
画像:(柴田勝家のイメージイラスト。この記事のイラストはすべて、記録や肖像画を参考にした想像の姿です)
柴田勝家(しばた かついえ)は、織田信長に仕えた戦国武将です。はじめは信長の弟に仕えて信長と戦いましたが、許されてからは信長の重臣となり、越前(福井県)の北ノ庄城を拠点に北陸の攻略をまかされました。信長が本能寺の変で亡くなったあとは羽柴(豊臣)秀吉と対立し、天正11年(1583年)の賤ヶ岳の戦いに敗れて、北ノ庄城で妻のお市の方とともに亡くなります。
「鬼柴田」と呼ばれた勇ましい武将として知られますが、そのイメージには後の時代の本から広まった話も多くふくまれています。この記事では、同じ時代の記録でわかること・後の時代の本に書かれた話・わからないことを分けて、勝家の生涯と最後を紹介します。
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わしは上杉ケンシン。今日の主役は、信長の家臣の中でも指折りの猛将だ。わしとも北陸で戦ったことがある。
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伊達マサムネです! 柴田勝家って、秀吉に負けた人っていうイメージしかないんですけど…。
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負けるまでに何をした武将なのかを知ると、見え方が変わるぞ。
まずわかること(この記事の要点)
- 何をした人?:信長の重臣として、越前と北陸の攻略をまかされた武将です。信長の死後は、織田家の中で秀吉と争いました
【史実】(くわしく) - 最後は?:天正11年4月24日(1583年6月14日)、秀吉の軍に囲まれた北ノ庄城(福井市)で、お市の方とともに亡くなりました
【史実】。62歳(数え年)とされますが、生まれた年がはっきりしません(くわしく) - なぜ秀吉に負けた?:清洲会議のあと秀吉に勢いで押されました。賤ヶ岳の戦いでは、甥の佐久間盛政の軍が敗れ、前田利家の軍も戦場を離れました
【史実】。これが重なって勝家の軍がくずれたと考えられています【有力説】(くわしく) - お市の方との関係は?:信長の妹・お市の方は、勝家の妻です。本能寺の変のあと、天正10年(1582年)に結婚しました
【史実】(くわしく)
知りたいところから読めるように、主な見出しへのリンクを置いておきます。
柴田勝家とは何をした人?基本プロフィール
ひと言でいえば、柴田勝家は「信長の重臣として北陸の攻略をまかされ、信長の死後に秀吉と争って敗れた武将」です。
| 項目 | 内容 | 信憑性 |
| 名前 | 柴田勝家。通称は権六(ごんろく)。のちに修理亮(しゅりのすけ・朝廷の官職名に由来する呼び名)を名のり、「修理」とも呼ばれた | 【史実】 |
| 生まれた年 | 大永2年(1522年)とする説が多い。大永6年(1526年)・大永7年(1527年)とする説もある | 【諸説あり】 |
| 生まれた場所 | 尾張国愛知郡上社村(今の名古屋市名東区)とされる。江戸時代の地誌『張州府誌』による | 【伝承】 |
| 父・母 | 父は柴田勝義とされるが、確かな記録はない。母はわからない | 【不明】 |
| 主君 | 信長の弟・織田信勝(信行)の家老をへて、織田信長の家臣に | 【史実】 |
| 居城 | 越前の北ノ庄城(今の福井市)。天正3年(1575年)から築く | 【史実】 |
| 妻 | お市の方(信長の妹)。天正10年(1582年)に結婚。それより前の妻はわからない | 【史実】 |
| 子ども | 実の子がいたかははっきりしない。甥の勝豊・勝政らを養子にしたとされる | 【諸説あり】 |
| 亡くなった日 | 天正11年4月24日(1583年6月14日)、北ノ庄城 | 【史実】 |
| 死因 | 落城のとき切腹(自害) | 【史実】 |
| 亡くなった年齢 | 62歳(数え年)とされる。生まれた年によって57歳・58歳とも | 【諸説あり】 |
| 家紋 | 二つ雁金(ふたつかりがね) | 【有力説】 |
| 墓 | 西光寺(福井市)など | — |
柴田勝家の最後|北ノ庄城で何があった?


