
浅井長政(あざい ながまさ)は、北近江(今の滋賀県北部)を治めた戦国大名です。小谷城(滋賀県長浜市)を本拠地にした浅井家の3代目で、織田信長の妹・お市と結婚して信長と手を結びました。ところが元亀元年(1570年)、信長から離れて敵になり、天正元年(1573年)に信長に攻められて、小谷城で自害しました。
長政が亡くなったあと、お市との間に生まれた3人の娘(茶々・初・江)は生きのび、茶々と江の子どもたちを通じて、長政の血すじは豊臣家や徳川将軍家につながっていきます。この記事では、長政の最後、息子の万福丸、信長を裏切った理由、お市との関係などを、その時代の記録でわかること・後の時代の本に書かれた話・わからないことに分けて紹介します。
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わしは上杉ケンシン。今日の主役は、信長の義理の弟でありながら、信長と戦う道を選んだ武将だ。
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伊達マサムネです! 浅井長政って、お市さんの最初の旦那さんですよね?
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そのとおり。なぜ信長と戦うことになったのか、その最後はどうだったのか。記録をたどってみよう。
まずわかること(この記事の要点)
- 何をした人?:北近江の戦国大名・浅井家の3代目。信長の妹お市と結婚して手を結びましたが、1570年に信長と敵対し、1573年に小谷城で自害しました。これで大名としての浅井家は滅びました
【史実】(くわしく) - 最後は?:信長に小谷城を攻められ、城の中で自害しました。29歳(数え年)。亡くなった日は8月28日説と9月1日説があります
【諸説あり】(くわしく) - 万福丸とは?:長政の跡継ぎの息子とされる男の子です。落城のあと探し出され、10歳(数え年)で処刑されました
【史実:信長公記】(くわしく) - なぜ信長を裏切った?:理由を書いた同じ時代の記録は見つかっておらず、研究者の説も分かれています
【諸説あり】(くわしく) - お市との関係は?:信長と手を結ぶための政略結婚と考えられています
【有力説】。2人の間には茶々・初・江の3人の娘が生まれました【史実】(くわしく)
知りたいところから読めるように、主な見出しへのリンクを置いておきます。
- 浅井長政とは何をした人?
- 浅井長政の最後は?小谷城の戦いと死因
- 万福丸とは?最期と母、浅井長政の子どもたち
- お市との関係は?結婚と夫婦仲
- 浅井長政はなぜ信長を裏切った?
- 姉川の戦いとは?
- 浅井長政はイケメン?肖像画・身長・性格
- 小谷城はどこ?城跡と墓・ゆかりの地
- 年表でみる浅井長政の生涯
- 髑髏の盃は本当?
- 浅井長政の子孫は?家系図と血すじ
浅井長政とは何をした人?
ひと言でいえば、浅井長政は「北近江の戦国大名として信長と手を結び、のちに信長と戦って滅びた、お市の最初の夫」です。
| 項目 | 内容 | 信憑性 |
| 名前 | 浅井長政。子どものころの名前(幼名)は猿夜叉(さるやしゃ)。はじめは「賢政(かたまさ)」と名のり、のちに「長政」に改めた。通称は新九郎。名のった官職名は備前守(びぜんのかみ) | 【有力説】 |
| 生まれた年 | 天文14年(1545年)。亡くなった年齢から逆算した年 | 【有力説】 |
| 家族 | 祖父は浅井亮政(すけまさ)、父は浅井久政(ひさまさ)、母は小野殿(井口経元の娘) | 父:【史実】/母:【有力説】 |
| 本拠地 | 小谷城(おだにじょう。今の滋賀県長浜市) | 【史実】 |
| 治めた土地 | 北近江(今の滋賀県北部) | 【史実】 |
| 妻 | お市(織田信長の妹とするのが通説) | 妻【史実:信長公記】/続柄【有力説】 |
| 子ども | 娘の茶々(淀殿)・初(常高院)・江(崇源院)、息子の万福丸ほか | 娘:【史実】/息子:→万福丸の章 |
| 亡くなった日 | 天正元年(1573年)8月28日、または9月1日。小谷城で自害 | 【諸説あり】 |
| 亡くなった年齢 | 29歳(数え年) | 【有力説】 |
| 墓 | 徳勝寺(滋賀県長浜市)に浅井三代の墓がある | 【史実】 |
「数え年」は、生まれた年を1歳とし、お正月がくるたびに1歳ずつ足していく、昔の年齢の数え方です。長政の誕生日はわかっていないので、今の数え方(満年齢)では27〜28歳になります。
何をした人?3つのポイント
- ①若くして浅井家を率いた:浅井家は、南近江の大名・六角氏に従う立場でした。はじめの名前「賢政」の「賢」も、六角義賢からもらった字とされます。長政は10代で六角氏と手を切り、永禄3年(1560年)の野良田(のらだ。今の彦根市)の戦いで六角軍を破ったとされます。この年、父から家を継ぎました
【有力説】 - ②信長の妹と結婚して手を結んだ:信長の妹お市と結婚し、信長の「縁者(身内)」になりました
【史実:信長公記】。永禄11年(1568年)に信長が京都へ向かったときも、味方として六角氏を攻めたとされます【有力説】 - ③信長と戦い、小谷城で滅びた:元亀元年(1570年)に信長から離れて敵になり、姉川の戦いで敗れたあとも3年あまり戦い続けました。天正元年(1573年)に小谷城が落ち、長政は自害しました
【史実:信長公記】
長政の家は滅びましたが、娘の茶々と江の子孫は、豊臣家・徳川将軍家、そして天皇家にもつながっていきます(子孫の章)。
父・浅井久政とは?
長政の父・浅井久政は、浅井家の2代目です。南近江の六角氏に従う形で、北近江の浅井家を守りました【有力説】。永禄3年(1560年)に、16歳(数え年)の長政に家を継がせて隠居したとされます【有力説】。
隠居したあとも久政は小谷城にいて、長政といっしょに信長と戦いました。天正元年(1573年)8月27日の夜、秀吉に城の中ほどの京極丸を取られたあと、長政より先に自害しています【史実:信長公記】。久政がいたのは、小谷城の「小丸」という曲輪だったとされています【有力説】。
「久政が信長との同盟に反対した」「家臣を集めて、長政に朝倉方につくよう押し切った」という話は、江戸時代に書かれた軍記(戦いの物語)に出てくるもので、同じ時代の記録では確かめられません【伝承】。2026年4月には、久政が家臣にあてた手紙が約100年ぶりに見つかったと発表され、話題になりました(小谷城の章)。
読み方は「あざい」?「あさい」?
「浅井」は、「あざい」と読むのが一般的です。地元の長浜市では今も「あざい」と読み、室町時代の辞書にも「アザ井」と書かれています。一方、古い地名の読みなどから「あさい」が正しいとする研究者もいて、読み方は分かれています【諸説あり】。この記事では「あざい」で書いています。
なお、豊臣秀吉の家臣で、名前がよく似た浅野長政(あさの ながまさ)は、まったくの別人です。
浅井家の家紋は?

