白い頭巾に灰色の羽織を着た黒田官兵衛(如水)のイラスト

画像:(肖像画を参考にした黒田官兵衛(如水)のイメージイラスト。この記事のイラストはすべてイメージです)

豊臣秀吉の天下統一を、知恵と交渉で支えた武将——それが黒田官兵衛(くろだ かんべえ)です。のちに出家して「黒田如水(じょすい)」と名乗り、本当の名前(実名)は「黒田孝高(よしたか)」といいます。

竹中半兵衛と並ぶ「秀吉の軍師」として有名ですが、敵の城に約1年閉じこめられたり、キリシタンになったりと、ほかの武将にはない波乱の人生を送りました。

この記事では、どんな人だったのかを中心に、竹中半兵衛との関係、幽閉と足の話、死因、子孫まで、同じ時代の記録で確かめられる話と、後の時代に生まれた話を分けて解説します。

ケンシン

わしは上杉ケンシン。今日の主役は、秀吉を支えた知恵者だ。「切れ者で油断ならない男」と思われがちだが、記録をたどると意外な素顔も見えてくるぞ。

マサムネ

伊達マサムネです! 官兵衛様は、秀吉様に「次の天下人」と恐れられたって聞いたことがあります。それって本当なんですか?

ケンシン

それも、あとで確かめよう。有名な話ほど、どこまでが本当か見きわめねばならん。

黒田官兵衛とは?どんな人?

頭巾をかぶり脇息にもたれる黒田如水の肖像画(崇福寺蔵)

画像:「如水居士像」(1604年・福岡市 崇福寺蔵)。亡くなった年に描かれた肖像で、頭巾をかぶった晩年の姿です

ひと言でいえば、黒田官兵衛は「秀吉のそばで作戦や交渉を担い、天下統一を支えた知恵者」です。戦うだけでなく、敵の城に乗りこんで降伏をすすめる交渉を何度も成功させました。

人柄がわかる3つのポイント

  • 妻は生涯ひとりだけ:側室を持たず、正室の光(てる)だけを妻とした。戦国時代にはめずらしい夫婦です
  • ぜいたくを好まない:毛利輝元が「官兵衛の好みに合わせて、もてなしは控えめに」と家臣に指示した手紙が残っています
  • 恩を忘れない:自分が閉じこめられた牢で世話をしてくれた人の息子を、のちに黒田家に迎えています

知りたいところから読めるように、主な見出しへのリンクを置いておきます。

基本プロフィール(早わかり表)

項目内容信憑性
生没年1546年〜1604年【史実】
出身地播磨国の姫路(現在の兵庫県姫路市)【有力説】
名前官兵衛(通称)/孝高(実名)/如水(出家後の号)【史実】
主君小寺政職 → 織田信長 → 豊臣秀吉 → 徳川家康【史実】
主な居城姫路城 → 中津城(大分県)【史実】
正室(妻)櫛橋光(側室はいない)【有力説】
子ども長政(長男)・熊之助(次男)【史実】
宗教キリシタン(洗礼名シメオン)【史実】
家紋藤巴(ふじどもえ)・石餅(こくもち)【有力説】
死因・享年病死(病名は不明)・59歳(数え年)【史実】

官兵衛・孝高・如水は同じ人|名前の違いと読み方

名前読み方どんな名前?
官兵衛かんべえふだんの呼び名(通称)。いちばん有名な名前
孝高よしたか本当の名前(実名)。はじめは祐隆、のち孝隆とも
如水じょすい1593年に頭を丸めて出家してからの名前(号)
小寺官兵衛こでら かんべえ若いころは主君・小寺家の名字を名乗っていた

「黒田官兵衛」「黒田孝高」「黒田如水」は、すべて同じ人物です【史実】。若いころは主君の小寺家から名字を与えられて「小寺官兵衛」と名乗っており、黒田の名字を使うようになるのは1580年ごろからと考えられています【有力説】。

「如水」の由来について、宣教師ルイス・フロイスは「官兵衛は、自分の権力も手柄も水の泡のように消え去ったと言って、“水の如し”と名乗った」と書いています【史実:フロイス『日本史』】。秀吉の怒りを買ったときに出家した、という事情があったためです。一方で、中国の古典『老子』の「上善は水の如し」から取ったという説もあります【諸説あり】。

