赤い打掛をはおり、両手で巻物を持って立つお市の方のイラスト

画像:(お市の方のイメージイラスト。この記事のイラストはすべて、記録や肖像画を参考にした想像の姿です)

お市の方(おいちのかた)は、戦国時代の女性で、織田信長の妹です。近江(滋賀県)の戦国大名・浅井長政と結婚して3人の娘を産み、長政が信長と戦って滅びたあとは、織田家の重臣・柴田勝家と再婚しました。そして1583年、勝家とともに越前(福井県)の北ノ庄城で最期を迎えます。

「戦国一の美女」「悲劇のヒロイン」として小説やドラマで何度も描かれてきましたが、お市の方本人について書かれた同じ時代の記録は、実はあまり多くありません。この記事では、同じ時代の記録でわかること・後の時代の本に書かれた話・わからないことを分けて、お市の方の生涯を紹介します。

ケンシン

わしは上杉ケンシン。今日の主役は、2度の落城をくぐりぬけて生きた戦国の女性だ。

マサムネ

伊達マサムネです! お市の方って、すごい美人だったって聞きますけど、本当なんですか?

ケンシン

その「美人」という話がどこから来たのかも含めて、記録を見ていこう。

まずわかること(この記事の要点)

  • どんな人?:織田信長の妹で、浅井長政、のちに柴田勝家の妻になった女性です。信長の妹とするのが通説で、いとこだったとする江戸時代の書物もあります【有力説】(くわしく)
  • 最後は?:1583年、羽柴(豊臣)秀吉に攻められた北ノ庄城で、夫の勝家とともに亡くなりました【史実:柴田退治記】。年齢は37歳とされますが、後の時代の記録によるものです(くわしく)
  • 娘は?:長政との間に茶々(淀殿)・初・江の3人の娘がいて、それぞれ豊臣秀吉・京極高次・徳川秀忠の妻になりました【史実】(くわしく)
  • 家系図・子孫は?:孫に豊臣秀頼や3代将軍・徳川家光が、ひ孫に明正天皇がいます。血筋は、娘の江の子どもたちを通じて受け継がれました【史実】(くわしく)

知りたいところから読めるように、主な見出しへのリンクを置いておきます。

お市の方とは?基本プロフィール

ひと言でいえば、お市の方は「信長の妹として浅井長政に嫁ぎ、2度の落城を経験して、2人目の夫・柴田勝家とともに亡くなった女性」です。

項目内容信憑性
名前市(いち)と伝わる。「お市の方」「小谷の方」は後の呼び名。本名を同じ時代の記録で確かめることはできない【有力説】
生まれた年天文16年(1547年)とするのが通説。37歳で亡くなったという後の記録から逆算した年で、1549年・1550年とする説もある【諸説あり】
父・母父は尾張の戦国大名・織田信秀とされる。母はわからない【有力説】
兄織田信長。妹とするのが通説だが、いとこ(従妹)とする江戸時代の書物もある【有力説】
1人目の夫浅井長政(近江・小谷城主)。結婚は永禄10年(1567年)の終わり〜永禄11年(1568年)の初めごろとする説が有力【史実】
2人目の夫柴田勝家(越前・北ノ庄城主)。1582年に再婚【史実】
子ども茶々(淀殿)・初(常高院)・江(崇源院)の3人の娘【史実】
亡くなった日天正11年4月24日(1583年6月14日)、越前の北ノ庄城(福井市)【史実】
死因・年齢落城のとき勝家とともに死去(自害とされる)。37歳とされる【有力説】
墓西光寺(福井市)など—

「お市」という名前は本名?

「お市の方」の「お」と「方」は、身分の高い女性を呼ぶときにつける言葉で、名前は「市」と伝わっています。ただ、お市の方の本名をはっきり書いた同じ時代の記録はなく、「市」という名前も後の時代の書物によるものです【有力説】。浅井家の小谷城にいたことから、「小谷の方」「小谷殿」とも呼ばれます。

信長の妹?それとも、いとこ?

