
万福丸(まんぷくまる)は、北近江(今の滋賀県北部)の戦国大名・浅井長政の跡継ぎの息子(嫡男)です。天正元年(1573年)、父の長政が織田信長に敗れて小谷城で亡くなったあと、探し出されて処刑されました。数え年で10歳(今の数え方で8〜9歳)でした。
万福丸については、「串刺しにされた」「秀吉に殺された」といった話がよく知られています。しかし、同じ時代に近い記録で確かめられることは、それほど多くありません。この記事では、記録ごとに何が書かれているかを分けて紹介します。子どもが亡くなった話なので、つらい場面のくわしい様子は書きません。
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わしは上杉ケンシン。今日は、浅井長政の跡継ぎだった男の子の話だ。
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伊達マサムネです。万福丸って、ドラマにも出てきた長政の息子ですよね。どんな記録が残っているんでしょう?
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記録によって、書かれていることがかなりちがうのだ。ひとつずつ見ていこう。
まずわかること(この記事の要点)
知りたいところから読めるように、主な見出しへのリンクを置いておきます。
- 万福丸とは?浅井長政の跡継ぎだった息子
- 万福丸の最期は?串刺しは本当?
- 万福丸は秀吉に殺された?
- 万福丸の母はだれ?お市の子なの?
- 『豊臣兄弟!』の万福丸は史実どおり?
- 万福丸はどこへ逃れた?記録ごとの足どり
- 弟や妹たちは?万寿丸と浅井三姉妹
- 万福丸の墓はどこ?
万福丸とは?浅井長政の跡継ぎだった息子

画像:小谷城で父・長政と過ごす万福丸
万福丸は、小谷城(滋賀県長浜市)を本拠地にした浅井家の3代目・浅井長政の嫡男(跡継ぎの息子)です【史実:信長公記】。浅井家が信長と戦って敗れた天正元年(1573年)、数え10歳で亡くなりました。
| 項目 | 内容 | 信憑性 |
| 名前 | 万福丸(まんぷくまる)。『信長公記』には名前がなく、江戸時代の記録に「萬福」「万福丸」と見える。読みは一般に使われているもの | 【伝承】 |
| 父 | 浅井長政(北近江の戦国大名) | 【史実】 |
| 母 | わかっていない | 【不明】 |
| 立場 | 浅井家の嫡男(跡継ぎの息子) | 【史実:信長公記】 |
| 生まれた年 | 永禄7年(1564年)ごろ。数え10歳で亡くなったという記述からの逆算 | 逆算 |
| 亡くなった年 | 天正元年(1573年)。日付はわからない | 年:【史実】/日付:【不明】 |
| 年齢 | 数え10歳(今の数え方で8〜9歳) | 【史実:信長公記】 |
| きょうだい | 妹の茶々・初・江、弟の万寿丸(とされる) | 妹:【史実】/弟:【伝承】 |
「数え年」は、生まれた年を1歳とし、お正月がくるたびに1歳ずつ足していく、昔の年齢の数え方です。また、この記事の月日は、当時の暦(旧暦)で書いています。
「万福丸」という名前はどこから?
信長の家臣・太田牛一が書いた『信長公記(しんちょうこうき)』は、「浅井備前守(長政)の十歳の嫡男」と書くだけで、名前は書いていません。今回確かめた範囲では、江戸時代の初めにまとめられた歴史の記録『当代記(とうだいき)』に「萬福」、1670年代の軍記『浅井三代記(あさいさんだいき)』に「万福丸」と書かれています。ただし、これが実際に使われていた名前かどうかは、これらの記述だけでは決められません。「丸」は、昔の男の子の幼名(子どものころの名前)によく使われた字です。
年表でみる万福丸の短い生涯
| 年 | 年齢(数え年) | できごと |
| 永禄7年(1564年)ごろ | 1歳 | 生まれる(数え10歳で亡くなったことからの逆算) |
| 永禄12年(1569年)ごろ | 6歳 | 妹の茶々が生まれる【諸説あり】 |
| 元亀元年(1570年) | 7歳 | 父・長政が信長から離れる。姉川の戦い【史実】 |
| 元亀4年(1573年)5月 | 10歳 | 弟(のちの万寿丸とされる)が生まれる【伝承:浅井三代記】 |
| 天正元年(1573年)8〜9月 | 10歳 | 小谷城が落ち、祖父の久政、父の長政が自害する【史実:信長公記】。長政の没日は8月28日説と9月1日説がある【諸説あり】 |
| 天正元年(日付は不明) | 10歳 | 探し出され、関ヶ原で処刑される【史実:信長公記】 |
万福丸の最期は?串刺しは本当?