竹中半兵衛との関係|「両兵衛」の真相と、長政を救った逸話

高い兜と鎧を身につけ、采配を持つ竹中半兵衛のイラスト

画像:竹中半兵衛

黒田官兵衛・竹中半兵衛・羽柴秀吉・織田信長・荒木村重・松寿丸の関係図

画像:黒田官兵衛をめぐる人間関係(侍ロード作成)。画像をタップ(クリック)すると拡大できます

結論からいうと、官兵衛と竹中半兵衛は同じ時期に秀吉を支えた仲間で、後の時代に2人そろって「両兵衛(りょうべえ)」と呼ばれるようになりました【有力説】。ただし、一緒に働いた期間はおよそ1年と意外に短く、「天才軍師コンビ」のイメージの多くは江戸時代以降に作られたものです。

根拠:『信長公記』、竹中半兵衛と黒田孝高に関する研究(中野等『黒田孝高』2022年 ほか)

一緒に働いたのは、たった1年ほど

甲冑を着て床几に腰かける竹中半兵衛の肖像画

画像:竹中半兵衛の肖像画(岐阜県垂井町 禅幢寺蔵)

2人が同じ戦場にいたことは、信長の家臣が書いた『信長公記』で確かめられます。1577年、秀吉の播磨攻めで、官兵衛と半兵衛はいっしょに佐用城(兵庫県)を攻め落としました【史実:信長公記】。

しかし翌1578年の秋、官兵衛は荒木村重の有岡城に閉じこめられてしまいます(くわしくは次の章)。そして半兵衛は、官兵衛がまだ牢の中にいた1579年6月、三木城攻めの陣中で病死しました(36歳)【史実】。2人が並んで秀吉を支えた期間は、およそ1年だったことになります。

また、「軍師」という役職が当時あったわけではありません。官兵衛は秀吉の家臣として作戦や交渉を担い、半兵衛は織田家から秀吉に付けられた武将(与力)だったとみられています【有力説】。

項目黒田官兵衛竹中半兵衛
生没年1546〜1604年1544〜1579年
出身播磨(兵庫県)美濃(岐阜県)
秀吉との関係秀吉の家臣として作戦・交渉を担う織田家から付けられた与力とみられる
有名な話有岡城の幽閉、中国大返しの献策稲葉山城の乗っ取り、松寿丸を救った話
同じ時代の記録書状などが多く残る少なく、実像は不明な点が多い

半兵衛の死因や子孫、お墓については、竹中半兵衛とは?死因・黒田官兵衛との関係・墓・子孫を史実で解説でくわしく紹介しています。

信長に殺されかけた松寿丸を、半兵衛が救った?

有名なのが次の話です。官兵衛が有岡城から戻らないので、信長は「官兵衛が裏切った」と考え、人質としてあずかっていた官兵衛の息子・松寿丸(のちの黒田長政)を殺すよう命じました。ところが半兵衛は松寿丸をひそかに自分の領地にかくまい、命を救った——というものです。

黒田家は、この恩を忘れないために竹中家の家紋をもらい受け、のちに半兵衛の息子が元服するときには官兵衛が烏帽子親(成人の儀式の後見役)をつとめた、とも伝えられます。

ただし、この話が最初に出てくるのは、江戸時代に黒田家がまとめた『黒田家譜』(1688年)です。同じ時代の記録では確認できず、後の時代に生まれた話の可能性が高いとみる研究者が多くなっています【伝承:『黒田家譜』】。

マサムネ

えっ、あの有名な話が、確かな記録にはないんですか!?