画像:北ノ庄城での最後の夜をイメージした想像図。服装や部屋の様子は想像によるものです
柴田勝家が亡くなったのは、天正11年4月24日(1583年6月14日)、越前の北ノ庄城(福井市)です。近江(滋賀県)の賤ヶ岳の戦いで羽柴秀吉に敗れ、北ノ庄城に逃げもどったところを秀吉の大軍に囲まれ、妻のお市の方とともに亡くなりました【史実】。
賤ヶ岳で敗れて北ノ庄城へ
天正11年4月21日(1583年6月11日)、賤ヶ岳の戦いで敗れた勝家は、北へ退いて越前の北ノ庄城に入りました【史実】。戦いの流れは、このあとの賤ヶ岳の戦いの節でくわしく紹介します。
途中で、前田家の越前府中城(福井県越前市)に立ち寄り、利家と別れのことばを交わしたという話が伝わっています【伝承】。4月23日には、秀吉の軍が北ノ庄城を囲みました【史実】。
最後の夜
城を囲まれた夜、勝家は城に残った一族や家臣たちと最後の酒宴を開き、別れを惜しんだと伝わります【有力説:柴田退治記】。この話は、落城と同じ年に秀吉に仕えた大村由己が書いた『柴田退治記』に出てきます。
また、宣教師ルイス・フロイスの報告には、勝家が自分から離れていった家臣をうらまず、最後まで残った家臣たちには生きのびるようすすめた、と書かれています【有力説:フロイスの報告】。フロイスは勝家と会ったことがある人物ですが、この場面を直接見たわけではありません。
妻のお市の方の3人の娘(茶々・初・江)は、落城の前に城から出されました【有力説】。娘たちのその後は、お市の方の記事で紹介しています。
秀吉の手紙に書かれた最期
勝家の最期をくわしく伝える同じ時代の記録の一つが、勝った秀吉自身の手紙です。秀吉は戦いのあと、毛利家の小早川隆景に送った手紙(天正11年5月15日付)で、北ノ庄城の落城を次のように知らせています【史実:毛利家文書】。
史料ボックス①秀吉が書いた勝家の最期
出典:羽柴秀吉書状(天正11年5月15日付・小早川隆景あて、『毛利家文書』)
内容(要約):24日の明け方から本城を攻め、昼には城に攻め入った。天守には勝家ら200人あまりがたてこもり、勝家も7度まで打って出て戦ったが、防ぎきれなかった。勝家は天守の「九重」目に上がり、まわりに声をかけた
勝家のことば(現代語訳):「修理(勝家)の腹の切り方を見て、後の手本にせよ」
そのあと(要約):勝家は妻子らを刺したあと、80人あまりとともに腹を切った。手紙は、この「子」がだれなのかを書いていない(お市の方の3人の娘は、落城の前に城から出されている)
この記事の説明:勝った側が、ほかの大名に自分の勝利を知らせるために書いた手紙です。勝家の勇ましい最期をえがくことで、それに勝った自分の手柄を大きく見せようとした面もあると考えられます。「九重」も、天守の本当の高さを正確に書いたものかはわかりません
北ノ庄城は、勝家が天正3年(1575年)から北陸の拠点として築いた城です。秀吉の手紙からは、とても高い天守があったことがうかがえますが、発掘調査でも天守そのものの跡は見つかっておらず、本当の姿はわかっていません【不明】。
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勝った秀吉が、負けた勝家の最期をくわしく書いているんですね。
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相手が強いほど、勝った自分も強く見える。そこまで考えて読むのが、史料の読み方というものだ。
死因は?何歳だった?
勝家の死因は、落城のときの切腹(自害)です【史実】。『柴田退治記』には、勝家が左の脇腹から右へ、さらに胸の下からへそまで腹を切り、家臣の中村文荷斎に介錯(首を切って苦しみを終わらせること)をさせたと書かれています【有力説:柴田退治記】。秀吉方の人が書いた記録なので、勝家の最期を劇的にえがいている部分もあると考えられます。
年齢は、大永2年(1522年)生まれとすると62歳です(生まれた年を1歳とし、正月ごとに1歳ずつ足す「数え年」)。ただ、57歳・58歳とする説もあり、生まれた年がはっきりしないため、正確な年齢はわかりません【諸説あり】。
柴田勝家の辞世の句
史料ボックス②勝家の辞世
出典:大村由己『柴田退治記』(『柴田合戦記』とも。天正11年〈1583年〉に書かれたとみられる)ほか
辞世:「夏の夜の 夢路はかなき 跡の名を 雲井にあげよ 山郭公(やまほととぎす)」
現代語訳:夏の夜の夢のようにはかなく終わる私の、死んだあとに残る名を、雲の上まで高く伝えておくれ、山ほととぎすよ
この記事の説明:落城は旧暦4月で、ちょうどほととぎすが鳴く初夏でした。お市の方も「夏の夜」「ほととぎす」を詠みこんだ辞世を残したとされ、2人の歌は呼び合っています
2人が本当にこの歌を詠んだのかを確かめる方法はありませんが、落城と同じ年に書かれた記録に載っていることは、大切な手がかりです【有力説】。お市の方の辞世は、お市の方の記事で紹介しています。
どこまでが確かな話?
勝家の最期について伝わる話を、出どころごとに整理すると、次のようになります。
| 話 | 出どころ | この記事の判断 |
| 北ノ庄城が落ち、勝家が切腹した | 秀吉の手紙(1583年)、『柴田退治記』(1583年) | 【史実】 |
| お市の方が勝家とともに亡くなった | 『柴田退治記』ほか | 【史実】 |
| 最後の酒宴を開いた | 『柴田退治記』 | 【有力説】 |
| 「腹の切り方を見て手本にせよ」と言った | 秀吉の手紙 | 【有力説】 |
| 家臣に生きのびるようすすめた | フロイスの報告 | 【有力説】 |
| 天守を「九重」と書いている | 秀吉の手紙、『柴田退治記』 | 【史実】 |
| 天守の本当の階数や姿 | 発掘でも天守の跡は見つかっていない | 【不明】 |
| 府中城で前田利家と別れを交わした | 前田家に伝わる記録(江戸時代) | 【伝承】 |
| 62歳で亡くなった | 生まれた年(江戸時代の地誌)からの計算 | 【諸説あり】 |
秀吉との対立と賤ヶ岳の戦い