お市の方は、信長の父・織田信秀の娘で、信長の妹とするのが通説です【有力説】。事典でも、多くが信長の妹として説明しています。一方、江戸時代に書かれた『以貴小伝』(徳川将軍の母や妻たちの伝記)や『渓心院文』には、信長の「いとこ」とする説も載っています【諸説あり】。母がだれだったのかは、わかっていません【不明】。

どちらの説でも、お市の方が織田家の娘として、信長の考えのもとで浅井家に嫁いだことに変わりはありません。

お市の方の最後|北ノ庄城で何があった?

灯明の明かりの中、並んで静かに座る甲冑姿の柴田勝家とお市の方のイラスト

画像:北ノ庄城での最後の夜をイメージした想像図。服装や部屋の様子は想像によるものです

お市の方が亡くなったのは、天正11年4月24日(1583年6月14日)、越前の北ノ庄城(福井市)です。2人目の夫・柴田勝家が羽柴(豊臣)秀吉との戦いに敗れ、城を囲まれたなかで、勝家とともに亡くなりました【史実】。まずは、そこに至るまでの流れを短く見ておきましょう。

賤ヶ岳の戦いから北ノ庄城へ

  • 天正10年(1582年)6月:本能寺の変で信長が亡くなる。織田家の重臣たちが清洲城に集まり、これからのことを話し合う(清洲会議)
  • 天正10年8月ごろ:お市の方が柴田勝家と再婚し、勝家の居城・北ノ庄城に移る
  • 天正10年の終わりごろから:織田家の中で、勝家と秀吉の対立が深まる
  • 天正11年(1583年)4月:近江の賤ヶ岳の戦いで勝家が秀吉に敗れ、北ノ庄城に退く
  • 天正11年4月23日〜24日:秀吉の軍が北ノ庄城を囲み、城が落ちる
甲冑姿で床几に腰かけ、腕を組む柴田勝家のイラスト

画像:(柴田勝家のイメージイラスト)

北ノ庄城は、勝家が1575年から北陸の拠点として築いた大きな城でした。秀吉は戦いのあとに毛利家の小早川隆景に送った手紙(天正11年5月15日付)の中で、北ノ庄城の天守を「九重」と書いていて、とても高い天守があったことがうかがえます【史実:毛利家文書】。ただ、発掘調査でも天守そのものの跡はまだ見つかっていません。

最後の夜と、3人の娘の脱出

秀吉の軍に囲まれた夜、勝家は一族や家臣たちと最後の酒宴を開き、別れを惜しんだと伝わります【有力説:柴田退治記】。後の時代の『太閤記』などは、勝家がお市の方に城を出るようすすめたものの、お市の方はこれを断り、勝家とともに死ぬことを選んだと書いています【伝承】。

一方、3人の娘(茶々・初・江)は城から出され、秀吉のもとに送られたとされます【有力説】。娘たちを引き取ったのは秀吉ではなく、信長の次男・織田信雄だったとする説もあります【諸説あり】。江戸時代の『渓心院文』には、お市の方が秀吉に、娘たちのことを頼む手紙を送ったとも書かれています【伝承:渓心院文】。

マサムネ

娘さんたちだけは、助かったんですね…。

ケンシン

うむ。この3人の娘が、のちの豊臣家と徳川家の歴史を大きく動かしていくことになる。

死因は?何歳だった?