画像:歌川広重「木曽海道六拾九次之内 関ヶ原」(江戸時代の終わりごろの宿場のようすで、1573年の姿ではありません)。国立国会図書館蔵。Wikimedia Commons(パブリックドメイン)
『信長公記』には、天正元年(1573年)、小谷城が落ちたあと、長政の数え10歳の跡継ぎが探し出され、関ヶ原(今の岐阜県関ケ原町)で処刑されたと書かれています【史実:信長公記】。関ヶ原は、近江(滋賀県)と美濃(岐阜県)の国ざかいに近い、街道の宿場でした。
史料ボックス①『信長公記』が書く長政の嫡男
出典
太田牛一『信長公記』巻六「阿閉謀叛之事」(天正元年〈1573年〉)
原文(一部)
「浅井備前十歳之嫡男御座候を尋出し関か原と云所に張付に懸させられ年来之被散御無念訖」
現代語訳
浅井備前守(長政)の10歳の嫡男がいたのを探し出し、関ヶ原というところで磔(はりつけ)にかけさせ、(信長は)長年の無念を晴らされたのであった
この記事の説明
『信長公記』は、信長に仕えた太田牛一が、自分の見聞きしたことをもとに、あとからまとめた信長の伝記です。この時代を知るための大切な記録の一つですが、ここには万福丸の名前、母、日付、実際に手を下した人は書かれていません
「串刺し」は本当?
「串刺しにされた」という話は、江戸時代の本に出てきます。とくに1670年代にまとめられた軍記『浅井三代記』に「串指(くしざし)」とあります【伝承:浅井三代記】。
一方、『信長公記』では、刑の方法を「張付(はりつけ)」と記しています。記録によって言葉はちがいますが、言葉のちがいだけから、実際の方法の細部まで決めることはできません【諸説あり】。
| くらべること | 『信長公記』 | 『当代記』 | 『浅井三代記』 |
| どんな本か | 信長の家臣・太田牛一がまとめた記録 | 江戸時代の初めにまとめられた記録(著者ははっきりしない) | 1670年代に、木之本の寺のお坊さんがまとめたとされる軍記 |
| 名前 | 書かれていない(「十歳の嫡男」) | 萬福 | 万福丸 |
| 落城のころにいた場所 | 書かれていない | 越前(朝倉家)に人質 → 加賀に隠れる | 家臣と城を出て、敦賀へ |
| 見つかり方 | 「探し出し」 | 母か祖母を頼って出てきた | 信長がお市から居場所を聞き、呼び戻させた |
| 亡くなった場所 | 関ヶ原 | 木之本 | 書かれていない(木之本で秀吉が受け取る) |
| 書かれている言葉 | 磔 | 「殺された」とだけ | 串刺し |
確かめられるのは、『信長公記』の「関ヶ原で磔」です【史実:信長公記】。『当代記』は江戸時代の初めの歴史の記録で、著者や成り立ちははっきりしません。『浅井三代記』は物語の部分が多い軍記です。どちらも万福丸についての書き方がそれぞれちがうので、ここでは『信長公記』と分けて紹介しています。「木之本で受け取られ、関ヶ原で処刑された」とつなげる説明も見かけますが、どの記録もそうは書いていません。

画像:『当代記』巻一の、万福丸のことが書かれた部分(『史籍雑纂』第二、国書刊行会、1911年)。右から3行目に「備前守嫡子萬福と云有之、越前に爲人質指越」(長政の跡継ぎに萬福という子がいて、越前に人質に出されていた)とあり、このあと、読み下すと「近江国木本にて信長に誅せらる」となる文が続きます。国立国会図書館デジタルコレクション(保護期間満了)。画像をタップ(クリック)すると拡大できます
いつ亡くなった?何歳だった?
今回確かめた記録では、処刑された日付を特定できませんでした【不明】。インターネットでは「10月17日」とする説明も見かけますが、もとになる記録は見つかっていません。『浅井三代記』には「9月3日に木之本に着いた」とありますが、これは処刑の日ではありません【伝承】。
年齢は、『信長公記』の「十歳」から、数え10歳(今の数え方で8〜9歳)です【史実:信長公記】。
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記録によって、書き方がずいぶんちがうんですね。
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うむ。どの記録に、何と書いてあるのか。分けて見ることが大切なのだ。
万福丸は秀吉に殺された?信長の命令と実行した人

