黒い束帯姿で笏を持って立つ徳川家康のイラスト

画像:(徳川家康のイメージイラスト。この記事のイラストはすべてイメージです)

子どものころは人質として育ち、何度も命の危機を乗り越えて、最後は江戸幕府を開いた武将——それが徳川家康(とくがわ いえやす)です。家康が整えた仕組みの上に、およそ260年続く江戸時代の平和が築かれました。

一方で、家康には「鯛の天ぷらで亡くなった」「三方ヶ原の戦いで負けて漏らした」「鳴くまで待とうホトトギス」など、有名なのに、確かめると出どころがあやしい話がとても多くあります。この記事では、何をした人か、死因、性格、生涯、妻と子孫、名言、墓まで、同じ時代の記録で確かめられる話と、後の時代に生まれた話を分けて解説します。

ケンシン

わしは上杉ケンシン。今日の主役は、戦国の世を最後に勝ち抜いた男だ。信長とも秀吉とも違う、粘り強さの人よ。

マサムネ

伊達マサムネです! 家康様って、天ぷらを食べすぎて亡くなったって本当なんですか?

ケンシン

そう聞かれることが多いが、話はそれほど単純ではない。順に見ていこう。

まずわかること(この記事の要点)

  • 何をした人?:関ヶ原の戦いに勝って1603年に江戸幕府を開き、大坂の陣で豊臣家を滅ぼして、長く続く徳川の世の土台を整えました【史実】(くわしく)
  • 死因は?:1616年、駿府城(静岡市)で病気のため亡くなりました。鯛の料理を食べた夜の発病と結びつける話が有名ですが、死因ははっきりしていません。胃がんだったとする説がよく知られています【諸説あり】(くわしく)
  • どんな性格?:健康にとても気をつかい、自分で薬を調合するほどでした。倹約家で、学問や本の出版にも熱心でした【有力説】(くわしく)
  • 墓はどこ?:遺言によって、まず静岡の久能山に葬られ、翌年、栃木の日光にもまつられました。久能山東照宮と日光東照宮です【史実】(くわしく)
  • 子孫は今も?:徳川宗家は今も続き、2023年からは19代目の徳川家広さんが当主です【史実】(くわしく)

知りたいところから読めるように、主な見出しへのリンクを置いておきます。

徳川家康とは何をした人?功績3つと基本情報

黒い装束で座る徳川家康の肖像画(狩野探幽筆・大阪城天守閣蔵)

画像:徳川家康像(狩野探幽 筆・大阪城天守閣蔵)。亡くなったあと、神(東照大権現)としてまつられた家康の姿を描いたものです

ひと言でいえば、徳川家康は「戦国時代を生き抜き、江戸幕府を開いて、およそ260年続く徳川の世の土台をつくった武将」です。信長・秀吉とならぶ「三英傑」の一人で、江戸幕府の初代将軍です。

家康の功績3つ

  • 関ヶ原の戦いに勝ち、政治の主導権をにぎった(1600年):秀吉の死後、石田三成らの西軍を破り、天下の実権を手にしました【史実】
  • 征夷大将軍になり、江戸幕府を開いた(1603年):武家の頂点に立ち、江戸を政治の中心にしました【史実】
  • 徳川の世が続く仕組みを整えた(1605〜1616年):将軍職を息子の秀忠に譲って徳川家が代々将軍を継ぐことを示し、大坂の陣で豊臣家を滅ぼし、大名を取り締まる決まり(武家諸法度)を定めました【史実】
1600年の関ヶ原の戦い、1603年の江戸幕府、1605年の将軍職の譲渡、1615年の大坂の陣を並べた図

画像:家康が「天下人」になるまでの4段階(侍ロード作成)。画像をタップ(クリック)すると拡大できます

よく聞かれる「家康が天下統一したのはいつ?」には、ひとつの答えがありません。政治の主導権をにぎったのは関ヶ原の1600年、幕府を開いたのは1603年、豊臣家が滅んで大きな戦乱が終わったのは1615年です。どこを「天下統一」とみるかで答えが変わります。

人柄がわかる3つのポイント

  • 健康にとても気をつかった:薬の本を読み、自分で薬を調合し、家臣にも薬を与えていました【史実】
  • 倹約家だった:ぜいたくを嫌った逸話が数多く伝わり、亡くなったときには莫大な金銀を残しました【有力説】
  • 学問好きだった:『吾妻鏡』などの書物を好んで読み、活字を使った本の出版も行いました【史実】

くわしくは性格の章で紹介します。

基本プロフィール(早わかり表)

項目内容信憑性
生没年1543年(天文11年12月26日)〜1616年(元和2年4月17日)【史実】
出身地三河国の岡崎城(愛知県岡崎市)【史実】
父・母父は松平広忠、母は於大の方(水野忠政の娘)【史実】
名前竹千代 → 松平元信 → 元康 → 家康 → 徳川家康【史実】
主な城岡崎城・浜松城・駿府城・江戸城【史実】
役職江戸幕府の初代将軍(1603年)。亡くなる直前に太政大臣【史実】
妻正室は築山殿と朝日姫の2人。側室は20人ほど【有力説】
子ども男子11人・女子5人とされる。2代将軍・秀忠など【有力説】
家紋三つ葉葵【史実】
墓久能山東照宮(静岡市)・日光東照宮(栃木県日光市)【史実】
死因病死(病名ははっきりしない。胃がん説など)【諸説あり】

何時代の人?何代目の将軍?

