緑の肩衣と袴を着た織田信長が、閉じた扇で遠くを指して立つイラスト

画像:遠くの山の城を指す織田信長

稲葉山城(いなばやまじょう)は、今の岐阜県岐阜市の金華山(きんかざん)の上にあった山城です。今の岐阜城と同じ城で、戦国時代には斎藤道三・義龍・龍興の3代が本拠にしました【史実】。

永禄10年(1567年)、織田信長がこの城を攻め取り、そのあと、ふもとの井口(いのくち)という町の名を「岐阜」と改めました【有力説】。信長はここを足場に京都へ上り、天下統一へ進んでいきます。

この記事では、稲葉山城の場所と岐阜城との違い、信長が攻め取った「稲葉山城の戦い」、竹中半兵衛の乗っ取り、城主の移り変わり、発掘でわかった城の姿、今の見学情報までを解説します。

ケンシン

わしは上杉ケンシン。今日は城の話だ。美濃の要、稲葉山城を見ていこう。

マサムネ

伊達マサムネです! 山のてっぺんの城って、どうやって攻めたんでしょうね。

ケンシン

力ずくだけではない。城のまわりの人の動きが大きかったのだ。

ひと目でわかる稲葉山城

  • 読み方は?:いなばやまじょう
  • どこにある?:岐阜県岐阜市の金華山(標高329m)の山頂とふもと(くわしく)
  • 岐阜城との違いは?:同じ城。信長が手に入れてから「岐阜」と呼ばれるようになった(くわしく)
  • 稲葉山城の戦いとは?:永禄10年(1567年)、織田信長が斎藤龍興から城を攻め取った戦い(くわしく)
  • 竹中半兵衛の乗っ取りは?:永禄7年(1564年)、半兵衛と安藤守就が一時城を奪った出来事(くわしく)
  • 今は見学できる?:天守閣は改修のため休館中。令和9年(2027年)11月に再開の予定(くわしく)

知りたいところから読めるように、主な見出しへのリンクを置いておきます。

記事の中の【史実】【有力説】などのラベルは、その話がどれくらい確かかを示しています(意味は記事の最後にまとめています)。

稲葉山城とは?どこにある?岐阜城との違い

結論からいうと、稲葉山城は岐阜市の金華山(昔の名は稲葉山)の上にあった山城で、今の岐阜城と同じ城です。国の史跡「岐阜城跡」に指定されています(平成23年〈2011年〉)。

金華山は標高329mの山で、山全体がチャートというとても硬い岩でできていて、切り立った崖がたくさんあります。城は、山の上の城と、西のふもとの館を合わせたもので、硬い岩と切り立った崖が、城の守りに役立ちました。

稲葉山城の位置の地図。金華山の山頂の稲葉山城、南の瑞龍寺山、ふもとの信長公居館跡、井口の町、長良川、JR岐阜駅、加納城跡を示している

画像:稲葉山城(今の岐阜城)の位置の地図(国土地理院の地理院タイルに侍ロードが書き加えたもの)。画像をタップ(クリック)すると拡大できます

岐阜市の街の向こうにそびえる金華山。山頂に岐阜城の天守が見える

画像:岐阜の街から見た金華山と、山頂の岐阜城。Wikimedia Commons(撮影:Alpsdake・CC BY-SA 4.0)

稲葉山城と岐阜城はどう違う?

名前がちがうだけで、同じ場所の同じ城です。戦国時代に斎藤氏がいたころは「稲葉山」「井口(いのくち)」などと呼ばれ、永禄10年(1567年)に信長が手に入れてからは「岐阜」と呼ばれるようになりました。今はふつう「岐阜城」と呼びます。

ただし、『信長公記』が書いているのは「井口という町の名を岐阜に改めた」ということで、「城の名を岐阜城に変えた」と書いた記録ではありません。当時の記録は、城も町も「岐阜」と呼んでいます(くわしく)。

また、今、山頂に建っている白い天守は、昭和31年(1956年)に建てられた鉄筋コンクリートの建物で、戦国時代の建物ではありません(くわしく)。

ここまではわかる/ここからはわからない

  • わかる:稲葉山城が金華山の山城で、今の岐阜城と同じ城であること
  • わからない:最初にだれが城を築いたか(くわしく)

稲葉山城の戦いとは?信長はなぜ攻略できた?