ケンシン

話としてはよくできておる。だが、よくできた話ほど、後から作られたものが多い。覚えておくとよいぞ。

有岡城でなぜ幽閉された?足が不自由になった経緯

烏帽子をかぶり青い着物を着た荒木村重のイラスト

画像:荒木村重

1578年、織田家の重臣・荒木村重が、信長にそむいて有岡城(兵庫県伊丹市)にこもりました。官兵衛の主君だった小寺政職も村重に同調しようとしたため、官兵衛は村重を思いとどまらせようと、有岡城に乗りこみます。ところが説得は失敗し、そのまま城内に閉じこめられてしまいました【史実】。

救い出されたのは、1579年10月、有岡城が落ちる直前のことです。家臣の栗山善助(利安)らが助け出したと伝わります。幽閉はおよそ1年におよびました【史実】。

根拠:黒田孝高の研究(小和田哲男『黒田如水』2012年、中野等『黒田孝高』2022年)

足が不自由になったのは本当?

長いあいだ狭い牢に入れられていたため、救い出されたとき、官兵衛の足は不自由になっていたとされます【有力説】。頭にひどい皮膚病(できもの)が残ったという話もあります【伝承】。

ただ、「それ以来、合戦では輿(こし)に乗って指揮した」という話のいちばん古い出どころは、大正時代(1916年)に出た伝記『黒田如水伝』です【諸説あり】。また、官兵衛の肖像画がひざを立てて肘掛けにもたれた姿なのは「足が悪かったから」と説明されることがありますが、これは歌人の肖像によく見られる形で、和歌をたしなんだ官兵衛もそれにならったと考えられています【有力説】。

牢番への恩返しと、村重とのその後

有岡城で官兵衛の世話をした人の中に、村重の家臣・加藤重徳がいたと伝わります。官兵衛はのちに重徳の息子を黒田家に迎え、長政と兄弟のように育てました。この息子が黒田一成で、その家は福岡藩の重臣「三奈木黒田家」として江戸時代を通じて続きました【有力説】。

さらに、自分を閉じこめた荒木村重とも、のちに2人とも秀吉に仕えるようになってから交流があり、手紙の写しが残っているといいます【有力説】。

ケンシン

自分を牢に入れた男とも付き合いを続けるとは…。わしなら、そうはいかんかもしれんな。

マサムネ

1年も閉じこめられたのに、恨みより恩を覚えていたんですね。官兵衛様、器が大きいです!

人柄がわかる逸話|史料に残る話と、後の時代の言い伝え

白い頭巾をかぶって笑う黒田官兵衛のイラスト

官兵衛の人柄を伝える話はたくさんありますが、同じ時代の記録に残る話と、江戸時代以降にまとめられた本に出てくる話では、信用できる度合いがちがいます。ここでは、それぞれの話の出どころを示しながら紹介します。

同じ時代の記録に残る話

  • 妻は生涯、光ひとりだけ:官兵衛には側室がいたという記録がなく、正室の光とのあいだに長政と熊之助をもうけました【有力説】。キリスト教に入る前からのことなので、信仰とは関係なく、本人の考えだったとみられています。戦国時代の大名としてはめずらしい夫婦です
  • もてなしは「控えめに」:九州攻めの前、毛利輝元は家臣への手紙で、官兵衛を迎える支度は「彼の家風に合わせて、軽く整えるように」と指示しています【史実:毛利輝元の書状】
  • キリシタンとして宣教師を助けた:1585年ごろに洗礼を受け、洗礼名は「シメオン」。秀吉がキリスト教を禁じたあとも、宣教師と秀吉の面会を取り持つなど、待遇がよくなるよう動きました【史実:フロイス『日本史』】
  • 家臣の殉死を禁じた:亡くなる前、自分のあとを追って家臣が死ぬこと(殉死)を禁じました【有力説】
  • 和歌と茶の湯を愛した:千利休に茶の湯を学び、連歌(みんなで歌をつなぐ遊び)の会では、妻の光とみられる人物と歌をやりとりした記録も残っています【有力説】

なお、毛利輝元の手紙からわかるのは「もてなしを控えめに」という指示までです。そこから「ぜいたくを好まない質素な人だった」と読むのは、この記事の解釈です。ただ、他家の大名が気をつかうほど、官兵衛の好みが知られていたことはわかります。

十字と「SIMEON IOSUI」の文字が入った黒田如水の印章

画像:黒田如水の印章。十字のまわりに「SIMEON IOSUI(シメオン・如水)」とローマ字が刻まれています

後の時代の本に出てくる話(言い伝え)