家康は、戦国時代のまっただ中に生まれ、江戸時代のはじめに亡くなりました。1603年に征夷大将軍となった江戸幕府の初代将軍で、その後の将軍は15代の慶喜まで、すべて家康の子孫です【史実】。

織田信長(1534年生まれ)よりおよそ9歳、豊臣秀吉(1537年生まれ)よりおよそ6歳年下で、2人が亡くなったあとも長く生きたことが、最後に天下を手にできた大きな理由のひとつでした。

名前の変化|竹千代から徳川家康へ

竹千代、松平元信、松平元康、松平家康、徳川家康と名前が変わった流れを示した図

画像:家康の名前の変化(侍ロード作成)。画像をタップ(クリック)すると拡大できます

家康は生涯に何度も名前を変えています。幼いころは「竹千代」、今川家のもとで元服すると、今川義元から「元」の字をもらって「元信」、次いで「元康」と名のりました。今川家から独立したあとの1563年に「家康」と改め、1566年には朝廷の許しを得て、名字を「松平」から「徳川」に変えました【史実】。

誕生日はいつ?

家康が生まれたのは、天文11年12月26日(西暦1543年1月31日)とするのが通説です【有力説】。ただし、家康自身が書いた願い事の文書には、天文12年生まれとわかる年齢が書かれていて、生まれた年を1年遅く考える研究者もいます【諸説あり】。

有名な話はどこまで本当?早わかり表

家康には、よく知られているのに、確かめると出どころがはっきりしない話がたくさんあります。主なものを表にまとめました。くわしくは、それぞれの章で説明します。

有名な話確認できること確認できないこと・注意点
死因は鯛の天ぷら(死因の章)鷹狩りに出た夜に体調をくずしたこと。そのころ鯛の料理を食べた話が伝わる料理が直接の死因だったかどうか
しかみ像は三方ヶ原の戒め(三方ヶ原の節)顔をしかめた家康の肖像画が、徳川美術館に伝わっていること三方ヶ原の敗戦のあと、家康が描かせたという説明
三方ヶ原で漏らした(三方ヶ原の節)江戸時代の『三河後風土記』に、それに近い話が見えること同じ時代の記録での裏づけ(しかも三方ヶ原の本戦の話ではない)
鳴くまで待とうホトトギス(性格の章)江戸時代後期の随筆『甲子夜話』に、この句が見えること家康本人が詠んだかどうか
遺訓「人の一生は重荷を負うて…」(名言の章)明治時代に東照宮に納められて広まったいきさつ家康本人の言葉とする根拠
影武者と入れ替わっていた(豆知識の章)明治時代の本や、各地の伝説で語られてきたこと入れ替わりを示す確かな記録

【結論】徳川家康の死因は?鯛の天ぷらは本当?何歳で亡くなった?

お膳の天ぷらを箸で食べる徳川家康のイラスト

画像:晩年の家康と天ぷらの創作イメージ。記録に出てくる鯛の料理を再現したものではありません

結論

  • 家康は元和2年4月17日(西暦1616年6月1日)、駿府城(静岡市)で病気のため亡くなりました。数えで75歳(満73歳)です【史実】
  • その年の正月、鷹狩りに出た夜に体調をくずしたことから、そのころ食べた鯛の料理が原因だという話が有名です。ただし、料理が死因だったとは確かめられません【諸説あり】
  • 病状の記録などから、胃がんだったとする見方がよく知られています【諸説あり】

根拠:国立公文書館「家康の病」(デジタル展示)、『徳川実紀』、『本光国師日記』

鯛の天ぷらの話は、記録ではどうなっている?

元和2年(1616年)の正月21日、家康は田中(静岡県藤枝市)へ鷹狩りに出かけ、その夜から急に体調をくずしました【有力説】。このころ、京都の豪商・茶屋四郎次郎から、京で評判の鯛の料理(鯛を榧の油で揚げ、にらをすりかけたもの)の話を聞いて食べた、という話が、江戸幕府がまとめた歴史書『徳川実紀』などに伝わっています【伝承:徳川実紀】。

この料理は、今のような衣をつけた天ぷらではなく、から揚げに近いものだったと考えられています。いずれにせよ、この料理が病気の引き金だったのか、たまたま時期が重なっただけなのかは、記録からは判断できません。家康が亡くなったのは、それから約3か月後のことでした。

胃がん説の根拠は?

『徳川実紀』には、晩年の家康が見る間にやせていき、腹にしこりができていたことなどが書かれています。こうした症状が胃がんによく見られることから、医師の立場からも胃がんだったとする見方が出されています【諸説あり】。

ただし、当時の医学で病名が確かめられたわけではなく、「胃がんで確定」とまでは言えません。このほか、家康が日ごろ飲んでいた薬に含まれる成分の影響を疑う説などもあります【諸説あり】。

自分で薬を調合していた?