稲葉山城の戦いとは、永禄10年(1567年)、尾張の織田信長が、美濃の斎藤龍興(道三の孫)から稲葉山城を攻め取った戦いです【有力説】。(道三が城を守って織田信秀〈信長の父〉の軍を退けた戦いを、同じ名前で呼ぶこともあります。この章で扱うのは信長の攻略です。)

信長は、道三の娘(濃姫)の夫です。永禄4年(1561年)に道三の息子・義龍が亡くなると、すぐに美濃へ攻めこみましたが、なかなか稲葉山城までは届きませんでした(斎藤義龍の記事)。流れが変わったのは、美濃の重臣たちが信長の側につくと決めたときです。

『信長公記』で読む攻略の流れ

信長に仕えた太田牛一の『信長公記』は、そのときのようすを次のように書いています。

城の広間で、美濃の重臣たちが味方になるという知らせを聞いた織田信長が、片ひざを立てて立ち上がり出陣を命じる漫画のコマ

画像:美濃の重臣3人が味方になると聞き、すぐに出陣を命じる信長

8月1日、稲葉一鉄(良通)・氏家卜全(直元)・安藤守就の「美濃三人衆」が、「信長の味方になるので、人質を受け取ってほしい」と申し出てきました。信長は人質を受け取る家臣を西美濃へ送りましたが、人質がまだ来ないうちに兵を出し、稲葉山に尾根続きの瑞龍寺山(ずいりょうじやま)へ駆け上がりました。

史料ボックス『信長公記』が書く稲葉山城の攻略

出典
太田牛一『信長公記』首巻「いなは山御取候事」(明治14年〈1881年〉の活字本〈Wikisource〉による。牛一は信長に仕えた家臣で、首巻は後年にまとめた部分です)

引用(一部。読みやすく表記を整えています)
「是は如何に、敵か味方かと申す所に、早、町に火をかけ、即時に生か城に成され候」

現代語訳
(城の側が)「これはどうしたことだ、敵か味方か」と言っているうちに、(信長の軍は)早くもふもとの町に火をかけ、たちまち城下を失って城だけが取り残された「はだか城(はだかじろ)」にしてしまった。

この記録が伝えること・わからないこと
『信長公記』は、信長のすばやい動きに城の側がとまどったと伝えています。一方、この段には年が書かれておらず、兵の数や、信長の軍がどこに陣を置いたかの細かいこともわかりません

稲葉山城の見張り場で、城の兵たちがとなりの山に急に現れた大軍の旗を見て、敵か味方かとまどう漫画のコマ

画像:となりの山に急に現れた大軍を見て、とまどう稲葉山城の兵たち

翌日、信長は工事の分担を決め、城のまわりに鹿垣(ししがき。木や竹などで作る柵)をめぐらして取りかこみました。そして8月15日、城の側が降参し、龍興は舟で伊勢の長島(今の三重県桑名市)へ退きました。信長は美濃支配の中心となる城を手に入れ、井口の町を「岐阜」と名づけました。

信長が稲葉山城を攻め取った流れを5段階で示した図。8月1日の三人衆の申し出から、瑞龍寺山、町への火、柵での包囲、8月15日の龍興の退去まで

画像:信長が稲葉山城を攻め取った流れ(『信長公記』をもとに侍ロード作成)。画像をタップ(クリック)すると拡大できます

町を焼かれ、まわりを柵でかこまれた城は、山の上で孤立しました。重臣たちが信長の側についたこと、信長がすばやく城下をおさえたこと、まわりをかこんだことが重なって、城は落ちたのです。

木々に囲まれた瑞龍寺山の山頂。岩まじりの地面が広がっている

画像:信長が駆け上がった瑞龍寺山の山頂(今は弥生時代の墓の遺跡として知られています)。Wikimedia Commons(撮影:大野一将・CC0)