画像:三つ盛亀甲に花菱。Wikimedia Commons(作成:Gameposo、ベクター化:Marnanel・CC BY-SA 4.0)
浅井家の家紋として知られているのは、亀の甲らのような六角形(亀甲)を3つ積み重ね、その中に花菱(4枚の花びらの模様)を入れた「三つ盛亀甲に花菱(みつもりきっこうにはなびし)」です【有力説】。長政の肖像画(1589年に描かれたもの)の着物にも、亀甲を3つ重ねた紋が描かれています(肖像画の章)。
ただし、同じ持明院に伝わる父・久政の肖像画には、別の形の紋が描かれているといいます。浅井家がほかの紋も使っていた可能性があるため、「浅井家の紋はこれだけ」とは言い切れません。
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若いうちに家を継いで、強い相手から自立したんですね!
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うむ。だが、そのあと手を結んだ相手が、あの信長だった。そこから運命が大きく動くのだ。
浅井長政の最後は?小谷城の戦いと死因

画像:甲冑姿の浅井長政
浅井長政は、天正元年(1573年)、織田信長に本拠地の小谷城を攻められ、城の中で自害しました【史実:信長公記】。29歳(数え年)でした。死因は、城を攻められる中での自害(切腹とされる)で、病気などではありません。
亡くなった日には、8月28日説と9月1日説があります【諸説あり】。なぜ2つの説があるのかは、このあと記録を並べて説明します。
小谷城の戦いの流れ
小谷城が落ちるまでの流れは、信長に仕えた太田牛一(おおた ぎゅういち)の『信長公記(しんちょうこうき)』にくわしく書かれています。『信長公記』は、牛一が自分の見聞きしたことをもとに、あとからまとめた信長の伝記で、この時代を知るためのいちばん大事な記録の一つです。
| 天正元年(1573年)の日付 | できごと |
| 8月8日 | 浅井方の山本山城を守っていた阿閉貞征(あつじ さだゆき)が、信長の味方になる。信長はその夜に出陣 |
| 8月10日 | 信長が小谷城の北の山田山に陣をしき、越前(今の福井県)からの道をふさぐ |
| 8月13日の夜〜 | 浅井家を助けに来ていた朝倉義景の軍が引き上げはじめる。信長が追いかけ、刀根坂(とねざか)で朝倉軍を大きく破る |
| 8月20日ごろ | 信長に越前まで攻めこまれた朝倉義景が自害し、朝倉家が滅びる(日付は事典などによる) |
| 8月26日 | 信長が小谷城の前の虎御前山(とらごぜんやま)にもどる |
| 8月27日の夜 | 羽柴秀吉(のちの豊臣秀吉)が城の中ほどの「京極丸」を攻め取り、父・久政のいる曲輪(小丸とされる)と、長政のいる側を切り離す。久政が自害する |
| その翌日(『信長公記』の書き方では8月28日) | 信長が京極丸に上り、長政と家臣の赤尾清綱(あかお きよつな)を自害させる |
表は『信長公記』巻六に書かれた流れです(朝倉義景が亡くなった日だけは事典などによります)【史実:信長公記】。なお、『信長公記』は久政のいた所を「久政の居城」と書くだけで、「小丸」という名前は、後の時代の記録や江戸時代の絵図の書き込みによるものです。ただし、長政が亡くなった日については、ほかの記録と食いちがいがあります(このあとの見出しで説明します)。浅井家が頼りにしていた朝倉家が先に滅び、城の中を2つに分けられたことで、小谷城は持ちこたえられなくなりました。

画像:小谷城のつくりの模式図(侍ロード作成。位置や形は正確ではありません)。画像をタップ(クリック)すると拡大できます
小谷城は、山の尾根にそって「曲輪(くるわ)」と呼ばれる平らな区画がいくつも並ぶ山城でした。秀吉は、その真ん中にある京極丸を取ることで、京極丸の北側にいた久政と、南側にいた長政を、別々に追いつめたのです。
史料ボックス①『信長公記』が書く長政の最期
出典
太田牛一『信長公記』巻六(天正元年〈1573年〉8月)
原文(一部)
「翌日又 信長京極つふらへ御あかり候て 浅井備前 赤生美作生害させ」
現代語訳
その翌日、信長はまた京極丸に上がられ、浅井備前守(長政)と赤尾美作守(清綱)を自害させた
この記事の説明
「京極つふら」は京極丸、「生害させ」は自害に追いこんだという意味です。『信長公記』は、長政が亡くなった場所の名前や、その場面のくわしい様子までは書いていません
亡くなった日は8月28日?9月1日?
『信長公記』では、父・久政が8月27日の夜に自害し、長政はその「翌日」に自害したとあるので、8月28日になります。一方で、9月1日だったとする記録もあります。
| 記録 | 書かれていること | どの説を支えるか |
| 『信長公記』巻六 | 父・久政が自害した8月27日の夜の「翌日」に、長政を自害させた | 8月28日説 |
| 片桐直貞あての感状 | 長政が「元亀四年八月二十九日」の日付で、家臣の片桐直貞(かたぎり なおさだ)に出した、働きをほめる手紙(感状)。今も残っている | 8月28日説とは合わない(29日にはまだ生きていたことになる) |
| 「浅井長政像」の賛 | 「天正元年9月1日に亡くなった」。亡くなった年から数えて17年目の天正17年(1589年)に、肖像画の上に書かれた文章 | 9月1日説 |
| 『浅井三代記』 | 9月1日に亡くなった | 9月1日説(江戸時代の軍記) |
天正元年の8月は29日までの月だったので、8月29日の次の日が9月1日です。感状を、この年に長政が出したものと認めれば、8月28日に亡くなったという説とは合いません。ただし、感状だけで亡くなった日が9月1日だと決まるわけではありません。9月1日とはっきり書いているのは、肖像画の賛と『浅井三代記』です。このため、この記事では2つの説を両方紹介しています【諸説あり】。
感状の日付は、この年の7月に改められた新しい元号「天正」ではなく、前の元号の「元亀四年」と書かれています。受け取った片桐直貞は、のちに豊臣秀頼の家老をつとめた片桐且元(かつもと)の父です。
史料ボックス②長政の肖像画に書かれた「九月朔」
出典
「浅井長政像」(高野山持明院蔵)の賛
原文(一部)
「天正元癸酉九月朔、罹于兵燹矣。後十七年、有人命工画其肖像」
現代語訳
天正元年(癸酉の年)9月1日に、戦乱の中で亡くなった。亡くなった年から数えて17年目に、ある人が絵師に命じて、その姿を描かせた
この記事の説明
「朔(さく)」は月の1日のことです。昔は亡くなった年も1年目と数えたので、「17年目」は今の数え方では16年後になります。賛を書いたのは、京都の南禅寺の住職をつとめた錬甫宗純(れんぽ そうじゅん)で、天正17年(1589年)12月と記しています。長政の死から16年後の文章に、「9月1日」と書かれていることがわかります
自害した場所は?
『信長公記』は、長政が家臣の赤尾清綱といっしょに自害したと書いていますが、場所の名前は書いていません【史実:信長公記】。江戸時代の『浅井三代記』では、長政は城の中にあった赤尾清綱の屋敷に入って自害したことになっています【伝承:浅井三代記】。