お市の方の死因は、一般に「勝家とともに自害した」と説明されます。落城と同じ年に、秀吉に仕えた大村由己が書いた『柴田退治記』では、勝家が妻(お市の方)や一族を刺したあと、自らも腹を切ったと書かれています【有力説:柴田退治記】。このため、「自害」と書かれることも、「勝家の手で最期を迎えた」と書かれることもあります。

亡くなったときの年齢は37歳とされますが、これは後の時代の記録によるものです。生まれた年がはっきりしないため、正確な年齢を確かめることはできません【有力説】。

なお、『柴田退治記』は、秀吉の家臣が秀吉の勝利をたたえるために書いたものです。勝家の最期を劇的に描いている部分もあると考えられていて、ほかの記録とあわせて読む必要があります。

お市の方の辞世の句

史料ボックス①お市の方と柴田勝家の辞世

出典:大村由己『柴田退治記』(『柴田合戦記』とも。天正11年〈1583年〉に書かれたとみられる)ほか

お市の方:「さらぬだに 打ちぬる程も 夏の夜の 夢路をさそふ 郭公(ほととぎす)かな」

柴田勝家:「夏の夜の 夢路はかなき 跡の名を 雲井にあげよ 山郭公(やまほととぎす)」

現代語訳(お市の方):そうでなくても、うとうとするうちに明けてしまう短い夏の夜なのに、ほととぎすの声が、夢の世界(あの世)へと私をさそうように聞こえることよ

現代語訳(勝家):夏の夜の夢のようにはかなく終わる私の、死んだあとに残る名を、雲の上まで高く伝えておくれ、山ほととぎすよ

この記事の説明:落城は旧暦4月で、ちょうどほととぎすが鳴く初夏でした。2人の歌は「夏の夜」「夢路」「ほととぎす」という言葉で呼び合っています。お市の方の歌は、本によって「夢路をさそふ」が「別れをさそふ」となっているものもあります

2人が本当にこの歌を詠んだのかを確かめる方法はありませんが、落城と同じ年に書かれた記録に載っていることは、大切な手がかりです【有力説】。

両手を胸の前で合わせ、目を伏せて祈るお市の方のイラスト

画像:(お市の方のイメージイラスト)

どこまでが確かな話?

お市の方の最期については、いろいろな話が伝わっています。出どころごとに整理すると、次のようになります。

話出どころこの記事の判断
北ノ庄城が落ち、勝家が亡くなった秀吉の手紙(1583年)、『柴田退治記』(1583年)【史実】
お市の方が勝家とともに亡くなった『柴田退治記』ほか【史実】
勝家が最後の酒宴を開いた『柴田退治記』ほか【有力説】
お市の方が城を出るのを断った『太閤記』など後の時代の本【伝承】
3人の娘が秀吉のもとに送られた後の時代の記録【有力説】
秀吉に娘たちを頼む手紙を書いた『渓心院文』(江戸時代)【伝承】
37歳で亡くなった後の時代の記録【有力説】

お市の方の娘たち(浅井三姉妹)のその後

ひざをついた母のお市の方と、背の高さのちがう3人の幼い娘のイラスト

画像:お市の方と3人の娘をイメージした想像図

お市の方と浅井長政の間には、3人の娘がいました。長女の茶々(淀殿)、次女の初(常高院)、三女の江(崇源院)で、「浅井三姉妹」と呼ばれます。3人は小谷城と北ノ庄城、2度の落城を生きのび、その後はそれぞれ天下を動かす家に嫁ぎました【史実】。

娘生まれた年夫その後
茶々(淀殿)1569年ごろ(諸説あり)豊臣秀吉(側室)秀頼を産み、秀吉の死後は豊臣家の中心に。1615年、大坂夏の陣で秀頼とともに亡くなる
初(常高院)1570年ごろ(諸説あり)京極高次(正室)夫の死後に出家。大坂の陣では、豊臣と徳川の和平の使者をつとめる。1633年に亡くなる
江(崇源院)1573年徳川秀忠(正室・3度目の結婚)2代将軍の妻として、家光や和子らを産む。1626年に亡くなる

大坂の陣(1614〜15年)では、長女の茶々が豊臣方、三女の江が徳川将軍の妻という、敵どうしの立場になりました。その間に立って和平を取りもとうとしたのが、次女の初でした【史実】。