稲葉山城の戦いはいつ?1567年と1564年

『信長公記』のこの段には年が書かれていません。ただ、翌年の記事に「去年、美濃という大国を手に入れたので」とあり、同じ年の9月以降には、美濃の寺社や人々に信長が出した、領地を保障したり乱暴を禁じたりする文書も多く見られることから、永禄10年(1567年)とするのが今の定説です【有力説】。

月日は、『信長公記』が龍興の退いた日を8月15日と書いているのが広く使われていますが、9月とする説もあります【諸説あり】。江戸時代の本には永禄7年(1564年)とするものもありますが、今の研究では支持されていません。永禄7年は、竹中半兵衛が城を一時乗っ取った年です(くわしく)。

秀吉は活躍した?墨俣一夜城や裏道の話

稲葉山城の攻略では、木下藤吉郎(のちの豊臣秀吉)の活躍の話が有名です。しかし、『信長公記』の稲葉山攻略の段には、秀吉の働きは書かれていません。具体的にどんな活躍をしたかは、確かめられないのです。

よく知られた話出どころ確かさ
秀吉が少ない兵で、城の裏手の細い道から攻め登った江戸時代の読み物『絵本太閤記』など【伝承】
堀尾茂助(のちの堀尾吉晴)が裏道の道案内をした同上【伝承】
瓢箪を合図に使い、のちの「千成瓢箪」の馬印になった同上【伝承】
秀吉が墨俣に一夜で城を築いた(墨俣一夜城)『絵本太閤記』や、昭和に世に出た『武功夜話』(成り立ちと信頼性に議論がある本)【伝承】
信長が墨俣に砦を造らせた『信長公記』(永禄4年〈1561年〉の記事)記録にある
月岡芳年の浮世絵「稲葉山の月」。満月の夜、武将が岩の崖をよじ登っている

画像:月岡芳年の浮世絵『月百姿』「稲葉山の月」。秀吉が稲葉山の崖を登る言い伝えの場面を描いたもの。Wikimedia Commons(米国議会図書館所蔵・パブリックドメイン)

『信長公記』に書かれていないからといって、秀吉が戦いに加わらなかったとまでは言えません。ただ、裏道や瓢箪の話は、後の時代に楽しく語られてきた物語として読むのがよいでしょう。

ここまではわかる/ここからはわからない

  • わかる:『信長公記』が伝える攻略の流れ(美濃三人衆が信長の側につき、信長が瑞龍寺山に上って町を焼き、城をかこんだこと)と、永禄10年(1567年)ごろに信長が美濃を手に入れたこと
  • わからない:正確な月日(8月か9月か)。兵の数。秀吉の具体的な働き

竹中半兵衛の稲葉山城乗っ取りとは?何人で奪った?

竹中半兵衛の乗っ取りとは、永禄7年(1564年)2月6日、龍興の家臣の竹中半兵衛と、その妻の父・安藤守就が、稲葉山城を奪った出来事です【有力説】。龍興は城を出て、半年ほどで城は龍興の側に戻ったとみられています。信長が城を攻め取る3年前のことで、信長の攻略とは別の出来事です。

この事件は、同じ時代の禅僧・快川紹喜(かいせん じょうき)が2月11日付で書いた手紙で確かめられます。

史料ボックス 快川紹喜の手紙

出典
快川紹喜が禅昌寺の僧にあてた2月11日付の手紙(『明叔録』に写されたもの。ここでは『美濃国稲葉郡志』〈1915年〉に収められた本文によりました)。手紙に年は書かれていません

引用(一部。漢字を今の字体に改めています)
「金華山城、菩提城主竹中遠州子半兵衛、去六日白昼奪取、与伊賀守両人而一国領之」

現代語訳
金華山の城(稲葉山城)を、菩提山城主・竹中遠江守の子の半兵衛が、去る6日の昼間に奪い取り、伊賀守(安藤守就)と二人で国を治めている。

この記録からわかること・わからないこと
手紙はこのあと、奪ったときに斎藤飛騨守ら6人を討ったこと、龍興たちは一戦も交えずに城を出たこと、国中が大混乱になっていることを伝えています。一方、半兵衛たちが何人で城に入ったのかは書かれていません

禅寺の一室で、年配の禅僧の快川が険しい顔で手紙を書き、若い僧が心配そうに見守る漫画のコマ

画像:稲葉山城が奪われたことを手紙に書く快川

「16人で乗っ取った」は本当?