画像:賤ヶ岳合戦図屏風(江戸時代に描かれたもの)。Wikimedia Commons(パブリックドメイン)。画像をタップ(クリック)すると拡大できます
勝家が秀吉に敗れた賤ヶ岳の戦いは、天正11年(1583年)4月、近江の北のはし、余呉湖のまわりの山々(今の滋賀県長浜市)で起きた戦いです。信長の死後、織田家の中でだれが力を持つかを争った戦いで、勝った秀吉が信長の後を継ぐ天下人への道を歩み出しました【史実】。
対立のはじまり|清洲会議


画像:清洲会議のころの勝家と秀吉の対立をイメージした想像図
天正10年(1582年)6月2日、本能寺の変で信長と、跡を継いでいた長男の信忠が亡くなりました。同じ月の27日(1582年7月16日)、織田家の重臣が尾張の清洲城に集まり、これからの織田家について話し合います。これが清洲会議です【史実】。集まった重臣は、柴田勝家・羽柴秀吉・丹羽長秀・池田恒興の4人でした【史実】。
会議の結果、信忠の子で3歳(数え年)の三法師(のちの織田秀信)が織田家を継ぐことになりました【史実】。
よく知られているのは、「勝家は信長の三男・信孝を跡継ぎに推し、秀吉は三法師を推して対立したが、明智光秀を討った秀吉の意見が通った」という話です。ただ、この話は江戸時代の初めに書かれた『川角太閤記』などに出てくるものです。最近の研究では、三法師が継ぐことは初めから決まっていて、話し合われたのは「三法師が大人になるまで、だれが代わりをつとめるか」だったとみる説も出されています【諸説あり】。
領地の分け方では、勝家は秀吉の領地だった長浜城(滋賀県長浜市)と北近江の3郡を手に入れ、秀吉は京都に近い山城・河内などを得ました【史実】。これで秀吉は、勝家より大きな力を持つようになったとみられています【有力説】。秀吉は10月には京都の大徳寺で信長の葬儀を行いました【史実】。自分が信長の後継者であることを世に示すねらいがあったと考えられています【有力説】。勝家は同じころ、秀吉が会議の約束を守っていないと非難する手紙を、秀吉方の堀秀政に送っています【史実:勝家書状】。
雪で動けなかった冬


画像:雪で動けない北ノ庄城の勝家をイメージした想像図
天正10年(1582年)12月、秀吉は大軍で近江に入り、勝家の養子・柴田勝豊が守る長浜城を降参させました。続いて美濃に進み、岐阜城の織田信孝も降参させます【史実】。勝家の本拠の越前は雪が深く、冬の間は大軍を動かせなかったため、助けを出すことができませんでした【有力説】。
天正11年(1583年)1月には、勝家と手を結ぶ伊勢の滝川一益が兵をあげ、秀吉はその攻撃に向かいます【史実】。勝家は、毛利家にかくまわれていた元将軍の足利義昭を通じて、毛利家にも秀吉の背後を突くよう頼みましたが、毛利家は動きませんでした【史実】。
勝家が負けた理由は、雪だけではありません。秀吉のすばやい動き、味方だった城や武将が次々に秀吉についたこと、ほかの大名の助けが得られなかったことが重なっていました。
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冬のあいだ、雪の中で待つしかなかったんですね。
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北国の雪の重さは、わしもよく知っておる。冬の大雪の中で大軍を動かすのは、越後でも越前でも難しいものよ。
戦いの流れ


