれた絵を元禄4年(1691年)に写したものと伝えています。もとの絵は、忠勝が土佐派(とさは)の絵師に命じて描かせたものとされます。絵師の名前は、今回確認できませんでした。

鹿の角の兜、黒い鎧、肩にかけた大きな数珠、白い采配(指図に使う道具)を持つ姿で、今残る甲冑の特徴とよく合っています。なお、大多喜町の公式案内では、大多喜城分館は改修のため休館中とされています。

岡崎城公園に立つ、鹿の角の兜をかぶり槍を構えた本多忠勝の銅像

画像:岡崎城公園(旧・岡崎公園)の本多忠勝の銅像(愛知県岡崎市)。Wikimedia Commons(撮影:Evelyn-rose・CC0)

銅像は、生まれ故郷の愛知県岡崎市の岡崎城公園(岡崎城跡。2024年12月に「岡崎公園」から名前が変わりました)に、蜻蛉切を構えた姿で立っています。三重県桑名市の桑名城跡の近く(柿安コミュニティパーク)にも銅像があります。

本多忠勝のゆかりの地・城・墓

本多忠勝のゆかりの地の地図。岡崎、関ヶ原、桑名、大多喜、姫路の位置を示している

画像:本多忠勝のゆかりの地(侍ロード作成。位置はおおよそです)。画像をタップ(クリック)すると拡大できます

場所何がある?
愛知県岡崎市生まれた地の石碑(西蔵前町)、岡崎城公園の銅像、家康と忠勝をまつる龍城神社(たつきじんじゃ)
千葉県大多喜町忠勝が城と城下町を整えた大多喜城(今の建物は博物館)、忠勝が建てた良玄寺と墓所
三重県桑名市桑名城跡(九華公園など)、銅像、墓所のある浄土寺
兵庫県姫路市書写山圓教寺の本多家の廟所(子の忠政や孫の忠刻とゆかりの深い場所)
岐阜県関ケ原町関ヶ原の戦いの本多忠勝陣跡
三重県桑名市の浄土寺にある、石の鳥居の奥の本多忠勝の墓所

画像:桑名の浄土寺にある本多忠勝の墓所(三重県桑名市)。Wikimedia Commons(撮影:立花左近・CC BY-SA 3.0)

墓所は、亡くなった桑名の浄土寺のほか、大多喜の良玄寺などにあります【有力説】。

本多忠勝は最強だった?57回無傷などの逸話を検証

本多忠勝は「戦国最強の武将」と呼ばれることがあります。ただ、その強さを伝える有名な話の多くは、江戸時代以降の本に書かれたものです。どの話が、どの本に書かれているのかを見てみましょう。

有名な話どこに書かれている?信憑性
生涯57回の戦いで一度も傷を負わなかった事典などで紹介されるが、今回参照した同じ時代の記録では裏づけられない【伝承】
「家康に過ぎたるもの」と敵にうたわれた江戸時代の初めにまとめられた『甲陽軍鑑』など【伝承】
信長が「花も実もある勇士」とほめた江戸幕府がまとめた系図集『寛政重修諸家譜』【伝承】
秀吉の大軍の前で、川辺で馬の口をすすがせた江戸幕府がまとめた歴史書『徳川実紀』など【伝承】

「57回の戦いで無傷」は本当?

「生涯に57回の戦いに出て、一度も傷を負わなかった」という話は、事典でも紹介されていますが、書き方は一様ではありません。今回参照した同じ時代の記録では、57回という回数と無傷の両方を裏づけることはできませんでした【伝承】。

反対に、大鹿真和のゼミ論文は、江戸時代の『武徳編年集成』に、本能寺の変のあとの伊賀越えのときに忠勝が浅い傷を負ったとある、と紹介しています【伝承】。また、忠勝が仕えた徳川軍は、三方ヶ原の戦いで大きく負けています【史実】。「一度も負けなかった」わけではありません。

「家康に過ぎたるもの」の歌

坂道を退く徳川の兵たちを守るように、馬に乗って後ろをふり返る本多忠勝のイラスト。遠くに武田の軍が見える

画像:退く味方を守る本多忠勝(江戸時代の本が伝える話)

元亀3年(1572年)、武田信玄の大軍が遠江(静岡県西部)に攻めこみました。江戸時代の初めにまとめられた『甲陽軍鑑』によると、このとき25歳の本多平八郎(忠勝)は、兜に黒い鹿の角を立て、敵と味方の間に馬を乗り入れて、味方の退却を助けた、と書かれています。その働きを見た武田方の小杉右近助が、歌に詠んで見付坂(今の静岡県磐田市)に立てた、とあります【伝承】。