「半兵衛がたった16人ほどで城を乗っ取った」という話がよく知られています。しかしこれは、後の時代の軍記などで語られる話です【伝承】。当時の手紙からは、攻めた人数はわかりません。

快川の手紙に出てくる「6人」は、討たれた側の人数です。また、「伊賀守と二人で国を治めている」というのは、中心になった人物が二人だという意味で、攻めた人数を表すものではありません。この事件は、半兵衛と安藤守就が中心になって起こしたものでした。ただし、攻めた人数や具体的な方法は、この手紙からはわかりません。

くらべる点1564年の乗っ取り1567年の信長の攻略
だれが竹中半兵衛と安藤守就(龍興の家臣)織田信長(美濃の外の大名)
どうなった龍興は城を出たが、半年ほどで龍興の側に戻ったとみられる龍興は伊勢の長島へ退き、美濃は信長のものになる
確かめられる記録快川紹喜の手紙(同じ時代)『信長公記』など

半兵衛が城を奪った理由や、その後の半兵衛については、竹中半兵衛の乗っ取り事件の記事でくわしく紹介しています。

ここまではわかる/ここからはわからない

  • わかる:半兵衛と安藤守就が稲葉山城を奪い、龍興が城を出たこと
  • わからない:何人で城に入ったか。奪った本当の理由

稲葉山城の城主は?斎藤道三から最後の織田秀信まで

稲葉山城はだれが建てた?

鎌倉時代の初め(建仁年間〈1201〜04年〉)に、鎌倉幕府の役人・二階堂行政(にかいどう ゆきまさ)が最初に城を築いたと伝えられます【伝承】。ただ、これは江戸時代の本に出てくる話で、岐阜市の計画書も「根拠となる具体的な史料は明らかでない」としています。

城として本格的に使われたのは、戦国時代の斎藤道三とその父・長井新左衛門尉(ながい しんざえもんのじょう)のころからと考えられています【有力説】。令和7年(2025年)の発表では、山の上で、積み方などから道三の時代に築かれたと考えられる石垣も報告されました。

稲葉山の山頂の石垣の上から、整った城下町と長良川を見下ろしてほほえむ斎藤道三のイラスト

画像:稲葉山の山頂から城下町を見下ろす斎藤道三

歴代の城主

稲葉山城(岐阜城)の主は、戦国時代から関ヶ原の戦いまでに何度も替わりました。おもな城主は次のとおりです。

城主時期(目安)どんな人
二階堂行政鎌倉時代の初め最初に城を築いたと伝えられる【伝承】
斎藤道三(と父の長井新左衛門尉)1530年代〜1554年ごろ城と城下町の井口を整えたとされる(斎藤道三の記事)
斎藤義龍1554年ごろ〜1561年道三の長男。父を破って美濃を治める(斎藤義龍の記事)
斎藤龍興1561〜1567年義龍の息子。数え14歳で家をついだとされる【有力説】
織田信長1567〜1575年美濃を手に入れ、ここを足場に京都へ。1576年に安土へ移る(織田信長の記事)
織田信忠1575〜1582年信長の長男。本能寺の変で亡くなる
織田信孝1582〜1583年信長の三男。秀吉と対立して降伏
池田元助1583〜1584年池田恒興の長男。小牧・長久手の戦いで亡くなる
池田輝政1584年か1585年〜1590年か1591年元助の弟。のちの姫路城主
豊臣秀勝1591〜1592年秀吉の甥
織田秀信1592〜1600年信長の孫(三法師)。最後の城主