次の話は、同じ時代の記録では確かめられず、江戸時代以降の本や逸話集に出てくるものです【伝承】。人柄のイメージを伝える話として紹介します。

  • 家臣を一人も死罪にしなかった:叱るときは厳しく叱ったが、あとで簡単な用事を頼んで、気まずさを残さないようにしたという
  • 持ち物を家臣に「売った」理由:使わなくなった品を家臣にただであげず、安く売り渡した。「全員にはあげられないので、あげると不公平になる。売れば、欲しい人だけが買う」と説明したという
  • 義兄弟の誓いの紙を、あの世まで:重臣の栗山善助と母里太兵衛に、若いころ義兄弟の誓いを交わさせた。死の間際、その誓紙を「最後まで約束を守ってくれた頼もしい誓紙だから、冥土まで持って行く」と笑って懐に入れた【伝承:『古郷物語』】
  • わざと家臣に冷たくした晩年:死が近づくと家臣をきつく叱るようになった。息子の長政がいさめると「家臣が早く長政の代になってほしいと思うように、わざとしている」と答えたという

優しいだけではない、乱世の大名としての顔

一方で、官兵衛は戦国の世を生きた大名でもあります。1581年の鳥取城攻めでは、城のまわりの住民を城に追いこんで食料を早く尽きさせる、きびしい兵糧攻めに加わりました【有力説】。また1588年には、豊前(大分県・福岡県)で黒田家に従わなかった城井(きい)一族を、秀吉の指示もあって長政が中津城で謀殺し、官兵衛も人質の城井朝房を討ったとされます【有力説】。

「優しい」「まじめ」という一面と、目的のためには冷徹な判断もためらわない一面。その両方を持っていたのが、官兵衛という人物だといえるでしょう。

名言は本物?「水五訓」は官兵衛の言葉ではない

官兵衛の名言としてよく紹介されるのが「神の罰より主君の罰おそるべし、主君の罰より臣下百姓の罰おそるべし」(神より主君より、家臣や民に見放されることこそ恐ろしい)です。ただし、本人が言ったと同じ時代の記録で確かめることはできません【伝承】。

また、「水は自ら活動して他を動かしむるは水なり…」で始まる「水五訓(水五則)」も、如水の言葉としてよく紹介されます。しかし国立国会図書館の調査では、確認できるもっとも古い資料は1929年(昭和4年)の雑誌『キング』で、如水が作ったという根拠は見つかっていません。「如水」の「水」から結びつけられたとみられます【俗説】。

根拠:国立国会図書館「レファレンス協同データベース」(「水五訓」あるいは「水五則」と呼ばれる格言の由来)

ケンシン

名言は、だれが言ったかで重みが変わる。だから後の人が、有名な武将の口に言葉を入れたがるのだ。

マサムネ

「水五訓」は官兵衛様の言葉だと思っていました…! 調べてみないとわからないものですね。

生涯と功績|年表と代表的な働き

朱色の合子形兜と鎧を身につけた若いころの黒田官兵衛のイラスト
年(西暦)年齢※できごとひとことメモ
1546年1播磨国の姫路で生まれる父は小寺家の重臣・黒田職隆
1567年ごろ22家督を継ぎ、櫛橋光と結婚姫路城をまかされる
1575年30主君・小寺政職に、織田信長に従うよう進言岐阜城で信長に会う
1577年32姫路城の本丸を秀吉に提供息子・松寿丸を人質に出す
1578年33有岡城に幽閉される荒木村重の説得に失敗
1579年34有岡城から救出される竹中半兵衛はこの年の6月に病死
1582年37本能寺の変 → 中国大返し → 山崎の戦い次男・熊之助が生まれる
1585年ごろ40キリスト教の洗礼を受ける洗礼名シメオン
1587年42九州攻めのあと、豊前6郡(約12万石)の大名に中津城を築き始める
1589年44家督を長政にゆずるその後も秀吉のそばで仕える
1590年45小田原城に入り、北条氏を説得して開城させる秀吉が手紙で功績をたたえる
1593年48朝鮮出兵中に秀吉の怒りを買い、出家「如水軒円清」と名乗る
1597年52次男・熊之助が海で遭難して死去朝鮮へ向かう途中だった
1600年55関ヶ原の戦い。九州で兵を挙げ、石垣原の戦いに勝つ息子の長政は関ヶ原の本戦で活躍
1604年59京都・伏見の屋敷で死去キリシタンとして葬られる