坂に立てられた札の歌を読む武田の兵たちの漫画のコマ

画像:坂に立てられた札の歌を読む武田の兵たち(『甲陽軍鑑』が伝える話)

史料ボックス②「家康に過ぎたるもの」の歌

出典
『甲陽軍鑑』品第三十九(Wikisource 所収)

原文(一部)
「家康に過たる物は二ツある唐の頭に本多平八」

現代語訳
家康には、つり合わないほど立派なものが2つある。唐の頭(からのかしら)と本多平八だ

この記事の説明
「唐の頭」は、ヤク(チベットなどにいる牛のなかま)の毛で作った兜の飾りで、外国から入った高価な品です。『甲陽軍鑑』は詠んだ人を「小杉右近助」と書いていますが、事典には「小杉左近」とする表記もあります。また、江戸時代の『三壺聞書』巻之十八には、長篠の戦い(1575年)のときの落書(作者のわからない書きつけ)として載っています

この場面は、一言坂(ひとことざか。静岡県磐田市)の戦いとして紹介されることが多い話です。歌が本当に詠まれたのかは、同じ時代の記録では確かめられません。それでも、江戸時代の初めには、忠勝が敵にまで知られた武将として語られていたことがわかります。

秀吉の大軍の前で、馬の口をすすがせた話

川辺で愛馬に水を飲ませる本多忠勝と、川の向こうの遠くに並ぶ大軍のイラスト

画像:川辺で馬に水を飲ませる本多忠勝(江戸時代の本が伝える話)

天正12年(1584年)の小牧・長久手の戦いのとき、忠勝は少ない兵で、川の向こうを進む羽柴秀吉の大軍の前に出たとされます。江戸幕府がまとめた歴史書『徳川実紀』には、秀吉が「あっぱれな強者だ。矢一本も射るな」と命じ、忠勝は川辺で馬の口をすすがせた、という話があります【伝承】。兵の数の書き方は、本によってちがいます【諸説あり】。小牧・長久手の戦いそのものは、豊臣秀吉の記事でも紹介しています。

同じ時代の記録に見える本多忠勝

一方、同じ時代の記録にも忠勝の名前は出てきます。たとえば、信長に仕えた太田牛一の『信長公記』には、天正9年(1581年)に高天神城(静岡県掛川市)が落ちたときの記録に、家康の軍の中の「本田平八郎」の隊の働きが書かれています【史実:信長公記】。

また、関ヶ原の戦いの前日にあたる慶長5年(1600年)9月14日付で、忠勝と井伊直政が毛利方の吉川広家・福原広俊にあてた起請文(約束を神仏にちかう文書)が伝わっています。こうした文書から、忠勝が戦いだけでなく交渉にもかかわったことがわかります。

本多忠勝の名言

忠勝の言葉として紹介されるものの多くは、忠勝の遺書とされる文や、江戸時代以降の本に書かれたものです。本人の言葉かどうかは、確かめられません【伝承】。そのうえで、出どころのわかるものを一つ紹介します。

  • 「武芸文学をするにも、忠義を心掛け天下の難を救わんと志すべきなり」:武芸や学問をするときも、主君への忠義を心がけ、世の中の困難を救おうと志すべきだ(忠勝の遺書とされる文の一節。『日本人名大辞典』が引用)
マサムネ

「最強伝説」はほとんど後の時代の話なんですね。でも、大事な仕事をまかされていたのは本当なんだ!

ケンシン

うむ。伝説がなくても、家康にとってかけがえのない家臣だったことは確かだ。

本多忠勝の子孫と家系図|妻・娘の小松殿・息子たち

本多忠勝の家は、長男・本多忠政の家が、姫路などをへて江戸時代の後半に三河の岡崎藩主となり、明治まで続きました【有力説】。今の本多家の当主については、この記事では確認できていません。