城主になった年は、資料によって1年ほどずれることがあります(池田輝政の就任・転出の年は、岐阜市の資料の中でも異なります)。信長は天正3年(1575年)に家督(家の当主の地位)と岐阜城を息子の信忠にゆずり、翌年に安土城へ移りました。

稲葉山城と岐阜城の攻防と城主交代の年表。1525年の攻撃の記録から、道三・義龍・龍興、1564年の占拠、1567年の信長の攻略、1600年の落城、1601年ごろの廃城、1956年の今の天守まで

画像:稲葉山城・岐阜城の攻防と城主交代(岐阜市の計画書、『信長公記』などをもとに侍ロード作成)。画像をタップ(クリック)すると拡大できます

岐阜城の戦いと廃城

慶長5年(1600年)、関ヶ原の戦いの直前に、西軍についた城主の織田秀信が東軍に攻められました。8月23日、かつての城主・池田輝政や福島正則らの攻撃で岐阜城は落城し、秀信は降伏しました【史実】。これを「岐阜城の戦い」といいます。

関ヶ原の戦いのあと、南の平地に加納城が築かれ、岐阜城は使われなくなりました(1601年ごろ)【有力説】。岐阜城の建物や石垣の石は加納城を造るのに使われたといわれ、天守を加納城へ移したという話も伝わります【伝承】。

岐阜市加納丸之内の加納城跡の入り口。木々と古い石垣が見える

画像:岐阜城のかわりに築かれた加納城の跡(岐阜市加納丸之内)。Wikimedia Commons(撮影:先従隗始・CC0)

稲葉山城は難攻不落だった?守りの強さと落城の理由

稲葉山城は「難攻不落(攻めるのがむずかしく、なかなか落ちない)の城」といわれます。たしかに金華山は硬い岩の山で崖が多く、守りに強い地形でした。ただし、今回確認した同じ時代の史料では、「難攻不落」という表現は見つかりませんでした。

けわしい岩の崖の上の山城を、ふもとから兵たちが首をそらして見上げておどろくイラスト

画像:けわしい岩山の上の城を見上げる兵たち

実際には、この城は何度も攻められたり、奪われたりしています。永禄7年(1564年)には半兵衛たちに奪われ、永禄10年(1567年)には信長に攻め取られ、慶長5年(1600年)には1日で落城しました。どの時も、事情はそれぞれちがいます。

  • 1564年:城の中の家臣による不意の乗っ取り
  • 1567年:重臣たちが敵の側につき、城下を焼かれ、まわりを取りかこまれた
  • 1583年:柴田勝家が敗れて後ろ盾を失った城主の信孝が、城を明けわたした
  • 1600年:まわりの戦いで敗れたあと、大軍に攻められた

険しい地形は守りに有利でしたが、それだけで城を守り切れるわけではありませんでした。家臣の心が離れたり、まわりの戦いで負けたりすると、山の上の城は孤立してしまうのです。

マサムネ

険しい山だけで守れるわけではないんですね。城下と家臣の動きも見てみよう!

なぜ「岐阜」?名前の由来と信長の改名

『信長公記』は、稲葉山城を取った信長が「井口と申すを、今度改めて岐阜と名付けさせられ」(井口という所を、このたび改めて岐阜と名づけられた)と伝えています。ただし、だれがこの名前を考えたかは書かれていません。

よく知られているのは、尾張の禅僧・沢彦宗恩(たくげん そうおん)が「岐山・岐陽・岐阜」の3つの名を出し、信長が「岐阜」を選んだという話です。中国の周の文王と、「岐山」を拠点に周が興ったという故事にちなんだといわれます。ただ、これは江戸時代の本に出てくる話です【伝承】。

次の漫画は、この言い伝えをもとにした場面です【伝承】。

座敷で禅僧の沢彦が白い紙を差し出し、織田信長が身を乗り出してのぞきこむ漫画のコマ

画像:新しい町の名前を信長にすすめる沢彦

一方、「岐阜」「岐陽」「岐山」といった呼び名は、信長より前から、美濃の禅僧たちが詩や文章の中でこの土地を美しく呼ぶときに使っていたことがわかっています【有力説】。信長は、禅僧の間で知られていた名前を、町の正式な名前にしたと考えられます。