薬研を使って薬草をすりつぶす徳川家康のイラスト

画像:薬研で薬草をすりつぶす家康の創作イメージ

家康は薬の知識が豊かで、自分で薬を調合していました【史実】。晩年に病気になったときも、侍医の片山宗哲が調合した薬ではなく、自分の薬を飲み続け、それをいさめた宗哲を怒って信濃(長野県)へ流した、という話が伝わっています【伝承】。

健康にくわしかった家康が、最後は自分の判断にこだわったという話は、家康の人柄を考えるうえでも興味深いエピソードです。

遺言と最期

死期をさとった家康は、4月2日、重臣の本多正純、僧の天海と崇伝を呼んで、死後のことを指示しました【史実】。崇伝の日記『本光国師日記』によると、その内容は「遺体は駿河の久能山に納め、葬儀は江戸の増上寺で行い、位牌は三河の大樹寺に立て、一周忌が過ぎたら日光山に小さな堂を建てて(神として)まつれ」というものでした【史実:本光国師日記】。

この遺言どおり、家康は亡くなったその夜に久能山へ移され、翌年には日光にもまつられました。くわしくは墓の章で紹介します。

何歳で亡くなった?

家康は数えで75歳、満年齢では73歳で亡くなりました【史実】。当時としてはかなりの長生きで、関ヶ原の戦いは59歳、大坂の陣は73〜74歳(いずれも数え年)のときでした。長く生きたことが、天下を手にする大きな力になったといえます。

マサムネ

天ぷらが原因って言い切れないんですね。でも、自分で薬を作っていたなんて意外です!

ケンシン

健康に人一倍こだわった男よ。だからこそ、最後まで自分の薬を信じたのかもしれぬな。

徳川家康の性格は?意外な素顔とエピソード

笑顔で笏を持って立つ徳川家康のイラスト

「辛抱強い」「腹黒いたぬき親父」——家康には、いろいろなイメージがあります。ここでは、記録について「記録の内容 → そこから読み取れること → わからないこと」の順に見ていきます。

素顔①:健康オタクだった

  • 記録の内容:家康は中国の薬の本『和剤局方』などを読み、自分で薬を調合していました。調合に使った道具も今に伝わっています。家臣や大名、公家が病気になると、薬を贈ることもたびたびありました【史実】
  • 読み取れること:鷹狩りも、ただの遊びではなく体をきたえる健康法と考えていたとされます【伝承:中泉古老諸談】。長生きすることの大切さを、よくわかっていた人物だったようです
  • わからないこと:食事を質素にし、食べすぎないようにしていたという話は多く伝わりますが、多くは江戸時代の逸話集によるものです

素顔②:倹約家だった

  • 記録の内容:夏に麦飯を食べていた家康に、家臣が気をきかせて米の飯の上に麦をのせて出したところ、「民が苦しんでいるときに、自分だけぜいたくはできない」と言った、という話が伝わります【伝承:正武将感状記】
  • 読み取れること:家康は亡くなったとき、莫大な金銀を残しました。ぜいたくを嫌い、蓄えを大切にする人物だったことはうかがえます【有力説】
  • わからないこと:こうした逸話の多くは、家康をたたえる江戸時代の本に出てくるもので、そのまま事実とは言い切れません

素顔③:学問好きで、新しいもの好き

家康は『吾妻鏡』(鎌倉幕府の歴史書)や中国の古典を好んで読み、木の活字や銅の活字を使って本を出版させました【史実】。また、イギリス人のウィリアム・アダムス(三浦按針)から西洋の知識を聞いたり、時計や眼鏡などの舶来品を集めたりもしています【史実】。

「鳴かぬなら鳴くまで待とうホトトギス」は家康の言葉?

信長は「鳴かぬなら殺してしまえ」、秀吉は「鳴かせてみせよう」、家康は「鳴くまで待とう」——三英傑の性格をホトトギスにたとえた有名な句です。

しかし、この句は家康本人が詠んだものではありません。江戸時代後期、平戸藩主だった松浦静山の随筆『甲子夜話』に、作者のわからない句として3つ並べて紹介されているのが出どころです【俗説:甲子夜話】。家康の「辛抱強さ」のイメージをよく表してはいますが、後の時代の人がつけた「たとえ」なのです。

「たぬき親父」のイメージはどこから?

家康には「ずる賢いたぬき親父」というイメージがあります。これは、豊臣家を大坂の陣に追いこみ、講和の条件を利用して大坂城の堀を埋めさせた、といういきさつが、後の時代に「謀略」として強調されたことによると考えられています【有力説】。研究者の間でも、このイメージを認める見方と、実像とは違う古い家康像だとする見方があり、評価は分かれています【諸説あり】。

ケンシン

辛抱強いのも、したたかなのも、乱世を生きのびるためよ。どちらか一方だけで家康を語ることはできん。

マサムネ

ホトトギスの句も、本人の言葉じゃなかったんですね…!

徳川家康の生涯|年表でわかる「人質から天下人へ」

金色の甲冑を身につけた徳川家康のイラスト

まず、家康の生涯の大きな流れを表で見てみましょう。年齢は数え年(生まれた年を1歳とし、正月ごとに1つ年をとる数え方)です。家康は年の暮れに生まれたため、生まれてすぐの正月に2歳になります。

