前田利家のプロフィール。あだ名・装備品・身長・所属・階級と、一生の短い紹介

前田利家(まえだ としいえ)は、織田信長と豊臣秀吉に仕えた戦国武将です。若いころは長い槍を使いこなす「槍の又左(やりのまたざ)」として知られ、のちに加賀(今の石川県南部)と能登(石川県北部)を治める大名になりました。秀吉の晩年には、豊臣家を支える「五大老」の一人として、徳川家康と並ぶ重い立場につきます。

江戸時代に「加賀百万石」と呼ばれた大きな藩(加賀藩)は、利家が土台を作り、息子たちが大きくしたものです。この記事では、利家の死因や、妻のまつとの話、加賀百万石への道を、その時代の記録でわかること・後の時代の本に書かれた話・わからないことに分けて紹介します。

ケンシン

わしは上杉ケンシン。今日の主役は、信長・秀吉・家康の3人すべてと深くかかわった武将だ。

マサムネ

伊達マサムネです! 前田利家って、奥さんのまつさんと仲がよかった人ですよね?

ケンシン

そのとおり。だが、それだけではないぞ。戦場での働きを認められて大名になるまでの道のりを見ていこう。

まずわかること(この記事の要点)

  • 何をした人?:信長の家臣から出世して能登の大名になり、秀吉の天下統一を支えました。秀吉の晩年には五大老の一人として豊臣家を支えました【史実】(くわしく)
  • 死因は?:慶長4年閏3月3日(1599年4月27日)、大坂の屋敷で病気のために亡くなりました【史実】。どんな病気だったのかは、はっきりしません【不明】(くわしく)
  • 妻のまつとは?:まつ(のちの芳春院)は利家の正室(正式な妻)で、2人の男の子と9人の女の子を産んだとされます【有力説】。利家を支えた話がたくさん伝わっています(くわしく)
  • 子孫は?:利家の家は加賀藩の前田家として江戸時代の終わりまで続きました【史実】(くわしく)

知りたいところから読めるように、主な見出しへのリンクを置いておきます。

前田利家とは何をした人?どんな人?

黒い羽織を着て座り、ひじかけにもたれる年配の武将を描いた前田利家の肖像画

画像:前田利家の肖像画。Wikimedia Commons(パブリックドメイン)

ひと言でいえば、前田利家は「信長の家臣から出世して大名になり、秀吉の天下統一を支え、加賀百万石の土台を作った武将」です。

項目内容信憑性
名前前田利家。子どものころの名前(幼名)は犬千代(いぬちよ)。大人になってからは孫四郎、又左衛門(またざえもん)と名のった【史実】
生まれた年天文7年(1538年)とする説が多い。天文6年(1537年)とする説もある【諸説あり】
生まれた場所尾張国の荒子(今の名古屋市中川区)【有力説】
父荒子城主の前田利春(利昌)。利家は四男とも次男ともいわれる【諸説あり】
仕えた主君織田信長 → 豊臣秀吉【史実】
妻まつ(のちの芳春院)【史実】
子ども長男の利長(2代目)、四男の利常(3代目)、娘の豪姫など【史実】
治めた国能登(1581年〜)、加賀の北半分(1583年〜)。居城は金沢城【史実】
役職五大老の一人。豊臣秀頼(秀吉の息子)の守り役【史実】
亡くなった日慶長4年閏3月3日(1599年4月27日)、大坂の屋敷で【史実】
死因病死(記録で確認できる)。病名は不明【不明】
亡くなった年齢天文7年生まれとすると62歳、天文6年生まれとすると63歳(どちらも数え年)【諸説あり】
家紋前田家の紋として梅鉢(加賀梅鉢)が知られる。利家本人が用いた細かな図柄は不明【有力説】
墓野田山(金沢市)【史実】

「数え年」は、生まれた年を1歳とし、お正月がくるたびに1歳ずつ足していく、昔の年齢の数え方です。この記事では、年齢を書くときにどちらの数え方かを書きそえます。

何をした人?3つのポイント

  • ①槍の名手から大名へ:信長のそばで仕え、戦場で手柄を立てて、能登一国(今の石川県北部)をまかされる大名になりました【史実】
  • ②秀吉の天下統一を支えた:信長の死後は秀吉に従い、北陸をおさえる役目を果たしました。金沢城を本拠地にしたのも利家です【史実】
  • ③五大老として豊臣家を支えた:秀吉の晩年、徳川家康と並ぶ立場で、幼い秀頼を守る役目をまかされました【史実】
マサムネ

戦場での働きで大名にまでなったなんて、すごいですね!