画像:賤ヶ岳の戦いの位置関係(模式図・侍ロード作成)。画像をタップ(クリック)すると拡大できます
天正11年(1583年)3月、雪がとけ始めるのを待って、勝家は佐久間盛政・前田利家らとともに北近江の柳ヶ瀬に出て、陣を構えました。兵の数はおよそ3万とされます【有力説】。秀吉も伊勢から軍を回して木之本(長浜市)に本陣を置き、両軍は余呉湖のまわりの山々に砦を築いてにらみ合いました【史実】。
- 4月16日:一度降参した信孝が、ふたたび岐阜で兵をあげる。秀吉は軍の一部を連れて美濃の大垣に向かう
- 4月20日:秀吉の留守をついて、佐久間盛政が余呉湖の西を回りこみ、大岩山の砦を攻め落とす。守っていた中川清秀は討ち死にする
- 4月20日:知らせを聞いた秀吉は、その日のうちに大垣から木之本までもどる(美濃大返し)
- 4月21日:夜明け前から、賤ヶ岳の近くで盛政の軍と秀吉の軍が激しく戦う。盛政の軍が敗れ、前田利家の軍が戦場を離れると、勝家の本隊もくずれる
秀吉の軍が思いがけない早さでもどってきたことが、勝敗を分けたと考えられています【有力説】。ただ、大垣から木之本までの約50キロを「わずか5時間ほどで」もどったという細かい話は、後の時代の本によるものです【伝承】。木之本には、秀吉の弟・豊臣秀長の陣もありました【有力説】。


画像:賤ヶ岳で軍を率いる勝家をイメージした想像図
佐久間盛政の深入り


画像:(佐久間盛政のイメージイラスト)
大岩山の砦を落とした佐久間盛政は、勝家の姉の子、つまり甥にあたる武将です【史実】。勇ましさから「鬼玄蕃(おにげんば)」と呼ばれたと伝わります【伝承】。
後の時代の軍記物(戦いの物語)には、勝家は砦を落とした盛政に、すぐ引き上げるよう何度も命じたのに、盛政が従わずにその場に残ったため、もどってきた秀吉の軍に攻められた、と書かれています。この話はよく知られていますが、命令のやりとりを同じ時代の記録で細かく確かめることはできません【諸説あり】。
盛政は戦いのあと捕らえられ、京都で処刑されました【史実】。
前田利家の撤退は裏切り?


画像:(前田利家のイメージイラスト)
賤ヶ岳の戦いの最中、勝家方の前田利家の軍が戦場を離れました【史実】。これが、勝家の軍がくずれる大きなきっかけになったと考えられています【有力説】。利家は、越前府中(福井県越前市)を与えられ、北陸で勝家の指揮のもとで戦ってきた武将でした。若いころから秀吉とも親しかったとされます【有力説】。
利家の撤退が、前もって秀吉と約束していた「裏切り」だったのかは、はっきりしません。前の年の11月、利家は勝家の使者として秀吉のもとを訪れていて、このときから秀吉に誘われていたとみる説があります。一方、勝家と秀吉の両方に恩があった利家が、どちらにもつかずに兵を引いたとみる説もあります【諸説あり】。


画像:府中城での勝家と利家の別れの話をイメージした想像図(前田家に伝わる話にもとづきます)
前田家に伝わる江戸時代の記録には、敗れた勝家が府中城に立ち寄り、先に兵を引いた利家を責めるどころか、これまでの働きに礼を言い、「秀吉と仲がよいのだから、秀吉のもとへ行け」と言った、と書かれています【伝承】。ただ、前田家にとって都合のよい話だという批判もあり、そのまま事実とは言えません。このあと利家は、北ノ庄城を攻める秀吉の軍の先頭に立ったとされます【有力説】。
賤ヶ岳の七本槍
この戦いで、秀吉方の若い武将たちが手柄を立てました。そのうち次の7人は、のちに「賤ヶ岳の七本槍」と呼ばれます【有力説】。
- 加藤清正・福島正則・加藤嘉明・平野長泰・脇坂安治・糟屋武則・片桐且元
ただ、「七本槍」という呼び名は、江戸時代の初めの『甫庵太閤記』から広まったものです【有力説】。戦いの年に書かれた『柴田退治記』には、この7人に桜井家一(左吉)・石川一光(兵助)を加えた9人が、一番槍の手柄で秀吉から領地を与えられたと書かれています【史実:柴田退治記】。石川一光は戦いで討ち死にし、弟があとを継ぎました。


画像:余呉湖から見た賤ヶ岳(滋賀県長浜市)。Wikimedia Commons(撮影:663highland・CC BY 2.5)
柴田勝家とお市の方
勝家の妻は、信長の妹・お市の方です。お市の方はもとは近江の浅井長政の妻で、長政が信長に滅ぼされたあとは、3人の娘とともに織田家のもとで暮らしていました【史実】。
なぜお市の方と結婚した?
2人が結婚したのは、清洲会議のすぐあと、天正10年(1582年)8月ごろとされます。婚儀は信長の三男・信孝の岐阜城で行われたと伝わります【有力説】。
結婚を取りもったのは、勝家と親しかった信孝だとするのが昔からの通説です。ただ、同じ年の10月に勝家が書いた手紙には、秀吉と話し合い、皆の了解を得て結婚したという意味のことが書かれていて、秀吉もこの結婚を認めていたとみる説もあります【諸説あり】。
信長を失った織田家の中で、重臣の筆頭とみられていた勝家が主君の妹を妻に迎えることには、大きな政治的な意味がありました。一方で、お市の方自身がこの結婚をどう思っていたのかを伝える記録はありません【不明】。
2人の年の差は?
勝家を大永2年(1522年)生まれ、お市の方を天文16年(1547年)生まれとすると、2人の年の差は25歳になります。ほかの説を組み合わせると20〜28歳ほどの差になりますが、どちらの生まれた年もはっきりしないため、正確な年の差はわかりません【諸説あり】。
夫婦として過ごしたのは1年足らず
結婚してから北ノ庄城で亡くなるまで、2人が夫婦として過ごしたのは、1年に満たない短い時間でした。2人の間に子どもは知られていません。お市の方の生涯や、浅井長政との結婚、3人の娘たちのことは、お市の方の記事でくわしく紹介しています。
柴田勝家の生涯と功績