※年齢は数え年(生まれた年を1歳とし、正月ごとに1つ年をとる数え方)です。

① 姫路城を秀吉に差し出し、播磨攻めの道を開いた

1577年、秀吉が播磨(兵庫県)に入ると、官兵衛は自分の居城だった姫路城の本丸を秀吉に提供し、自らは二の丸に移って作戦を支えました【有力説】。この姫路城が、のちの中国地方攻めの拠点になります。

② 本能寺の変と「中国大返し」

1582年、本能寺の変で信長が亡くなったとき、秀吉は備中高松城(岡山県)を攻めている最中でした。官兵衛はこのとき、取り乱す秀吉に「ご運がひらける時が来ました」と言い、毛利氏と和睦してすぐに京へ引き返す「中国大返し」を進言した、という話が有名です【伝承:『老人雑話』】。

この話のいちばん古い出どころは、江戸時代の初めにまとめられた聞き書き『老人雑話』です。官兵衛が秀吉に従って畿内へ戻り、山崎の戦いで秀長とともに天王山に陣を敷いたことは確かです【有力説】。

③ 交渉で城を開かせた「小田原の無血開城」

官兵衛が最も得意としたのは、戦わずに相手を降伏させる交渉です。1590年の小田原攻めでは、自ら小田原城に入って北条氏政・氏直の親子を説得し、城を開かせました【史実】。秀吉は長政にあてた手紙で、官兵衛の働きによって戦いが終わったとたたえています【史実:秀吉の朱印状】。

このとき北条氏直から感謝のしるしとして、名刀「日光一文字」や歴史書『吾妻鏡』などを贈られました【有力説】。

④ 中津城と「福岡」の名前

1587年、九州攻めの功績で豊前(大分県・福岡県)のうち6郡、およそ12万石を与えられ、中津城(大分県中津市)を築きました【史実】。働きのわりに少ない領地だったとされ、宣教師の記録には、官兵衛がキリシタンだったために秀吉が与える領地を減らした、と書かれています【有力説:宣教師の記録】。

一方、秀吉が「次に天下を取るのは官兵衛だ」と恐れて大きな領地を与えなかった、という話も有名です。しかしこれは、幕末にまとめられた『名将言行録』などに出てくる話で、同じ時代の記録では確かめられません【伝承:『名将言行録』】。

ケンシン

マサムネ、さっきの答えだ。「秀吉に恐れられた」という話は後の時代の本のもの。同じ時代の宣教師の記録では、領地が少ないのはキリシタンだったからだと書かれておる。

マサムネ

なるほど! 恐れられたというより、信仰のせいだったかもしれないんですね。

関ヶ原の戦いのあと、黒田家は筑前(福岡県)に移ります。新しい城下町の名前「福岡」は、黒田家の先祖ゆかりの地・備前国の福岡(岡山県瀬戸内市)から取ったとされています【有力説】。

妻・光と息子・黒田長政

妻・光(てる)|夫ひとすじの正室

官兵衛の妻・櫛橋光(くしはし てる)は、1553年に播磨の志方城主・櫛橋家に生まれ、1567年ごろ官兵衛に嫁ぎました【史実】。名前は「てる」と読むのが通説でしたが、2013年に福岡の圓應寺で「みつ」とふりがなを付けた古い文書が見つかっています【有力説】。

夫と息子がキリシタンになるなかで、光は熱心な浄土宗の信者でした。1600年の関ヶ原の戦いの直前、大坂に人質として置かれていたところを、黒田家の家臣たちに救い出されて中津へ逃れています【有力説】。官兵衛の死後は出家し、1627年に亡くなりました【史実】。

