木刀を2本かまえる宮本武蔵のイラスト

画像:(宮本武蔵のイメージイラスト。この記事のイラストはすべてイメージです)

2本の刀を使う「二刀流」で知られ、兵法の本『五輪書』を書いた剣術家——それが宮本武蔵(みやもと むさし)です。佐々木小次郎と戦った「巌流島の決闘」は、日本でいちばん有名な決闘といってもよいでしょう。

ただ、私たちがよく知る武蔵の姿の多くは、亡くなってから100年以上たって書かれた伝記や、昭和の初めの小説で形づくられたものです。巌流島での遅刻や「小次郎敗れたり」のせりふ、「佐々木小次郎」という名前も、記録によって書かれ方が違います。この記事では、巌流島の決闘、佐々木小次郎、二刀流と強さ、死因、『五輪書』、人柄まで、記録ごとの違いを比べながら解説します。

ケンシン

わしは上杉ケンシン。今日の主役は、剣ひとすじに生きた男だ。戦国武将ではないが、侍の世界を語るなら欠かせぬ人物よ。

マサムネ

伊達マサムネです! 武蔵さんって、巌流島で小次郎と戦った人ですよね。わざと遅刻したって本当なんですか?

ケンシン

そこが面白いところだ。古い記録と新しい記録で、話がずいぶん違う。順に見ていこう。

まずわかること(この記事の要点)

  • どんな人?:江戸時代のはじめに活躍した剣術家で、2本の刀を使う「二天一流」を開きました。晩年は熊本の細川家に客として迎えられ、『五輪書』を書いています【史実】(くわしく)
  • 巌流島はどっちが勝った?:武蔵の勝ちです【有力説】。ただし、相手は一度息を吹き返し、隠れていた武蔵の弟子たちに打ち殺された、と書く記録もあります【諸説あり】(くわしく)
  • 『五輪書』とは?:武蔵が60歳のころに書き始めた兵法の本で、地・水・火・風・空の5巻からなります【史実】(くわしく)
  • 死因は?:1645年、熊本で病気のため亡くなりました。病名は同じ時代の記録には見えず、後の伝記から胃がんなどとみる説があります【諸説あり】(くわしく)

知りたいところから読めるように、主な見出しへのリンクを置いておきます。

宮本武蔵とはどんな人?何時代の人で、何をした?

両手に刀を下げて立つ宮本武蔵の肖像画(島田美術館蔵)

画像:宮本武蔵の肖像画(熊本市 島田美術館蔵)。作者はわかっていませんが、武蔵が亡くなって間もないころの作とみられ、自画像だとする説もあります

ひと言でいえば、宮本武蔵は「60回あまりの勝負で一度も負けなかったと自ら書き残し、晩年に兵法の本『五輪書』をまとめた剣術家」です。絵や書にもすぐれ、国の重要文化財に指定された水墨画も残しています。

人柄がわかる3つのポイント

  • 養子を育て、大名家に仕えさせた:2人の養子をそれぞれ大名家に仕えさせ、養子の伊織は武蔵の死後、武蔵をたたえる大きな碑を建てました【史実】
  • 弟子の行く末を気にかけた:亡くなる直前、弟子を細川家で召し抱えてくれるよう重臣に頼み、聞き入れられています【史実】
  • 芸術を愛した:晩年は絵や書、連歌、細工物を楽しんだと伝わり、すぐれた水墨画が今も残っています【史実】

くわしくは性格・人柄の章で紹介します。

基本プロフィール(早わかり表)

項目内容信憑性
生没年1584年?〜1645年(1582年生まれとする説もある)【諸説あり】
出身地播磨国(兵庫県)とする説が有力。美作国(岡山県)とする説もある【諸説あり】
名前新免武蔵守藤原玄信(『五輪書』での名乗り)。号は「二天」【史実】
流派円明流 → 二刀一流 → 二天一流【有力説】
主な活動の場京都・姫路・明石・小倉。晩年は熊本(細川家の客分)【史実】
家族養父は新免無二。妻や実の子の記録はなく、養子に三木之助と伊織【有力説】
身長約182cm(6尺)と伝わるが、死後80年以上たってからの伝記の記述【伝承】
著書『五輪書』『独行道』など【史実】
墓武蔵塚(熊本市北区)【史実】
死因病死(病名は同じ時代の記録に見えない)【史実】

何時代の人?

武蔵が生まれたのは、本能寺の変の2年後にあたる1584年ごろです(1584年生まれの説の場合)。関ヶ原の戦い(1600年)のときは10代後半で、亡くなったのは江戸幕府の3代将軍・徳川家光の時代の1645年でした。戦国時代の終わりに生まれ、江戸時代のはじめを生きた人物です【有力説】。

戦国武将のように領地を治めた大名ではなく、剣術(兵法)を教えたり、大名家に客として迎えられたりしながら生きた「剣術家」でした。

名前と読み方|「武蔵」は本名?

「武蔵(むさし)」はふだんの呼び名(通称)で、本当の名前(実名)は「玄信(はるのぶ)」です。『五輪書』では「新免武蔵守藤原玄信」と名乗り、晩年は「二天」という号も使いました【史実】。

小説などで見かける「政名(まさな)」という名は、武蔵の死後70年近くたって成立した『本朝武芸小伝』(1714年)から広まったもので、武蔵の流派や宮本家に伝わった記録には見えません【俗説】。幼いころの名を「弁之助」とする話も、確かな記録では確かめられていません【不明】。

生まれた年と出身地は2つの説がある

生まれた年は、『五輪書』の冒頭にある「年つもりて六十」(1643年に60歳)から逆算した1584年説が通説です。一方、養子・伊織の子孫がまとめた「宮本家系図」は、1582年生まれとしています【諸説あり】。

出身地は、『五輪書』に「生国播磨の武士」とあることから、播磨国(兵庫県南西部)説が有力です。一方、江戸時代後期の地誌『東作誌』(1815年)などに由来する美作国(岡山県美作市)説もあり、美作市には「武蔵の里」や、智頭急行の「宮本武蔵駅」があります【諸説あり】。

武蔵の話は、どこから来ている?