画像:豊臣秀吉
処刑を命じたのは織田信長です【史実:信長公記】。ただ、『信長公記』には、実際に手を下した人の名前は書かれていません。
| 記録 | 命じた人 | 秀吉の名前は出てくる? |
| 『信長公記』 | 信長 | 出てこない(このすぐあとに、北近江の浅井家の領地を秀吉に与えたと書かれている) |
| 『当代記』 | 信長 | 出てこない |
| 『浅井三代記』 | 信長 | 木之本で万福丸を受け取り、信長に知らせた。信長は秀吉に処刑を命じた、と読める |
秀吉がかかわったという話は、1670年代の『浅井三代記』に出てくるものです【伝承】。ただし、この本でも、秀吉が自分の手で処刑したとまでは書かれていません。のちに秀吉は、万福丸の妹・茶々を側室にむかえます【史実】。
史料ボックス②『浅井三代記』が書く秀吉
出典
『浅井三代記』巻十八(1670年代にまとめられた軍記)
原文(一部)
「九月三日に江州木之本に着けれは秀吉中にて心得万福丸を請取」
現代語訳
9月3日に近江の木之本に着くと、秀吉が万福丸を受け取った
この記事の説明
『浅井三代記』は、物語として書かれた部分が多い本とされます。秀吉が受け取ったという話を、同じ時代の記録で確かめることはできません
なぜ殺されたの?
信長本人が処刑の理由を説明した記録は、今回確かめられませんでした【不明】。ただ、『信長公記』はこの処刑について、信長が「長年の無念を晴らされた」と書いています。書き手の太田牛一は、浅井家に裏切られた信長の怒りが大きかったと見ていた、と読むことができます。
また、同じ『信長公記』の同じ巻には、浅井家を助けた朝倉家の跡継ぎの男の子も探し出され、命を奪われたことが記されています【史実:信長公記】。なお、この子の名前は、『信長公記』では「阿君丸」と書かれていますが、福井県立一乗谷朝倉氏遺跡博物館の解説では、このとき亡くなった子を「愛王丸」としています。
研究者の渡邊大門さんは、信長の怒りに加えて、浅井家の血すじを断ち、ふたたび反抗する芽をつむというねらいがあったとみています。一方、長政の3人の娘は助けられ、織田家に引き取られました【有力説】。
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たった10歳で……。
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戦国の世は、子どもにもきびしい時代だった。だからこそ、記録に残る名前をきちんと見ていきたいものだな。
万福丸の母はだれ?お市の子なの?

画像:小谷城の庭で、お市や幼い茶々・初と過ごす万福丸(お市が万福丸の母だったかどうかは、わかっていません)
万福丸の母がだれかは、わかっていません【不明】。今回確かめた範囲では、母を書いた同じ時代の記録が見つからないためです。お市の子とする見方も、別の女性の子とする見方もあります。
| 説 | 考え方 | 気になる点 |
| お市の子 | 長政とお市の結婚が早い時期(永禄2〜6年ごろ)だったとする説をとれば、年代は合う | 事典に多い「永禄10年末〜11年初め(1567〜68年)の結婚」と、1564年ごろの生まれとする逆算をとると、結婚後に生まれた子という説明とは年代が合わない(ただし、母を直接示す根拠にはならない) |
| 最初の妻・平井定武の娘の子 | 長政の最初の妻を、六角氏の重臣・平井定武の娘とする伝えがある | 永禄2年(1559年)に別れたという説と、1564年ごろの生まれとする逆算をとると、年代が合わない |
| 別の女性の子 | 母はお市以外の女性だったとみる研究者もいる | 名前などを示す記録は見つかっていない |
江戸時代の初めの『当代記』は、万福丸が「母か祖母(信長の母)を頼って出てきた」と書いています。筆者は万福丸をお市の子と考えていたようにも読めますが、決め手にはなりません。
なお、3人の娘、茶々・初・江がお市の子であることは確かです【史実】。お市についてはお市の方の記事で紹介しています。
大河ドラマ『豊臣兄弟!』の万福丸は史実どおり?

画像:越前の朝倉家のもとで人質として暮らす万福丸(江戸時代の初めの『当代記』が伝える話)
2026年の大河ドラマ『豊臣兄弟!』では、万福丸は朝倉家の人質になっていた人物として描かれました。第17回では、万福丸を探しても見つからなかったと説明され、長政は、すでに亡くなったのではないかと推測します(この記事では第12回・第17回の描写を取り上げています)。
このうち「朝倉家の人質だった」という設定は、『当代記』に書かれた話に近いものです。一方、『信長公記』では、万福丸は落城のあと探し出されて処刑されており、ドラマの展開とはちがいます【史実:信長公記】。
これまでの大河ドラマの万福丸
- 『おんな太閤記』(1981年):信長が秀吉に処刑を命じ、秀吉は家臣の蜂須賀小六に助けるよう指示したが、小六は秀吉の指示にそむいて処刑してしまう、という筋書き
- 『秀吉』(1996年):信長が柴田勝家に処刑を命じる
- 『功名が辻』(2006年):信長の命を受けた秀吉が、山内一豊に処刑の役目を命じる
作品ごとに描き方はさまざまですが、処刑の役目をだれが負ったのかは、記録では確かめられません。ドラマの場面は、物語として楽しむのがよいでしょう。

