小袖と袴を着て、腰刀を手に持って立つ弥助のイラスト

画像:(弥助のイメージイラスト。この記事のイラストはすべて、記録を参考にした想像の姿です)

弥助(やすけ)は、戦国時代に織田信長に仕えたアフリカ出身の人物です。信長の家臣が書いた『信長公記』や、徳川家の家臣の日記、キリスト教の宣教師の手紙に、その姿が書き残されています。

一方で、弥助について書かれた記録はとても少なく、「侍だったのか」「どこの出身なのか」「本能寺の変のあとどうなったのか」などは、見方が分かれたり、わかっていなかったりします。この記事では、記録に書いてあること・記録の読み方(解釈)・わからないことを分けて、弥助の実像を紹介します。

※大河ドラマ『豊臣兄弟!』に出てくる弥助(のちの三好吉房)や、おすしの「弥助」とは別です(よくある質問で紹介しています)。

ケンシン

わしは上杉ケンシン。今日の主役は、海の向こうから来て、信長のそばに仕えた男だ。

マサムネ

伊達マサムネです! 弥助さんって、ゲームで「侍」として出てくる人ですよね。本当に侍だったんですか?

ケンシン

そこは研究者の間でも見方が分かれておる。まずは、記録に何が書いてあるかを見ていこう。

まずわかること(この記事の要点)

  • 実在した?:実在した人物です。日本側の記録(『信長公記』『家忠日記』)と、宣教師の手紙の両方に出てきます【史実】(くわしく)
  • 信長との関係は?:1581年3月に宣教師に連れられて信長と会い、気に入られて、約15か月そばに仕えました。信長から扶持(給与)を与えられていたことが、同じ時代の日記に書かれています【史実:家忠日記】(くわしく)
  • 侍だった?:扶持・家・刀を与えられたことから侍身分とみる研究者と、そこまでは言えないとみる研究者がいて、見方が分かれています【諸説あり】(くわしく)
  • その後・子孫は?:本能寺の変で戦って降伏し、教会(南蛮寺)に送られたという記録を最後に、行方はわかりません。子孫も確認できません【不明】(くわしく)

知りたいところから読めるように、主な見出しへのリンクを置いておきます。

弥助とは何者?実在を示す記録と基本情報

ひと言でいえば、弥助は「宣教師に連れられて日本に来て、織田信長に気に入られ、約15か月そばに仕えたアフリカ出身の男性」です。

結論:弥助は実在した

  • 信長の家臣・太田牛一がまとめた信長の伝記『信長公記』に、1581年に「黒坊主」が来て信長と会ったことが書かれています【史実:信長公記】
  • 徳川家康の家臣・松平家忠の日記『家忠日記』には、1582年に信長が連れていた男の名が「弥介」で、身長が「六尺二分」だったと書かれています【史実:家忠日記】
  • 日本に来ていたイエズス会の宣教師たちも、手紙や報告書に彼のことを書いています【史実】

日本人と外国人という、立場の違う人たちが別々に書き残しているので、弥助が実在したことは確かです。ただし、記録に出てくるのは1581年3月から1582年6月までの間だけです。

基本プロフィール(早わかり表)

項目内容信憑性
名前弥助(『信長公記』の写本の1つ)・弥介(『家忠日記』)。アフリカでの名前は不明【史実】
生没年不明。1581年に「26、7歳」に見えたとあるので、1550年代半ばの生まれか【不明】
出身アフリカ出身とされる。くわしい地域はモザンビークとする説などがある【諸説あり】
身長「六尺二分」(約182cm)【史実:家忠日記】
日本に来た年1579年に巡察師ヴァリニャーノといっしょに来たとみられる【有力説】
主君織田信長(1581年3月ごろ〜1582年6月)【史実】
最後の記録1582年6月、本能寺の変のあと南蛮寺(教会)に送られた【史実:イエズス会日本年報】

「弥助」という名前は誰がつけた?

『信長公記』の写本の1つ(尊経閣文庫本)には、信長がこの男を召し抱えて「名をハ号弥助と」——弥助と名のらせた、という形で書かれています【有力説:尊経閣文庫本『信長公記』】。『家忠日記』では「弥介」と書かれていますが、当時は同じ読みの名前を違う字で書くことはよくありました。

アフリカでの本当の名前は、どの記録にも書かれていません。もとの名前がなまって「弥助」になった、といった説明を見かけることもありますが、どれも記録にもとづかない推測です【不明】。

どこから、どうやって日本に来た?