武蔵について確かなことを知るうえで大切なのは、「その話が、いつ、誰によって書かれたか」です。武蔵本人が書いた『五輪書』のほかは、多くが武蔵の死後に書かれたもので、時代が下るほど話はくわしく、劇的になっていきます。

『五輪書』から吉川英治の小説まで、宮本武蔵の有名な話が出てくる記録を年代順に並べた図

画像:宮本武蔵の話の出どころ(侍ロード作成)。画像をタップ(クリック)すると拡大できます

たとえば、巌流島での「遅刻」や「小次郎敗れたり」のせりふは、確認できる早い例が、決闘から140年以上たった1755年の『武公伝』です。次の章で、記録ごとに比べていきます。

【結論】巌流島の決闘はどっちが勝った?本当にあった?

海辺で2本の木刀を持つ宮本武蔵と、長い刀を振りかざす佐々木小次郎が戦うイラスト

画像:巌流島の決闘を題材にした創作イラスト。武蔵の木刀を2本とする記録(『武将感状記』)もありますが、武器や服装は史実を再現したものではありません

結論

  • 巌流島の決闘は武蔵の勝ちです。舟島(いまの巌流島)で「岩流」という兵法者と戦い、木刀で倒したことは、養子の伊織が武蔵の死後9年目に建てた碑に書かれています【有力説】
  • ただし、門司城代だった沼田家の記録には、小次郎は一度息を吹き返し、隠れていた武蔵の弟子たちに打ち殺されたとあります【諸説あり】
  • 遅刻、「小次郎敗れたり」のせりふ、「佐々木」という姓などは、ずっと後の記録や芝居・小説に見える話です【伝承】

根拠:『小倉碑文』(1654年)、『沼田家記』(1672年)、魚住孝至『宮本武蔵』(岩波新書・2008年)

巌流島の決闘はいつ?

一般に「1612年(慶長17年)4月13日」とされますが、これは武蔵の死後130年あまりたった1776年の『二天記』にもとづく日付です。ほかに、武蔵が10代だった1601年や1602年とする伝記もあり、はっきりしません【諸説あり】。

実は武蔵自身は、『五輪書』で29歳までに60回あまり勝負したと書きながら、巌流島の決闘については一言も触れていません。

武蔵は遅刻した?「小次郎敗れたり」は本当?

武蔵がわざと遅れて小次郎をいらだたせ、刀の鞘を投げ捨てた小次郎に「小次郎敗れたり」と言った——という有名な場面は、確認できる早い例が1755年の『武公伝』です。武蔵を舟で島へ運んだという人物が、決闘から100年ほどたって語った話として書かれています【伝承:武公伝】。

一方、いちばん古い記録である『小倉碑文』には、両者が「同時に相会し」たとあり、遅刻を思わせる記述はありません【史実:小倉碑文】。ただし、これだけで「遅刻はなかった」と言い切ることもできません。碑は養子が武蔵をたたえるために建てたもので、細かな経緯まで書くものではないからです。

なお、遅刻を「わざと遅れた作戦」として印象的に描いたのは、昭和の初めの吉川英治の小説です【創作】。

武蔵は卑怯だった?弟子がとどめを刺したという記録

武蔵の死後27年目の1672年にまとめられた『沼田家記』は、まったく違う決闘の姿を伝えています【諸説あり:沼田家記】。

  • 武蔵と小次郎の弟子どうしの争いから2人が試合をすることになり、どちらも弟子を連れてこない約束をした
  • 試合は武蔵が勝ったが、小次郎は気を失っただけで、しばらくして息を吹き返した
  • 島に隠れていた武蔵の弟子たちが、その小次郎を打ち殺した
  • 怒った小次郎の弟子たちが武蔵を追ったため、武蔵は門司城(北九州市)に逃げこみ、城代の沼田延元に守られて、父・無二のもとへ送り届けられた

沼田延元は、当時この地域を治めていた細川家の家臣で、決闘の場所に近い門司城を預かっていました。ただし『沼田家記』は、延元の手柄を伝えるための家の記録でもあり、この話だけが正しいとも言えません。武蔵が「卑怯だった」かどうかは、記録によって見え方が変わるのです。

記録ごとの違い|誰が、何のために書いた?

北九州市の手向山公園に立つ、宮本伊織が建てた小倉碑文の石碑

画像:『小倉碑文』(北九州市 手向山公園)。養子の宮本伊織が1654年に建てた碑で、巌流島の決闘を記したいちばん古い記録です。写真:速日(CC BY-SA 4.0/Wikimedia Commons)

記録(成立年)書いた人と目的決闘の書き方
小倉碑文(1654年)養子の宮本伊織。武蔵をたたえるための碑相手は「岩流」。武蔵は木刀の一撃で倒した。加勢の話はない
沼田家記(1672年)門司城代・沼田延元の家。延元の事績を伝える記録相手は「小次郎」。隠れていた武蔵の弟子たちが、とどめを刺した
本朝武芸小伝(1714年)日夏繁高。武芸者の逸話を集めた本武蔵がひとりで島に渡った話と、仲間を連れていた話の両方を載せる
武公伝(1755年)熊本の二天一流の師範・豊田正脩。流派に伝わる話を集めた伝記相手は「巌流小次郎」。武蔵は遅れて来て、船をこぐ道具を削った木刀で勝った
二天記(1776年)豊田景英。『武公伝』を書き直した伝記「佐々木小次郎」(注の中)、18歳。決闘は1612年4月。後の小説の下じき

武蔵に近い人の記録は武蔵に有利に、武蔵から離れた家の記録は別の見方で書かれていることがわかります。「古い記録だから全部正しい」「新しい記録だから全部うそ」ではなく、誰が何のために書いたかをふまえて読むことが大切です。

マサムネ

同じ決闘なのに、記録によってこんなに違うんですね!

ケンシン

書いた者の立場が違えば、話も変わる。それを見比べるのが歴史の面白さよ。

巌流島はどこ?今は何がある?