息子・黒田長政|福岡藩の初代藩主

兜をかぶり馬に乗る黒田長政の肖像画

画像:黒田長政の肖像画(部分・福岡市博物館蔵)

長男の黒田長政(1568〜1623年)は、幼いころ「松寿丸」と呼ばれ、人質として織田家にあずけられていました【史実】。父から家督を継いだあとは、九州攻めや朝鮮出兵で戦い、1600年の関ヶ原の戦いでは東軍の中心となって活躍。その功績で筑前52万石あまりを与えられ、福岡藩の初代藩主となりました【史実】。

次男の熊之助は、1597年、朝鮮に出陣していた父と兄を見舞いに向かう途中で船が嵐にあい、16歳で亡くなりました【史実】。

ケンシン

妻ひとり、子は二人。その一人を海で失ったのは、さぞつらかったであろう。

関ヶ原で何をした?長政の動きとの違い

1600年の関ヶ原の戦いのときの黒田長政と黒田如水の動きを比べた図

画像:1600年の関ヶ原の戦いのときの黒田父子(侍ロード作成)。画像をタップ(クリック)すると拡大できます

「官兵衛は関ヶ原でどっちについたの?」という疑問の答えは、東軍(徳川家康方)です【史実】。ただし、関ヶ原の本戦にいたのは息子の長政で、官兵衛(如水)は九州で戦っていました。

西軍の挙兵を知った如水は、中津城にたくわえていた金銀を配って兵を集め、およそ9,000の軍をつくりあげます。そして9月13日(関ヶ原の本戦の2日前)、豊後の石垣原の戦い(大分県別府市)で、西軍についた大友義統を破りました【史実】。その後も九州の西軍の城を次々に落としましたが、11月、家康の停戦命令を受けて兵を引いています【史実】。

このとき如水の軍には、若き日の宮本武蔵も、父の新免無二とともに加わっていたとみられています。武蔵については宮本武蔵の記事で紹介しています。

「天下を狙っていた」は本当?

如水は戦いのあと、毛利家の吉川広家にあてた手紙で「戦いがもう1か月続いていれば、中国地方へ攻め上って一合戦するつもりだった」と書いています【史実:吉川広家あての書状】。この手紙が「如水は天下を狙っていたのでは?」という見方のもとになっていますが、本心がどこにあったのかは研究者の間でも意見が分かれます【諸説あり】。

また、長政が「家康公に右手を取って感謝された」と報告すると、如水が「そのとき、おまえの左手は何をしていた(なぜその手で家康を討たなかった)」と叱った、という有名な話があります。しかしこれは明治・大正時代の伝記に出てくる話で、史実とすることはできないとされています【創作】。

マサムネ

「左手は何をしていた」の話、ドラマで見たことがあります! でも、後から作られた話だったんですね。

死因と最期|享年59、キリシタンとして迎えた死

白い頭巾に紺色の着物を着た晩年の黒田如水のイラスト

結論

  • 1604年3月20日(慶長9年)、京都・伏見の屋敷で病死しました【史実】
  • 亡くなったときの年齢は数え年で59歳です【史実】
  • 病名は記録に残っておらず、わかっていません【不明】

根拠:宣教師の記録(イエズス会の報告)、諏訪勝則『黒田官兵衛』(2013年)、中野等『黒田孝高』(2022年)

関ヶ原の戦いのあと、家康は如水にも恩賞を与えようとしましたが、如水は受け取らず、政治から離れて静かに暮らしたと伝わります【有力説】。晩年は福岡と京都を行き来し、亡くなる半年前には有馬温泉で療養していました【有力説】。

宣教師の記録によると、死の間際、如水はロザリオなどを胸の上に置かせ、「自分の遺体を博多の神父のもとへ運ぶこと」「長政が領内の神父たちに好意を寄せること」などを遺言しました【史実:宣教師の記録】。遺体は博多の宣教師たちによってキリスト教の儀式で葬られ、そのあと長政は仏式の葬儀も行っています【史実:宣教師の記録】。

辞世の句として伝わるのは、次の歌です【伝承】。

おもひをく 言の葉なくて つゐに行く 道はまよはじ なるにまかせて

「言い残すことはもうない。死への道に迷うこともない。なるようになるにまかせよう」という意味です。

なお、インターネット上では死因を特定の病気とする話も見られますが、それを裏づける記録はありません【俗説】。

ケンシン

天下をうかがったとまで言われた男が、最後は「なるにまかせて」か。見事な引きぎわよ。

子孫・家紋・兜・ゆかりの地

子孫は今もいる?