画像:一乗谷朝倉氏遺跡の唐門(福井市)。朝倉家の館のあとに立つ門で、今の門は江戸時代に建てられたものとされます。なお、『当代記』は「越前に人質」と書くだけで、一乗谷にいたとまでは書いていません。Wikimedia Commons(撮影:掬茶・CC BY-SA 4.0)
万福丸はどこへ逃れた?記録ごとの足どり

画像:落城の前夜、長政が家臣に万福丸を託す場面(『浅井三代記』が伝える話)
1670年代の『浅井三代記』には、小谷城が落ちる前の天正元年(1573年)8月28日の夜、長政が家臣の木村喜内之介(きむら きないのすけ)に万福丸を託し、越前の敦賀(福井県敦賀市)にいる知り合いのもとに逃がした、という話があります【伝承:浅井三代記】。
史料ボックス③『浅井三代記』が書く長政の願い
出典
『浅井三代記』巻十八
原文(一部)
「越前敦賀郡にしる人あれは彼者許にしのひ居て此若か成人を見立てたへ」
現代語訳
越前の敦賀郡に知り合いがいるので、その者のところに隠れて、この子が大人になるまで見守ってくれ
この記事の説明
江戸時代の軍記に書かれた長政の言葉です。長政が本当にこう言ったのかを、同じ時代の記録で確かめることはできません
『浅井三代記』では、このあと信長がお市から居場所を聞き出し、手紙で呼び戻させたため、万福丸は9月3日に木之本に着いたところを秀吉に受け取られた、と話が続きます【伝承】。
一方、江戸時代の初めの『当代記』は、越前に人質 → 加賀(石川県南部)に隠れる → 木之本、という別の話を伝えています。そして『信長公記』は、万福丸がどこにいたのかを書いていません。

画像:記録ごとの万福丸の足どり(模式図・侍ロード作成)。3つの記録は別々の話なので、つなげて一つの旅にはしていません。画像をタップ(クリック)すると拡大できます

画像:今の木之本の町並み(滋賀県長浜市)。北国街道の宿場町で、『当代記』と『浅井三代記』に出てきます。Wikimedia Commons(撮影:Asturio Cantabrio・CC BY-SA 4.0)
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同じ人のことなのに、記録によって居場所までちがうんですね。
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『浅井三代記』を書いたお坊さんの寺は、木之本にあったという。地元に伝わっていた話も入っているのかもしれんな。
弟や妹たちは?万寿丸と浅井三姉妹

画像:浅井長政の家族(侍ロード作成)。画像をタップ(クリック)すると拡大できます
弟の万寿丸は生きのびた?
『浅井三代記』には、元亀4年(1573年)5月に生まれたばかりの男の子が、近江の福田寺(ふくでんじ。滋賀県米原市)にあずけられ、生き残ったと書かれています【伝承】。この子が、のちに「万寿丸(まんじゅまる)」と呼ばれる弟とされます。

画像:福田寺(滋賀県米原市)。万寿丸があずけられたと伝わる寺です。Wikimedia Commons(撮影:先従隗始・CC0)
妹の茶々・初・江
長政とお市の間には、茶々(のちの淀殿)・初(常高院)・江(崇源院)の3人の娘がいました【史実】。万福丸を永禄7年(1564年)、茶々を永禄12年(1569年)ごろの生まれとすると、茶々は5歳ほど下の妹になります。ただ、万福丸の母がわからないため、妹たちと母が同じだったかはわかっていません【不明】。
3人は織田家に引き取られて生きのび、茶々は豊臣秀吉の側室、江は2代将軍・徳川秀忠の妻になりました。くわしくはお市の方の記事「お市の方の娘たち(浅井三姉妹)のその後」で紹介しています。
万福丸の墓はどこ?供養とゆかりの地
今回の調査では、万福丸の墓として確かなものは確認できませんでした【不明】。岐阜県関ケ原町に、万福丸が処刑された場所と伝わる所があるとされますが、地元の言い伝えです【伝承】。
京都の養源院(ようげんいん)の説明によると、この寺は文禄3年(1594年)、妹の茶々(淀殿)の願いにより、父・浅井長政の追善(亡くなった人の冥福を祈ること)のために建てられました。ただ、兄の万福丸の供養もしたかどうかを示す確かな記録は、今回見つかっていません。