関門海峡に浮かぶ巌流島を高い場所から見た写真

画像:海峡ゆめタワー(山口県下関市)から見た巌流島。写真:なしはな(CC BY-SA 4.0/Wikimedia Commons)

巌流島の正式な名前は「船島(ふなしま)」で、山口県下関市の関門海峡に浮かぶ無人島です。決闘のころは豊前小倉藩(細川家)の領地で、碑文には、長門と豊前の間の海にある「舟嶋」と書かれています。決闘のあと、相手の「岩流」の名をとって「岩流島(巌流島)」と呼ばれるようになったと伝わります【有力説】。

島はその後の埋め立てで広がり、いまは決闘のころの数倍の大きさ(約10万平方メートル)です。下関の唐戸桟橋などから船で渡ることができ(唐戸から約10分)、島には武蔵と小次郎の像が立っています。

巌流島に立つ、宮本武蔵と佐々木小次郎の決闘の場面を表した2体の銅像

画像:巌流島に立つ武蔵と小次郎の像。写真:RoninjapanWiki(CC BY-SA 4.0/Wikimedia Commons)

佐々木小次郎とは?本当にいた人?

竜の模様の派手な着物を着て、長い刀を差した佐々木小次郎のイラスト

画像:佐々木小次郎の創作イラスト(小次郎の姿を伝える確かな記録はありません)

結論

  • 武蔵と戦った「岩流」という兵法者がいたことは、古い記録からわかります【有力説】
  • ただし、「佐々木小次郎」という姓名がそろって出てくるのは、決闘から160年以上たった1776年の『二天記』(注の中)です。年齢・生まれ・師匠も、はっきりしません【不明】

根拠:『小倉碑文』(1654年)、『沼田家記』(1672年)、『二天記』(1776年)

「佐々木小次郎」という名前はどこから?

いちばん古い『小倉碑文』には「岩流」としか書かれておらず、「小次郎」の名が見える早い例は1672年の『沼田家記』です。「佐々木」の姓は、1737年に大坂で上演された歌舞伎『敵討巌流島』の「佐々木巌流」という役名のころから芝居で広まり、1776年の『二天記』の注で「佐々木小次郎」となりました【有力説】。

ほかの記録では「津田小次郎」「上田宗入」などとも書かれ、どれが本当の名前なのかはわかりません【不明】。

燕返しと物干し竿は本当?

小次郎の長い刀「物干し竿」の名は、1714年に成立した『本朝武芸小伝』に「物干ざほ」として出てきます。決闘からおよそ100年後の記録です【伝承:本朝武芸小伝】。

一方、小次郎が山口県岩国の錦帯橋のほとりで必殺技「燕返し」を編み出したという話は、吉川英治の小説によるものです。錦帯橋が最初にかけられたのは1673年で、決闘の約60年後のことです【創作】。

小次郎の出身地・年齢・師匠

長い刀を差した佐々木巌流(小次郎)を描いた歌川国芳の浮世絵

画像:歌川国芳「本朝剣道略伝」の佐々木巌流(1845年・ボストン美術館蔵)。江戸時代の浮世絵では、若者ではなく大人の剣士として描かれています

項目主な説出どころ
出身地越前国(福井県)『二天記』(1776年)
出身地豊前国(福岡県添田町)地元の伝承
出身地周防国(山口県岩国市)吉川英治の小説
決闘のときの年齢18歳『二天記』。書き誤りではないかという指摘もある
師匠富田勢源、またはその弟子の鐘捲自斎『武公伝』『二天記』など

『二天記』の「18歳」は、師匠とされる富田勢源の年代と合わず、実際は武蔵よりかなり年上だったとみる研究者もいます【諸説あり】。小次郎を「美青年」とするイメージは、後の小説や映画で定着したものです。

小次郎の生涯や伝説については、今後くわしい記事で紹介する予定です。

マサムネ

「佐々木小次郎」という名前まで、あとから付いたものだったなんて…。

宮本武蔵はどれくらい強かった?二刀流の理由と身長

笑いながら2本の木刀をふるう宮本武蔵のイラスト

60回あまりの勝負で負けなしは本当?

『五輪書』の冒頭で、武蔵は自分の経歴をこう書いています【史実:五輪書】。

  • 13歳で初めて勝負をし、新当流の有馬喜兵衛という兵法者に勝った
  • 16歳で、但馬国(兵庫県北部)の秋山という力の強い兵法者に勝った
  • 21歳で京都に上り、天下の兵法者と何度も勝負したが、負けたことはない
  • その後も各地で60回あまり勝負し、13歳から28〜29歳までの間、一度も負けなかった

ただし、これは武蔵本人の言葉で、相手の名前がわかるのは最初の2つだけです。60回あまりの勝負の中身を、ほかの記録で一つひとつ確かめることはできません【不明】。「生涯無敗」は、武蔵の自己申告だということは覚えておきたいところです。

なぜ二刀流?『五輪書』に書かれた理由

武蔵の流派「二天一流」は、太刀(長い刀)と刀(短い刀)の2本を使うことで知られます。その理由を、武蔵は『五輪書』地の巻でこう説明しています【史実:五輪書】。

  • 持っている道具は残さず使うべきだから:「一命を捨るときハ、道具を残さず役に立度もの也」——命をかけて戦うとき、腰の刀を使わないまま死ぬのは本意ではない
  • 片手で太刀を使えるようになるため:馬に乗るとき、走るとき、沼地や石の多い道、人ごみなどでは、両手で太刀を持つのは不便。左手に弓や槍を持つこともあるので、片手で太刀を振れるよう慣れておく

つまり二刀流は、2本で派手に戦うための技というより、「片手でも太刀を自在に使えるようにする稽古」という意味が大きかったのです。武蔵は「片手で打ち倒しにくいときは、両手で打てばよい」とも書いていて、二刀にこだわりすぎてはいません。

祭りの太鼓を2本のばちで打つ姿を見て二刀流を思いついた、という話も知られていますが、武蔵ゆかりの土地などに伝わる言い伝えです【伝承】。

実際の勝負では二刀を使った?