年(西暦)年齢できごと
1543年1歳三河の岡崎城で生まれる(天文11年12月26日)
1547年6歳今川家へ送られる途中で奪われ、織田家の人質になる
1549年8歳人質交換で今川家に移り、駿府で育つ
1560年19歳桶狭間の戦いで今川義元が討たれ、岡崎城に戻って独立する
1562年21歳織田信長と同盟を結ぶ(清洲同盟)
1563年22歳三河一向一揆が起こる(〜1564年)
1566年25歳「徳川」に改姓
1570年29歳浜松城に移る。姉川の戦い
1572年31歳三方ヶ原の戦いで武田信玄に大敗する
1575年34歳長篠の戦いで信長とともに武田勝頼を破る
1579年38歳築山殿事件。正室の築山殿と長男の信康を失う
1582年41歳本能寺の変。堺から伊賀を越えて三河へ逃げ帰る
1584年43歳小牧・長久手の戦いで秀吉と戦う
1586年45歳秀吉の妹・朝日姫と結婚し、大坂城で秀吉に臣従する
1590年49歳関東に移され、江戸城に入る
1600年59歳関ヶ原の戦いに勝つ
1603年62歳征夷大将軍となり、江戸幕府を開く
1605年64歳将軍職を秀忠に譲り、のち駿府に移る(大御所)
1614〜15年73〜74歳大坂の陣で豊臣家を滅ぼす
1616年75歳太政大臣となる。4月17日、駿府城で亡くなる

人質として過ごした少年時代

家康の父・松平広忠は、東の今川家と西の織田家にはさまれた小さな大名でした。家康は幼いころ、今川家へ人質として送られる途中で奪われて織田家の人質となり、その後、人質交換で今川家の駿府に移りました【史実】。人質といっても、今川家のもとで教育を受け、元服して今川一門の娘(のちの築山殿)を妻に迎えています【有力説】。

桶狭間の戦いと独立、信長との同盟

1560年の桶狭間の戦いで今川義元が討たれると、家康は岡崎城に戻って独立し、1562年には織田信長と同盟を結びました(清洲同盟)【史実】。この同盟は本能寺の変で信長が亡くなるまで20年続き、家康は信長の頼もしい同盟者として各地で戦いました。信長については織田信長の記事でくわしく紹介しています。

桶狭間のあと、岡崎の大樹寺で自害しようとした家康を、住職が「厭離穢土 欣求浄土」の言葉でいさめた、という話も伝わります。のちに家康はこの言葉を旗印にしたとされます【伝承】。

三方ヶ原の戦い|しかみ像と「漏らした」話は本当?

床几に座って片足を上げ、顔をしかめる徳川家康の肖像画(しかみ像・徳川美術館蔵)

画像:徳川家康三方ヶ原戦役画像(通称「しかみ像」・名古屋市 徳川美術館蔵)

元亀3年12月22日(西暦1573年1月)、家康は浜松城の近くの三方ヶ原で武田信玄の大軍に挑み、大敗しました【史実】。家康自身も命からがら浜松城に逃げ帰っています。家康の「三大危機」の一つとされる戦いです。

この敗戦の悔しさを忘れないよう、家康がわざと情けない顔の自分を描かせた——それが有名な「しかみ像」だ、という話がよく知られています。しかし徳川美術館の研究で、この絵が記録に初めて現れるのは江戸時代中期の1780年で、三方ヶ原の戦いと結びつけて語られるようになったのは昭和になってからだと指摘されています(原史彦、2015年)【有力説】。

片ひざを立てて座り、ほおづえをついて顔をしかめる徳川家康のイラスト

画像:しかみ像のポーズをまねた家康の創作イメージ

また、このとき家康が恐ろしさのあまり馬の上で脱糞し、家臣にからかわれた、という話もあります。これは江戸時代の『三河後風土記』に見える話ですが、そこでは三方ヶ原の本戦ではなく、その前の一言坂の戦いでの出来事とされていて、同じ時代の記録には見えません【伝承:三河後風土記】。「これは焼き味噌だ」と言い返したという話も、後の時代に加わったものです【伝承】。

築山殿事件(1579年)

1579年、家康は正室の築山殿と、長男の信康を失いました。くわしくは妻の章で紹介します。

本能寺の変と伊賀越え

京都府京田辺市の近鉄三山木駅前にある「家康公伊賀越え」の道の碑と説明板

画像:近鉄三山木駅前(京都府京田辺市)にある「家康公伊賀越え」ゆかりの地の碑。写真:Asset utilitist(CC0/Wikimedia Commons)

天正10年(1582年)6月2日、本能寺の変が起きたとき、家康はわずかな供を連れて堺(大阪府)を見物していました。家康は急いで伊賀(三重県)の山道を越え、伊勢から船で三河へ逃げ帰りました。これが「神君伊賀越え」で、家康の生涯でも最大級の危機とされます【史実】。通った道すじには諸説あります【諸説あり】。本能寺の変については明智光秀の記事もあわせてどうぞ。

小牧・長久手の戦いと秀吉への臣従

信長の死後、天下の主導権をにぎった羽柴(豊臣)秀吉と、家康は1584年に小牧・長久手で戦い、局地戦では勝利をおさめました【史実】。しかし最終的には、秀吉が妹の朝日姫を家康に嫁がせ、母の大政所まで人質として送ってきたことで、1586年、家康は大坂城で秀吉に臣従しました【史実】。秀吉については豊臣秀吉の記事、家康との交渉にもかかわった秀吉の弟については豊臣秀長の記事でも紹介しています。

関東への国替えと江戸

1590年、北条氏が滅びると、家康は秀吉の命令で、それまでの東海地方の領地から関東へ移されました。家康は江戸城に入り、ここが後の江戸幕府の中心となります【史実】。

関ヶ原の戦い(1600年)