ヴァリニャーノがリスボンからモザンビーク、ゴア、マラッカ、マカオを経て口之津に着き、京都に向かうまでの道のりを示した地図

画像:ヴァリニャーノの旅と、弥助が日本に来るまで(侍ロード作成)。画像をタップ(クリック)すると拡大できます

弥助を日本に連れてきたのは、イエズス会(カトリックの修道会)の巡察師アレッサンドロ・ヴァリニャーノです。巡察師とは、アジア各地の布教の様子を見て回る、身分の高い宣教師のことです。ヴァリニャーノは1574年にポルトガルを出て、アフリカ東岸のモザンビーク、インドのゴアなどを経て、1579年7月に日本(長崎県の口之津)に着きました【史実】。

弥助はヴァリニャーノがインドから連れてきたといわれ、1579年にいっしょに日本に来たとみられています【有力説】。ただ、弥助がどこで、どんな立場で一行に加わったのかを、はっきり書いた記録はありません【不明】。

出身地をモザンビークとする説は、弥助の時代から40年以上たった1627年にフランスで出版されたソリエの『日本教会史』の記述などによるもので、研究者の藤田みどりもモザンビーク出身としています【諸説あり】。同じ時代の宣教師の記録は、弥助を「カフル(cafre)」と書いています。これはポルトガル人がアフリカ東部の人びとを指して使った言葉で、くわしい出身地まではわかりません。

弥助の写真や肖像画は残っている?

南蛮屏風の一部。南蛮船の荷物やトラの入ったおりを運ぶ人びとの中に、アフリカ出身とみられる人が描かれている

画像:狩野内膳『南蛮屏風』(部分・1600年ごろ・神戸市立博物館蔵)。南蛮船の荷物を運ぶ人びとの中に、アフリカ出身とみられる人が描かれています。弥助本人を描いたものではありません

写真が発明されたのは19世紀なので、弥助の写真はもちろんありません。また、同じ時代に弥助本人を描いた肖像画も残っていません【不明】。

南蛮屏風のように、ポルトガル人に付き従うアフリカ出身の人びとを描いた絵はいくつも残っていますが、どれも弥助本人と特定できるものではありません。ネットやゲームで見かける弥助の姿は、現代の作品や想像によるものです。この記事のイラストも、記録を参考にした想像の姿です。

弥助について書かれた主な記録

記録いつ・だれが弥助について書かれていること
宣教師の手紙1581〜82年・フロイス、メシアほか京都での大騒ぎ、信長との対面、日本語を少し話したこと、「殿にする」といううわさ
『信長公記』巻14信長の家臣・太田牛一1581年に「黒坊主」が来て信長と会った。26、7歳くらいで、10人分より力が強い
『信長公記』尊経閣文庫本同じ本の写本の1つ「弥助」と名のり、扶持・鞘巻(腰刀)・私宅を与えられ、ときに道具を持った
『家忠日記』徳川家の家臣・松平家忠1582年、信長が扶持を与えている「くろ男」を連れていた。身長は六尺二分、名は弥介
『イエズス会日本年報』1582年・宣教師の報告本能寺の変で戦い、降伏した。光秀の命令で南蛮寺に送られた

弥助について書かれた同じ時代の記録は、主にこの5つです。どれも短い記述で、弥助本人が書いたものや、弥助の言葉を伝える記録はありません。

マサムネ

記録って、思っていたよりずっと少ないんですね…!

ケンシン

うむ。だからこそ、一つひとつの言葉をていねいに読む必要があるのだ。

信長との出会いと、仕えていた時期の年表

宣教師が見守る中、畳の部屋で織田信長と向かい合って座る弥助のイラスト

画像:弥助と信長の対面をイメージした創作イラスト。容姿・服装・部屋の様子は想像によるものです

弥助についての記録は、次の3つの期間に分けて考えるとわかりやすくなります。

  • 日本に来た時期:1579年7月(ヴァリニャーノの来日といっしょとみられる)【有力説】
  • 記録に名前や姿が出てくる期間:1581年3月〜1582年6月【史実】
  • 信長に仕えた期間:1581年3月ごろ〜1582年6月の本能寺の変までの約15か月【史実】

1579年から1581年までの約1年半、弥助がどこで何をしていたかは記録がありません。ヴァリニャーノは九州の豊後(大分県)などで過ごしていたので、弥助もいっしょだったと考えられます【有力説】。

京都での大騒ぎと、信長との対面(1581年3月)

1581年3月、ヴァリニャーノの一行は信長に会うため、豊後から堺を経て京都に向かいました。宣教師の手紙によると、堺でも京都でも、背の高いヴァリニャーノと弥助をひと目見ようと人びとが集まり、京都では見物人が南蛮寺(教会)に押し寄せて、けが人が出るほどだったといいます【史実:フロイスらの書簡】。