本多忠勝の家系図。父の忠高、娘の小松殿と夫の真田信之、息子の忠政と忠朝、孫の忠刻と妻の千姫を示している

画像:本多忠勝の家系図(侍ロード作成。主な人物だけをのせています)。画像をタップ(クリック)すると拡大できます

人物忠勝との関係どんな人?
本多忠高父忠勝が数え2歳のときに戦いで亡くなった【有力説】
本多忠真叔父父を早く亡くした忠勝の後見役とされる。三方ヶ原の戦いで討ち死に(戦いで命を落とすこと)したと伝わる【伝承】
小松殿(稲)長女家康の養女として、真田昌幸の長男・真田信之に嫁いだとされる【有力説】
本多忠政長男桑名藩2代目。のちに播磨姫路15万石の大名になり、姫路城を整えた【有力説】。妻は徳川家康の孫(松平信康の娘)の熊姫【有力説】
本多忠朝次男父のあとの上総大多喜5万石の大名。大坂夏の陣で討ち死にした【有力説】
本多忠刻孫(忠政の長男)徳川秀忠の娘・千姫と結婚した【有力説】

忠勝の妻は、正室が於久の方、側室が乙女の方とされますが、くわしいことはわかっていません。

娘・小松殿と真田信之

長い黒髪を後ろで束ね、打掛を着て扇を持つ小松殿のイラスト

画像:小松殿

長女の小松殿(小松姫。稲とも)は、徳川家康の養女となって、信濃の上田城主・真田昌幸の長男、真田信之に嫁いだとされます【有力説】。結婚した年は、天正17年(1589年)とする説明(上田市の紹介など)のほか、別の説もあります【諸説あり】。小松殿は元和6年(1620年)、草津の温泉へ向かう途中、武蔵国の鴻巣(埼玉県鴻巣市)で亡くなりました【有力説】。

嫁いでいく娘の小松殿を送り出す本多忠勝の漫画のコマ

画像:嫁いでいく小松殿を送り出す忠勝

関ヶ原の戦いのあと、西軍についた真田昌幸・信繁(幸村)の父子が命を助けられたとき、娘婿の信之とともに、忠勝も家康に願い出たという話が江戸時代の軍記などに伝わっています【伝承】。

孫・本多忠刻と千姫、宮本武蔵との縁

孫の本多忠刻は、豊臣秀頼の妻だった千姫(徳川秀忠の娘)と結婚しました【有力説】。剣豪・宮本武蔵の養子の三木之助は、この忠刻に仕えていました。くわしくは宮本武蔵の記事で紹介しています。

本多忠勝の槍・蜻蛉切|名前の由来と今どこにある?

蜻蛉切の古い写真と、穂先と柄の部分を分けて長さを示した図

画像:蜻蛉切の古い写真(1915年の本『家康忠勝両公三百年祭紀要』。Wikimedia Commons・パブリックドメイン)に、侍ロードが説明を加えたもの。画像をタップ(クリック)すると拡大できます

本多忠勝の槍として知られる蜻蛉切(とんぼきり)は、今も残っていて、静岡県の文化財に指定されています(昭和30年〈1955年〉指定。正式な名前は「槍 名物蜻蛉切」)。

項目内容
作った人刀の部分に「藤原正真作(ふじわらのまさざね さく)」と刻まれている
長さ穂(刃の部分)の長さが一尺四寸四分(約43.6cm)。槍全体の長さではない
今どこに?個人が持ち、平成25年(2013年)から静岡県三島市の佐野美術館に預けられている
見られる?いつも展示されているわけではない(常設展示ではない)。次の展示予定は、今回確認できていない

静岡県の解説は、「本多平八郎忠勝が所持していたと伝わる」と書いています。日本三名槍(天下三名槍)の一つともいわれます【伝承】。

「蜻蛉切」という名前の由来

夏の野原で長い槍をまっすぐ立てる本多忠勝と、穂先の近くを飛ぶトンボのイラスト

画像:立てた槍の近くを飛ぶトンボ(名前の由来の言い伝え)

「蜻蛉切」という名前には、「穂先にふれたトンボまで切れてしまうほど、よく切れる槍だった」という言い伝えがあります【伝承】。

マサムネ

穂先だけで43cmもあるんですね。トンボの話は言い伝えでも、すごい槍なのは本当なんだ!

本多忠勝と本多正信の関係は?親戚・不仲説を解説

鹿の角の兜と黒い鎧を身につけ、大きな数珠をかけて長い槍を立てて持つ本多忠勝のイラスト

画像:本多忠勝

家康の家臣には、同じ「本多」の名字をもつ本多正信(まさのぶ)もいます。2人は、同じ本多氏の中でも別の系統の家だとされています【有力説】。

項目本多忠勝本多正信
生まれた年天文17年(1548年)天文7年(1538年)
家康のもとでの役割戦場での働きと、連絡役・交渉役家康のそばで政治の相談にのる役(参謀)
三河一向一揆(1563〜64年)家康方で戦った家康にそむき、のちにもどってきた
領地・石高伊勢桑名10万石1万石(のちに2万2000石)

忠勝が正信を「腰抜け」と呼んで嫌っていた、という話もよく紹介されますが、どの本に出てくる話なのかは確かめられませんでした【伝承】。2人の役割がちがったことは確かですが、今回参照した資料では、2人が不仲だったと断定できる根拠は確認できませんでした。

よくある質問(FAQ)

本多忠勝はドラマではどう描かれた?