ケンシン

戦が強いだけではない。秀吉や家康とうまく付き合ったことも、前田家が続いた理由だろうな。

前田利家の死因は?最後の日々

畳の部屋でひじかけにもたれる白髪まじりの前田利家に、妻のまつが湯のみを差し出しているイラスト

画像:晩年の利家とまつ

前田利家が亡くなったのは、慶長4年閏3月3日(1599年4月27日)、大坂(今の大阪市)の自分の屋敷です【史実】。天文7年生まれとすると、62歳(数え年)でした。秀吉が亡くなってから、わずか7か月あまり後のことです。

死因は病気です。ただ、どんな病気だったのかを、今の病名で言い当てることはできません【不明】。その時代の記録には症状が書かれていますが、今の医学のように検査をしたわけではないからです。

亡くなる1年前から体調をくずしていた

利家の病気の様子は、前田家の家臣たちが残した記録や、それをまとめた研究からわかります。研究者の池田仁子さんの論文(『金沢城研究』第14号)によると、記録には次のようなことが書かれています【有力説:池田仁子論文】。表の月日は、当時の暦(旧暦)によるものです。

いつ記録に書かれていること
慶長3年(1598年)4〜5月上野(今の群馬県)の草津温泉で湯治(温泉に入って病気を治すこと)をした。鍼の治療をする人がついて行き、鍼を打った
その約30日後はじめは治療が効いたが、うすい墨の色をした尿が出るようになった。金沢にもどってからも続いた
慶長4年(1599年)2月のどから白くて細い「虫」が出てきた
慶長4年3月15日また「虫」が2本出た
慶長4年3月21日妻のまつに、遺書を書かせた
慶長4年閏3月3日大坂の屋敷で亡くなった

※「閏3月(うるう3月)」は、3月のあとにもう一度来た3月のことです。昔のこよみでは、季節とのずれを直すために、ときどき同じ月を2回くり返しました。閏3月3日は、今のこよみで1599年4月27日です。

この表は、利家のそばにいた家臣の覚え書きなどをもとにしています。ただ、覚え書きの多くは利家が亡くなったあとに書かれたもので、話が大きくなっている部分もあるかもしれません。

「虫」の正体は?病名はわかる?

当時の人は、おなかの病気の多くを、体の中の「虫」のしわざだと考えていました。論文では、利家の「虫」の病気を、回虫(おなかにすみつく寄生虫)によるものと説明しています。ただ、それが直接の死因だったとまでは書かれていません【有力説:池田仁子論文】。

インターネットなどでは、胃がん・胆石などが死因だったという説も見かけます。しかし、記録に書かれた症状だけでは、どの病気かを決めることはできません。「病気で亡くなった。病名ははっきりしない」というのが、いちばん正確な答えです【不明】。

マサムネ

のどから虫って……。昔の人は大変だったんですね。

ケンシン

病の正体がわからぬ時代だ。わしも、急な病で倒れた身。人ごととは思えぬな。

最後まで豊臣家を守ろうとした

秀吉が亡くなったあと、利家は大坂城で秀頼の守り役をつとめていました。秀吉が亡くなったとき、秀頼はまだ6歳(数え年)でした。慶長4年(1599年)の正月、徳川家康が、秀吉の決まりに反して、ほかの大名と勝手に縁組(結婚の約束)を進めていることがわかり、利家たちはこれを問題にしました【史実】。家康と利家の間には、一時、戦いになりそうな緊張が生まれます。

このとき利家は、病気の体をおして、慶長4年2月29日に伏見(京都市伏見区)の家康のもとを訪ね、3月8日には家康が大坂の利家のもとを訪れました【有力説】。2人が直接会って、ひとまず争いはおさまります。家康からは、利家の病気を見舞う手紙も届いています【史実】。

その1か月ほどあとに利家が亡くなると、豊臣家の中の力のつり合いが大きく変わり、翌年の関ヶ原の戦いへと時代が動いていきます。家康のことは、徳川家康の記事で紹介しています。

妻・まつとはどんな人?「金銀の袋」の話は本当?

漫画のコマ。まつが金銀の入った袋を利家の前に押し出し「お金をためてばかりいるから、兵が足りないのです!このお金に戦ってもらいなさい!」と言い、甲冑姿の利家が「出陣の前に、なんてことを言うのだ!」と驚いている

画像:まつが利家に金銀の袋を差し出したという話を、漫画のコマにしたもの。江戸時代の初めの本『川角太閤記』に出てくる話をもとに、会話をわかりやすい今の言葉に書き直しています

利家の妻・まつは、天文16年(1547年)生まれで、利家より9歳ほど年下です【史実】。利家が亡くなったあと、仏門に入って芳春院(ほうしゅんいん)と名のりました【史実】。夫を支えたしっかり者の妻として、たくさんの話が伝わっています。

結婚したのは何歳?2人の年の差は?