うわさを聞いた信長は弥助を呼び寄せ、3月27日(天正9年2月23日)、宣教師オルガンティーノが弥助を連れて、信長のいた本能寺を訪ねました。手紙によると、信長は肌の色が墨を塗ったものではないかと疑い、上半身の着物を脱がせて体を洗わせましたが、色は変わらなかったといいます【史実:フロイスらの書簡】。

史料ボックス①『信長公記』巻14

出典:太田牛一『信長公記』巻14、天正9年2月23日(1581年3月27日)条

原文:「きりしたん国より黒坊主参り候。年の齢廿六、七と見えたり。惣の身の黒き事、牛の如し。彼の男、健やかに、器量なり。しかも、強力十の人に勝たり」

現代語訳:キリシタンの国から、黒い肌の男がやって来た。年は26、7歳ほどに見える。全身が牛のように黒い。体は健やかで、見た目(器量)もよい。しかも、10人分よりも力が強い

この記事の説明:弥助が実在し、信長と会ったことを示す日本側の記録です。「黒坊主」は肌の黒い男を指した当時の呼び方で、今では差別的な言い方になります。名前や待遇は、多くの写本のこの部分には書かれていません

信長に召し抱えられる

史料ボックス②『信長公記』尊経閣文庫本

出典:『信長公記』の写本の1つで、尊経閣文庫(東京都)が持つ本。上と同じ日の記事に続けて書かれている

原文:「彼黒坊被成御扶持、名をハ号弥助と、さや巻之のし付幷私宅等迄被仰付、依時御道具なともたさせられ候」

現代語訳:(信長は)その黒坊に扶持を与え、名を弥助と名のらせ、金銀で飾った鞘巻(腰刀)や私宅までお与えになった。ときには、信長の道具なども持たせた

この記事の説明:弥助の待遇がわかる、いちばんくわしい記述です。ただし、ほかの写本にはこの文がなく、研究者の金子拓は、書き写すときに加えられた可能性もあると指摘しています

史料に出てくる言葉を、かんたんに説明しておきます。

  • 扶持(ふち):主君が家来などに与える、米などの給与。「食い扶持」という言葉のもとです
  • 鞘巻(さやまき):腰に差す短めの刀(腰刀)の一種。「のし付」は、鞘を金や銀の薄い板で飾ったものです
  • 私宅:住むための家
  • 御道具:主君の身の回りの品。どんな道具かは書かれていません

甲州征伐の帰り道(1582年4月)

1582年3月、信長は甲斐(山梨県)の武田氏を攻め滅ぼしました(甲州征伐)。その帰り道、信長は徳川家康の領地を通って安土に戻ります。このとき、家康の家臣・松平家忠が、信長の一行に弥助がいたことを日記に書いています。

史料ボックス③『家忠日記』

出典:松平家忠『家忠日記』天正10年4月19日(1582年5月11日)条

原文:「上様御ふち候大うす進上申候、くろ男御つれ候、身ハすみノコトク、タケハ六尺二分、名ハ弥介ト云」

現代語訳:上様(信長)が扶持を与えておられる、だいうす(キリスト教の宣教師)が献上した黒い男を連れておられた。体は墨のように黒く、身長は六尺二分、名は弥介という

この記事の説明:弥助の名前・身長、そして信長から扶持をもらっていたことが、同じ時代の日記で確かめられます。家忠は、弥助を自分の目で見て書いたと考えられます

「六尺二分」は約182cmです。当時の日本人男性の平均身長は160cmに満たなかったといわれるので、とても目立つ大きさだったはずです。

記録に残る弥助の15か月(年表)

1579年の来日から1582年の本能寺の変まで、弥助が出てくる記録をできごとの順に並べた年表

画像:記録に残る弥助(侍ロード作成)。画像をタップ(クリック)すると拡大できます

年月(西暦)できごと記録
1579年7月ヴァリニャーノが口之津に着く。弥助もいっしょだったとみられる推定
1581年3月堺・京都で、弥助を見ようと人が押し寄せる宣教師の手紙
1581年3月27日本能寺で信長と対面する『信長公記』
1581年扶持・弥助の名・鞘巻・私宅を与えられる『信長公記』尊経閣文庫本
1581年5月フロイスの越前行きに「黒人」が同行(弥助とみる研究者がいる)宣教師の手紙
1581年10月日本語を少し話し、力が強いと書かれる。「殿にする」といううわさもメシアの手紙
1582年5月11日甲州征伐から帰る信長の一行にいた『家忠日記』
1582年6月21日本能寺の変で戦い、降伏。南蛮寺へ送られる『イエズス会日本年報』
ケンシン

信長は、珍しい客人をただ眺めただけではない。扶持を与えて、そばに置いたのだ。

マサムネ

『家忠日記』に「御ふち」って書いてあるんですね。家来として扱われていたってことかな?