画像:柴田勝家の生涯の年表(侍ロード作成)。画像をタップ(クリック)すると拡大できます
勝家の生涯は、大きく①信長の弟・信勝に仕えた時期 ②信長の重臣として各地で戦った時期 ③越前をまかされ北陸を攻めた時期 ④信長の死後に秀吉と争った時期に分けられます。生まれてから30歳ごろまでのことは、記録がほとんどなく、わかっていません【不明】。
生まれと若いころ
勝家の家がどのような家だったのかは、よくわかっていません。尾張の土豪(その土地の有力者)の家の出身と考えられています【有力説】。
勝家が記録にはっきり出てくるのは、『信長公記』の萱津の戦いの記事です。信長の父・織田信秀が亡くなったあと、勝家は信長の弟・織田信勝(信行)の家老になっていて、尾張の清洲城の織田家との戦いで、敵の家老を討ち取る手柄を立てたと書かれています【史実:信長公記】。この戦いは、一般に天文21年(1552年)のこととされます【有力説】。
稲生の戦いで信長と戦い、許される


画像:信長に許しをこう勝家をイメージした想像図
信長が家を継ぐと、勝家は家老の林秀貞らとともに、弟の信勝を当主に立てようとします。弘治2年(1556年)8月、勝家は信勝方の兵をひきいて信長の軍と戦いましたが、敗れました。これが稲生の戦いです【史実:信長公記】。
このとき、信長と信勝の母・土田御前がとりなしたことで、信勝と勝家は許されました。『信長公記』には、勝家たちが墨染めの衣を着て清洲城に行き、信長におわびをしたと書かれています【史実:信長公記】。
信勝を見限った「裏切り」
その後、信勝はふたたび信長を倒す計画を立てます。このとき勝家は、計画を信長に知らせました。信長は病気のふりをして信勝を清洲城に呼びよせ、討ち取りました【史実:信長公記】。これは弘治3年(1557年)11月のこととされますが、永禄元年(1558年)とする説もあります【諸説あり】。
勝家が信勝を見限ったのは、信勝が新しく取り立てた家臣を重んじて、勝家を軽く扱うようになったためとも言われます【有力説】。勝家が「裏切った」のは、このときの信勝に対してです。こうして勝家は、信長の家臣になりました。
信長の重臣として
桶狭間の戦い(1560年)など、そのあとしばらくの勝家の働きを伝える記録は多くありません【不明】。勝家が大きく活躍するのは、永禄11年(1568年)、信長が足利義昭をおし立てて京都に入るとき(上洛)からです。勝家は先鋒(いちばん前で戦う部隊)の武将として戦い、京都の政務にもたずさわりました【史実】。
元亀元年(1570年)には近江の長光寺城(滋賀県近江八幡市)をまかされ、この地域に攻めこんできた六角氏の軍を、野洲川のあたりで破りました【史実】。そのあとも、姉川の戦い、伊勢の長島一向一揆(浄土真宗〈一向宗〉の門徒たちの武装した集団)との戦い、将軍・足利義昭が立てこもった槙島城の攻撃など、信長の主な戦いの多くに加わりました【史実】。