官兵衛の家・黒田家は、長政が初代藩主となった福岡藩として明治時代まで続きました【史実】。ただし、官兵衛と長政の血を引く藩主は6代目の黒田継高までで、7代目からは一橋徳川家などから養子を迎えています【史実】。

そのため、官兵衛の血を男系で受け継ぐ子孫はいないとされます。一方で、娘を通じた女系の子孫は、ほかの大名家などに広がったとされています。【有力説】。

また、幽閉中に世話になった加藤重徳の息子から始まる「三奈木黒田家」も、福岡藩の重臣として幕末まで続きました【有力説】。

家紋は「黒田藤巴」

黒田家の家紋「黒田藤巴」

画像:黒田藤巴(Mukai 作・CC BY-SA 3.0/Wikimedia Commons の画像の白黒を反転)

黒田家の家紋は、藤の花と葉を巴の形に丸めた「藤巴(ふじどもえ)」です【有力説】。このほか、黒い丸の「石餅(こくもち)」も使いました。石餅は竹中半兵衛の家から受け継いだ、という話もありますが、確かではありません【伝承】。

兜と刀

黒田孝高が使ったと伝わる黒糸威胴丸具足の古い写真

画像:黒田孝高が使ったと伝わる黒糸威胴丸具足(1916年刊『黒田如水伝』の写真)

官兵衛の兜として知られるのが、お椀を伏せたような形の「合子形兜(ごうすなりかぶと)」です。官兵衛が使ったと伝わる兜は、死の間際に家臣の栗山善助に贈られ、現在はもりおか歴史文化館(岩手県盛岡市)にあります【有力説】。福岡市博物館には、のちの藩主が官兵衛をしのんで作らせた同じ形の兜が残っています【有力説】。

刀では、信長から贈られたと伝わる国宝「へし切長谷部」、小田原攻めのときに北条氏直から贈られた国宝「日光一文字」が有名で、どちらも福岡市博物館に所蔵されています【有力説】。

ゆかりの地と墓

福岡市の崇福寺にある黒田如水の墓所

画像:福岡市博多区の崇福寺にある黒田如水の墓所。写真:Heartoftheworld(CC BY-SA 4.0/Wikimedia Commons)

  • 姫路城(兵庫県姫路市):生まれ故郷の姫路にあり、若いころ城代をつとめた城。秀吉に本丸を提供した(いまの天守は江戸時代初めに池田輝政が建てたもの)
  • 中津城(大分県中津市):豊前の領主として築いた城
  • 福岡城跡(福岡市中央区):長政と如水が築いた城。晩年の如水が住んだ屋敷もあった
  • 崇福寺(福岡市博多区):黒田家の菩提寺で、如水の墓がある
  • 龍光院(京都市北区・大徳寺の塔頭):長政が父をとむらうために建てた寺
  • 光雲神社(福岡市中央区・西公園):如水と長政をまつる神社

よくある質問(FAQ)

黒田官兵衛の読み方は?

「くろだ かんべえ」と読みます。本当の名前の「孝高」は「よしたか」、出家後の名前の「如水」は「じょすい」です。

黒田官兵衛・黒田孝高・黒田如水の違いは?

すべて同じ人物です。「官兵衛」はふだんの呼び名、「孝高」は本当の名前(実名)、「如水」は1593年に出家してからの名前です。

何歳で亡くなった?

1604年3月20日(慶長9年)、京都・伏見の屋敷で、数え年59歳で亡くなりました。病名はわかっていません。

黒田官兵衛が主人公の大河ドラマは?

2014年のNHK大河ドラマ『軍師官兵衛』です。主演は岡田准一さんでした。2026年の大河ドラマ『豊臣兄弟!』にも登場しています。

黒田官兵衛はキリシタンだった?