ケンシン

それをどう読むかが、次の「侍だったのか」の話につながるのだ。

弥助は侍だったのか?記録と解釈を分けて説明

布に包んだ道具を両手で持ち、屋敷の廊下で信長のそばを歩く弥助のイラスト

画像:信長のそばで道具を持つ弥助の創作イメージ。道具の種類や、この場面の様子が記録されているわけではありません

結論

  • 同じ時代の記録で確かなのは、信長が弥助を気に入り、扶持を与えてそばに置いたこと、そして本能寺の変で戦ったことです【史実】
  • 「弥助」の名・鞘巻(腰刀)・私宅を与えられたという記述は、『信長公記』の写本の1つにだけあります【有力説:尊経閣文庫本『信長公記』】
  • これを「侍」と呼べるかどうかは、研究者の間でも見方が分かれています【諸説あり】

答えが分かれるのは、主に2つの理由からです。1つは、待遇がいちばんくわしくわかる記述が、写本の1つにしかないこと。もう1つは、戦国時代の「侍」という言葉がどこまでの人を指すのか、はっきり決まっていなかったことです。

記録に書かれていること・書かれていないこと

同じ時代の記録に書かれている写本の1つ(尊経閣文庫本)にだけあるどの記録にも書かれていない
信長が気に入り、人を付けて町を回らせた(宣教師の手紙)「弥助」と名のった戦で手柄を立てた
日本語を少し話し、力が強かった(宣教師の手紙)鞘巻(腰刀)を与えられた領地をもらった
26、7歳くらいで、10人分より力が強い(『信長公記』)私宅(家)を与えられた名字を名のった
信長から扶持を与えられていた。身長は六尺二分、名は弥介(『家忠日記』)ときに信長の道具を持った弥助本人の気持ちや言葉
本能寺の変で戦い、降伏した(『イエズス会日本年報』)(扶持のことも、この写本に書かれている)本能寺の変のあとの行方

ただし、弥助の記録はもともととても少ないので、「書かれていない=なかった」とは言えません。たとえば名字や領地の記録がないことは、侍ではなかった証拠にはなりませんし、侍だった証拠にもなりません。

「侍だった」とみる読み方と、慎重な読み方

研究者の見方は、同じ記述をどう読むかで分かれています。賛成・反対の人数ではなく、記述ごとに比べてみましょう(研究者名は敬称略)。

記述侍とみる読み方慎重な読み方
扶持を与えられた(『家忠日記』・尊経閣文庫本)主君と主従の関係を結び、給与を受けた。侍身分の大事な条件を満たす(平山優)扶持・私宅・腰刀を与えられたことを、そのまま侍と定義してよいかは疑問が残る(渡邊大門)
私宅を与えられた(尊経閣文庫本)屋敷を与えられたのは、家臣として扱われた重要な証拠(平山優)この記述は写本の1つにしかなく、書き写すときに加えられた可能性もある(金子拓)
鞘巻(腰刀)を与えられた(尊経閣文庫本)刀を差すことを許されたので、身分の低い下人ではない(平山優)同上
道具を持たされた(尊経閣文庫本)主君の身近で仕える役目召使いのような存在だったとも読める(渡邊大門)

平山優は、扶持・屋敷・刀の3つがそろっていることから「弥助が信長に仕える『侍』身分であったことは間違いなかろう」とし、名字を与えられた形跡がないのは、仕えた期間が1年あまりと短かったためかもしれない、としています。

一方、渡邊大門は「これだけの情報では判断しづらい」とし、弥助は召使いのような存在だったように思える、と述べています。呉座勇一も、新聞のインタビューで弥助を「芸人のような立場」とみて、侍と言い切ることには慎重な立場です。

根拠:平山優のX(旧Twitter)での解説(2024年)、渡邊大門「織田信長に召し抱えられた黒人の弥助は、侍身分だったのか」(Yahoo!ニュース エキスパート・2024年7月25日)、呉座勇一へのインタビュー(産経新聞・2024年8月5日)、金子拓『織田信長という歴史』(勉誠出版・2009年)

戦国時代の「侍」と、英語の samurai

腕を組んで考えこむ、小袖と袴姿の弥助のイラスト

画像:(考える弥助のイメージイラスト)

もう1つややこしいのが、「侍」という言葉の意味です。戦国時代の「侍」は、武家に仕える人のうち、中間(ちゅうげん)や小者(こもの)など下働きの人たちとは区別された身分を指すことが多い言葉です。ただ、どんな条件がそろえば「侍」なのかは、はっきり決まっていたわけではなく、研究者によって考え方に幅があります【諸説あり】。

一方、英語の samurai は、日本の武士全体を指すことが多く、「刀を持って戦う日本の戦士」というイメージで使われます。英語圏で弥助が "African samurai"(アフリカ人の侍)と呼ばれるとき、日本の研究者が議論している「侍身分だったか」とは、少し違う意味で使われていることがあります。

海外では弥助を「最初の外国人の侍」などと紹介することもありますが、記録からそこまで言い切ることはできません。

「信長は弥助を殿にするつもりだった」は本当?