岐阜県関ケ原町にある徳川家康最後陣地の跡と石碑

画像:関ヶ原古戦場の徳川家康最後陣地の跡(岐阜県関ケ原町)。写真:そらみみ(CC BY-SA 3.0/Wikimedia Commons)

1598年に秀吉が亡くなると、家康は豊臣政権の五大老の筆頭として力を強めます。これに反発した石田三成らと対立し、慶長5年9月15日(西暦1600年10月21日)、美濃の関ヶ原で戦いました。家康の東軍は一日で西軍を破り、家康は天下の実権をにぎりました【史実】。この戦いで黒田長政が活躍し、父の如水(官兵衛)は九州で戦っています。黒田官兵衛の記事もあわせてどうぞ。

征夷大将軍となり、江戸幕府を開く(1603年)

1603年、家康は朝廷から征夷大将軍に任じられ、江戸幕府を開きました【史実】。わずか2年後の1605年には将軍職を息子の秀忠に譲り、「将軍は徳川家が代々継ぐ」ことを世に示しました。自らは駿府城に移って「大御所」となり、亡くなるまで政治の実権をにぎり続けました【史実】。

大坂の陣と豊臣家の滅亡(1614〜15年)

京都の方広寺の鐘に刻まれた文字(「国家安康」)を問題にして、家康は豊臣秀頼と対立を深め、1614年の冬の陣、1615年の夏の陣で大坂城を攻めて、豊臣家を滅ぼしました【史実】。このとき徳川方の水野勝成の軍には、剣豪の宮本武蔵も加わっていたことが、当時の名簿から確かめられます。武蔵については宮本武蔵の記事で紹介しています。

大坂の陣のあと、家康は武家諸法度などの決まりを定め、大名や朝廷を取り締まる仕組みを整えました。そして翌1616年、太政大臣に任じられたあと、駿府城で亡くなります【史実】。

マサムネ

人質から始まって、最後は天下人…。本当に波乱の人生ですね!

ケンシン

負けても、裏切られても、待つべきときは待ち、動くべきときに動いた。それが家康の強さよ。

信長・秀吉との関係|三英傑は何が違う?

家康は、織田信長・豊臣秀吉とならんで「三英傑」と呼ばれます。3人とも今の愛知県の出身で、互いに深くかかわりながら戦国時代を終わらせました。

項目織田信長豊臣秀吉徳川家康
生まれ1534年・尾張1537年・尾張1543年・三河
天下とのかかわり天下統一への道を開く全国を統一する江戸幕府を開き、長い平和の土台をつくる
家康との関係20年続いた同盟者(清洲同盟)戦ったのちに臣従し、五大老の筆頭となる―
最期1582年、本能寺の変で自害(数え49歳)1598年、伏見城で病死(数え62歳)1616年、駿府城で病死(数え75歳)

信長とは、対等に近い同盟者として長く協力しました。秀吉とは一度は戦いましたが、のちに臣従し、豊臣政権の重臣として支えています。そして秀吉の死後、家康は関ヶ原の戦いで主導権をにぎり、最後は豊臣家を滅ぼしました。家康の天下は、信長と秀吉が築いたものを受け継いだ上に成り立っていたといえます。

先に紹介したホトトギスの句は、この3人の違いをわかりやすく表していますが、本人たちの言葉ではなく、後の時代の「たとえ」であることには注意が必要です。

徳川家康の妻は何人?築山殿事件と正室・側室

着物姿で座る築山殿の肖像画(西来院蔵)

画像:築山殿の肖像(静岡県浜松市 西来院蔵・近代の作)

結論

  • 家康の正室(正式な妻)は、築山殿と朝日姫の2人です【史実】
  • 側室を何人と数えるかは記録によって違いますが、名前がわかるだけで20人ほどいます【有力説】
  • 正室の築山殿は、1579年、長男の信康とともに命を落としました(築山殿事件)【史実】

正室は築山殿と朝日姫

正室どんな人その後
築山殿(瀬名)今川家の一門・関口氏の娘。今川家にいたころの家康と結婚長男の信康と長女の亀姫を産む。1579年に命を落とす
朝日姫豊臣秀吉の妹1586年、秀吉と家康を結ぶために嫁ぐ。1590年に亡くなる

主な側室と子どもたち

家康の側室には、2代将軍・秀忠の母の於愛(西郷局)、尾張徳川家の祖・義直の母の於亀、紀伊徳川家と水戸徳川家の祖・頼宣と頼房の母の養珠院(お万)、家康の晩年を支えた阿茶局などがいます【有力説】。子どもは男子11人・女子5人とされ、主な人物は次のとおりです。

子ども母その後
信康(長男)築山殿1579年、21歳で切腹
結城秀康(次男)長勝院秀吉の養子をへて結城家を継ぐ。越前松平家の祖
秀忠(三男)於愛(西郷局)江戸幕府の2代将軍
義直(九男)於亀(相応院)尾張徳川家の祖
頼宣(十男)養珠院(お万)紀伊徳川家の祖。孫が8代将軍・吉宗
頼房(十一男)養珠院(お万)水戸徳川家の祖。子が徳川光圀

築山殿事件(1579年)とは?