画像:『絵本太閤記』に描かれた「瓶割り柴田」の場面(江戸時代の挿絵)。Wikimedia Commons(パブリックドメイン)
長光寺城には、「瓶割り柴田」の逸話も伝わっています。城の水を断たれた勝家が、残った水を兵たちに飲ませたあと、水がめを割って決死の覚悟を示し、城を打って出て勝った、という話です。ただ、この話は後の時代の本に出てくるもので、同じ時代の記録では確かめられません【伝承】。
越前をまかされ、北ノ庄城を築く
天正3年(1575年)、信長は越前の一向一揆をしずめると、越前の8郡を勝家にまかせました。信長は勝家に、越前の治め方についての決まり(越前国掟)を与えています【史実:信長公記】。勝家はこのころから、北ノ庄城を築き始めました【史実】。
勝家の下には、前田利家・佐々成政・不破光治の3人が「与力」(勝家の指揮のもとで働く武将)としてつけられました【史実】。ここから勝家は、北陸方面の総大将として、加賀(石川県南部)・能登・越中(富山県)へと攻めこんでいきます。
手取川の戦いと上杉謙信
天正5年(1577年)、越後の上杉謙信が能登の七尾城を攻めると、信長は勝家を総大将とする大軍を助けに向かわせました。このとき秀吉も加わっていましたが、勝家と意見が合わず、信長の許しを得ないまま陣を離れてしまい、信長をひどく怒らせています【史実:信長公記】。
結局、七尾城は勝家たちが着く前に落ち、引き返す途中の9月23日、勝家の軍は加賀の手取川で上杉軍に追撃されたとされます。これが手取川の戦いです【有力説】。
謙信の手紙には、織田軍の千人あまりを討ち取ったと書かれています。ただ、ほかの記録にはこの戦いのくわしいことが書かれておらず、どのくらいの規模の戦いだったのかは、はっきりしません【諸説あり】。
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ケンシンさん、手取川で勝家と戦ったんですよね?
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うむ。わしの手紙には、たしかに千あまりを討ち取ったと書いたが……。
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勝った側の手紙は、どうしても大きく書きがちなもの。ほかの記録とつき合わせて読むのが大事だぞ。
加賀を平定し、重臣の筆頭に
謙信が天正6年(1578年)に亡くなると、北陸の情勢は織田方に有利になります。天正8年(1580年)、勝家は一向一揆の拠点だった加賀の金沢御堂を落とし、加賀を平定しました【史実】。
同じ年、古くからの重臣・佐久間信盛が信長に追放されたことで、勝家は織田家の重臣の中でいちばん上の立場になったとみられています【有力説】。天正9年(1581年)に京都で行われた信長の大がかりな馬ぞろえ(軍事パレード)には、前田利家ら越前の武将をひきいて参加しました【史実:信長公記】。
本能寺の変のとき、勝家はどこにいた?
天正10年(1582年)6月2日(1582年6月21日)、本能寺の変で信長が亡くなったとき、勝家は越中で、上杉方の魚津城(富山県魚津市)を攻めていました。魚津城は6月3日に落ちましたが、勝家はまだ信長の死を知りませんでした【史実】。
知らせを受けた勝家は北ノ庄城にもどり、丹羽長秀と組んで明智光秀を討つ計画を立てます。しかし、勝家が近江に出たときには、中国地方から急いでもどった秀吉が、すでに山崎の戦い(6月13日)で光秀を討っていました【史実】。勝家が遅れたのは、上杉方の動きをおさえるのに時間がかかったためとみられています【有力説】。本能寺の変について、くわしくは明智光秀の記事で紹介しています。
光秀を討った秀吉と、間に合わなかった勝家。この差が、そのあとの清洲会議での2人の立場を大きく分けることになりました。


画像:(柴田勝家のイメージイラスト)
あだ名と人柄|なぜ「鬼柴田」?
勝家には、勇ましさを表すいくつかの呼び名があります。ただ、その多くは江戸時代の本から広まったものです。
| 呼び名 | 意味 | 出どころ |
| 権六(ごんろく) | 勝家の通称(ふだんの呼び名) | 同じ時代の記録 【史実】 |
| 鬼柴田 | 鬼のように強い柴田 | 後の時代の本 【伝承】 |
| かかれ柴田 | 「かかれ(突撃)」と攻めこむ勢いが一番の柴田 | 江戸時代の随筆『翁草』の歌 【伝承】 |
| 瓶割り柴田 | 長光寺城で水がめを割って戦った柴田 | 後の時代の本 【伝承】 |
「かかれ柴田」は、「木綿藤吉、米五郎左、かかれ柴田に退き佐久間」という歌の一節です。藤吉(秀吉)は木綿のように役に立ち、五郎左(丹羽長秀)は米のように欠かせない。柴田は攻めに強く、佐久間(信盛)は退却がうまい、と信長の家臣たちの特徴を歌ったものとされます【伝承】。
宣教師フロイスが見た勝家
同じ時代に勝家を見た人の評価として大切なのが、宣教師ルイス・フロイスの記録です。フロイスは北ノ庄城を訪れて勝家に会っていて、勝家を「信長の時代の日本で、もっとも勇猛な武将であり、果敢な人」と書いています【史実:フロイスの報告】。
また、勝家は禅宗を信じていたものの、ほかの宗教をきらうことはなく、キリスト教を広めることを妨げもせず、助けもしなかったとも書かれています【史実:フロイスの報告】。最後の場面で家臣に生きのびるようすすめた話とあわせると、勇ましいだけでなく、家臣を思いやる一面もあった武将だったことがうかがえます。
家紋と肖像画
勝家の姿や家を表すものとして、家紋と肖像画を見てみましょう。どちらも、勝家が生きていた時代のものかどうかに注意が必要です。
柴田勝家の家紋「二つ雁金」