画像:小谷城跡の「浅井長政公自刃之地」の碑(滋賀県長浜市)。赤尾屋敷のあととされる場所に立つ、言い伝えの場所を示す碑で、当時の記録で場所が確かめられたものではありません。Wikimedia Commons(撮影:Heartoftheworld・CC BY-SA 3.0)
介錯したのはだれ?
介錯(かいしゃく)とは、切腹する人の苦しみを短くするために、そばにいる人が首を切ることです。長政を介錯した人の名前は、侍ロードが確かめた同じ時代の記録には見当たりません【不明】。
- 『浅井三代記』(江戸時代の軍記):一族の浅井日向守(ひゅうがのかみ)が介錯し、そのあと自分も自害したとする
【伝承】 - 父・久政の場合:『信長公記』に、舞の名人の鶴松太夫(つるまつだゆう)が久政を介錯し、そのあと自分も腹を切ったと書かれている
【史実:信長公記】 - お市が介錯した?:2026年の大河ドラマ『豊臣兄弟!』でお市が長政を介錯する場面がありましたが、侍ロードが確かめた記録には見当たらない、ドラマの創作です
【ドラマの創作】
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お市さんが介錯したわけじゃないんですね。ドラマを見て、てっきり本当の話かと……。
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ドラマは物語だからな。記録にある話か、作られた話か、分けて楽しむのがよい。
お市と3人の娘はどうなった?
お市と3人の娘は、城が落ちる前に城を出て、織田家に引き取られました【有力説】。どのように城を出たのかは、後の時代の本に書かれた話で、くわしいことはわかっていません【伝承】。そのあとの暮らしは、お市の方の記事「小谷城落城のあとの暮らし」で紹介しています。
首はどうなった?
長政と久政の首は京都に送られ、人々に見せるためにさらされました【史実:信長公記】。さらに翌年の正月、信長の酒の席で、朝倉義景の首とともに「薄濃(はくだみ)」にして出されたことが『信長公記』に書かれています。この話は髑髏の章でくわしく紹介します。
万福丸とは?最期と母、浅井長政の子どもたち

画像:お市と3人の娘
万福丸(まんぷくまる)は、浅井長政の嫡男(跡継ぎの息子)とされる男の子です。小谷城が落ちたあと探し出され、10歳(数え年)で処刑されました【史実:信長公記】。数え年10歳から逆算すると、永禄7年(1564年)ごろの生まれです。
ただ、『信長公記』は「浅井備前守の10歳の嫡男」と書くだけで、名前は書いていません。「万福丸」という呼び名は、江戸時代の『浅井三代記』などに出てくるものです。
史料ボックス③『信長公記』が書く長政の嫡男
出典
太田牛一『信長公記』巻六(天正元年〈1573年〉)
原文(一部)
「浅井備前十歳之嫡男御座候を尋出し関か原と云所に張付に懸させられ」
現代語訳
浅井備前守(長政)の10歳の嫡男がいたのを探し出し、関ヶ原というところで磔(はりつけ)にかけさせた
この記事の説明
磔は、柱(木の台)に体をしばりつけ、槍で突いて処刑する方法です。『信長公記』はこのことを、信長が「長年の無念を晴らされた」と書いています。名前や、どこにかくれていたかは書かれていません
万福丸の最期は?磔か串刺しか
万福丸の最期は、記録によって書かれ方がちがいます。同じ時代に近い『信長公記』と、江戸時代の『浅井三代記』をくらべてみましょう。
| くらべること | 『信長公記』(信長に仕えた太田牛一の記録) | 『浅井三代記』(江戸時代の軍記) |
| 名前 | 書かれていない(「十歳の嫡男」) | 万福丸 |
| 見つかるまで | 「探し出し」とだけ書かれている | 家臣に連れられて越前の敦賀のほうへ逃れていたが、木之本(長浜市)で秀吉に引き取られた |
| 最期 | 関ヶ原(今の岐阜県関ケ原町)で磔 | 信長の命令で串刺しにされた |
| 日付 | 書かれていない | 9月3日に木之本に着いたとある(処刑の日ははっきりしない) |
確かめられるのは、『信長公記』の「関ヶ原で磔にされた」ことです【史実:信長公記】。「串刺し」や、秀吉が木之本で引き取った話は、江戸時代の本に出てくる話です【伝承:浅井三代記】。また、処刑された日を確かめられる記録は見つかっていません【不明】。
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たった10歳で……。かわいそうすぎます。
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戦国の世では、負けた家の跡継ぎは、のちに仇をうつ者として命をねらわれた。むごいことだが、それがこの時代の戦の現実だったのだ。
万福丸の母はだれ?お市の子?
万福丸の母がだれかは、わかっていません【不明】。お市の子とする話もありますが、母を書いた確かな記録は見つかっておらず、研究者の間でも「母はお市だと示す史料はない」とされています。
お市が長政と結婚した時期を、事典に多い永禄10年(1567年)の終わり〜永禄11年(1568年)の初めとすると、永禄7年ごろ生まれの万福丸は、結婚後に生まれた子という説明とは年代が合いません。ただし、年代だけで母がお市ではなかったと言い切ることはできません。一方、もっと早い時期に結婚したとみる研究者もいて、その場合はお市の子だった可能性も残ります【諸説あり】。
ほかの息子たち
長政には、ほかにも息子がいたと伝わります。ただ、どれも同じ時代の記録では確かめられません。
- 万寿丸(まんじゅまる):元亀4年(1573年)5月に生まれた男の子が、近江の福田寺(滋賀県米原市)にあずけられ、のちにお坊さんになって「正芸(しょうげい)」と名のったと伝わる
【伝承】 - 浅井井頼(いより):長政の子とする系図があり、のちに豊臣家などに仕えたとされる
【伝承】
『浅井三代記』は、長政の子どもを「5人で、そのうち3人が娘、2人が息子」と書いています【伝承】。
3人の娘(浅井三姉妹)
お市との間に生まれた3人の娘は、のちに「浅井三姉妹」と呼ばれ、それぞれ戦国時代の終わりに大きな役わりを果たしました。
| 名前 | 生まれた年 | 結婚した相手・その後 |
| 茶々(ちゃちゃ)・淀殿 | 永禄12年(1569年)ごろ【諸説あり】 | 豊臣秀吉の側室になり、跡継ぎの秀頼を産む。大坂の陣で秀頼とともに亡くなる |
| 初(はつ)・常高院 | 元亀元年(1570年)ごろ【諸説あり】 | 京極高次の妻。大坂の陣では豊臣方と徳川方の間に立って話し合いにかかわった |
| 江(ごう)・崇源院 | 天正元年(1573年) | 3度目の結婚で徳川秀忠(2代将軍)の妻になり、3代将軍・家光を産む |
3人がお市と長政の娘であることは確かです【史実】。生まれた年は、後の記録からの逆算です。娘たちのその後は、お市の方の記事「お市の方の娘たち(浅井三姉妹)のその後」でくわしく紹介しています。
お市との関係は?結婚と夫婦仲