2人は、まつが12歳(数え年)のときに結婚したとする説明があります。これは、永禄元年(1558年)の結婚とみる説です。ただ、結婚した年は記録ではっきりしないとする資料館もあり、はっきりとは言えません【諸説あり】。

年の差は、利家を天文7年(1538年)生まれとすると9歳です。天文6年(1537年)生まれとすると10歳になります【諸説あり】。今の感覚では、とても若い年での結婚ですが、戦国時代の武家(武士の家)では、めずらしいことではありませんでした。

2男9女の母

まつは、利家との間に2人の男の子と9人の女の子を産んだとされます【有力説】。長男の利長はのちに前田家の2代目になり、娘の豪姫は秀吉の養女になりました。子どもたちのことは、このあとの子どもと子孫の見出しで紹介します。

「このお金に戦ってもらいなさい!」の話

まつの話でいちばん有名なのが、天正12年(1584年)の末森城の戦いの前に、金銀の入った袋を利家に差し出したという話です。

このとき、越中(今の富山県)の佐々成政が、前田家の末森城(石川県宝達志水町)を攻めました。利家は助けに行くと決めて、鎧を着て準備をしていました。そこへまつが金蔵(お金をしまう蔵)を開けて、金銀の袋を持ってきます。

史料ボックス①まつと金銀の袋

出典:『川角太閤記』巻五(江戸時代の初め、元和年間〈1615〜1624年〉ごろにまとめられた、秀吉についての聞き書き)

原文(一部):「此度此金銀を被召連鎗を御突せ候て可候とて、金の皮袋を又左衛門殿へ御打付被成候と相聞申候」

現代語訳:「今度は、この金銀を連れて行って、金銀に槍を突かせなさいませ」と言って、金の入った革の袋を利家(又左衛門)に投げつけた、と聞いている

話のつづき(要約):まつはその前に、「成政は手ごわい相手だと、ずっと聞いてきました。お金をためるより、まず兵(家来)を集めてくださいと、朝も夕も言ってきたのに」と話していた。出陣の前に腹を立てさせられた利家は、怒って脇差(短い刀)を抜こうとし、まわりの女性たちに止められた

この記事の説明:戦いからおよそ40年あとにまとめられた本で、文の終わりも「〜と聞いている」となっています。まつが本当にこう言ったのかは確かめられないため、後の時代の話として読むのがよいでしょう

このあと利家は、末森城を救い出して成政の軍を破りました【史実】。この戦いは、利家の大きな手柄の一つです。

マサムネ

お金を投げつけちゃうなんて、まつさん、強いですね!

ケンシン

うむ。たとえ後の時代の話でも、そう語られるほど頼りにされた妻だったのだろう。

利家の死後、江戸へ人質に

利家が亡くなった年、徳川家康が前田家を攻めようとしている、といううわさが流れました(加賀征伐の騒ぎ)。前田家は家康と争わない道を選び、翌年の慶長5年(1600年)、まつが人質として江戸へ行きました【史実】。

まつが金沢に帰ることができたのは、14年後の慶長19年(1614年)です。元和3年(1617年)、金沢城で亡くなりました【史実】。まつの江戸入りは、前田家が家康への服従を示す大切な対応でした。利長の政治的な対応もあって、前田家は領地を保ちました。

白い頭巾と白い衣の尼の姿で、数珠を持って座るまつ(芳春院)を描いた肖像画。上に漢文の賛が書かれている

画像:「前田利家夫人像」(大本山總持寺所蔵・重要文化財)。尼になったあとのまつを描いたもの。Wikimedia Commons(パブリックドメイン)

まつの姿を伝えるのが、横浜市の總持寺にある「前田利家夫人像」で、国の重要文化財です【史実】。絵の上の文には、生きている人の肖像を意味する「寿影(じゅえい)」という言葉があります【史実】。利家が亡くなって尼になったあとの、慶長4年から元和3年(1599〜1617年)の間に描かれたと考えられています【有力説】。

前田利家の子どもと子孫・家系図

着物姿の前田利家とまつが、4人の子どもたちと並んで笑っているイラスト

画像:利家とまつと子どもたち

利家には、まつとの間の子どもと、側室(正室のほかの妻)との間の子どもがいました。おもな子どもは次のとおりです。

前田利家とまつ、側室の寿福院、子どもの利長・利政・利常・豪姫・摩阿姫、兄の利久と養子の慶次の関係を示した家系図

画像:前田利家のおもな家族の家系図(侍ロード作成)。画像をタップ(クリック)すると拡大できます

名前母どんな人
前田利長まつ長男。利家のあとを継いだ2代目。関ヶ原の戦いでは徳川方につき、加賀・能登・越中の3か国を治めた
前田利政まつ次男。能登を治めたが、関ヶ原の戦いのあとに領地を取り上げられ、京都の嵯峨で暮らした
前田利常寿福院(側室)四男。兄の利長のあとを継いだ3代目。加賀藩の仕組みを整えた
豪姫まつ秀吉の養女となり、宇喜多秀家(五大老の一人)の妻になった
摩阿姫まつ秀吉の側室になった

豪姫は、秀吉と正室(正式な妻)のねね(寧々)の養女になり、とてもかわいがられたといいます【有力説】。利家と秀吉が、家族ぐるみの付き合いだったことがわかります。

2代目・前田利長

烏帽子をかぶり、正装で座る前田利長の肖像画

画像:前田利長の肖像画。Wikimedia Commons(パブリックドメイン)

長男の前田利長(1562〜1614年)は、慶長3年(1598年)、父の利家から前田家の当主の座(家督)を受け継ぎました【史実】。利家が亡くなったあと、家康との争いをさけ、関ヶ原の戦い(1600年)では徳川方として戦いました。その結果、加賀・能登・越中の3か国を治めることになり、「加賀百万石」の大きさができあがります【史実】。

前田利家の子孫は今もいる?