史料に見える稲葉山城の呼び名

稲葉山城は、時代や書き手によっていろいろな名前で呼ばれました。名前が順番に変わったのではなく、山・城・町の名前がまざっていることに注意しましょう。

呼び名何の名前出てくる記録
稲場山ノ城城大永5年(1525年)の出来事を書いた『朝倉家伝記』
稲葉山山・城『信長公記』(道三の居城の稲葉山)
井口(いのくち)町(城の山は「井口山」)『信長公記』
因幡山山(その主=城の主)京都の醍醐寺の僧の記録『厳助往年記』(1561年)
金華山城城快川紹喜の2月11日付の手紙(年は書かれていないが、1564年のものと考えられる)
岐阜町・城『信長公記』(1567年に井口を改める)

「天下布武(てんかふぶ)」の印を信長が使い始めたのも、稲葉山城を手に入れた永禄10年(1567年)です【史実】。美濃の土地を家臣に与える文書に押された朱印が、信長の朱印状の最初の例とされています。

ここまではわかる/ここからはわからない

  • わかる:信長が井口を「岐阜」と改めたこと。「岐阜」がそれ以前から禅僧の詩文に出てくる呼び名だったこと
  • わからない:だれが名前を考えたか(沢彦の話は言い伝え)

稲葉山城に天守はあった?発掘でわかる岐阜城の姿

信長の時代の岐阜城のようすは、城を訪れた人の記録と、発掘調査からわかってきています。

フロイスが見た岐阜城

永禄12年(1569年)、ポルトガル人の宣教師ルイス・フロイスが岐阜に信長を訪ね、そのようすを手紙に書きました【史実】。フロイスは、ふもとの館を「宮殿」と呼び、その美しさをくわしく書いています。

岐阜市の紹介によると、フロイスは山の上の城にも招かれ、豪華な座敷で食事をふるまわれました。このとき信長は自分で膳(食事をのせた台)を運んでもてなしたといいます。フロイスが感謝して膳を頭の上にかかげると、信長は「汁をこぼさぬよう、まっすぐに持つように」と声をかけた、とフロイスは書いています。

山の上の城の座敷で、宣教師フロイスが感激して膳を頭の上にかかげ、織田信長がまっすぐ持つように声をかける漫画のコマ

画像:山の上の座敷で、フロイスに膳を運んでもてなす信長

同じ年に岐阜を訪れた公家の山科言継(やましな ときつぐ)も、山の上からの景色を「けわしい景色は言葉では言い表せない」と日記に書きました。

発掘でわかったこと

岐阜市の発掘調査で、信長の時代の城のようすが少しずつわかってきました。

  • ふもとの館:大きな石を並べた通路、何段にも重なる平らな地面、岩から滝が流れ落ちる庭園の跡が見つかった
  • 金箔飾り瓦:ふもとの館の跡から、菊などの模様の部分に金箔をはった飾り瓦が出てきた(岐阜市の文化財)
  • 山の上の石垣:信長の時代の石垣と、道三の時代と考えられる石垣が見つかっている
  • 天守台:令和元年度(2019年度)、今の天守の西側で、信長の時代に築かれたとみられる天守の土台(天守台)の石垣が初めて確認された
岐阜公園の信長公居館跡の木の門と石段

画像:ふもとの信長公居館跡(岐阜公園)。Wikimedia Commons(撮影:そらみみ・CC BY-SA 3.0)

天守はあった?