意外なことに、有名な勝負の記録には、武蔵が2本の刀で戦う場面はほとんど出てきません。巌流島の決闘でも、『小倉碑文』は「木刀の一撃」と書くだけで、本数には触れていません【史実:小倉碑文】。

記録巌流島で武蔵が使った武器
『小倉碑文』(1654年)木刀(本数は書かれていない)
『武将感状記』(1716年)船の櫂(かい)を割って作った、長短2本の木刀
『武公伝』(1755年)・『二天記』(1776年)船をこぐ道具を削って作った木刀

京都の吉岡一門との勝負でも、碑文に出てくるのは木刀です。碑文に書かれた勝負では、武蔵はいつも木刀で戦っています【史実:小倉碑文】。

流派の名前|円明流から二天一流へ

武蔵ははじめ「円明流」を名乗り、のちに「二刀一流」、晩年には「二天一流」と名乗りました。『五輪書』の中でも「二天一流」と「二刀一流」の両方が使われています【有力説】。二天一流は弟子たちに受け継がれ、今も伝えられています。

身長は182cm?猫背だった?

武蔵の身長を「6尺(約182cm)」とするのは、武蔵の死後80年あまりたった1727年に、福岡藩の二天一流の師範・丹治(立花)峯均が書いた伝記です【伝承:丹治峯均筆記】。当時の男性としてはかなりの大男になりますが、確かめる方法はありません。

また、肖像画の立ち姿から「猫背だった」と言われることもあります。しかし『五輪書』水の巻では、構えの姿勢として「両の肩をさげ、背筋をろくに(まっすぐに)」と教えています【史実:五輪書】。肩の力を抜いた立ち方が、猫背のように見えるのかもしれません。

ケンシン

二刀流は、派手な技ではなく、片手で太刀を使いこなすための稽古だったのだな。

マサムネ

「生涯無敗」も本人の言葉だったなんて。でも、それを書き残せる自信がすごいです!

宮本武蔵の死因と最期|何歳で亡くなった?墓はどこ?

白髪まじりの髪で、2本の刀を下げて立つ晩年の宮本武蔵のイラスト

画像:晩年の武蔵のイメージイラスト

結論

  • 正保2年5月19日(西暦1645年6月13日)、熊本の屋敷で病気のため亡くなりました。数えで62歳(1584年生まれとした場合)です【史実】
  • 同じ時代の手紙からは重い病気だったことがわかりますが、病名は書かれていません【不明】
  • 武蔵の死後80年あまりたって書かれた伝記に、「噎膈(いっかく)」だったらしいという伝聞が出てくることから、胃がんや食道がんだったとみる説があります【諸説あり】

根拠:宮本伊織・長岡寄之らの書状、『丹治峯均筆記』(1727年)、『武公伝』(1755年)

最期の様子は?

武蔵は1643年10月から『五輪書』を書き始めましたが、翌1644年の11月には重い病気になっていました。細川家の重臣・長岡(松井)寄之と養子の伊織がやりとりした手紙からは、藩主の細川光尚が医者を送るなど、武蔵の病を気づかっていたことがわかります【史実】。

『武公伝』によると、病気になった武蔵は、静かに最期を迎えようと熊本郊外の霊巌洞にこもりましたが、寄之が鷹狩りを口実に訪ねて説得し、熊本城下の屋敷に連れ戻したといいます【伝承:武公伝】。

亡くなる7日前の5月12日、武蔵は弟子の寺尾孫之丞に『五輪書』を授け、同じ日に自分の生き方の心得を21か条にまとめた『独行道』を書いたと伝わります【有力説】。ただし、『五輪書』は書き写した写本だけが伝わり、『独行道』も日付の部分が本文と別の筆跡のため、慎重な見方もあります。

墓はどこ?武蔵塚

熊本市北区の武蔵塚公園にある宮本武蔵の墓

画像:熊本市北区の武蔵塚公園にある武蔵の墓。写真:水だらけのプール(CC0/Wikimedia Commons)

武蔵の葬儀は熊本の泰勝寺で行われ、墓は熊本市北区龍田町弓削の「武蔵塚」(武蔵塚公園)にあります【史実】。武蔵は死後も藩主を見守れるよう、参勤交代の通る道のそばに、甲冑を着て葬られた——とも言い伝えられています【伝承】。

ゆかりの地

場所所在地武蔵とのかかわり
武蔵塚熊本県熊本市北区武蔵の墓
霊巌洞熊本県熊本市西区(雲巌禅寺)『五輪書』を書いたと伝わる洞窟
小倉碑文福岡県北九州市小倉北区(手向山公園)養子の伊織が建てた碑。近くに小次郎の碑もある
巌流島山口県下関市岩流(小次郎)との決闘の地
一乗寺下り松京都府京都市左京区吉岡一門と戦ったと伝わる場所
武蔵の里岡山県美作市美作説での生まれ故郷
明石兵庫県明石市町づくりや寺の庭づくりにかかわったと伝わる

五輪書とは?内容をわかりやすく要約|名言も紹介

洞窟の中で机に向かい、筆で書き物をする晩年の宮本武蔵のイラスト

画像:霊巌洞での執筆場面をイメージした創作イラスト

結論

  • 『五輪書』は、武蔵が1643年10月から熊本で書き始めた兵法(剣術と戦い方)の本です【史実】
  • 地・水・火・風・空の5巻からなり、剣の技だけでなく、ものの見方や心の持ち方まで書かれています【史実】
  • 武蔵の自筆の原本は残っておらず、弟子たちが書き写した写本で伝わっています【史実】

5巻の内容をひと目で

巻テーマ何がわかるか
地の巻兵法の全体像武蔵の経歴、兵法とは何か、二刀を使う理由、武具の使い分け
水の巻一対一の剣術心の持ち方、姿勢、目の使い方、太刀の持ち方や足の運び、構え
火の巻勝負の駆け引き先手の取り方、間合いや拍子、相手の心を動かす戦い方(大勢での戦いにも通じる)
風の巻ほかの流派長い刀や速さなどにこだわる流派の問題点と、二天一流との違い
空の巻兵法の到達点技を学び尽くしたあとの、迷いのない「空」の境地(いちばん短い巻)