画像:浅井長政とお市
長政とお市の結婚は、浅井家と織田家が手を結ぶための結婚(政略結婚)でした【有力説】。永禄10〜11年ごろの結婚とみる説では、信長が美濃(今の岐阜県)を手に入れ、京都に向かおうとしていた時期にあたります。その途中にある北近江の浅井家を味方にしておくことは、信長にとって大切だったと説明されます。
『信長公記』には、元亀元年(1570年)の時点で、信長が浅井家を「はっきりした縁者(身内)」だと考えていたことが書かれています【史実:信長公記】。つまり、遅くとも1570年までには結婚していたことは確かです。
結婚したのはいつ?年の差は?
結婚した時期は、はっきりしていません【諸説あり】。今の事典では、永禄10年(1567年)の終わり〜永禄11年(1568年)の初めごろとするものが多いですが、永禄2年(1559年)〜永禄6年(1563年)ごろと、もっと早かったとみる研究者もいます。
年の差は、長政を天文14年(1545年)生まれ、お市を天文16年(1547年)生まれとすると、2歳差です。ただ、どちらの生まれた年も後の記録からの逆算です【有力説】。
夫婦の仲はよかった?
2人は3人の娘に恵まれたため、「仲のよい夫婦だった」と書かれることが多いです。しかし、2人の気持ちや夫婦仲を直接伝える同じ時代の記録は見つかっていません【不明】。
信長と長政が敵になったとき、お市が両はしをしばった小豆の袋を信長に送って危険を知らせたという「小豆袋」の話は有名ですが、これも江戸時代の本に出てくる話です【伝承】。お市の側から見た話は、お市の方の記事「1人目の夫・浅井長政との結婚」で紹介しています。
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本当の気持ちはわからない……。でも、のちに娘が父の供養をしているのは、なんだかうれしいですね。
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そうだな。肖像画の話は、あとの章でくわしく見よう。
浅井長政はなぜ信長を裏切った?金ヶ崎の戦いと理由の諸説
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画像:織田信長
長政がなぜ信長から離れたのかは、侍ロードが確かめた同じ時代の記録には見当たりません。研究者の説も分かれていて、「これが理由」と言い切ることはできません【諸説あり】。まずは、裏切りが起きた「金ヶ崎の戦い」から見ていきましょう。
金ヶ崎の戦い(金ヶ崎の退き口)とは?
元亀元年(1570年)4月、信長は越前(今の福井県)の朝倉義景を攻めるため、敦賀(福井県敦賀市)に攻めこみ、手筒山城と金ヶ崎城を落としました【史実:信長公記】。ところがそこへ、「浅井長政が背いた」という知らせが届きます。
浅井家の北近江は、敦賀から京都や岐阜へもどる道のすぐそばにあります。長政が敵になると、信長は前の朝倉と後ろの浅井にはさまれてしまいます。信長は、金ヶ崎城に木下藤吉郎(のちの豊臣秀吉)を残し、近江の朽木(くつき)を通る山道で、4月30日に京都へ引き上げました【史実:信長公記】。この撤退を「金ヶ崎の退き口(のきぐち)」と呼びます。
秀吉のほかにだれが残って戦ったのか、どのように戦ったのかは、記録によって書かれ方がちがいます【諸説あり】。
信長の退却を助けた朽木氏には、2年前の永禄11年(1568年)12月、長政と父・久政が連名で約束の文書(起請文)を出していました。この文書は今も国立公文書館に残っています【史実】。浅井家と結んでいた朽木氏が、このときは信長の側についたことになります。