前田家は、加賀藩の藩主の家として、江戸時代の終わりまでおよそ270年続きました【史実】。明治時代になってからも家は続き、前田家に伝わった品物や古い本は、今も前田育徳会という財団が守っています【史実】。

また、利家の娘たちはいろいろな大名家に嫁いでいるため、利家の血すじを引く人は、前田家のほかにもいると考えられます。ただ、特定の人が「利家の子孫」かどうかは、家系を一つずつたどらないとわかりません【不明】。

前田慶次とはどんな関係?

黒と金のしま模様の羽織を着て扇子を広げて笑う若い前田慶次と、腰に手を当ててあきれ顔で見る前田利家のイラスト

画像:派手な姿の前田慶次と、あきれ顔の利家

小説や漫画で人気の前田慶次(慶次郎。名は利益〈とします〉とされる)は、利家の兄・前田利久の養子です【史実】。利家から見ると、義理の甥(おい)にあたります。

利久は前田家の当主でしたが、永禄12年(1569年)、信長の命令で、弟の利家に当主の座をゆずりました【史実】。もし利久がそのまま当主だったら、養子の慶次が前田家を継いでいたかもしれない、という関係です。

慶次はその後どうなった?

慶次は、のちに前田家を出て、上杉景勝(上杉謙信の養子)に仕えました【史実】。慶長6年(1601年)、京都の伏見から景勝のいる米沢(山形県米沢市)まで旅したときの日記『前田慶次道中日記』は、慶次が自分で書いたものとされ、米沢の図書館に残っています【有力説】。

一方で、慶次の本当の父親がだれか、いつ生まれていつ亡くなったのかは、はっきりしません【不明】。慶次が利家をだまして冷たい水風呂に入れ、そのすきに前田家を去ったという有名な話もありますが、後の時代に伝わる逸話で、実際にあったかは確かめられません【伝承】。

緑の鎧を着て旗を背負い、遠くを見る前田慶次郎を描いた歌川芳幾の浮世絵

画像:歌川芳幾「太平記拾遺」の前田慶次郎(江戸時代の終わりの浮世絵)。Wikimedia Commons(パブリックドメイン)

ケンシン

慶次は、わしの養子・景勝に仕えた男だ。上杉家にとっても、なじみのある名前よ。

マサムネ

前田家から上杉家へ! 自由な人だったんですね。

年表でみる前田利家の生涯

長い槍を肩にかついで、いたずらっぽく笑う少年時代の前田利家(犬千代)のイラスト

画像:少年時代の利家(犬千代)

1538年の誕生から1599年の死去まで、前田利家の生涯のできごとを順に並べた年表

画像:前田利家の生涯の年表(侍ロード作成)。画像をタップ(クリック)すると拡大できます

年できごと
1538年(天文7年)尾張の荒子で生まれる(1537年とする説もある)
1551年(天文20年)ごろ織田信長に仕える
1558年(永禄元年)ごろまつと結婚したとされる
1559年(永禄2年)信長を怒らせ、仕えることができなくなる
1560年(永禄3年)許されないまま桶狭間の戦いに加わる
1561年(永禄4年)斎藤義龍の死の直後の森部の戦いで手柄を立て、許される
1569年(永禄12年)信長の命令で、兄の利久に代わって前田家を継ぐ
1575年(天正3年)越前の府中(福井県越前市)をまかされる
1581年(天正9年)能登一国をまかされ、大名になる
1582年(天正10年)本能寺の変で信長が亡くなる
1583年(天正11年)賤ヶ岳の戦い。秀吉に従い、加賀の2郡を加えられて金沢城に入る
1584年(天正12年)末森城の戦いで佐々成政を破る
1593年(文禄2年)秀吉の息子・秀頼が生まれ、のちにその守り役をまかされる
1598年(慶長3年)長男の利長に家督をゆずる。五大老の一人になる。秀吉が亡くなる
1599年(慶長4年)閏3月3日(今のこよみで4月27日)、大坂で亡くなる

若いころは「槍の又左」|信長に追い出された事件とは?

背中に大きくふくらんだ赤い母衣を背負い、槍を持って草原を駆ける若い前田利家のイラスト

画像:赤母衣を背負って戦場を駆ける若い利家

利家は、10代のころから信長のそばに仕えました。長い槍を使って戦場で手柄を立て、「槍の又左(やりのまたざ)」と呼ばれたと伝わります【有力説】。「又左」は、利家の呼び名「又左衛門」を短くしたものです。

信長の親衛隊「赤母衣衆」

利家は、信長の親衛隊(主君のそばで守る、えりぬきの部隊)にあたる「赤母衣衆(あかほろしゅう)」の一人に選ばれました【有力説】。「母衣(ほろ)」は、竹の骨組みに布を張って背中にしょう道具で、馬で走ると風をはらんで大きくふくらみます。目立つので、戦場で信長の命令を伝える役目の武士が身につけました。

赤母衣衆に選ばれた年は、記録でははっきりしません【不明】。

信長の家来を斬って追い出された?