茶々(淀殿)は秀吉の側室に

茶々は、母を死に追いこんだ秀吉の側室になり、1589年に鶴松(3歳で亡くなる)を、1593年に跡継ぎの秀頼を産みました。秀吉の死後は秀頼の母として豊臣家の中心となり、1615年の大坂夏の陣で、徳川家康に攻められた大坂城で秀頼とともに亡くなりました【史実】。「淀殿」という呼び名は、秀吉から与えられた淀城(京都市)に住んだことによるとされます。

初(常高院)は京極家に

初は、浅井家のもとの主君の家でもある名門・京極家の京極高次に嫁ぎました。高次は関ヶ原の戦い(1600年)のときに大津城で西軍を足止めした功績で、若狭(福井県)の小浜の城主になります。高次の死後、初は出家して常高院と名のり、大坂の陣では、姉の茶々と妹の江の間に立って和平の交渉に加わりました【史実】。

江(崇源院)は徳川将軍の妻に

江は3度結婚しています。最初の相手は尾張の佐治一成とされ【有力説】、次に秀吉の甥・豊臣秀勝に嫁いで、娘の完子が生まれました。秀勝が朝鮮出兵の中で病死したあと、1595年に徳川家康の息子・秀忠と結婚します。秀忠はのちに2代将軍となり、江は3代将軍の家光や、後水尾天皇の中宮(きさき)となった和子らの母になりました【史実】。

息子はいた?万福丸のこと

長政には息子もいました。『信長公記』には、小谷城が落ちたあと、かくれていた長政の10歳の嫡男が見つけ出され、美濃の関ヶ原で処刑されたことが書かれています【史実:信長公記】。この息子が、後の時代の本で「万福丸」と呼ばれる人物です。

事典の中には、お市の方の子を「3人の娘と2人の息子」と数えるものもあります。しかし、万福丸たちの母がお市の方かどうかを示す記録はなく、お市の方の子ではないとみる研究者が多くいます【諸説あり】。お市の方の子として確かなのは、3人の娘です。

お市の方の家系図と子孫

織田信秀からお市の方、浅井長政との3人の娘、その子や孫の豊臣秀頼・徳川家光・明正天皇までを示した家系図

画像:お市の方の家系図(主な人物だけを示しています・侍ロード作成)。画像をタップ(クリック)すると拡大できます

家系図にすると、お市の方の子や孫に、天下を動かした人物が並んでいることがわかります。

  • 子:茶々(淀殿)・初(常高院)・江(崇源院)
  • 孫:豊臣秀頼(茶々の子)、徳川家光(江の子・3代将軍)、徳川和子(江の子・後水尾天皇の中宮)、千姫(江の子・秀頼の妻)、完子(江の子・公家の九条幸家の妻)など
  • ひ孫:明正天皇(和子の子・江戸時代最初の女性の天皇)、徳川家綱・綱吉(家光の子・4代と5代の将軍)など

江の子孫をたどると、3代家光から7代家継までの徳川将軍は、みなお市の方の子孫にあたります【史実】。

3代将軍・家光は、お市の方と家康の孫

江が徳川家康の息子・秀忠と結婚したため、2人の子の家光は、お市の方と徳川家康の両方の孫にあたります。信長の妹の血が、家康の子孫である徳川将軍家に入ったことになります【史実】。

お市の方の子孫は今もいる?

茶々の子・秀頼の家系は、大坂の陣のあとに途絶えました。初には実の子がいなかったとされます。一方、江は秀忠との間に多くの子を産み、娘たちは前田家(加賀藩)・越前松平家・京極家・天皇家などに嫁ぎました。お市の方の血筋は、こうした江の子どもたちを通じて受け継がれていったと考えられています【有力説】。

ただ、「今のだれそれはお市の方の子孫だ」という話は、途中の家系を一つひとつたどらないと確かめられません。この記事では、記録で確かめられる江戸時代の初めごろまでを紹介しています。