画像:二つ雁金(柴田家の雁金)。Wikimedia Commons(作成:Mukai・CC BY-SA 3.0)の図をもとに、色を反転して使用
勝家の家紋として知られるのは、2羽の雁(かり・がん)を上下に並べた「二つ雁金(ふたつかりがね)」です。柴田家の雁金は、上の雁がくちばしを開いているのが特徴とされます【有力説】。
ただ、勝家が生きていたころに使った紋の形を、同じ時代の記録で確かめることはできません。後の時代に描かれた「長篠合戦図屏風」では、勝家の旗に二つ雁金が描かれていて、江戸時代に旗本となった柴田家(勝家の養子の子孫)は「丸に二つ雁金」を使っていました【有力説】。
柴田勝家の肖像画


画像:「柴田勝家像」(部分・個人蔵)。Wikimedia Commons(パブリックドメイン)
勝家の姿を伝える肖像画として有名なのが、この「柴田勝家像」です。筑後の柳川(福岡県柳川市)で、勝家の縁者とされる柴田家に伝わってきたもので、北ノ庄城にたてこもっていたときの姿を描いたと伝わります【伝承】。
この絵の原本は平成5年(1993年)に存在が確かめられ、修理のあと、平成18年(2006年)に福井市立郷土歴史博物館で公開されました【史実】。ただ、いつだれが描いたのかははっきりせず、勝家の本当の顔をどこまで写しているかはわかりません【不明】。
なお、北ノ庄城のあとにある柴田神社(福井市)には、勝家の銅像が立っています(ゆかりの地の写真)。
子どもと子孫
勝家には、実の子がいたかどうかがはっきりしません。尾張藩の江戸時代の系図には勝里という子がいたと書かれていますが、確かなことはわかっていません【諸説あり】。そのかわり、勝家は姉の子などを何人も養子にしていたとされます【有力説】。
| 名前 | 勝家との関係 | その後 |
| 柴田勝豊 | 姉の子で養子とされる | 長浜城をまかされたが、天正10年(1582年)12月に秀吉に降参。賤ヶ岳の戦いの直前に病気で亡くなる |
| 柴田勝政 | 姉の子で養子とされる(佐久間盛政の弟) | 賤ヶ岳の戦いで戦死したとされる |
| 柴田勝敏(権六) | 養子とも実の子とも | 賤ヶ岳の戦いのあと捕らえられ、亡くなったとされる |
柴田勝家の子孫は今もいる?
勝家の血すじが続いたかどうかは、確かめられません。一方、養子の勝政の子・柴田勝重は徳川家に仕え、その家は旗本(将軍に直接仕える武士)として続きました【有力説:寛政重修諸家譜】。この旗本の柴田家は、江戸時代の終わりまで続いたとされます【有力説】。また、肖像画を伝えた柳川の柴田家も、勝家の縁者とされています【有力説】。
今の時代に「勝家の子孫」とされる人がいるかどうかは、途中の家系を一つひとつたどらないと確かめられません【不明】。
北ノ庄城とゆかりの地


画像:福井市の北の庄城址・柴田公園。奥に柴田神社と柴田勝家の銅像が見えます。Wikimedia Commons(撮影:先従隗始・CC0)
北ノ庄城は、今の福井市の中心部にあった城です。勝家が亡くなったあと、江戸時代には近くに福井城が築かれ、北ノ庄城の跡は町の下にうもれていきました。今は、城のあとの一部が北の庄城址・柴田公園になっていて、勝家をまつる柴田神社があります【史実】。
| 場所 | どんなところ | 今の住所 |
| 北の庄城址・柴田公園 | 北ノ庄城のあと。柴田神社と勝家の銅像がある | 福井県福井市 |
| 西光寺 | 勝家とお市の方の墓がある寺 | 福井県福井市 |
| 賤ヶ岳古戦場 | 賤ヶ岳の戦いの舞台。山の上から余呉湖と琵琶湖が見える | 滋賀県長浜市 |
| 幡岳寺 | 勝家の菩提寺(亡くなった人や一族の供養をする寺)とされる寺。「幡岳」は勝家の号 | 滋賀県高島市 |
| 生まれた地 | 勝家が生まれたとされる地 | 愛知県名古屋市名東区 |