宣教師ロレンソ・メシアが1581年10月8日に書いた手紙には、弥助を見た人の中に「信長は彼を殿(Tono)にするだろう」と言う者もいた、と書かれています【史実:メシアの書簡】。

ただし、これは町の人のうわさを伝えたもので、信長がそう言ったわけではありません。実際に弥助が「殿」(領地を持つ領主)になったという記録はありません。

ケンシン

同じ記録でも、どう読むかで答えが変わる。だからこそ、元の文を見ることが大事なのだ。

マサムネ

「侍」っていう言葉の意味も、日本と海外で違うんですね。

本能寺の変で弥助は何をした?

三日月の前立ての兜と黒い甲冑を身につけ、刀をかまえる弥助のイラスト

画像:本能寺の変で戦う弥助の創作イメージ。弥助がどんな姿で、どんな武器で戦ったかは記録にありません

結論

  • 1582年6月21日(天正10年6月2日)の本能寺の変で、弥助は信長が亡くなったあと、信長の長男・信忠のもとへ行って戦いました【史実:イエズス会日本年報】
  • 長く戦ったあと、明智方の家臣に刀を渡して降伏し、光秀の命令で南蛮寺(教会)に送られました【史実:イエズス会日本年報】

史料ボックス④『イエズス会日本年報』

出典:ルイス・フロイスの1582年11月5日付の報告(『イエズス会日本年報』)。村上直次郎の日本語訳(1943年)より

訳文:「ビジタドール(巡察師)が信長に贈った黒奴が、信長の死後世子の邸に赴き、相当長い間戦ってゐたところ、明智の家臣が彼に近づいて、恐るることなくその刀を差出せと言ったのでこれを渡した」

現代語訳:巡察師が信長に贈った黒人の男は、信長が死んだあと、跡継ぎ(信忠)の屋敷へ行き、かなり長いあいだ戦っていた。明智の家臣が近づき、恐れずに刀を渡せと言ったので、刀を渡した

この記事の説明:本能寺の変での弥助の行動を伝える、ただ1つの記録です。ポルトガル語で書かれた宣教師の報告を、日本語に訳したものです

信忠は、宿にしていた妙覚寺から近くの二条御所(二条新御所)に移って明智軍と戦い、そこで自害しました。弥助が駆けつけた「世子の邸」は、この信忠のいた場所を指すと考えられます【有力説】。

燃える本能寺で明智勢と戦う織田信長を描いた明治時代の錦絵

画像:楊斎延一『本能寺焼討之図』(明治時代・名古屋市蔵)。燃える本能寺で戦う信長を描いた錦絵で、弥助は描かれていません

家臣から弥助をどうするか聞かれた光秀は、「黒奴は動物で何も知らず、また日本人でもない故、これを殺さず」と言い、「インドのパードレ(宣教師)の聖堂」に置くよう命じたと報告されています【史実:イエズス会日本年報】。

これは、アフリカ出身の人を見下す、当時の偏見がそのまま表れた言葉です。ただ、その結果として弥助は命を助けられ、宣教師たちのもとへ送られました。

「弥助が信長の首を持ち出した」は本当?

まず事実から見ると、イエズス会の報告では、弥助は信長が亡くなったあとに信忠のもとへ向かい、そこで戦って降伏しています。信長の遺体や首を運んだという記録はありません【史実:イエズス会日本年報】。

愛知県瀬戸市の西山自然歴史博物館には「信長のデスマスク」と伝わる面があり、館長の家の言い伝えでは、弥助がひそかに持ち出した信長の首から作られたとされています【伝承】。テレビなどで紹介されて広まった話ですが、同じ時代の記録では確かめられず、弥助が本能寺ではなく信忠のもとで戦ったという報告とも合いません。

本能寺の変のあと、弥助はどうなった?妻や子孫は?