年表でみるお市の方の生涯

1547年ごろの誕生から1583年の北ノ庄城での死去まで、お市の方の生涯のできごとを順に並べた年表

画像:お市の方の生涯の年表(侍ロード作成)。画像をタップ(クリック)すると拡大できます

お市の方の生涯は、大きく①織田家の娘として育った時期 ②浅井長政の妻だった時期 ③織田家にもどって暮らした時期 ④柴田勝家の妻だった時期の4つに分けられます。生まれてから結婚するまでの前半生は、記録がほとんどなく、わかっていません【不明】。

1人目の夫・浅井長政との結婚

並んで立つ浅井長政とお市の方のイラスト

画像:浅井長政とお市の方をイメージしたイラスト

お市の方の最初の夫は、北近江(滋賀県北部)を治めていた戦国大名・浅井長政です。小谷城(滋賀県長浜市)を本拠とし、浅井家の3代目にあたります。

結婚はいつ?

2人が結婚した時期ははっきりせず、昔は永禄7年(1564年)ごろとされ、1561年とする説もありました。今は、永禄10年(1567年)の終わりから永禄11年(1568年)の初めごろとみる説が有力です【諸説あり】。

信長と浅井家の同盟のための結婚

この結婚は、信長と浅井家が手を結ぶための政略結婚でした【有力説】。信長は美濃(岐阜県)を手に入れ、京都に向かおうとしていたところで、その道の途中にある北近江の浅井家を味方にしておく必要がありました。1568年、信長は足利義昭を立てて京都に入ります。

戦国時代の政略結婚では、嫁いだ女性は実家と嫁ぎ先をつなぐ役目もになっていました。お市の方も、織田家と浅井家の間に立つ立場にあったと考えられます。

2人の夫婦仲については、3人の娘が生まれたことから「仲がよかった」と書かれることが多いものの、2人の気持ちを直接伝える同じ時代の記録はありません【不明】。

黒い直垂に烏帽子をかぶり、扇を持って立つ浅井長政のイラスト

画像:(浅井長政のイメージイラスト)

長政はなぜ信長を裏切った?

元亀元年(1570年)4月、信長が越前(福井県)の朝倉義景を攻めたとき、長政は信長から離れて朝倉方につき、信長軍の背後をおびやかしました。挟み撃ちになるのを避けるため、信長は急いで京都へ退きます(金ヶ崎の退き口)【史実:信長公記】。

長政がなぜ信長と手を切ったのかは、浅井家と朝倉家の古くからの結びつきを重んじたためとする説などがあり、はっきりとはわかっていません【諸説あり】。同じ年の6月(元亀元年6月)には、姉川の戦いで織田・徳川の軍と浅井・朝倉の軍がぶつかりました。

「小豆袋」の逸話は本当?

両はしをしばった小さな布袋を胸の前で持つお市の方のイラスト

画像:小豆袋の逸話をイメージしたイラスト(伝承にもとづく想像の姿です)

お市の方の話でよく知られているのが、「小豆袋」の逸話です。長政が信長を裏切ろうとしたとき、お市の方が両はしをしばった小豆の袋を陣中見舞いとして信長に送り、「袋のねずみ(前と後ろをふさがれて逃げられない)」になる危険を知らせた、という話です。

しかし、この話が出てくるのは江戸時代に書かれた『朝倉家記』などで、『信長公記』など同じ時代の記録には見えません。史実として確かめることはできない話です【伝承】。

マサムネ

えっ、あの有名な話が、確かめられないんですか?

ケンシン

『信長公記』にも書かれておらんのだ。よくできた物語として楽しむのがよかろう。

小谷城の落城と長政の最期

黒い甲冑を着て、兜を脇にかかえて立つ浅井長政のイラスト

画像:(浅井長政のイメージイラスト)

天正元年(1573年)8月、信長は浅井家を助けに来た朝倉義景の軍を追って越前に攻めこみ、朝倉家を滅ぼしました。そのあと小谷城にもどって攻め、長政の父・久政、続いて長政が自害して、浅井家は滅びます【史実:信長公記】。長政が亡くなった日は8月末とも9月1日ともいわれ、のちに描かれた長政の肖像画の賛(絵の上に書かれた文章)では9月1日とされています。