「五輪」とは、仏教で世界をつくるとされる5つの要素(地・水・火・風・空)のことです。墓などに見られる五輪塔と同じ考え方で、武蔵は兵法の教えをこの5つに分けて書きました。

どこで書いた?霊巌洞

熊本市西区の霊巌洞の入り口

画像:熊本市西区の霊巌洞。写真:STA3816(CC BY-SA 3.0/Wikimedia Commons)

『五輪書』の冒頭には、1643年10月上旬、肥後(熊本県)の岩戸山に登って天を拝み、観音を礼して書き始めた、とあります【史実:五輪書】。このことから、岩戸山の雲巌禅寺にある洞窟「霊巌洞」にこもって書いたとよく紹介されます【伝承】。ただし、近くの村の屋敷で書いたとみる研究者もいます【諸説あり】。

『五輪書』の名言と意味

  • 「千日の稽古を鍛とし、万日の稽古を錬とす」(水の巻):千日の稽古で「鍛」、万日の稽古で「錬」となる。「鍛錬」という言葉の重みを表した一文
  • 「観の目つよく、見の目よわく」(水の巻):目に見える相手の動き(見)にとらわれず、全体や相手の心(観)をとらえることを重く見よ
  • 「常の身を兵法の身とし、兵法の身を常の身とする事、肝要也」(水の巻):ふだんの姿勢のまま戦い、戦うときの姿勢をふだんから身につけておくことが大切
  • 「一命を捨るときハ、道具を残さず役に立度もの也」(地の巻):命をかけるときは、持っている道具をすべて役立てたい

原文は写本によって表記が少しずつ違います。ここでは代表的な写本の表記をもとにしています。

『独行道』の言葉(『五輪書』とは別の書)

『独行道(どっこうどう)』は、『五輪書』とは別に、武蔵が亡くなる直前に自分の生き方の心得を21か条にまとめたものと伝わります【有力説】。熊本県立美術館に所蔵されています。

  • 「我事において後悔をせず」:自分のしたことについて、後悔はしない
  • 「仏神は貴し、仏神をたのまず」:神や仏は尊いが、頼りにはしない
  • 「身をあさく思、世をふかく思ふ」:自分のことは軽く考え、世の中のことは深く考える

海外でも読まれる『The Book of Five Rings』

『五輪書』は英語をはじめ多くの言葉に訳され、英語では『The Book of Five Rings』の名で知られています。剣術の本としてだけでなく、勝負や戦略、ものごとを極める心構えを説く本として、スポーツやビジネスの世界でも読まれてきました。

『五輪書』を読むには?

現代語訳や解説のついた文庫本がいくつもの出版社から出ているので、はじめて読むならそれが手軽です。原文と現代語訳が並んだ本を選ぶと、武蔵の言葉の味わいも感じられます。

宮本武蔵の性格・人柄は?記録から見える意外な素顔

畳の部屋で、筆を使って鳥と竹の水墨画を描く宮本武蔵のイラスト

画像:絵を描く武蔵のイメージイラスト(実際の作品は芸術の章で紹介します)

「孤高の剣豪」「勝つためには手段を選ばない勝負師」——武蔵にはそんなイメージがあります。ここでは、記録について「記録の内容 → そこから読み取れること → わからないこと」の順に見ていきます。

記録①:2人の養子を育て、大名家に仕えさせた

  • 記録の内容:武蔵は、水野家の家臣の子・三木之助を養子にして姫路の本多忠刻に仕えさせ、のちに伊織を明石(のち小倉)の小笠原忠真に仕えさせました。伊織は小倉藩の家老にまで出世し、武蔵の死後9年目の1654年、武蔵をたたえる大きな碑(『小倉碑文』)を建てています【史実】
  • 読み取れること:特定の大名家の家臣として長く仕えることのなかった武蔵が、養子たちの将来には心を配っていたこと、伊織も武蔵を「父」として大切に思っていたことがうかがえます
  • わからないこと:武蔵と養子たちがどんな親子だったのか、ふだんの様子を伝える記録はほとんどありません

記録②:亡くなる直前に、弟子の仕官を頼んだ

  • 記録の内容:死の直前、武蔵は細川家の重臣・長岡寄之に、弟子の増田惣兵衛を召し抱えてほしいと頼み、その願いは聞き入れられました【史実】
  • 読み取れること:自分の死後に残される弟子の暮らしまで気にかけていたことがわかります
  • わからないこと:ほかの弟子たちへの接し方は、後の伝記(『武公伝』など)の話が中心で、確かめにくい部分があります

記録③:「石が当たって立てない」と書いた手紙

  • 記録の内容:1638年の島原の乱で、武蔵は小笠原家の一員として出陣しました。その後、延岡藩主の有馬直純にあてた手紙に「拙者も石にあたり、すねたちかね申す故」——自分も(一揆勢の投げた)石に当たって、すねが痛くて立てないので、ごあいさつにうかがえません——と書いています【史実:有馬直純あての書状】
  • 読み取れること:負け知らずの剣豪が、石に当たったことを飾らずに書いているところに、人間味が感じられます
  • わからないこと:けががどれほどだったかは不明です。小笠原家(中津藩)の負傷者の名簿には武蔵の名前がなく、軽いけがだったとみる研究者もいます

記録④:絵や書を楽しんだ芸術家の顔

『武公伝』には、晩年の武蔵が連歌や書画、細工物を楽しみながら日々を過ごし、武蔵の作った鞍や木刀、書画が数多くある、と書かれています【伝承:武公伝】。実際に、国の重要文化財に指定された水墨画が今も残っており、武蔵が本格的な画家でもあったことは確かです【史実】。くわしくは刀・絵・肖像画の章で紹介します。

別の一面:鉄砲への見方と「風呂嫌い」の話

『五輪書』で武蔵は、城を守るときには「鉄炮にしく事なし(鉄砲にまさるものはない)」と認めながら、弓は放った矢が目に見えるのが良い、鉄砲の玉は目に見えないのが物足りない、とも書いています【史実:五輪書】。合理的でありながら、自分の目で確かめられることを大切にする人だったのかもしれません。

また、武蔵は一生風呂に入らなかった、という話があります。これは江戸時代の『渡辺幸庵対話』(1709年)に出てくる話ですが、この本には年代の合わない記述も多く、信頼性を疑う研究者もいます【俗説】。

ケンシン

勝負には厳しいが、養子や弟子の行く末は気にかける。そういう男だったのだろう。

マサムネ

石に当たって立てないって正直に書いちゃうところ、なんだか親しみがわきます!