発掘の結果から、信長の時代に天守台と瓦ぶきの建物が築かれた可能性が高いと考えられています【有力説】。慶長5年(1600年)の岐阜城の戦いのときに福島正則が書いた手紙にも「天主」と出てきます。ただし、その天守がどんな形で、何階建てだったかはわかっていません【不明】。

ここまではわかる/ここからはわからない

  • わかる:信長がふもとに豪華な館を造り、山の上にも石垣のある城を構えたこと
  • わからない:信長の時代の天守の形や高さ

今の岐阜城は見学できる?休館・アクセス

今の岐阜城の天守は、明治43年(1910年)に建てられた近代最初の復興天守(昭和18年〈1943年〉に焼失)のあと、昭和31年(1956年)に建てられた鉄筋コンクリートの復興天守(3層4階)です。当時の姿をそのまま再現したものではありません。岐阜城は「日本100名城」にも選ばれています。

一面の雲海の上に、金華山の山頂と岐阜城が浮かんで見える

画像:雲海に浮かぶ岐阜城(改修で休館する前の姿)。Wikimedia Commons(撮影:岐阜市・CC BY 4.0)

天守閣は改修で休館中(2026年10月25日確認)

施設今のようす
天守閣耐震改修などのため休館中。令和9年(2027年)11月に再開の予定。令和8年(2026年)8月下旬から令和9年(2027年)4月中旬までは、足場と養生シートで覆われて天守が見えない予定です(工事の進み具合で変わることがあります)
岐阜城資料館休館中(天守閣と同じころ再開の予定)
山頂近くの道天守閣前の一部は、令和7年(2025年)11月25日から令和9年(2027年)9月末まで通行止めの予定です。ロープウェー山頂駅から天守閣手前までは通れます
金華山ロープウェー整備のため運休の予定があります(2026年12月1〜28日、2027年1月7日〜2月16日)

上の見学情報は、岐阜市の岐阜城天守閣のページ(2026年10月21日更新)によります。休館中も、金華山展望台からの景色や、ふもとの信長公居館跡、岐阜市歴史博物館は楽しめます。

岐阜城へのアクセス

方法行き方(目安)
バスJR岐阜駅・名鉄岐阜駅から岐阜バスで約15分、「岐阜公園・岐阜城」で降り、歩いて約3分でロープウェー乗り場
ロープウェーぎふ金華山ロープウェーで山頂駅まで約4分。ふだんは山頂駅から天守まで歩いて約8分(改修中は、天守閣の前などが通行止めです)
登山道七曲り登山道・百曲り登山道などがある。工事中は、めい想の小径と鼻高ハイキングコースが山頂の手前で行き止まりになる
車岐阜公園の駐車場を利用(台数が限られるので、バスがおすすめ)
金華山の木々の上を行き来するロープウェーのゴンドラと、山頂駅の建物

画像:金華山の木々の上を行くロープウェー。Wikimedia Commons(撮影:Alpsdake・CC BY-SA 4.0)

よくある質問

稲葉山城の読み方は?

「いなばやまじょう」です。今は「岐阜城(ぎふじょう)」と呼ばれています。

稲葉山城は誰の城?

戦国時代には斎藤道三・義龍・龍興の3代が本拠にし、永禄10年(1567年)からは織田信長の城になりました(くわしく)。

稲葉山城の戦いはいつ?

永禄10年(1567年)とするのが今の定説です。『信長公記』は、斎藤龍興が城を退いた日を8月15日と書いています(9月とする説もあります。くわしく)。

墨俣一夜城は本当にあった?

秀吉が一夜で墨俣に城を築いた話は、江戸時代の読み物『絵本太閤記』や、昭和に世に出た『武功夜話』に出てくる話で、今回確認した同じ時代の史料では確かめられませんでした。信長が永禄4年(1561年)に墨俣に砦を造らせたことは『信長公記』に書かれています(くわしく)。

竹中半兵衛はなぜ稲葉山城を返したの?

「主君の龍興をいさめるためで、目的を果たしたので返した」という話は、後の時代の軍記に出てくるものです。龍興を支える勢力に押されて城を手放したとみる研究もあります。ただし、くわしい経緯にはわからない点が残ります(竹中半兵衛の記事)。

稲葉山城はいつ廃城になった?