永禄2年(1559年)ごろ、利家は信長を怒らせ、仕えることができなくなりました。理由として有名なのが、信長の身の回りの世話をする「拾阿弥(じゅうあみ)」という人物が利家の笄(こうがい:刀にそえる髪をととのえる道具)を盗み、怒った利家がその人を斬ってしまったという話です。

ただ、この話は、家臣の村井長明が利家から聞いた話を書きとめた『亜相公御夜話』(『利家夜話』などの名でも伝わる)に出てくるもので、年代が合わないところもあります【伝承】。信長に仕えた太田牛一が書いた『信長公記』には、利家が信長の怒りを受けていたことは書かれていますが、その理由は書かれていません。

史料ボックス②『信長公記』が書く利家の復帰

出典:太田牛一『信長公記』首巻「もりべ合戦の事」(永禄4年〈1561年〉5月の森部の戦い)

原文(一部):「此比蒙御勘気前田又左衛門出頭無之、義元合戦にも朝合戦に頸一ツ、惣崩に頸二ツ取進上候へとも被召出候はす候つる、此度前田又左衛門御赦免也」

現代語訳:このころ前田又左衛門(利家)は、信長の怒りを受けて出仕していなかった。桶狭間の戦い(義元合戦)でも、朝の戦いで首を一つ、敵がくずれたときに首を二つ取って差し出したが、許されなかった。今回、又左衛門は許された

この記事の説明:森部の戦いで、利家は「頸取足立(くびとりあだち)」と呼ばれた強い武将・足立六兵衛を討ち取りました。信長に許されないまま戦いに出続け、2年近くたってようやく許されたことがわかる、信長に仕えた太田牛一が書き残した、大切な記録です

戦国時代の記録には、このように敵の首を取った話がよく出てきます。当時は、討ち取った相手の首が手柄の証拠とされていたためです。

赤い母衣を背負い、槍を持つ若い前田利家(左枝犬喜代)を描いた歌川芳幾の浮世絵の一部

画像:歌川芳幾「太平記英勇伝」の左枝犬喜代(前田利家)の一部(1867年)。赤い母衣を背負った姿で描かれています。Wikimedia Commons(パブリックドメイン)

兄に代わって前田家を継ぐ

信長のもとにもどった利家は、そのあとも各地の戦いで活躍しました。永禄12年(1569年)、信長は、前田家の当主だった利家の兄・利久に代わって、利家に前田家を継がせました【史実】。四男(または次男)だった利家が、家の主になったのです。

マサムネ

追い出されても、自分から戦いに出て手柄を立てたんですね!

ケンシン

うむ。あきらめずに働く者を、信長も見ていたのだろう。

柴田勝家と賤ヶ岳の戦い|利家は裏切ったの?

夕焼けの山の陣で、金色の兜をかぶった前田利家があごに手を当てて考えこんでいるイラスト

画像:賤ヶ岳の戦いで迷う利家

天正3年(1575年)、信長が越前(今の福井県)をしずめると、利家は越前の府中(福井県越前市)をまかされました。佐々成政・不破光治とあわせて「府中三人衆」と呼ばれ、北陸の総大将・柴田勝家の指揮のもとで戦いました【史実】。天正9年(1581年)には能登一国をまかされ、大名になります【史実】。

本能寺の変と、勝家・秀吉の対立

天正10年(1582年)、本能寺の変で信長が亡くなります【史実】。利家は越中の前線から引き上げ、能登で起きた反乱をしずめました【史実】。くわしくは明智光秀の記事で紹介しています。

信長の死後、織田家の中では、柴田勝家と羽柴(豊臣)秀吉が対立します。利家は、北陸で長くいっしょに戦ってきた勝家の側にいましたが、秀吉とも若いころから親しい仲でした。どちらにも恩がある、むずかしい立場だったのです。

戦いの最中に、兵を引いた

天正11年(1583年)4月、勝家と秀吉は、近江の北(今の滋賀県長浜市)の賤ヶ岳のあたりでぶつかります。これが賤ヶ岳の戦いです。戦いの最中、勝家側にいた利家の軍は、戦わずに戦場を離れました【史実】。これが、勝家の軍がくずれる大きなきっかけになったと考えられています【有力説】。

利家が前もって秀吉と約束していた「裏切り」だったのか、どちらにもつかずに兵を引いたのかは、はっきりしません【諸説あり】。戦いの流れは、柴田勝家の記事の「賤ヶ岳の戦い」でくわしく紹介しています。