宮本武蔵の生涯|年表でたどる勝負と仕官

少年時代と初めての勝負

武蔵は播磨国に生まれ、美作国(岡山県)の新免無二の養子になったと考えられています。無二は十手術の達人で、武蔵は無二から武芸を学びました【有力説】。13歳で初めての勝負に勝ったことは、先に見たとおりです。

関ヶ原の戦いでは東軍?西軍?

1600年の関ヶ原の戦いのとき、武蔵がどこにいたかははっきりしません。養子の伊織の碑には、合戦に加わったことは書かれていますが、誰の軍で何をしたかは書かれていません【史実:小倉碑文】。

現在有力なのは、父の無二とともに東軍の黒田如水(官兵衛)の軍に加わり、九州で戦ったという見方です。後の伝記(1727年の『丹治峯均筆記』)に、豊後(大分県)の石垣原の戦いなどに出陣した話があり、黒田家の古い記録から、無二が関ヶ原の戦いの前に黒田家に仕えていたことも確かめられています【有力説】。

かつては「西軍に加わって敗れ、浪人になった」とも言われましたが、今では否定的に見られています【俗説】。官兵衛の九州での戦いについては、黒田官兵衛の記事でも紹介しています。

根拠:魚住孝至『宮本武蔵』(岩波新書・2008年)、大倉隆二『宮本武蔵』(吉川弘文館・2015年)

京都・吉岡一門との勝負(一乗寺下り松)

京都の一乗寺下り松にある「宮本吉岡決闘之地」の石碑

画像:京都市左京区の一乗寺下り松にある「宮本吉岡決闘之地」の碑。写真:Fg2(パブリックドメイン/Wikimedia Commons)

『五輪書』にある21歳の京都での勝負の相手は、京都で将軍家の剣術師範をつとめたとされる吉岡家だと考えられています。『小倉碑文』によると、武蔵は当主の吉岡清十郎を木刀の一撃で倒し、続いて吉岡伝七郎も倒し、最後は一乗寺下り松で、弓矢などを持った門弟数百人を一人で打ち破ったといいます【伝承:小倉碑文】。

ただし、ほかの記録には、武蔵と吉岡が引き分けたとするもの(『本朝武芸小伝』など)や、武蔵が負けたとするもの(吉岡家側の『吉岡伝』1684年)もあり、結果は記録によって違います【諸説あり】。また、碑文は「この戦いで吉岡家は絶えた」としますが、吉岡家はその後も続き、染物の家として名を残しています【有力説】。

大坂の陣では徳川方として出陣

1614〜15年の大坂の陣では、徳川方の水野勝成の軍に加わり、勝成の息子・勝重(勝俊)に付く騎馬武者だったことが、当時の出陣者の名簿から確かめられます【史実:大坂御陣之御供】。

姫路・明石・小倉時代

大坂の陣のあと、武蔵は姫路藩の本多家や明石藩の小笠原家とかかわりを持ち、姫路では多くの弟子を育てました【有力説】。明石では、城下町の町割り(町づくり)や寺の庭づくりにかかわったと、江戸時代の明石の記録に伝わります【伝承】。1632年に小笠原家が小倉(北九州市)へ移ると、武蔵も伊織とともに小倉に移ったと考えられています【有力説】。

熊本の細川家へ|最後の5年間

白い着物に茶色の袴で座り、手に扇を持つ宮本武蔵の座像(熊本県立美術館蔵)

画像:宮本武蔵の座像(熊本県立美術館蔵・江戸時代中期)

1640年、武蔵は熊本藩主・細川忠利に招かれて熊本に移り、家臣ではなく客分(客として迎えられた立場)として、米300石を与えられました【史実】。熊本城下の千葉城には屋敷も与えられたと伝わります【伝承:武公伝】。忠利は剣術に熱心な大名で、武蔵を温泉に招くなど厚くもてなしましたが、翌1641年に亡くなります【有力説】。

その後も武蔵は次の藩主・光尚のもとで手厚く遇され、多くの弟子に教えながら、1643年から『五輪書』の執筆にとりかかりました。

年表でふり返る宮本武蔵の生涯

年(西暦)できごとひとことメモ
1584年?播磨国に生まれる(1582年説も)『五輪書』から逆算
1596年ごろ13歳で新当流の有馬喜兵衛に勝つ初めての勝負
1600年関ヶ原の戦い。黒田如水の軍で九州へ出陣したとみられる東軍側
1604年ごろ21歳で京都に上り、吉岡一門と勝負する結果は記録で違う
1612年?巌流島(舟島)で岩流(小次郎)と戦う年は諸説あり
1614〜15年大坂の陣に徳川方(水野勝成の軍)で出陣名簿で確認できる
1617年ごろ〜姫路・明石で本多家・小笠原家とかかわる養子の三木之助が本多忠刻に仕える
1626年三木之助が殉死。伊織が小笠原家に仕える |
1632年小笠原家とともに小倉へ移る |
1638年島原の乱に出陣し、石に当たって負傷有馬直純あての書状
1640年熊本の細川忠利に客分として迎えられる米300石
1643年『五輪書』を書き始める60歳
1645年5月12日『五輪書』を弟子に授け、『独行道』を書く |
1645年5月19日熊本で亡くなる数えで62歳
1654年伊織が小倉に『小倉碑文』を建てる |

宮本武蔵の妻と子孫は?養子の伊織と宮本家

養父の新免無二、宮本武蔵、養子の三木之助と伊織、小倉の宮本家の関係を示した図

画像:宮本武蔵の家族と宮本家(侍ロード作成)。画像をタップ(クリック)すると拡大できます

結論

  • 武蔵に妻や実の子がいたという確かな記録はありません【不明】
  • 養子が2人いて、伊織の家(小倉の宮本家)は代々、小倉藩の家老をつとめました【史実】
  • そのため「宮本家」は続きましたが、武蔵の血を引く子孫は確認できません【不明】

妻はいた?お通は実在する?