宣教師のいる建物の段に、ひとりで静かに座る弥助のイラスト

画像:宣教師のもとへ送られた弥助をイメージした創作イラスト。服装・建物・表情は想像によるもので、その後の人生を描いたものではありません

結論

  • 南蛮寺に送られたという記録を最後に、弥助のその後の行方はわかりません【不明】
  • 妻や子どもがいたという記録もなく、子孫は確認できません【不明】

光秀の命令で南蛮寺に送られたあと、弥助がどこへ行き、いつ、どこで亡くなったのかを書いた記録は見つかっていません。宣教師たちとともに九州へ移ったのか、日本を離れたのかも、わかりません。

沖田畷の戦いの「アフリカ出身の男」は弥助?

本能寺の変から2年後の1584年、九州の島原で有馬氏と龍造寺氏が戦った沖田畷(おきたなわて)の戦いで、有馬方の大砲に弾をこめたアフリカ出身の男がいたことが、宣教師の記録に書かれています【史実:フロイス『日本史』ほか】。

これを弥助ではないかと考える人もいますが、記録には名前が書かれておらず、同じ人物だという根拠はありません【不明】。当時の日本には、ポルトガル人に連れられてきたアフリカ出身の人がほかにもいたからです。

「弥助の子孫」はいる?

弥助の妻や子どもについての記録はなく、「弥助の子孫」と確かめられる家や人は知られていません【不明】。ネットなどで「子孫がいる」という話を見かけることがあっても、記録で確かめられるものではありません。

小説や漫画、映画には、弥助が本能寺の変を生きのびて活躍したり、子孫が登場したりする作品もありますが、それらは作者の創作です【創作】。

マサムネ

15か月だけ記録に出てきて、そのあとは誰にもわからないなんて…。

ケンシン

わからぬことは、わからぬと書く。それが記録に向き合う正直なやり方よ。

記録から見える弥助の人物像

片ひざをついてほほえむ、小袖と袴姿の弥助のイラスト

画像:(ほほえむ弥助のイメージイラスト)

弥助の性格や気持ちを書いた記録はありません。ここでは、記録の記述から「記録の内容 → そこから言えること → わからないこと」の順に見ていきます。

記録①:日本語を少し話した

  • 記録の内容:メシアの手紙に、弥助は日本語を少し話すことができた、とあります【史実:メシアの書簡】
  • 言えること:1579年に来日したとすれば、信長と会うまでの1年半あまりの間に、ある程度の日本語を身につけていたことになります
  • わからないこと:どのくらい話せたのか、読み書きができたのかは、わかりません

記録②:力が強く、目立つ体つきだった

  • 記録の内容:『信長公記』は「強力十の人に勝たり」、『家忠日記』は身長「六尺二分」(約182cm)と書いています【史実】
  • 言えること:力の強さと背の高さが、当時の人たちに強い印象を残したことがわかります
  • わからないこと:武芸の腕前や、戦いの経験については書かれていません

記録③:信長に気に入られた

  • 記録の内容:宣教師の手紙によると、信長は弥助を喜んでそばに置き、人を付けて京都の町を回らせました。少し芸ができたとも書かれています【史実:メシアの書簡】
  • 言えること:信長が弥助に強い関心を持ち、大事に扱ったことがわかります
  • わからないこと:どんな芸だったのか、信長と何を話したのかは、書かれていません

記録④:本能寺の変で、最後まで戦った

  • 記録の内容:信長が亡くなったあとも信忠のもとへ行き、長いあいだ戦いました【史実:イエズス会日本年報】
  • 言えること:変のとき、弥助は逃げずに織田家の側で戦ったことになります
  • わからないこと:それが主君への忠義の気持ちからなのか、ほかに道がなかったのかなど、弥助の気持ちはわかりません

こうして見ると、弥助について確かに言えることは多くありません。それでも、遠いアフリカから来て、日本に来て2年ほどで日本語を少し話せるようになり、天下人のそばで仕え、最後は織田家の側で戦った——その姿は、短い記録の中からもはっきり浮かび上がってきます。

南蛮貿易の時代とアフリカ出身の人びと

南蛮屏風の一部。ポルトガル人の行列で、船長に日傘をさしかけるアフリカ出身とみられる従者が描かれている

画像:狩野内膳『南蛮屏風』(部分・1600年ごろ・神戸市立博物館蔵)。ポルトガルの船長に日傘をさしかける従者など、アフリカ出身とみられる人が何人も描かれています。弥助本人ではありません

弥助が日本に来た16世紀後半は、ポルトガルの船が九州の港に来て交易をした「南蛮貿易」の時代です。ポルトガル人は、アフリカやインド、東南アジアで集めた人びとを、船員や従者、奴隷として連れていました。弥助も、もとはこうした従者の一人として宣教師に仕えていたと考えられます【有力説】。