画像:西光寺(福井市)にある柴田勝家とお市の方の墓。Wikimedia Commons(撮影:立花左近・CC BY-SA 3.0)
よくある質問(FAQ)
大河ドラマ『豊臣兄弟!』の柴田勝家は史実どおり?
ドラマは史実をもとにした物語で、場面やせりふには創作が多く入っています。清洲会議、お市の方との結婚、賤ヶ岳の戦い、北ノ庄城での最期といった大きな流れは史実ですが、人物の気持ちや会話の多くは記録に残っていません。
柴田勝家はだれを裏切り、だれに裏切られた?
勝家は若いころ、仕えていた信長の弟・信勝の謀反の計画を信長に知らせ、信勝を見限りました。一方、賤ヶ岳の戦いでは、味方の前田利家の軍が戦場を離れ、その前には養子の勝豊が守る長浜城も秀吉に降参しています。利家の撤退が前もって決めていた裏切りだったかは、わかっていません。
前田利家とはどんな関係?
利家は北陸で勝家の指揮のもとで戦った「与力」の武将です。賤ヶ岳の戦いでは勝家方として出陣しましたが、戦いの最中に兵を引き、そのあと秀吉に従いました。勝家が利家を責めなかったという話は、前田家に伝わる記録によるものです。
柴田勝家と秀吉は、なぜ対立した?
信長の死後、だれが織田家の中心になるかをめぐって争ったためです。明智光秀を討った秀吉が清洲会議のあとに力をのばし、筆頭の重臣とみられていた勝家と対立しました。手取川の戦いのとき、秀吉が勝家と意見が合わずに陣を離れたことも記録に残っています。
柴田勝家の身長は?
わかっていません。身長について書かれた同じ時代の記録はなく、ネットなどで見かける数字にも根拠は見当たりません。
作家の柴田勝家さんとは別人?
別人です。同じ名前(筆名)で活動している現代のSF作家がいますが、この記事で紹介している戦国武将の柴田勝家とは関係ありません。
北ノ庄城は今どこにある?
今の福井市の中心部にありました。城のあとの一部が「北の庄城址・柴田公園」になっていて、勝家をまつる柴田神社と銅像があります。
まとめ|柴田勝家とは
柴田勝家は、信長の弟に仕えて一度は信長と戦い、許されてからは信長の重臣として北陸の攻略をまかされ、信長の死後は秀吉と争って賤ヶ岳の戦いに敗れ、北ノ庄城でお市の方とともに亡くなった武将です。
「鬼柴田」「瓶割り柴田」など、勇ましいイメージの多くは後の時代の本から広まったものですが、同じ時代のフロイスも、勝家をもっとも勇猛な武将の一人と書いています。勝家の最期を今に伝えているのが、勝った秀吉の手紙や、秀吉に仕えた人が書いた本だというのも、戦国時代らしいところです。
勝家が仕えた信長については織田信長の記事、勝家を破った秀吉については豊臣秀吉の記事、勝家の妻についてはお市の方の記事もあわせてどうぞ。賤ヶ岳の戦いには、秀吉の軍師・黒田官兵衛も加わっていました。
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負けた武将の記録は少ない。それでも、勝った者の手紙からさえ、勝家の強さは伝わってくる。
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秀吉に負けた人、というだけじゃなかったんですね!
参考にした史料・この記事の書き方
この記事は、おもに次の記録や資料をもとに書いています。
- 同じ時代の記録:太田牛一『信長公記』、羽柴秀吉書状(天正11年5月15日・小早川隆景あて、『毛利家文書』)、大村由己『柴田退治記』(『柴田合戦記』とも)、柴田勝家書状(天正10年10月・堀秀政あて)、ルイス・フロイスの報告(『日本史』・イエズス会の書簡)、上杉謙信書状(手取川の戦いについて)
- 後の時代の記録:『川角太閤記』、小瀬甫庵『太閤記』、『張州府誌』、『翁草』、『寛政重修諸家譜』、『加賀金沢前田家譜』
- 研究・資料:谷口克広『信長軍の司令官』(中公新書)、柴裕之『清須会議』(戎光祥出版)、高柳光寿『賤ヶ岳の戦い』、福井市立郷土歴史博物館の展示解説
- 画像:「柴田勝家像」「賤ヶ岳合戦図屏風」『絵本太閤記』の挿絵は Wikimedia Commons でパブリックドメインとして公開されているものです。二つ雁金の図(Mukai・CC BY-SA 3.0)、余呉湖と賤ヶ岳の写真(663highland・CC BY 2.5)、西光寺の墓の写真(立花左近・CC BY-SA 3.0)、北の庄城址の写真(先従隗始・CC0)も Wikimedia Commons のものです。年表・位置関係の図とイラストは侍ロードのオリジナルです
記事中のラベルの意味
【史実】同じ時代の史料で確認できること(【史実:○○】は、その出どころ)【有力説】研究者の間で広く受け入れられている見方(【有力説:○○】は、その出どころ)【諸説あり】見解が分かれていること【不明】史料がなく、わかっていないこと【伝承】【俗説】後の時代に作られた話や、根拠がうすい言い伝え
この記事は侍ロード編集部が作成し、公開後も新しい研究やご指摘を受けて見直しています。内容の誤りにお気づきの場合は、お問い合わせからお知らせください。確認のうえ修正します。