画像:養源院の参道(京都市東山区)。茶々の願いで、父・長政の追善のために建てられた寺です。Wikimedia Commons(撮影:PlusMinus・CC BY-SA 3.0)
| 場所 | 万福丸とのかかわり | 今の住所 |
| 小谷城跡 | 父・浅井長政の本拠地 | 滋賀県長浜市 |
| 木之本 | 『当代記』『浅井三代記』に出てくる宿場 | 滋賀県長浜市 |
| 関ヶ原 | 『信長公記』で処刑の場所とされる | 岐阜県不破郡関ケ原町 |
| 福田寺 | 弟の万寿丸があずけられたと伝わる寺 | 滋賀県米原市 |
| 養源院 | 妹の茶々が父のために建てた寺 | 京都市東山区 |
よくある質問(FAQ)
万福丸は何歳で亡くなった?
数え年で10歳(今の数え方で8〜9歳)です。くわしくは最期の章をごらんください。
万福丸が亡くなったのはいつ?
天正元年(1573年)です。今回確かめた記録では、日付は特定できませんでした。
万福丸が生きのびたという説はある?
今回調べた範囲では、万福丸本人が生きのびたという言い伝えは見つかっていません。生きのびた話が伝わるのは、弟の万寿丸です。
まとめ|万福丸とは
万福丸は、浅井長政の跡継ぎの息子で、天正元年(1573年)、父が信長に敗れたあと探し出され、数え10歳で関ヶ原で処刑された男の子です。ここまでは『信長公記』で確かめられます。
名前、母、逃れた先、「串刺し」や秀吉のかかわりといった話は、江戸時代の記録に出てくるもので、記録ごとに内容がちがいます。どの話がどの記録に書かれているのかを知ると、万福丸の姿を、より正確に思いえがくことができます。
父の長政については浅井長政の記事、お市と妹たちについてはお市の方の記事、浅井家を攻めた信長と秀吉については織田信長の記事・豊臣秀吉の記事もあわせてどうぞ。
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記録に残ったのは、わずかな言葉だけ。それでも、その言葉から多くのことがわかるのだ。
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記録ごとにちがう話を見くらべるのって、おもしろいですね。
参考にした史料・この記事の書き方
この記事は、おもに次の記録や資料をもとに書いています。
- 同じ時代に近い記録:太田牛一『信長公記』巻六
- 後の時代の記録:『当代記』巻一(『史籍雑纂』第二、国書刊行会、1911年。国立国会図書館デジタルコレクションで版面を確認)、『浅井三代記』巻十八
- 研究・資料:渡邊大門「信長はなぜ10歳の嫡男を処刑したのか?」(Yahoo!ニュース エキスパート)、コトバンク(『日本大百科全書(ニッポニカ)』『改訂新版 世界大百科事典』など)、養源院の解説、福井県立一乗谷朝倉氏遺跡博物館「朝倉氏の歴史」、大河ドラマについての報道(2026年3〜5月)
- 研究者の説の紹介:万福丸の母についての研究者の見方(福田千鶴『江の生涯』など)や、長政とお市の結婚の時期については、研究者の説を紹介した記事や事典の解説を参考にしています
- 画像:歌川広重「木曽海道六拾九次之内 関ヶ原」は Wikimedia Commons でパブリックドメインとして公開されているものです。木之本の町並みの写真(Asturio Cantabrio・CC BY-SA 4.0)、一乗谷朝倉氏遺跡の唐門の写真(掬茶・CC BY-SA 4.0)、福田寺の写真(先従隗始・CC0)、養源院の写真(PlusMinus・CC BY-SA 3.0)も Wikimedia Commons のものです。『当代記』の画像は国立国会図書館デジタルコレクションのものです。イラスト・漫画のコマ・図は侍ロードのオリジナルです
記事中のラベルの意味
【史実】同じ時代の史料で確認できること(【史実:○○】は、その出どころ)【有力説】研究者の間で広く受け入れられている見方(【有力説:○○】は、その出どころ)【諸説あり】見解が分かれていること【不明】今回確認した史料では、確かめられないこと【伝承】【俗説】後の時代に作られた話や、根拠がうすい言い伝え
この記事は侍ロード編集部が作成し、公開後も新しい研究やご指摘を受けて見直しています。内容の誤りにお気づきの場合は、お問い合わせからお知らせください。確認のうえ修正します。