はい。1585年ごろに洗礼を受け、洗礼名は「シメオン」です。秀吉がキリスト教を禁じたあとも宣教師を助け、最期はキリスト教の儀式で葬られました(宣教師の記録)。

竹中半兵衛とどちらがすごい?

比べるのは難しいところです。半兵衛は1579年に36歳で亡くなり、同じ時代の記録が少ないため、活躍の多くは後の時代の本で語られたものです。官兵衛は書状などの記録が多く残り、秀吉の天下統一から関ヶ原まで長く活躍したことが確かめられます。

参考にした史料・この記事の書き方

この記事は、おもに次の記録や研究をもとに書いています。

  • 『信長公記』(太田牛一):信長への謁見や、半兵衛とともに佐用城を攻めたことなど
  • 秀吉・毛利輝元・如水自身の書状:秀吉の「弟の小一郎同然」の手紙、輝元の「もてなしは軽く」の手紙、如水の吉川広家あての手紙など
  • ルイス・フロイス『日本史』と宣教師の記録:「如水」の由来、キリシタンとしての活動、最期と葬儀など
  • 江戸時代以降にまとめられた本(『黒田家譜』1688年、『老人雑話』、『古郷物語』、明治・大正の伝記など):松寿丸の話、中国大返しの献策、人柄の逸話などの出どころ。本記事では【伝承】【創作】などで区別しています
  • 研究書:小和田哲男『黒田如水 臣下百姓の罰恐るべし』(ミネルヴァ書房・2012年)、諏訪勝則『黒田官兵衛』(中公新書・2013年)、中野等『黒田孝高』(吉川弘文館・2022年)
  • 国立国会図書館「レファレンス協同データベース」:「水五訓」の出どころの調査
  • 画像:如水居士像(崇福寺蔵)、竹中半兵衛像(禅幢寺蔵)、黒田長政像(福岡市博物館蔵)、如水の印章、甲冑の写真(1916年刊『黒田如水伝』)は Wikimedia Commons でパブリックドメインとして公開されているもの、崇福寺の墓所の写真は Heartoftheworld 氏、家紋は Mukai 氏による CC BY-SA の画像を使用しています。関係図・関ヶ原の図・イラストは侍ロードのオリジナルです

記事中のラベルの意味

  • 【史実】同じ時代の史料で確認できること(【史実:○○】は、その出どころ)
  • 【有力説】研究者の間で広く受け入れられている見方
  • 【諸説あり】見解が分かれていること
  • 【不明】史料がなく、わかっていないこと
  • 【伝承】【創作】【俗説】後の時代に作られた話や、根拠の乏しい話(【伝承:○○】は、その話が出てくる本)

この記事は侍ロード編集部が作成し、公開後も新しい研究やご指摘を受けて見直しています。内容の誤りにお気づきの場合は、お問い合わせからお知らせください。確認のうえ修正します。

まとめ|黒田官兵衛とは

白い頭巾に灰色の羽織を着た黒田如水のイラスト

黒田官兵衛は、知恵と交渉で秀吉の天下統一を支え、関ヶ原では九州で最後の戦いを見せた武将でした。

「天才軍師」「天下を狙った野心家」というイメージの多くは、後の時代に作られたものです。一方、同じ時代の記録からは、妻ひとりを大切にし、ぜいたくを好まず、恩を忘れない人物の姿が浮かびます。そして、乱世の大名としてきびしい決断もためらわない、もう一つの顔も持っていました。

官兵衛が仕えた秀吉については豊臣秀吉とは何をした人?死因・妻と弟・6本指の真相を史実で解説、天王山でともに戦った秀吉の弟については豊臣秀長とは?妻は誰?直・慶は実在?死因と子孫を史実で解説もあわせてどうぞ。

ケンシン

知恵者は恐れられ、話を盛られる。だが記録に残る官兵衛は、恩を忘れず、妻を大切にする、まことに人間らしい男であったな。

マサムネ

「意外と優しい」官兵衛様、ますます好きになりました! 次は竹中半兵衛様のことも知りたいです!