画像:北近江と越前・京都の位置関係(模式図・侍ロード作成)。画像をタップ(クリック)すると拡大できます
史料ボックス④『信長公記』が書く「浅井の裏切り」
出典
太田牛一『信長公記』巻三(元亀元年〈1570年〉4月)
原文(一部)
「浅井者歴然為御縁者之上剰江北一円に被仰付之間不足不可有之条可為虚説と思食候処従方々事実之注進候」
現代語訳
浅井ははっきりした身内であるうえ、北近江一帯を任せているのだから、不満があるはずがない。うそだろうとお思いになったが、あちこちから「本当だ」という知らせが届いた
この記事の説明
信長は、長政の裏切りをすぐには信じられなかったことがわかります。一方で、長政がなぜ背いたのかは、ここにも書かれていません
なぜ裏切った?研究者の説
理由については、次のような説が出されています【諸説あり】。
| 説 | どんな考え方か | おもに唱える人 |
| 朝倉家との古いつながり | 祖父の代から結びつきのあった朝倉家を見捨てられなかった | 事典などの昔からの説明。ただし「浅井と朝倉は古くからの同盟だった」こと自体を疑う研究もある |
| 朝倉家に従う立場だった | 浅井家は朝倉家の対等な同盟相手というより、従う立場に近かった | 長谷川裕子 |
| ほうび(恩賞)への不満 | 六角氏との戦いのあと、浅井家に十分なほうびが与えられず、家臣たちの不満が信長から離れることにつながった | 小和田哲男 |
| 信長への警戒 | まわりを信長の家臣に囲まれ、次は自分が攻められると恐れた | 黒田基樹 |
| 浅井家のしくみと合わなかった | 家臣や地域に支えられた浅井家のやり方と、信長の進め方が合わなかった | 宮島敬一 |
どれも研究者の考えで、決め手になる記録は見つかっていません。いくつかの理由が重なっていた可能性もあります。
このほか、江戸時代の軍記には、将軍・足利義昭のさそいで信長から離れたとする話もあります。ただし、元亀元年(1570年)4月に長政が離れた理由として、これを確かめられる同じ時代の記録は見つかっていません【伝承】。
「朝倉を攻めない約束」は本当?
「信長は、朝倉を攻めないと長政に約束していたのに、それを破ったから裏切られた」という話をよく見かけます。しかし、この話のもとは、江戸時代に書かれた『浅井三代記』です。
史料ボックス⑤『浅井三代記』の「誓紙」の話(後の時代の本の例)
出典
『浅井三代記』巻十三(江戸時代の17世紀後半に、近江の寺のお坊さんがまとめたとされる軍記)
原文(一部)
「越前の国の儀は浅井か指図にまかすへきと堅く誓紙をかゝるれと」
現代語訳
越前の国のことは浅井の指図にまかせると、かたく誓紙(約束の文書)を書かれたのに
この記事の説明
これは、父・久政のせりふとして書かれた言葉です。中身は「越前のことは浅井の指図に任せる」というもので、この言葉には「朝倉を攻めない」とは書かれていません。『浅井三代記』は物語として書かれた部分が多い本とされ、この約束を同じ時代の記録で確かめることはできません
つまり、「約束を破られたから裏切った」というのは、江戸時代の本から広まった話です【伝承】。「父・久政や家臣たちが長政を押し切った」という話も、おもにこうした軍記に出てくるものです【伝承】。
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有名な話でも、江戸時代の本が元になっていることが多いんですね。
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長政の本当の気持ちは、記録に残っておらぬ。だからこそ、いろいろな説が生まれたのだろう。
姉川の戦いとは?場所と結果をわかりやすく

画像:姉川古戦場(滋賀県長浜市)。Wikimedia Commons(撮影:立花左近・CC BY-SA 3.0)
姉川の戦いは、元亀元年(1570年)6月28日(ユリウス暦では1570年7月30日)、近江の姉川のほとり(今の滋賀県長浜市)で、織田信長・徳川家康の軍と、浅井長政・朝倉の軍が戦った合戦です。結果は、織田・徳川の勝ちでした【史実:信長公記】。
場所はどこ?
戦場は、小谷城の南を流れる姉川のあたりです。今の長浜市の野村町・三田町のあたりで、古戦場の碑が立っています。浅井軍と朝倉軍は、姉川を前にして、野村と三田村の2か所に分かれて陣をしきました【史実:信長公記】。浅井軍が野村、朝倉軍が三田村にいたとされます【有力説】。
位置関係は、上の裏切りの章の地図を見てください。
だれとだれが戦った?兵の数は?
- 織田・徳川の軍:信長と、同盟を結んでいた家康の軍。家康は西の三田村のほうで戦いました
【史実:信長公記】 - 浅井・朝倉の軍:『信長公記』は、朝倉軍を約8,000、浅井軍を約5,000と書いています
【史実:信長公記】
織田・徳川の兵の数は、記録によって大きくちがい、はっきりしません【諸説あり】。家康については、徳川家康の記事で紹介しています。
結果は?
織田・徳川の軍が勝ちました。『信長公記』は、浅井・朝倉側の主だった者を1,100人あまり討ち取ったと書いています(両軍をあわせた死者の数ではありません)。しかし、ほかの記録では数千人とするものもあり、死者の数ははっきりしません【諸説あり】。
浅井家の家臣・遠藤直経(えんどう なおつね)は、この戦いで討ち死にしました。『信長公記』の写本の一つには、竹中半兵衛の弟の竹中久作が討ち取ったと書かれています【史実:信長公記】。半兵衛については竹中半兵衛の記事で紹介しています。
なお、浅井家の家臣・磯野員昌(いその かずまさ)が織田軍の陣を次々に破った「十一段崩し」の話は、『浅井三代記』に描かれる言い伝えです【伝承】。
負けてすぐに滅びたわけではない
姉川の戦いで負けたあとも、浅井家はすぐには滅びませんでした。長政は朝倉家などと手を組み、そのあと3年あまり、小谷城で信長と戦い続けます【史実】。
- 元亀元年(1570年)6月:信長は小谷城の南の横山城に秀吉を置き、浅井家を見張らせた
【史実:信長公記】 - 元亀2年(1571年)2月:佐和山城(彦根市)を守っていた家臣の磯野員昌が、信長に城をわたした
【史実:信長公記】 - 元亀3年(1572年)7月:信長が小谷城の目の前の虎御前山に砦を築き、秀吉に守らせた
【史実:信長公記】 - 天正元年(1573年)8月:家臣の阿閉貞征が信長方につき、小谷城が落ちる
【史実:信長公記】
信長は、力ずくで一気に攻めるよりも、浅井家の家臣を少しずつ味方に引きこみ、小谷城をじわじわと追いつめていったのです。
布陣や家康の役割、本多忠勝・真柄直隆の話など、くわしくは姉川の戦いの記事で紹介しています。
浅井長政はイケメン?肖像画・身長・性格

画像:「浅井長政像」(高野山持明院蔵・重要文化財)。Wikimedia Commons(パブリックドメイン)
長政は、ゲームやドラマでは若くりりしい「イケメン」の武将として描かれることが多い人物です。しかし、長政の顔立ちを書き残した同じ時代の記録は見つかっておらず、本当にイケメンだったかはわかりません【不明】。
残っている肖像画は、亡くなって16年後のもの
長政の姿を伝えるいちばん有名な絵は、高野山の持明院(和歌山県高野町)に伝わる「浅井長政像」です。国の重要文化財になっています【史実】。
- 描かれた時期:天正17年(1589年)。長政の十七回忌(亡くなって16年目の法要)にあたる年で、賛にそのことが書かれています
【史実】 - 描かせた人:賛には「ある人」とだけ書かれています。長政とお市の長女・茶々だと考えられています
【有力説】 - 姿:小さな烏帽子(えぼし)をかぶり、黒い着物を着て、扇を手に座っています