山と砦のまわりで多くの武者が戦うようすを描いた賤ヶ岳合戦図屏風

画像:賤ヶ岳合戦図屏風(江戸時代に描かれたもの)。Wikimedia Commons(パブリックドメイン)。画像をタップ(クリック)すると拡大できます

戦いのあと、利家は秀吉に従い、勝家の北ノ庄城(福井市)を攻める側に加わったとされます【有力説】。秀吉はその働きを認め、利家に加賀の2つの郡を与えました。利家は、本拠地を能登から加賀の金沢城に移します【史実】。

豊臣秀吉との関係|若いころの仲間から五大老へ

普段着の着物姿の前田利家と豊臣秀吉が、肩を組んで笑い合っているイラスト

画像:若いころからの仲間だった利家と秀吉

利家と秀吉は、ともに信長に仕えた若いころからの仲間で、とても親しかったとされます【有力説】。利家の娘・豪姫を秀吉の養女にしたり、娘の摩阿姫が秀吉の側室になったりと、家族どうしのつながりも深いものでした【有力説】。秀吉については、豊臣秀吉の記事で紹介しています。

秀吉の天下統一を支えた

秀吉に従った利家は、北陸をおさえる役目を果たしました。天正13年(1585年)に秀吉が越中の佐々成政を降参させると、利家の長男・利長が越中の3郡をまかされます【史実】。そのあとも、天正18年(1590年)の小田原攻め、文禄元年(1592年)からの朝鮮出兵(利家は九州の名護屋城に入った)など、秀吉の大きな戦いに加わりました【史実】。

五大老とは?

秀吉は、晩年になって、まだ幼い息子・秀頼のことを心配し、力のある5人の大名に豊臣家の政治を任せました。これが五大老です【史実】。

  • 徳川家康・前田利家・毛利輝元・宇喜多秀家・上杉景勝

利家は、秀頼が生まれた(文禄2年〈1593年〉)あと、秀頼の傅役(もりやく)、つまり守り役もまかされていました【有力説】。五大老の中でも、家康と並んで特に重い立場だったと考えられています【有力説】。

慶長3年(1598年)8月に秀吉が亡くなると、利家は大坂城に入り、秀頼を守る役目につきました。しかし、その利家も、翌年には病気で亡くなってしまいます。

マサムネ

秀吉さんと利家さん、本当に仲がよかったんですね。

ケンシン

長く付き合った友に、我が子を頼む。秀吉の心づかいが見えるな。

加賀百万石とは?利家が築いたの?

紅梅の咲く城の前で、肩衣と袴の正装で胸を張って立つ前田利家のイラスト

画像:金沢城に入った利家

加賀百万石とは、江戸時代の加賀藩(前田家の藩)の「石高(こくだか)」が100万石をこえ、大名の領地としていちばん大きかったことを表す言葉です【史実】。石高は、その土地がどれだけの作物を生み出せるかを、米の量に置きかえて表したものです。

「石(こく)」は米の量の単位で、1石は約180リットルです。「大人1人が1年に食べる米の量」とよく説明されますが、これは量をイメージするための目安です。また、石高は実際にとれた米の量そのものではありません。

利家の時代は、どのくらいの大きさだった?

利家が治めた土地は、次のように広がっていきました。

  • 1575年:越前の府中(ほかの2人と分けて治める)
  • 1581年:能登一国(今の石川県北部)
  • 1583年:加賀の石川郡・河北郡(今の金沢市のあたり)を加え、金沢城に入る
  • 1585年:長男の利長が越中(今の富山県)の3郡をまかされる
尾張の荒子から越前府中、能登、加賀へと移った前田利家の領地と、利長の時代に加賀・能登・越中の3か国になったことを示した模式図

画像:前田家の領地の広がり(模式図・侍ロード作成)。画像をタップ(クリック)すると拡大できます

つまり、利家の時代の前田家は、まだ加賀の全部を持っていたわけではありません。加賀・能登・越中の3か国を治めて「百万石」の大きさになったのは、利家が亡くなったあと、関ヶ原の戦い(1600年)で徳川方についた息子の利長の時代です【史実】。

それでも、能登と加賀に足場を作り、金沢城を本拠地に選んだのは利家です。そのため利家は、「加賀百万石の祖(始まりの人)」と呼ばれています。

末森城の戦い

加賀・能登の支配を守ったのが、天正12年(1584年)9月の末森城の戦いです。越中の佐々成政が、加賀と能登の間にある末森城を大軍で攻め、前田家の土地を2つに分けようとしました。利家はすぐに金沢から駆けつけ、城を救い出しました【史実】。まつの「金銀の袋」の話は、この戦いの前のことだと伝わります。

白い壁と鉛瓦の屋根が特徴的な金沢城の石川門

画像:金沢城の石川門(金沢市)。今の門は天明8年(1788年)に建て直されたものです。Wikimedia Commons(撮影:Yusuke.ogawa・パブリックドメイン)