大河ドラマ『どうする家康』(2023年)では、家康を命がけで守る熱い家臣として大きく描かれました。『真田丸』(2016年)では、娘の稲(小松殿)を真田信之に嫁がせる父として登場し、関ヶ原のあと真田父子の助命を願う場面がありました。どちらもドラマとしての描き方で、場面のくわしい中身は記録にもとづくものばかりではありません。

ゲームの本多忠勝は、なぜロボットのような姿なの?

ゲームなどで、本多忠勝が機械のような姿で描かれることがありますが、これはゲームの創作です。「最強の武将」というイメージをふくらませたものと考えられます。肖像画や今に残る甲冑は、忠勝の姿や装備を考える手がかりになります(像の章)。

まとめ|本多忠勝とは

本多忠勝は、少年のころから一生、徳川家康に仕え、主な戦いに加わり、大多喜・桑名の大名になった「徳川四天王」の一人です。慶長15年(1610年)、桑名で数え63歳で亡くなりました。

「57回の戦いで無傷」「家康に過ぎたるもの」などの最強伝説は、後の時代の本や言い伝えによる話が中心で、今回参照した同じ時代の記録では確かめられませんでした。一方で、鹿の角の兜と大きな数珠の甲冑や蜻蛉切は今も残り、家康の交渉役として大事な文書にも名前を残しています。伝説と記録の両方から、本多忠勝の姿が見えてきます。

関係する人物や出来事については、徳川家康、姉川の戦い、豊臣秀吉、宮本武蔵の記事もあわせてどうぞ。

ケンシン

伝説に負けないほど、長く誠実に家康を支えた武将。それが本多忠勝だ。

マサムネ

岡崎城公園の銅像を見に行ってみたくなりました!

参考にした史料・この記事の書き方

この記事は、おもに次の記録や資料をもとに書いています。

  • 同じ時代に近い記録:太田牛一『信長公記』巻十四(Wikisource 所収の我自刊我書本)
  • 後の時代の記録:『甲陽軍鑑』品第三十九(Wikisource 所収)、『徳川実紀』(『東照宮御実紀』『東照宮御実紀附録』)、『寛政重修諸家譜』(研究での紹介による)
  • 文化財の情報:文化庁「文化遺産オンライン」(黒糸威胴丸具足)、静岡県「しずおか文化財ナビ」(槍 名物蜻蛉切)、千葉県教育委員会「県指定文化財」(紙本著色本多忠勝像)
  • 事典・資料:コトバンク(『日本大百科全書(ニッポニカ)』『改訂新版 世界大百科事典』『日本人名大辞典』『ブリタニカ国際大百科事典』など)、上田市立博物館「小松姫」、岡崎市・桑名市・大多喜町などの公式案内
  • 研究・調査:大鹿真和「本多忠勝の居所と行動」(京都先端科学大学・鍛治宏介ゼミ、2022年度のゼミ論文。忠勝の行動と関係する史料の整理を参照)
  • 画像:本多忠勝像(良玄寺蔵)、甲冑と蜻蛉切の古い写真(1915年)、本多立ち葵の図(Mukai)はパブリックドメイン、丸に三つ葉葵の図(Mukai)は CC BY-SA 3.0、岡崎城公園の銅像の写真(Evelyn-rose・CC0)、浄土寺の墓所の写真(立花左近・CC BY-SA 3.0)は Wikimedia Commons のものです。家系図・地図・図・漫画・イラストは侍ロードのオリジナルです

記事中のラベルの意味

  • 【史実】同じ時代の史料で確認できること(【史実:○○】は、その出どころ)
  • 【有力説】研究者の間で広く受け入れられている見方(【有力説:○○】は、その出どころ)
  • 【諸説あり】見解が分かれていること
  • 【不明】今回確認した史料では、確かめられないこと
  • 【伝承】【俗説】後の時代に作られた話や、根拠がうすい言い伝え
  • 【ドラマの創作】ドラマなどで作られた場面

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