慶長5年(1600年)の岐阜城の戦いで落城したあと、関ヶ原の戦いを経て南の平地に加納城が築かれ、1601年ごろに使われなくなりました(くわしく)。

まとめ|稲葉山城とは

稲葉山城は、岐阜市の金華山の上にあった山城で、今の岐阜城と同じ城です。戦国時代には斎藤道三・義龍・龍興の本拠になり、永禄10年(1567年)に織田信長が攻め取って、井口の町を「岐阜」と改めました。

険しい岩山の城でしたが、永禄7年(1564年)の竹中半兵衛の乗っ取り、信長の攻略、慶長5年(1600年)の岐阜城の戦いと、何度も主が替わりました。城の強さは、山の険しさだけでなく、家臣やまわりの人々の動きにも左右されたのです。

今の天守は昭和の建物ですが、発掘で、道三の時代と考えられる石垣や、信長の時代の石垣・天守台とみられる遺構が見つかり、戦国時代の城の姿が少しずつわかってきています。

関係する人物については、斎藤道三、斎藤義龍、竹中半兵衛、織田信長、濃姫の記事もあわせてどうぞ。

ケンシン

山の城を落とすのは、山を登る力だけではないということだな。

マサムネ

再開したら、山の上から長良川を見下ろしてみたいです!

参考にした史料・この記事の書き方

この記事は、おもに次の記録や資料をもとに書いています。

  • 同じ時代の記録:快川紹喜の手紙(『明叔録』所収。『美濃国稲葉郡志』〈1915年〉に収められた本文による)、『厳助往年記』、フロイスの手紙・山科言継『言継卿記』(岐阜市の資料の紹介による)、福島正則の手紙(岐阜市の発掘調査の資料による)
  • 少しあと・後の時代の記録:太田牛一『信長公記』首巻・巻一(Wikisource の明治14年の活字本による)、『朝倉家伝記』『美濃国諸旧記』『絵本太閤記』『武功夜話』など(岐阜市の資料・研究の紹介による)
  • 公的な資料:岐阜市『史跡岐阜城跡保存活用計画』(2021年)、岐阜市「史跡岐阜城跡」の発掘調査成果(平成30年度・令和元年度・令和6年度)、岐阜市「岐阜城でおもてなし」、岐阜市「岐阜城天守閣」、岐阜県「岐阜県の概要」、文化遺産オンライン「史跡岐阜城跡(織田信長居館跡)出土金箔飾り瓦」、岐阜県観光連盟・岐阜観光コンベンション協会の案内、日本城郭協会「日本100名城」
  • 事典:『日本大百科全書』『改訂新版 世界大百科事典』など(コトバンク)
  • 地図と画像:地図の下地は国土地理院の地理院タイルを使い、侍ロードが地名を書き加えました。金華山と岐阜城(Alpsdake・CC BY-SA 4.0)、雲海の岐阜城(岐阜市・CC BY 4.0)、ロープウェー(Alpsdake・CC BY-SA 4.0)、信長公居館跡(そらみみ・CC BY-SA 3.0)、加納城跡(先従隗始・CC0)、瑞龍寺山の山頂(大野一将・CC0)、月岡芳年「稲葉山の月」(パブリックドメイン)は Wikimedia Commons のものです。図・漫画・イラストは侍ロードのオリジナルです

記事中のラベルの意味

  • 【史実】同じ時代の史料などで確かめられること(【史実:○○】は、その出どころ)
  • 【有力説】研究者の間で広く受け入れられている見方
  • 【諸説あり】見解が分かれていること
  • 【不明】確かめられる資料が見つかっていないことなど、今わかっていないこと
  • 【伝承】後の時代の記録や言い伝えによる話
  • 【俗説】広まっているが、根拠の確かでない説

「記録にそう書かれていること」と、「書かれた出来事が実際にあったこと」は、分けて考えています。後の時代にまとめられた記録に書かれていることは、その記録の名前を本文で示し、すべてを【史実】とは扱っていません。

この記事は侍ロード編集部が作成し、公開後も新しい研究やご指摘を受けて見直しています。内容の誤りにお気づきの場合は、お問い合わせからお知らせください。確認のうえ修正します。