前田利家の兜・槍・家紋

金色の長い烏帽子形の兜を左わきに抱え、右手で槍を立てて持つ甲冑姿の前田利家のイラスト

画像:金色の兜を抱えた利家

金色の長い兜

利家の兜として有名なのが、金色にかがやく、細長くとがった「長烏帽子形(ながえぼしなり)」の兜です。この兜がついた鎧「金小札白絲素懸威胴丸具足(きんこざねしろいとすがけおどしどうまるぐそく)」は、前田家の品を守る前田育徳会にあり、国の重要文化財になっています【史実】。兜の高さは68.5センチもあります【史実】。

鎧の箱に残る由来書きには、利家が末森城の戦いのほうびとして、家臣の奥村永福にこの鎧を与えたと書かれています【有力説】。のちに奥村家から前田家にもどされました。

槍の又左の槍

利家は「槍の又左」と呼ばれたように、長い槍の使い手でした【有力説】。ただ、利家が使った槍の長さや名前を、同じ時代の記録で確かめることはできません【不明】。

前田家の家紋「加賀梅鉢」

5つの丸い花びらの真ん中に、剣のような形のしべを描いた前田家の家紋「加賀梅鉢」

画像:加賀梅鉢。Wikimedia Commons(作成:Mukai・CC BY-SA 3.0)

前田家の家紋は、梅の花を図案にした「梅鉢(うめばち)」です。前田家の紋として知られるのが、花の真ん中の「しべ」の部分が剣のような形になった「加賀梅鉢」です【有力説】。ただ、利家本人が使った紋の形を、同じ時代の記録で細かく確かめることはむずかしいです【不明】。

梅鉢は、学問の神様として知られる菅原道真にゆかりの深い紋です。前田家は、道真の子孫だと名のっていました。ただ、前田家はもともと藤原氏の系統だと称していたとされ、道真の子孫だと強く言うようになったのは、利家の息子・利常の時代(寛永年間の終わりごろ)からだとみられています【有力説】。本当に道真と血がつながっていたかは、確かめられません【不明】。

前田利家の性格は?そろばんと愛妻家のエピソード

文机の前に座り、そろばんをはじく着物姿の前田利家のイラスト。机の上に帳面と銭が置いてある

画像:そろばんをはじく利家

そろばんを使いこなした武将

利家は、お金の計算にきちんとした人だったといわれます。前田育徳会には、利家が使ったと伝わるそろばん「高徳公算盤(前田利家所用)」が残っています【史実】。「高徳公」は利家のことです。朝鮮出兵のときに、九州の名護屋で使ったと伝わります【伝承】。

戦うだけでなく、兵の数や食料、お金をきちんと計算できることも、大名には大切な力でした。まつの「金銀の袋」の話も、利家がお金をしっかり管理していたことから生まれた話なのかもしれません。

まつとの夫婦の絆

永禄元年(1558年)に結婚したとする説に従えば、利家とまつは約41年間連れそったことになります。『高徳公遺誡鈔』という記録には、亡くなる少し前の慶長4年3月21日、利家がまつに遺書を書かせたとあります【伝承】。この話からも、2人の深い信頼関係がうかがえます。

晩年は人望の厚い長老に

若いころは、派手な服装やふるまいをしたという話も伝わっています【伝承】。こうした人を「かぶき者」(派手な姿や型破りな行動で人目を引く人)と呼びました。一方、晩年の利家は、落ち着いていて人柄がよく、多くの大名から頼りにされたと評価されています【有力説】。家康とも話し合いで争いをおさめようとしたことは、その表れといえるでしょう。

マサムネ

槍の名手で、計算も得意で、奥さん思い。いいところがいっぱいですね!

ケンシン

若いころの失敗から学んだのかもしれんな。

前田利家ゆかりの地と墓

笠を背負った旅姿で、巻物の地図を持って前を指さす前田利家のイラスト

画像:利家ゆかりの地をめぐる旅

場所どんなところ今の住所
荒子城跡(冨士権現天満宮)利家の生誕地と伝わる荒子城のあと。誕生の地の石碑がある愛知県名古屋市中川区
金沢城利家が本拠地にした城。今は金沢城公園になっている石川県金沢市
尾山神社利家をまつる神社。明治6年(1873年)にできた。平成10年(1998年)から、まつもいっしょにまつられている石川県金沢市
野田山墓地(加賀藩主前田家墓所)利家とまつの墓がある前田家の墓所石川県金沢市
末森城跡末森城の戦いの舞台石川県羽咋郡宝達志水町
大本山總持寺まつの肖像画「前田利家夫人像」を伝える寺神奈川県横浜市
名古屋市の冨士権現天満宮の境内に立つ、前田利家誕生の地を示す石碑

画像:荒子城跡(冨士権現天満宮)にある前田利家誕生の碑(名古屋市中川区)。Wikimedia Commons(撮影:KKPCW・CC BY-SA 4.0)

金沢市の尾山神社の神門。3階建てで、いちばん上にステンドグラスの窓がある

画像:尾山神社の神門(金沢市)。いちばん上の窓にはステンドグラスが入っています。Wikimedia Commons(撮影:cattan2011・CC BY 2.0)

よくある質問(FAQ)

利家とまつは何歳差?