1579年、家康の正室の築山殿は遠江(静岡県浜松市)で家臣に殺され、長男の信康は二俣城で切腹させられました【史実】。家康がなぜ妻と跡継ぎを死なせたのかについては、昔と今とで見方が変わってきています。

見方内容主な根拠
昔の通説信康の妻・徳姫(信長の娘)が、信康と築山殿の行いを父の信長に訴え、信長が家康に2人の処分を命じた江戸時代初めの『三河物語』(大久保忠教)など
近年の見方武田家との関係などをめぐって、家康と信康・築山殿の間に対立があり、家康自身が処分を決めた同じ時代の記録の読み直しなどによる研究(黒田基樹・柴裕之ほか)

同じ時代の記録には、信長が家康に2人を殺すよう命じたと、はっきり書いたものは見つかっていません。そのため近年は、家康自身の判断だったとみる研究者が多くなっています。ただし、信長の意向がどの程度かかわったのかについては、今も議論が続いています【諸説あり】。

築山殿は、昔は「悪女」として描かれることもありましたが、そのイメージも後の時代の物語によるところが大きいものです【伝承】。

マサムネ

妻と息子を失うなんて…。家康様にも、こんなにつらい出来事があったんですね。

ケンシン

家を守るために、家族を犠牲にせねばならぬ時代だった。家康の一生でも、最も重い出来事の一つよ。

徳川家康の子孫は今もいる?家系図と「末裔」

徳川家康と正室・主な子ども、将軍家と御三家、現在の徳川宗家までのつながりを示した家系図

画像:徳川家康の家族と、今に続く徳川家(侍ロード作成)。画像をタップ(クリック)すると拡大できます

結論

  • 家康の子孫は、今もたくさんいます。将軍家の流れをくむ徳川宗家は今も続き、2023年1月から19代目の徳川家広さんが当主をつとめています【史実】
  • 尾張・紀伊・水戸の御三家なども、家康の息子たちから始まった家です【史実】

根拠:『徳川諸家系譜』、徳川宗家の当主交代を伝える報道(2022〜2023年)

「家」と「血筋」を分けて考える

徳川宗家は、江戸時代にも明治以降にも、何度か養子を迎えて家を継いできました。8代将軍の吉宗は紀伊徳川家から、15代将軍の慶喜は水戸徳川家の出身です。明治以降の16代の家達は田安徳川家から、18代の恒孝さんは会津松平家から迎えられています【史実】。

ただし、いずれも家康の子孫にあたる家から迎えているため、宗家の当主には今も家康の血が受け継がれています【有力説】。家が続くことと血が続くことは別の問題ですが、徳川宗家の場合は、その両方が続いているといえます。

「家康の末裔」を名のる人たち

家康には16人もの子がいたため、娘たちを通じた子孫も含めると、子孫の数はとても多くなります。そのため「家康の末裔」を名のる人もいて、たとえばお笑いトリオ・ぱーてぃーちゃんの信子さんは、テレビなどで家康の子孫だと話しています。

ただし、こうした話は本人や家族の話によるもので、公開された系図などで確かめられているわけではありません【不明】。「確かめられない」ことは「子孫ではない」ことと同じではありませんが、記録で確かめられる血筋と、言い伝えとしての「子孫」は分けて考える必要があります。

徳川家康の名言と遺訓は本物?「人の一生は重荷を負うて…」

日光東照宮に伝わる「人の一生は重荷を負て遠き道をゆくがごとし」で始まる遺訓の書

画像:日光東照宮に伝わる「東照公御遺訓」(1934年の写真集より)。慶長9年の日付と家康の花押がありますが、明治時代に作られたものとされています

結論

  • 「人の一生は重荷を負うて遠き道を行くが如し、急ぐべからず」で始まる「東照公御遺訓」は、家康の言葉として広く知られています
  • しかし、これは明治時代に、元幕臣の池田松之介が、徳川光圀の言葉と伝わる「人のいましめ」をもとに家康の遺訓としてまとめたもので、家康本人の言葉とする根拠はないとされています【有力説】

根拠:渡邊大門「家康の遺訓『人の一生は重荷を負て遠き道を行くが如し』は後世の創作だった!」(幻冬舎plus)ほか

遺訓はどうやって広まった?

池田松之介がまとめたこの文章は、元幕臣の高橋泥舟らによって日光東照宮など各地の東照宮に納められ、家康の遺訓として広く知られるようになりました【有力説】。もとになった「人のいましめ」も、本当に光圀が書いたものかどうかははっきりしていません【不明】。

「不自由を常と思えば不足なし」「堪忍は無事長久の基」など、内容は家康の生き方によく合っていて、だからこそ多くの人に受け入れられてきたのでしょう。家康の言葉ではないとしても、教訓として味わうことはできます。ただし、家康本人の言葉として引用するのは避けたほうがよいでしょう。

家康の言葉として伝わるもの

このほか、家康の言葉として伝わる話は数多くありますが、その多くは江戸時代に家康をたたえて書かれた逸話集によるものです【伝承】。たとえば、家臣こそが自分の宝だと語ったという話も、同じ時代の記録で確かめられるものではありません。名言として紹介されているものを見かけたら、出どころの本を確かめてみるとよいでしょう。

徳川家康の家紋・旗印・甲冑

丸の中に葵の葉が3枚描かれた徳川家の家紋「丸に三つ葉葵」

画像:丸に三つ葉葵(紋の画像:Mukai〈CC BY-SA 3.0〉をもとに侍ロード作成)

家紋は「三つ葉葵」

徳川家の家紋は、葵の葉を3枚組み合わせた「三つ葉葵」です【史実】。松平家がもともと葵の紋を使っていたことに由来するとされ、その起こりは京都の賀茂神社との関係などいくつかの説があります【諸説あり】。江戸時代には、将軍家と一部の一門だけが使える特別な紋になりました。