武蔵の妻についての記録は見つかっていません。小説や映画で武蔵を一途に慕う「お通」は、吉川英治の小説に登場する架空の人物です【創作】。

江戸時代の遊里の記録には、武蔵となじみの遊女がいたという話も出てきますが、これも後の時代の書き物による話です【伝承】。

父・新免無二と、2人の養子

武蔵の養父は、十手術の達人として知られる新免無二です。実の父を播磨の田原家貞とする系図もありますが、確かではありません【諸説あり】。

  • 宮本三木之助:水野家の家臣・中川志摩之助の三男。武蔵の養子となって姫路の本多忠刻に仕えましたが、1626年に忠刻が亡くなると、23歳で後を追って殉死しました【史実】
  • 宮本伊織(1612〜1678年):小笠原家に仕えて若くして家老となり、島原の乱の手柄などで4,000石を与えられました。伊織の子孫は、江戸時代を通じて代々小倉藩の家老をつとめました【有力説】

子孫は今もいる?「家」と「血筋」は別

伊織の家は「宮本」の名を受け継いだ家ですが、伊織は養子なので、武蔵との血のつながりは確かではありません。系図には伊織を武蔵の兄の子(甥)とするものもあり、もしそうなら血縁があることになりますが、伊織自身が残した記録には、武蔵との血縁は書かれていません【諸説あり】。

家が続くことと、血が続くことは別です。「宮本武蔵の子孫」という場合、多くは伊織の家の子孫という意味になります。

マサムネ

お通さんって、小説の中の人だったんですね…!

ケンシン

家を残したのは、血ではなく養子との縁だった。それもまた武蔵らしい生き方よ。

宮本武蔵の刀・絵・肖像画|芸術家としての武蔵

武蔵の愛刀は?

武蔵の愛刀としては「和泉守兼重」や「伯耆安綱」などの名がよく挙げられます。しかし、これらは後の時代の伝えで、武蔵と同じ時代の記録では確かめられません【伝承】。

武蔵とのかかわりがはっきりしているのは、むしろ木の道具です。熊本の松井家には、巌流島で使った木刀をまねて武蔵が作ったと伝わる木刀や、稽古用の大小の木刀、武蔵作と伝わる鞍が残っています。また、武蔵作と伝わる鐔(つば)の一つは、熊本県の文化財に指定されています。ただし、伝わってきたことは確かでも、武蔵本人が作ったかどうかまでは確定できない点には注意が必要です【有力説】。

武蔵の水墨画

枯れ木の細い枝の先にとまるモズを描いた、宮本武蔵の水墨画「枯木鳴鵙図」

画像:宮本武蔵「枯木鳴鵙図」(重要文化財・和泉市久保惣記念美術館蔵)

武蔵は「二天」の号で多くの水墨画を残しました。枯れ木の枝の先にとまるモズを描いた「枯木鳴鵙図(こぼくめいげきず)」は、細く長い枝を一気に引いた筆づかいで知られ、「鵜図」「紅梅鳩図」とともに国の重要文化財に指定されています【史実】。

武蔵の絵には達磨や布袋、鳥を描いたものが多く、細川家に伝わった作品は永青文庫(東京)などに所蔵されています。ただし、伝わる作品のすべてが武蔵の真筆と確定しているわけではなく、研究が続いています【有力説】。

有名な肖像画は自画像?

記事のはじめに載せた、2本の刀を下げて立つ肖像画は、熊本の島田美術館が所蔵するもので、熊本県の文化財に指定されています。武蔵の弟子だった寺尾家に伝わったもので、作者はわかっていません【史実】。

体の力を抜いた立ち姿が『五輪書』の教えと一致することから「自画像」とする説もありますが、武蔵の死後まもなく専門の絵師が描いたとみる研究者もいます【諸説あり】。

小説・漫画の武蔵はどこまで本当?史実と創作の対比表

巌流島で宮本武蔵と佐々木小次郎が戦う場面を描いた江戸時代の浮世絵

画像:歌川芳房による巌流島の決闘の浮世絵(1843〜47年ごろ)。江戸時代にはすでに、芝居や浮世絵で人気の題材でした

今の私たちが思い浮かべる武蔵の姿を決定づけたのは、1935年から1939年にかけて朝日新聞に連載された吉川英治の小説『宮本武蔵』です。暴れ者の若者が剣の道を通して人として成長していく物語は大ベストセラーとなり、映画やドラマ、井上雄彦さんの漫画『バガボンド』(吉川作品が原作)へと受け継がれました。

ただし、小説は史実をもとにした物語で、多くの場面や人物が作者の創作です。「えっ、史実じゃないの?」と驚きやすい場面を、記録と比べてみましょう。

有名な場面確認できる早い記録記録から言えること
巌流島で武蔵が遅刻する『武公伝』(1755年)いちばん古い碑文には、遅刻を思わせる記述はない
「小次郎敗れたり」のせりふ『武公伝』(1755年)決闘から100年以上たってからの伝聞
相手の名は「佐々木小次郎」歌舞伎(1737年)・『二天記』(1776年)古い記録では「岩流」「小次郎」だけ
小次郎は18歳の美青年『二天記』(1776年)書き誤り説があり、武蔵より年上とみる研究者もいる
燕返しを錦帯橋で編み出す吉川英治の小説錦帯橋は決闘の約60年後(1673年)にできた
恋人のお通、幼なじみの又八吉川英治の小説実在した記録はない(創作の人物)
沢庵和尚が若い武蔵を導く吉川英治の小説沢庵は実在の僧だが、武蔵との交流は記録で確かめられない
一乗寺下り松で数百人を相手にする『小倉碑文』(1654年)ほかの記録になく、引き分けや負けとする記録もある

漫画の『刃牙』シリーズやゲームなどに登場する武蔵は、史実の武蔵をもとにしたキャラクターです。この記事では、史実の武蔵に絞って紹介しています。

よくある質問(FAQ)

宮本武蔵は実在した人物?