年できごと出典
1540年代ポルトガル人の船長ジョルジ・アルヴァレスが、日本人はアフリカ出身の人を見たがり、遠くからも見に来る、と報告するアルヴァレスの報告
1581年弥助が京都に来て、信長と会う『信長公記』ほか
1584年沖田畷の戦いで、アフリカ出身の男が有馬方の大砲に弾をこめるフロイス『日本史』ほか
1593年肥前名護屋(佐賀県)で、ポルトガル人の一行のアフリカ出身の人びとが豊臣秀吉の前で踊り、秀吉が褒美を与えるフロイス『日本史』

一方で、この時代には、日本人も奴隷として海外へ売られていました。1587年(天正15年)、豊臣秀吉はキリスト教の宣教師を国外に追放する命令(伴天連追放令)を出しますが、その前日の日付の覚書には、日本人を中国・南蛮・朝鮮へ売ることを禁じる条文があります【史実:天正15年6月18日付覚】。人を売り買いすることは、当時、アジアでもヨーロッパでも広く行われていたのです。

根拠:藤田みどり『アフリカ「発見」』(岩波書店・2005年)、ルシオ・デ・ソウザ/岡美穂子『大航海時代の日本人奴隷』(中公選書・増補新版2021年)

ゲーム・アニメの弥助と、記録の弥助

三日月の前立ての兜と黒い甲冑を身につけ、刀を手に立つ弥助のイラスト

画像:甲冑姿の弥助のイメージイラスト。ゲームや作品ではよくこうした姿で描かれますが、弥助が甲冑を着ていたという記録はありません

弥助は、小説・漫画・アニメ・ゲームなどで、何度も主人公や重要な人物として描かれてきました。どの作品も、短い記録をもとに作者が想像をふくらませた物語です。作品でよく描かれる姿と、記録を比べてみましょう。

作品でよく描かれること記録にあること区別
甲冑を着て戦場で戦う甲冑の記録はない。戦った記録は本能寺の変だけ【創作】
剣の達人・武芸の名手力が強かった(『信長公記』)。武芸の腕前は書かれていない【創作】
信長の家臣(侍)として活躍扶持・家・腰刀を与えられた。侍と呼べるかは見方が分かれる【諸説あり】
本能寺の変のあとも活躍する南蛮寺に送られたあとは記録がない【創作】
信長の首を持ち出す記録はない。信忠のもとで戦って降伏した【伝承】

『アサシン クリード シャドウズ』と2024年の論争

2024年5月、フランスのゲーム会社ユービーアイソフトが、戦国時代の日本を舞台にしたゲーム『アサシン クリード シャドウズ』を発表しました。主人公の一人として弥助が「侍」として描かれたことから、国内外で「弥助は本当に侍だったのか」をめぐる大きな論争が起こりました。ゲームは2025年3月に発売されています。

議論は、弥助の身分だけでなく、ゲームの中の日本の描き方や、ネット上の百科事典の書かれ方などにも広がりました。ユービーアイソフトは2024年7月に出した声明で、シリーズの作品を歴史の事実をそのまま描いたものとして示すつもりはなく、弥助を侍として描いたことにも議論があると認めています。

ゲームは史実を参考にした創作の物語です。ゲームで描かれた弥助の活躍は作品の設定で、歴史上の弥助の身分を決めるものではありません。逆に、ゲームへの批判が、記録に書かれている弥助の事実まで消すものでもありません。

弥助が登場する主な作品

ジャンル作品
小説来栖良夫『くろ助』(1968年)、遠藤周作『黒ん坊』(1971年)など
漫画『へうげもの』『信長のシェフ』など
アニメNetflix『Yasuke -ヤスケ-』(2021年)
大河ドラマ『信長 KING OF ZIPANGU』(1992年)、『秀吉』(1996年)、『軍師官兵衛』(2014年)
映画北野武監督『首』(2023年)
ゲーム『仁王』(2017年)、『戦国無双5』(2021年)、『アサシン クリード シャドウズ』(2025年)など

ハリウッドでも弥助を主人公にした映画の企画があり、2019年には主演の俳優も発表されましたが、その俳優が翌年に亡くなり、映画はまだ完成していません。

マサムネ

ゲームの弥助と、記録の弥助。ちゃんと分けて考えないといけないんですね。

ケンシン

物語は物語として楽しめばよい。ただ、記録に何が書いてあるかを知っておくと、もっと面白くなるぞ。

よくある質問(FAQ)

弥助は実在した人物?

はい、実在した人物です。『信長公記』『家忠日記』という日本側の記録と、宣教師の手紙や報告の両方に出てきます。ただし、記録に出てくるのは1581年3月から1582年6月までだけです。

弥助の身長はどのくらい?