旗印「厭離穢土 欣求浄土」

家康の旗印として知られるのが、「厭離穢土 欣求浄土(おんりえど ごんぐじょうど)」です。もとは浄土宗の言葉で、「けがれたこの世を離れ、極楽浄土を願い求める」という意味です。桶狭間の戦いのあと、大樹寺の住職からこの言葉を授かったと伝わります【伝承】。

金陀美具足と歯朶具足

久能山東照宮に伝わる徳川家康の金陀美具足を写した古い写真

画像:金陀美具足(静岡市 久能山東照宮蔵・重要文化財。1932年『国史大図鑑』より)

家康の甲冑として有名なのが、全体を金色に塗った「金陀美具足」です。若いころ、桶狭間の戦いの前に大高城へ兵糧を運び入れたときに着けたものと伝わり、久能山東照宮に残っています【伝承】。

シダの葉の形の前立てがついた徳川家康の歯朶具足を写した古い写真

画像:歯朶具足(久能山東照宮蔵・重要文化財。1915年『美術画報』より)

もう一つ有名なのが、シダの葉をかたどった前立てがついた「歯朶具足」です。関ヶ原の戦いのときに着けたと伝わり、家康が夢で見たものをもとに作らせたという話もあります【伝承】。

徳川家康の墓はどこ?日光東照宮と久能山東照宮

結論

  • 家康は遺言により、亡くなったその夜に久能山(静岡市)に葬られ、のちに久能山東照宮が建てられました【史実】
  • 翌1617年、2代将軍・秀忠によって日光(栃木県日光市)にもまつられ、これが日光東照宮のはじまりです【史実】
  • 遺体が今どちらにあるのかについては、2つの東照宮の説明が異なり、決着していません【諸説あり】

久能山東照宮

久能山東照宮の神廟にある、徳川家康の石造りの宝塔

画像:久能山東照宮の神廟(家康の墓所)にある宝塔。写真:Motokoka(CC BY-SA 4.0/Wikimedia Commons)

久能山東照宮は、家康が亡くなった翌年に、秀忠の命令で久能山に建てられました。久能山東照宮は、家康の遺骨は久能山に葬られ、日光へは神霊を分けてまつった(勧請した)、と説明しています。

日光東照宮

日光東照宮の奥宮にある、徳川家康をまつる宝塔

画像:日光東照宮の奥宮にある宝塔。写真:KimonBerlin(CC BY-SA 2.0/Wikimedia Commons)

日光東照宮は、遺言にしたがって一周忌のあとの1617年4月に、家康を久能山からこの地に移してまつったと説明しています。今の豪華な社殿の多くは、3代将軍・家光が建て替えさせたものです。

なぜ日光が選ばれたのかについては、江戸の真北にあたる日光から江戸と関東を守るため、という説明がよく知られていますが、家康自身がその理由を書き残したわけではありません【諸説あり】。

ゆかりの地

場所所在地家康とのかかわり
岡崎城愛知県岡崎市生まれた城。独立後の本拠地
大樹寺愛知県岡崎市松平家の菩提寺。遺言で位牌が置かれた
浜松城静岡県浜松市1570年から約17年過ごした城。「出世城」とも呼ばれる
駿府城静岡県静岡市少年時代と晩年を過ごし、亡くなった城
江戸城東京都千代田区(今の皇居)1590年に入り、江戸幕府の中心となった城
久能山東照宮静岡県静岡市最初に葬られた場所
日光東照宮栃木県日光市翌年にまつられた場所
増上寺東京都港区遺言で葬儀が行われた寺

影武者説は本当?身長・顔・好物などの豆知識

影武者説は本当?

大阪府堺市の南宗寺にある、徳川家康の墓と伝わる石塔

画像:大阪府堺市の南宗寺にある、家康の墓と伝わる石塔。写真:KENPEI(CC BY-SA 3.0/Wikimedia Commons)

「本物の家康は途中で死んでいて、影武者と入れ替わっていた」という説があります。よく知られているのは、明治時代の1902年に村岡素一郎が書いた『史疑 徳川家康事蹟』が唱えた入れ替わり説や、大坂夏の陣で家康が討たれ、堺の南宗寺に葬られたという伝説です【俗説】。

しかし、入れ替わりを示す確かな記録はなく、研究者の間で支持されている説ではありません。南宗寺の伝説でも、家康を槍で突いたとされる後藤又兵衛は、その前日にすでに戦死していたとされ、話のつじつまが合いません【俗説】。

身長と顔は?

家康が着た小袖の大きさから、身長は155〜160cmくらいだったと推定されています【有力説】。家康に会ったスペイン人のロドリゴ・デ・ビベロは、家康を「中背の老人で、尊敬すべき愉快な容貌を持ち、太っていた」と書き残しています【史実:ドン・ロドリゴ日本見聞録】。肖像画に描かれたふっくらした姿は、晩年の家康の姿に近いのかもしれません。

好きな食べ物は?

家康は麦飯と魚を好み、野菜の煮物などをよく食べていたと伝わります。戦場にいたころの質素な食事を、天下人になってからも続けていたとされます【伝承】。

よくある質問(FAQ)

徳川家康は何代目の将軍?