画像:「浅井長政像」の顔の部分。着物の袖に、亀甲を3つ重ねた紋が見えます。Wikimedia Commons(パブリックドメイン)
絵の長政は、ふっくらとした顔に描かれています。ただし、長政が亡くなってから16年後に描かれた絵なので、本人の顔をどこまで写しているかはわかりません。この絵から、長政が太っていたかどうかを決めることもできません。
イケメンのイメージはどこから?
今のゲームやドラマの長政は、若くして悲劇的な最期をとげた武将として、りりしい姿に描かれることが多くあります。江戸時代の浮世絵でも、長政は勇ましい武者として描かれていました。

画像:歌川国芳「太平記英勇伝」の阿佐井備前守仲政(浅井長政)の一部(江戸時代の終わりごろ)。国立国会図書館蔵。Wikimedia Commons(パブリックドメイン)
この浮世絵では、名前が「阿佐井備前守仲政」と、少し変えた字で書かれています。江戸時代には、戦国時代の武将を、名前の字を変えて描くことがよくありました。
身長は?
今回確認した史料では、長政の身長はわかりません【不明】。体つきについても、同じ時代の記録で確かめられることは見つかりませんでした。
性格は?人柄がわかる話
長政の人柄を直接伝える記録は多くありません。そのなかで手がかりになるのが、先に紹介した8月29日付の感状です。研究者の紹介によると、城が落ちる直前に、最後までともに戦った家臣・片桐直貞の働きをほめ、感謝の気持ちを伝える内容です。感状は、家臣が別の主君に仕えるときに手柄の証明にもなるものでした。
また、研究者の太田浩司さんは、浅井家の当主が、領内の争いを古いきまりにそって裁く「まとめ役」として振るまっていたと指摘しています。
一方、「義理がたい」「情に厚い」といった人物像は、後の時代の軍記や物語から広まったイメージです【伝承】。
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肖像画の長政さん、思っていたよりおだやかな顔ですね。
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茶々が父をしのんで描かせたとも考えられている絵だ。そう思うと、見え方も変わってくるな。
小谷城はどこ?城跡の見どころと墓・ゆかりの地

画像:小谷城跡の千畳敷(滋賀県長浜市)。Wikimedia Commons(撮影:ブレイズマン・パブリックドメイン)
小谷城(おだにじょう)は、今の滋賀県長浜市湖北町伊部(いべ)の小谷山にあった山城です。長政の祖父・亮政が築いたと考えられ【有力説】、亮政・久政・長政の浅井家3代の本拠地になりました【史実】。城が築かれたのは大永年間(1520年代前半)とされ、1524年ごろ・1525年ごろなどの説があります【諸説あり】。
城のあとは国の史跡「小谷城跡」になっています(昭和12年〈1937年〉に指定、平成7年〈1995年〉にふもとの清水谷の地区が追加)【史実】。「日本100名城」にも選ばれていて、山の上に城を築いた代表的な城として知られています。
どんな城だった?
小谷城は、山の尾根の上に、本丸・中丸・京極丸・小丸・山王丸などの曲輪が並び、いちばん高い大嶽(おおづく)は標高約495メートルあります【史実】。山のふもとの清水谷には、浅井家や家臣たちの屋敷がありました【史実】。曲輪の並びは、最後の章の模式図を見てください。城跡の見どころや資料館、行き方は、小谷城の記事でくわしく紹介しています。

画像:小谷城跡のふもとにある「大手門」の門(滋賀県長浜市)。Wikimedia Commons(撮影:ブレイズマン・パブリックドメイン)
小谷城が落ちたあと、北近江は秀吉に与えられました。秀吉はしばらく小谷城に入ったあと、琵琶湖のそばの今浜を「長浜」と改めて新しい城を築き、小谷城は使われなくなったとされます【有力説】。
2026年に発表された久政の手紙
2026年4月21日、長浜市は、長政の父・久政が家臣にあてた手紙が約100年ぶりに見つかったと発表しました。2025年9月、市が調査をたのまれた商家で見つかったもので、小谷城の石垣に使う石を運ぶ「石引き」に加わるよう命じる内容です。昭和2年(1927年)の『東浅井郡志』にのっていたものの、行方がわからなくなっていた手紙で、その本では「石」の字が「衆」と読みまちがえられていたことも、新しい調査でわかりました。
長浜市は、信長軍が攻めてくるのにそなえて石垣を固めた可能性があるとみています。浅井家が小谷城の石垣のために石を運ばせていたことが、はっきりわかる発見です。
小谷城跡を訪ねるには
小谷城跡のふもとには、浅井家や小谷城について学べる小谷城戦国歴史資料館(長浜市小谷郡上町)があります。山城なので、本丸のあたりまで歩くには山道を登ることになります。
浅井長政の墓とゆかりの地

画像:家族の冥福を祈るお市
| 場所 | どんなところ | 今の住所 |
| 徳勝寺(とくしょうじ) | 浅井家の菩提寺(家の先祖をまつる寺)。亮政・久政・長政の浅井三代の墓がある | 滋賀県長浜市平方町 |
| 小谷城跡 | 浅井家の本拠地。「浅井長政公自刃之地」の碑や、清水谷の屋敷のあとがある | 滋賀県長浜市湖北町伊部 |
| 養源院(ようげんいん) | 文禄3年(1594年)、長女の茶々が、父・長政たちを供養するために秀吉に願って建てた寺。寺の名前は長政の法名(亡くなったあとの名前)から | 京都市東山区 |
| 持明院(じみょういん) | 長政とお市の肖像画、父・久政の肖像画(どれも重要文化財)が伝わる寺 | 和歌山県高野町(高野山) |
| 実宰院(じっさいいん) | 小谷城が落ちる前、お市と娘たちがかくまわれたと伝わる寺【伝承】 | 滋賀県長浜市平塚町 |
養源院は、のちに火事で焼けたあと、元和7年(1621年)に三女の江が建て直しました。

画像:養源院の参道(京都市東山区)。Wikimedia Commons(撮影:PlusMinus・CC BY-SA 3.0)
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娘たちが、お父さんのためにお寺を建てたんですね。
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幼いころに父を失った娘たちが、のちに供養を続けたのだな。
年表でみる浅井長政の生涯