9歳差です。利家を天文7年(1538年)生まれ、まつを天文16年(1547年)生まれとした場合です。利家を天文6年(1537年)生まれとすると、10歳差になります。

前田利家は誰を殺した?

戦場では、森部の戦いで「頸取足立」と呼ばれた足立六兵衛を討ち取ったことが『信長公記』に書かれています。また、信長の身の回りの世話をしていた拾阿弥という人物を斬ったという話もありますが、これは後の時代の聞き書きに出てくる話です。

前田利家の身長は?

わかっていません。身長が6尺(約182センチ)あったという話が広まっていますが、今回確かめた記録の中には、そのもとになる記述は見つかりませんでした。

大河ドラマ『豊臣兄弟!』の前田利家は史実どおり?

ドラマは史実をもとにした物語で、場面やせりふには創作が多く入っています。人物の気持ちや会話の多くは、記録に残っていません。能登の領主になったこと、賤ヶ岳の戦いのあと秀吉に従ったこと、五大老の一人になったことは記録で確かめられます。一方、まつが金銀の袋を差し出したという話は、後の時代の『川角太閤記』によるものです。

前田利家の名言は?

利家の言葉として伝わるものはいくつかありますが、多くは家臣が書きとめた聞き書きや、後の時代の本に出てくるものです。この記事では、本人の発言と確認できない言葉を、確定した名言としては紹介していません。

なぜ子どものころの名前が「犬千代」?

犬千代は利家の幼名(子どものころの名前)です。昔は、子どもが元気に育つように、強い生き物や身近な動物の名前を幼名に使うことがありました。ただ、利家の幼名がなぜ「犬千代」になったのかを書いた記録はありません。

前田利家の子孫は今もいる?

利家の家は、加賀藩の藩主の前田家として江戸時代の終わりまで続き、明治時代には侯爵(華族の位の一つ)になりました。前田家に伝わった品物や古い本は、今も前田育徳会という財団が守っています。また、利家の娘たちはいろいろな大名家に嫁いだので、その血すじはほかの家にも広がっています。ただ、特定の人が利家の子孫かどうかは、家系を一つずつたどらないとわかりません。

前田利家はどこで亡くなった?

大坂(今の大阪市)にあった前田家の屋敷で亡くなりました。墓は、本拠地だった金沢の野田山にあります。

まとめ|前田利家とは

前田利家は、信長に仕えて槍の名手として名をあげ、一度は追い出されながらも手柄を立てて許され、能登の大名になり、信長の死後は秀吉の天下統一を支えて五大老の一人となった武将です。

利家が亡くなったあとも、妻のまつや息子の利長が家康との争いをさけたことで、前田家は加賀百万石の大名として江戸時代を通して続きました。利家が作った土台を、家族が守り、大きくしたといえます。

利家が仕えた信長については織田信長の記事、親友だった秀吉については豊臣秀吉の記事、賤ヶ岳で別れた勝家については柴田勝家の記事もあわせてどうぞ。

ケンシン

戦の強さ、人とのつながり、そして家族の支え。そのすべてで百万石の土台を作った男だ。

マサムネ

まつさんの話も、もっと知りたくなりました!

参考にした史料・この記事の書き方

この記事は、おもに次の記録や資料をもとに書いています。

  • 同じ時代の記録:太田牛一『信長公記』
  • 後の時代の記録:『川角太閤記』、『亜相公御夜話』(『利家夜話』とも。村井長明による利家の聞き書き)、『高徳公遺誡鈔』、日置謙『前田世系』
  • 研究・資料:池田仁子「近世初期加賀藩藩主前田家の病と治療・医家」(『金沢城研究』第14号)、岩沢愿彦『前田利家』(吉川弘文館)、コトバンク(『日本大百科全書(ニッポニカ)』『改訂新版 世界大百科事典』『日本人名大辞典』など)、尾山神社・前田土佐守家資料館・市立米沢図書館・文化庁「国指定文化財等データベース」の解説
  • 画像:前田利家の肖像画、「前田利家夫人像」、前田利長の肖像画、賤ヶ岳合戦図屏風、歌川芳幾の浮世絵2点、金沢城石川門の写真は Wikimedia Commons でパブリックドメインとして公開されているものです。荒子城跡の写真(KKPCW・CC BY-SA 4.0)、尾山神社の写真(cattan2011・CC BY 2.0)、加賀梅鉢の図(Mukai・CC BY-SA 3.0)も Wikimedia Commons のものです。年表・家系図・領地の図とイラスト、漫画のコマは侍ロードのオリジナルです

記事中のラベルの意味

  • 【史実】同じ時代の史料で確認できること(【史実:○○】は、その出どころ)
  • 【有力説】研究者の間で広く受け入れられている見方(【有力説:○○】は、その出どころ)
  • 【諸説あり】見解が分かれていること
  • 【不明】今回確認した史料では、確かめられないこと
  • 【伝承】【俗説】後の時代に作られた話や、根拠がうすい言い伝え

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