『家忠日記』に「六尺二分」とあり、約182cmです。当時の日本人男性よりずっと背が高く、とても目立ったと考えられます。

弥助の出身はどこ?

アフリカ出身とされています。くわしい地域はモザンビークとする説が知られていますが、これは後の時代の本などによるもので、同じ時代の記録には、くわしい出身地は書かれていません。

弥助の写真や肖像画は残っている?

残っていません。写真は19世紀の発明で、同じ時代に弥助本人を描いた絵も見つかっていません。南蛮屏風などに描かれたアフリカ出身の人びとも、弥助本人とは特定できません。

弥助の子孫はいる?

確認できません。弥助の妻や子どもについての記録はなく、本能寺の変のあとの行方もわかっていません。

大河ドラマ『豊臣兄弟!』に出てくる弥助は、同じ人?

別の人です。『豊臣兄弟!』(2026年)の弥助は、豊臣秀吉・秀長の姉・ともの夫で、のちの三好吉房(豊臣秀次の父)です。この記事の弥助とは関係ありません。

「弥助寿司」の弥助とは?

すしを「弥助」と呼ぶのは、江戸時代の人形浄瑠璃・歌舞伎『義経千本桜』の「すし屋」の場面から来ています。すし屋に身をかくした平維盛が「弥助」と名のったことから、すしやすし屋を「弥助」と呼ぶようになりました。この記事の弥助とは関係ありません。

まとめ|弥助とは

弥助は、宣教師に連れられて日本に来て、織田信長に気に入られ、扶持を与えられて約15か月そばに仕えたアフリカ出身の男性でした。本能寺の変では信忠のもとで戦い、降伏して命を助けられましたが、その後の行方はわかっていません。

「侍だったのか」は、扶持・家・刀の記述をどう読むか、「侍」という言葉をどう考えるかで答えが分かれます。だからこそ、言い切った説明をうのみにせず、記録の原文に立ち返ることが大切です。

弥助が仕えた信長については織田信長の記事、本能寺の変を起こした光秀については明智光秀の記事もあわせてどうぞ。

ケンシン

わずか15か月の記録でも、そこには確かに一人の人間が生きておった。

マサムネ

少ない記録をていねいに読むと、弥助さんの姿が少しずつ見えてくるんですね!

参考にした史料・この記事の書き方

この記事は、おもに次の記録や研究をもとに書いています。

  • 同じ時代の日本側の記録:太田牛一『信長公記』巻14(尊経閣文庫本を含む)、松平家忠『家忠日記』
  • 宣教師の記録:ルイス・フロイス、ロレンソ・メシアらの書簡(1581〜82年)、『イエズス会日本年報』(村上直次郎訳『耶蘇会の日本年報』第一輯・1943年)、フロイス『日本史』
  • 後の時代の記録:ソリエ『日本教会史』(1627年)
  • 研究書・論考:藤田みどり『アフリカ「発見」――日本におけるアフリカ像の変遷』(岩波書店・2005年)、金子拓『織田信長という歴史――『信長記』の彼方へ』(勉誠出版・2009年)、松田毅一「日本巡察師ヴァリニャーノの生涯」(『日本巡察記』桃源社・1965年)、ルシオ・デ・ソウザ/岡美穂子『大航海時代の日本人奴隷』(中公選書・増補新版2021年)、トーマス・ロックリー『信長と弥助』(太田出版・2017年)
  • 研究者の見解:平山優のX(旧Twitter)での解説(2024年)、渡邊大門「織田信長に召し抱えられた黒人の弥助は、侍身分だったのか」(Yahoo!ニュース エキスパート・2024年7月25日)、呉座勇一へのインタビュー(産経新聞・2024年8月5日)
  • そのほか:国立国会図書館「本の万華鏡」第14回「アフリカの日本、日本のアフリカ」、ユービーアイソフトの声明(2024年7月)
  • 画像:狩野内膳『南蛮屏風』(神戸市立博物館蔵)・楊斎延一『本能寺焼討之図』は Wikimedia Commons でパブリックドメインとして公開されているものです。地図は Natural Earth(パブリックドメイン)のデータをもとに作成しました。年表・地図とイラストは侍ロードのオリジナルです

記事中のラベルの意味

  • 【史実】同じ時代の史料で確認できること(【史実:○○】は、その出どころ)
  • 【有力説】研究者の間で広く受け入れられている見方(【有力説:○○】は、その出どころ)
  • 【諸説あり】見解が分かれていること
  • 【不明】史料がなく、わかっていないこと
  • 【伝承】【創作】後の時代に作られた話や、作品の中の設定

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