画像:浅井長政の年表(侍ロード作成)。画像をタップ(クリック)すると拡大できます
| 年 | 年齢(数え年) | できごと |
| 大永年間(1520年代前半) | ― | 祖父・亮政が小谷城を築く【諸説あり】 |
| 天文14年(1545年) | 1歳 | 長政が生まれる。幼名は猿夜叉【有力説】 |
| 永禄2年(1559年) | 15歳 | 元服(大人になる儀式)して「賢政」と名のる。六角氏の重臣の娘だった妻と別れ、六角氏と手を切る【有力説】 |
| 永禄3年(1560年) | 16歳 | 野良田の戦いで六角軍を破る。父・久政から家を継ぐ【有力説】 |
| 永禄4年(1561年) | 17歳 | 名前を「長政」に改める【有力説】 |
| 永禄10年末〜11年初め(1567〜68年)ごろ | 23〜24歳 | お市と結婚(時期は諸説あり)【諸説あり】 |
| 永禄11年(1568年) | 24歳 | 信長が京都へ向かう。長政も六角氏を攻める【有力説】 |
| 元亀元年(1570年) | 26歳 | 4月、金ヶ崎で信長から離れる。6月28日、姉川の戦いで敗れる【史実】 |
| 元亀2〜3年(1571〜72年) | 27〜28歳 | 家臣が次々に信長方につく。信長が虎御前山に砦を築く【史実】 |
| 天正元年(1573年) | 29歳 | 8月、朝倉家が滅びる。8月27日に父・久政が自害【史実】。8月28日または9月1日、長政が自害【諸説あり】。嫡男(万福丸)が処刑される【史実】。この年、三女の江が生まれる【有力説】 |
| 天正2年(1574年) | ― | 正月、長政たちの首が「薄濃」にされ、信長の酒の席に出される【史実】 |
| 天正17年(1589年) | ― | 十七回忌。持明院の「浅井長政像」が描かれる【史実】 |
| 文禄3年(1594年) | ― | 茶々が京都に養源院を建てる【有力説】 |
秀吉と浅井家

画像:豊臣秀吉
浅井家との戦いで、続けて大事な役目をになったのが、のちの天下人・羽柴(豊臣)秀吉です【史実:信長公記】。
- 1570年:金ヶ崎城に残される。姉川の戦いのあと、横山城の守りをまかされる
- 1572年:小谷城の目の前の虎御前山の砦を守る
- 1573年:京極丸を攻め取って久政と長政を切り離す。落城のあと、北近江の浅井家の領地を信長からもらう
秀吉は、この北近江で初めて城を持つ大名になりました。そしてのちに、長政の長女・茶々を側室にむかえます【史実】。秀吉については、豊臣秀吉の記事で紹介しています。
髑髏の盃は本当?首のその後
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画像:織田信長
「信長は、長政たちの頭蓋骨で盃を作り、酒を飲んだ」という話を聞いたことがあるかもしれません。しかし、『信長公記』にあるのは、天正2年(1574年)の正月、朝倉義景・浅井久政・浅井長政の首を「薄濃(はくだみ)」にして、酒の席に出したところまでです【史実:信長公記】。盃にして酒を飲んだとは書かれていません【俗説】。
史料ボックス⑥『信長公記』が書く「薄濃」
出典
太田牛一『信長公記』巻七(天正2年〈1574年〉正月1日、岐阜)
原文(一部)
「已上三ツ薄濃にして公卿に居置御肴に出され候て御酒宴」
現代語訳
(朝倉義景・浅井久政・浅井長政の首の)3つを薄濃にして、膳の台にのせ、酒の肴として出され、酒宴となった
この記事の説明
京都やほかの国から来た客が帰ったあと、信長の身近な家臣だけが集まった正月の酒の席でのことです。「肴」は酒の席に出すもののことで、ここでは見せ物として出されたと読めます
薄濃(はくだみ)とは?
薄濃は、首(頭の骨)に漆を塗り、金粉などで色をつけたものと説明されることが多い言葉です。
書いてあること・書いてないこと
| 話 | 『信長公記』 | 『浅井三代記』(江戸時代) | この記事の判断 |
| 首を薄濃にした | 書かれている | 「朱塗りにした」とある | 【史実】 |
| 酒の席に出した | 書かれている(肴として) | 書かれている | 【史実】 |
| 盃にして酒を飲んだ | 書かれていない | 書かれていない | 【俗説】 |
| 頭蓋骨が今も残っている | ― | ― | 【不明】 |
「盃にした」という話がいつ、どこから広まったのかは、はっきりしません。後の時代の小説やドラマなどで広まったと考えられます。
なぜ信長はそんなことをした?
信長の気持ちを書いた記録は見つかっておらず、受け取り方は分かれています【諸説あり】。強い敵だった3人をたたえ、供養する意味があったとみる研究者もいれば、『信長公記』が万福丸の処刑を「長年の無念を晴らされた」と書いていることなどから、うらみの表れとみる研究者もいます。
頭蓋骨は今どこ?本物は残っている?
酒の席に出されたあと、首がどうなったのかを示す確かな記録は見つかっていません。今どこにあるのか、残っているのかもわかりません【不明】。
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盃の話、すっかり本当だと思っていました……。
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首を酒の席に出しただけでも、今の感覚では驚くことだ。だが、記録にないことまで足して語るのはよくない。
浅井長政の子孫は?家系図と血すじ

画像:浅井長政の家族(侍ロード作成)。画像をタップ(クリック)すると拡大できます
大名としての浅井家は、天正元年(1573年)の小谷城の落城で滅びました【史実】。跡継ぎの万福丸も処刑され、長政の跡を継ぐ家の流れはここで絶えたとされます【有力説】。
しかし、娘の茶々と江には子どもが生まれ、とくに江の子どもたちを通じて、長政の血すじは後の時代へ続いていきました【史実】。
3人の娘から続く血すじ
- 茶々の子:豊臣秀頼。大坂の陣(1615年)で豊臣家は滅びましたが、秀頼の娘は生きのび、のちに尼(天秀尼)になりました
【史実】 - 初の子:初には実の子がいなかったとされます
【有力説】 - 江の子:3代将軍・徳川家光、後水尾天皇の妻になった徳川和子(東福門院)、千姫、珠姫、完子(さだこ)など
【史実】
江の子の家光(3代将軍)だけでなく、家光の子の家綱(4代)・綱吉(5代)、家光の別の子・綱重の子である家宣(6代)、さらに家宣の子の家継(7代)も、長政の子孫です【史実】。また、和子が産んだ明正天皇(奈良時代の称徳天皇以来、約860年ぶりの女性の天皇)は、長政のひ孫にあたります【史実】。