はい、実在した人物です。武蔵自身が書いた手紙が残っているほか、熊本藩細川家の記録や大坂の陣の名簿などにも名前が見えます。ただし、有名な逸話の多くは、後の時代の伝記や小説で加わったものです。

宮本武蔵は何時代の人?

戦国時代の終わりから江戸時代のはじめの人です。1584年ごろに生まれ(1582年説もあります)、1645年に熊本で亡くなりました。

宮本武蔵と佐々木小次郎は、どっちが勝った?

武蔵が勝ちました。巌流島の決闘を伝える記録はどれも武蔵の勝ちとしていますが、小次郎が一度息を吹き返し、隠れていた武蔵の弟子たちに打ち殺されたとする記録(『沼田家記』)もあります。

宮本武蔵の身長は?

1727年に書かれた伝記に「6尺(約182cm)」とありますが、武蔵の死後80年以上たってからの記録で、確かではありません。

『五輪書』はどこで読める?

現代語訳や注釈のついた文庫本が、いくつもの出版社から出ています。武蔵の自筆の原本は残っておらず、伝わっているのは弟子たちが書き写した写本です。

ドラマや映画で宮本武蔵を演じたのは誰?

これまでに多くの俳優さんが武蔵を演じています。主な作品は次のとおりです。

映画『宮本武蔵』三部作(1954〜56年・稲垣浩監督):三船敏郎さん

映画『宮本武蔵』五部作(1961〜65年・内田吐夢監督):中村錦之助(のちの萬屋錦之介)さん

NHK新大型時代劇『宮本武蔵』(1984〜85年):役所広司さん

テレビ東京『宮本武蔵』(1990年):北大路欣也さん

NHK大河ドラマ『武蔵 MUSASHI』(2003年):七代目市川新之助(現・十三代目市川團十郎)さん

テレビ朝日『宮本武蔵』(2014年):木村拓哉さん

まとめ|宮本武蔵とは

2本の木刀を下げて正面を向く宮本武蔵のイラスト

宮本武蔵は、戦国時代の終わりに生まれ、13歳から60回あまりの勝負で一度も負けなかったと自ら書き残し、晩年に熊本で『五輪書』をまとめた剣術家でした。

巌流島の決闘は武蔵の勝ちですが、遅刻や「小次郎敗れたり」、「佐々木小次郎」という名前などは、時代が下るにつれて加わった話です。一方、同じ時代の記録からは、養子や弟子の行く末を気にかけ、絵や書を愛した、もう一つの武蔵の姿も見えてきます。

武蔵が関ヶ原の戦いのころに加わったとみられる黒田如水(官兵衛)については黒田官兵衛の記事、武蔵が生まれる前後の時代については織田信長の記事や豊臣秀吉の記事もあわせてどうぞ。

ケンシン

剣で勝ち続けた男は、最後に筆で自分の道を書き残した。強さとは何かを考え続けた人生だったのだろう。

マサムネ

小説の武蔵もかっこいいけど、記録の中の武蔵も、とっても人間らしくて好きになりました!

参考にした史料・この記事の書き方

この記事は、おもに次の記録や研究をもとに書いています。

  • 武蔵本人の著作・書状:『五輪書』(写本)、『独行道』、有馬直純あての書状
  • 同じ時代の記録:大坂の陣の出陣者の名簿(『大坂御陣之御供』ほか)、宮本伊織・長岡寄之らの書状、熊本藩細川家の記録
  • 武蔵の死後まもなく書かれた記録:『小倉碑文』(1654年・宮本伊織)、『沼田家記』(1672年)、『吉岡伝』(1684年)
  • 武蔵の死後60年以上たって書かれた伝記・逸話集:『渡辺幸庵対話』(1709年)、『本朝武芸小伝』(1714年成立・1716年刊)、『武将感状記』(1716年)、『丹治峯均筆記』(兵法大祖武州玄信公伝来・1727年)、『武公伝』(1755年)、『二天記』(1776年)など。本記事では【伝承】【俗説】などで区別しています
  • 研究書・資料:魚住孝至『宮本武蔵――「兵法の道」を生きる』(岩波新書・2008年)、大倉隆二『宮本武蔵』(吉川弘文館・2015年)、播磨武蔵研究会「宮本武蔵研究プロジェクト」の史料テキストと注解、山口県・下関市・熊本市の観光案内
  • 画像:宮本武蔵の肖像画(島田美術館蔵)・座像(熊本県立美術館蔵)、枯木鳴鵙図、歌川国芳・歌川芳房の浮世絵、一乗寺下り松の碑の写真(Fg2 氏)は Wikimedia Commons でパブリックドメインとして公開されているもの、武蔵塚の写真(水だらけのプール 氏)は CC0、小倉碑文(速日 氏)・巌流島(なしはな 氏)・巌流島の像(RoninjapanWiki 氏)の写真は CC BY-SA 4.0、霊巌洞の写真(STA3816 氏)は CC BY-SA 3.0 の画像を使用しています。年表・家族の図とイラストは侍ロードのオリジナルです

記事中のラベルの意味

  • 【史実】同じ時代の史料や本人の著作で確認できること(【史実:○○】は、その出どころ)
  • 【有力説】研究者の間で広く受け入れられている見方
  • 【諸説あり】見解が分かれていること
  • 【不明】史料がなく、わかっていないこと
  • 【伝承】【創作】【俗説】後の時代に作られた話や、根拠の乏しい話(【伝承:○○】は、その話が出てくる本)

この記事は侍ロード編集部が作成し、公開後も新しい研究やご指摘を受けて見直しています。内容の誤りにお気づきの場合は、お問い合わせからお知らせください。確認のうえ修正します。