江戸幕府の初代(1代目)の将軍です。1603年に征夷大将軍となり、1605年に息子の秀忠(2代将軍)に将軍職を譲りました。

徳川家康が天下統一したのはいつ?

何をもって天下統一とみるかで答えが変わります。関ヶ原の戦いで政治の主導権をにぎったのが1600年、江戸幕府を開いたのが1603年、大坂の陣で豊臣家を滅ぼしたのが1615年です。

徳川家康は何歳で亡くなった?

1616年に、数えで75歳(満73歳)で亡くなりました。当時としてはかなりの長生きでした。

徳川家康の誕生日は?

天文11年12月26日(西暦1543年1月31日)とするのが通説です。家康自身の書いた文書から、生まれた年を1年遅く考える研究者もいます。

大河ドラマで徳川家康を演じたのは誰?

近年の主な作品では、次の俳優さんが家康を演じています。

『徳川家康』(1983年・主人公):滝田栄さん

『葵 徳川三代』(2000年):津川雅彦さん

『真田丸』(2016年):内野聖陽さん

『麒麟がくる』(2020年):風間俊介さん

『どうする家康』(2023年・主人公):松本潤さん

『豊臣兄弟!』(2026年):松下洸平さん

徳川家康と豊臣秀吉の年齢差は?

秀吉は1537年生まれ、家康は1543年1月生まれで、家康がおよそ6歳年下です。信長(1534年生まれ)とは、およそ9歳離れていました。

まとめ|徳川家康とは

黒い束帯姿で正面を向いて立つ徳川家康のイラスト

徳川家康は、幼いころを人質として過ごし、三方ヶ原の大敗や伊賀越えなどの危機を乗り越えて、関ヶ原の戦いに勝ち、1603年に江戸幕府を開いた武将でした。将軍職を早くに秀忠へ譲り、大坂の陣で豊臣家を滅ぼして、およそ260年続く徳川の世の土台を整えています。

一方で、鯛の天ぷらの死因、しかみ像の由来、ホトトギスの句、「人の一生は重荷を負うて…」の遺訓など、家康にまつわる有名な話の多くは、後の時代に生まれたり、ふくらんだりしたものでした。記録をたどると、健康に人一倍気をつかい、倹約と学問を大切にした、もっと人間らしい家康の姿が見えてきます。

家康と同じ時代を生きた人物については、同盟者だった織田信長、のちに臣従した豊臣秀吉とその弟の豊臣秀長、本能寺の変を起こした明智光秀、関ヶ原のころに九州で戦った黒田官兵衛の記事もあわせてどうぞ。

ケンシン

天下は、急いで取った者ではなく、最後まで生き残った者のものになった。家康の一生は、それを教えてくれる。

マサムネ

有名な話の多くが後から生まれたものだったなんて。記録の中の家康様のほうが、ずっと身近に感じました!

参考にした史料・この記事の書き方

この記事は、おもに次の記録や研究をもとに書いています。

  • 同じ時代の記録:『本光国師日記』(崇伝)、『信長公記』(太田牛一)、『家忠日記』(松平家忠)、家康の書状・文書、ロドリゴ・デ・ビベロ『ドン・ロドリゴ日本見聞録』
  • 江戸時代以降にまとめられた本:『徳川実紀』、『三河物語』(大久保忠教)、『三河後風土記』、『甲子夜話』(松浦静山)、『正武将感状記』、『中泉古老諸談』など。逸話の多くはここが出どころで、本記事では【伝承】【俗説】などで区別しています
  • 研究・資料:国立公文書館「徳川家康―将軍家蔵書からみるその生涯―」(デジタル展示)、徳川美術館の研究(原史彦「徳川家康三方ヶ原戦役画像の謎」2015年)、渡邊大門の論考(幻冬舎plus)、黒田基樹・柴裕之ほかの築山殿事件の研究、久能山東照宮・日光東照宮の由緒、国立国会図書館「レファレンス協同データベース」、徳川宗家の当主交代を伝える報道
  • 画像:徳川家康像(狩野探幽 筆・大阪城天守閣蔵)、しかみ像(徳川美術館蔵)、築山殿の肖像(西来院蔵)、東照公御遺訓・金陀美具足・歯朶具足の古い写真は Wikimedia Commons でパブリックドメインとして公開されているもの、伊賀越えの碑の写真(Asset utilitist 氏)は CC0、関ヶ原の陣地跡(そらみみ 氏)・南宗寺の石塔(KENPEI 氏)の写真と家紋(Mukai 氏)は CC BY-SA 3.0、久能山東照宮の宝塔(Motokoka 氏)の写真は CC BY-SA 4.0、日光東照宮の宝塔(KimonBerlin 氏)の写真は CC BY-SA 2.0 の画像を使用しています。図とイラストは侍ロードのオリジナルです

記事中のラベルの意味

  • 【史実】同じ時代の史料で確認できること(【史実:○○】は、その出どころ)
  • 【有力説】研究者の間で広く受け入れられている見方
  • 【諸説あり】見解が分かれていること
  • 【不明】史料がなく、わかっていないこと
  • 【伝承】【創作】【俗説】後の時代に作られた話や、根拠の乏しい話(【伝承:○○】は、その話が出てくる本)

この記事は侍ロード編集部が作成し、公開後も新しい研究やご指摘を受けて見直しています。内容の誤りにお気づきの場合は、お問い合わせからお知らせください。確認のうえ修正します。