画像:江から続く血すじ(おもな人だけをのせた略図・侍ロード作成)。画像をタップ(クリック)すると拡大できます
子孫に総理大臣がいる?
系図の上では、江の娘・珠姫が嫁いだ加賀藩の前田家から、総理大臣の近衛文麿につながるとされます。加賀藩の最後の藩主・前田慶寧(よしやす)の娘が近衛家に嫁ぎ、その子が文麿だからです。さらに、文麿の孫が、のちに総理大臣になった細川護熙です。
どちらも、江戸時代の大名家や公家の系図をたどった場合の話です。
今の天皇家とつながっている?
系図の上では、江が豊臣秀勝との間に産んだ娘・完子が公家の九条家に嫁ぎ、その子孫が、娘を通じた血のつながりや、二条家に移った人の流れなどをへて、大正天皇の皇后(貞明皇后)につながるとされます。このため、長政の血すじは今の天皇家にもつながっていると言われます。
ただし、九条家の当主を順に並べた系図が、そのまま血のつながりの道すじになるわけではありません。途中で養子として家を継いだ人もいるため、上の図では途中の代を省いています。
なお、明正天皇には子どもがいなかったため、今の天皇家につながるとされるのは、この九条家を通じた流れです。ただし、途中の親子関係のひとつひとつまでは、この記事では確かめていません。
「浅井」の名字の人は子孫?
浅井という名字だけで、長政の子孫だとは言えません。万寿丸や浅井井頼の子孫を名のる家の話はありますが、同じ時代の記録で確かめることはできません【伝承】。
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長政さんの血が、将軍家や天皇家にまでつながっているなんて驚きです!
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家は滅んでも、娘たちが命をつないだ。それが長政のもう一つの物語なのだ。
よくある質問(FAQ)
浅井長政と浅野長政は同じ人?
まったくの別人です。浅野長政は豊臣秀吉の家臣で、「五奉行」の一人です。秀吉の妻・寧々の義理の妹・ややの夫にあたります。浅井長政が亡くなった1573年ごろは「長吉」と名のっていて、「長政」に改めたのはずっとあとのことです。
浅井長政は何歳で亡くなった?
29歳(数え年)です。誕生日がわかっていないため、今の数え方(満年齢)では27〜28歳になります。
浅井長政が信長を裏切らなかったら、どうなった?
記録からは答えられない問いです。ただ、信長は浅井家を「身内」と考え、北近江を任せていたことが『信長公記』からわかります。裏切らなければ、信長の身内の大名として生きのびた可能性はありますが、それはあくまで想像です。
大河ドラマ『豊臣兄弟!』の浅井長政や万福丸は史実どおり?
お市との結婚、信長からの離反、小谷城の落城、10歳の嫡男の処刑といった大きな流れは、記録にあるできごとです。一方、お市が長政を介錯する場面のように、記録にない創作の場面も多くふくまれています。
小谷城の読み方は?
「おだにじょう」と読みます。今の滋賀県長浜市にあった山城で、国の史跡になっています。
浅井長政の領地はどのくらい?石高は?
北近江(今の滋賀県北部)を中心に治め、一時は佐和山城(彦根市)のあたりまで力をのばしていました。ただ、浅井家の領地を石高(米の量に置きかえた土地の大きさ)で表した同じ時代の記録は見つかっておらず、インターネットで見かける数字には、もとになる記録が確かめられないものもあります。
まとめ|浅井長政とは
浅井長政は、若くして六角氏から自立し、信長の妹お市と結婚して手を結んだものの、元亀元年(1570年)に信長から離れ、3年あまりの戦いのすえ、天正元年(1573年)に小谷城で自害した北近江の戦国大名です。
信長から離れた理由や、最期の日付、介錯した人など、記録だけではわからないことも多く残っています。一方で、長政の娘たちは生きのび、その血すじは豊臣家・徳川将軍家・天皇家にまでつながりました。
長政の妻についてはお市の方の記事、長政と戦った信長については織田信長の記事、のちにお市と再婚した勝家については柴田勝家の記事もあわせてどうぞ。
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信長の身内でありながら、信長と戦う道を選んだ男。その理由は、今も謎のままだ。
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娘の茶々さんや江さんのことも、もっと知りたくなりました!
参考にした史料・この記事の書き方
この記事は、おもに次の記録や資料をもとに書いています。
- 同じ時代に近い記録:太田牛一『信長公記』(巻三・巻六・巻七)、「浅井長政像」(高野山持明院蔵)の賛、浅井久政・長政の起請文(国立公文書館蔵『朽木家古文書』)
- 後の時代の記録:『浅井三代記』、『朝倉始末記』
- 研究・資料:太田浩司「戦国大名浅井氏と家臣たちの動向」(明治大学 博士論文要旨)、フレデリック・クレインス「紙片一枚に込めた浅井長政の心遣い」(幻冬舎plus、2025年。片桐直貞あての感状の紹介)、コトバンク(『日本大百科全書(ニッポニカ)』『改訂新版 世界大百科事典』『日本人名大辞典』など)、長浜市「史跡小谷城跡保存管理計画」、長浜市立図書館のレファレンス事例集、持明院・養源院の解説、共同通信の報道(2026年4月21日、久政の書状の発見)
- 研究者の説の紹介:離反の理由(小和田哲男・黒田基樹・宮島敬一・長谷川裕子の各氏の説)や結婚の時期、万福丸の母(福田千鶴『江の生涯』など)については、研究者の説を紹介した記事や事典の解説を参考にしています。感状については、荻野三七彦「浅井長政最期の感状」(『古文書研究』31号)などの研究が知られています
- 画像:「浅井長政像」(持明院蔵)、歌川国芳の浮世絵、小谷城跡の千畳敷と大手門の写真は、Wikimedia Commons でパブリックドメインとして公開されているものです。「浅井長政公自刃之地」の碑の写真(Heartoftheworld・CC BY-SA 3.0)、姉川古戦場の写真(立花左近・CC BY-SA 3.0)、養源院の写真(PlusMinus・CC BY-SA 3.0)、三つ盛亀甲に花菱の図(Gameposo・Marnanel・CC BY-SA 4.0)も Wikimedia Commons のものです。年表・家系図・小谷城と位置関係の図とイラストは侍ロードのオリジナルです
記事中のラベルの意味
【史実】同じ時代の史料で確認できること(【史実:○○】は、その出どころ)【有力説】研究者の間で広く受け入れられている見方(【有力説:○○】は、その出どころ)【諸説あり】見解が分かれていること【不明】今回確認した史料では、確かめられないこと【伝承】【俗説】後の時代に作られた話や、根拠がうすい言い伝え【ドラマの創作】ドラマなどで作られた場面
この記事は侍ロード編集部が作成し、公開後も新しい研究やご指摘を受けて見直しています。内容の誤りにお気づきの場合は、お問い合わせからお知らせください。確認のうえ修正します。