このとき、お市の方と3人の娘は落城の前に城を出て、織田家に引き取られました【有力説】。織田家の家臣・藤掛永勝が4人を城から救い出したとも伝わります【伝承】。

小谷城落城のあとの暮らし

小谷城を出てから柴田勝家と再婚するまでの約9年間、お市の方がどこで暮らしていたかには、いくつかの説があります【諸説あり】。

  • 伊勢の織田信包のもと:信長の弟・信包にあずけられ、伊勢(三重県)で暮らしたとする、昔からの説
  • 尾張の織田信次のもと:信長の叔父・信次の守山城(名古屋市)にあずけられたとする説。信次は1574年に戦死したため、そのあとは信長の岐阜城に移ったともいわれます

どちらの説でも、お市の方と娘たちは織田家の保護のもとで暮らしていたと考えられます。この間のお市の方の様子を伝える記録は、ほとんど残っていません【不明】。

2人目の夫・柴田勝家との再婚

濃いひげをたくわえ、甲冑を着て刀を持つ柴田勝家のイラスト

画像:(柴田勝家のイメージイラスト)

お市の方の2人目の夫は、織田家の重臣・柴田勝家です。勝家は信長に長く仕えた武将で、1575年から越前の北ノ庄城を拠点に、北陸の攻略をまかされていました。

なぜ勝家と再婚した?

天正10年(1582年)6月、本能寺の変で信長が亡くなると、織田家の重臣たちは清洲城で、跡継ぎや領地の分け方を話し合いました(清洲会議)。お市の方が勝家と再婚したのは、そのすぐあとのことです。婚儀は天正10年8月ごろ、信長の三男・織田信孝の岐阜城で行われたとされます【有力説】。

信長を失った織田家の中で、筆頭の重臣だった勝家が主君の妹を妻に迎えることには、大きな政治的な意味がありました。一方で、お市の方自身がこの再婚をどう思っていたのかを伝える記録はありません【不明】。

仲立ちしたのは信孝?秀吉?

再婚を取りもったのは、勝家と親しかった織田信孝だとするのが昔からの通説で、事典でもそう説明されることが多くあります。これに対して、秀吉もこの再婚を了承していたとみる説もあります【諸説あり】。

勝家との年の差は?

勝家の生まれた年ははっきりせず、1522年(大永2年)とする説などがあります【諸説あり】。お市の方を1547年生まれとすると、2人の年の差は20歳以上あったことになりますが、どちらの生まれた年も確かではありません。

秀吉はお市の方が好きだった?

「秀吉は昔からお市の方にあこがれていて、勝家に取られたことをくやしがった」という話を、小説やドラマで見かけることがあります。しかし、そうした秀吉の気持ちを伝える同じ時代の記録はありません【俗説】。のちに秀吉がお市の方の娘・茶々を側室にしたことなどから、後の時代に広まったイメージと考えられます。

マサムネ

ドラマで見た場面が、記録にはないこともあるんですね。

ケンシン

物語は物語として楽しめばよい。ただ、どこからが創作かを知っておくと、もっと面白くなるぞ。

お市の方は美人だった?肖像画と「顔の復元」

白い小袖を着て、模様のある赤い打掛を腰のあたりにまとって座る女性の肖像画「浅井長政夫人像」

画像:「浅井長政夫人像」(伝お市の方・高野山持明院蔵)。Wikimedia Commons(パブリックドメイン)

お市の方の姿を伝えるとされる、いちばん古くて大切な絵が、和歌山県・高野山の持明院に伝わる「浅井長政夫人像」です。白い小袖の上に、豪華な模様の打掛を腰のあたりにまとった、桃山時代の身分の高い女性の正装で描かれています。

この絵がお市の方だとされるのは、夫・浅井長政の肖像画と一組になって持明院に伝わってきたためです【有力説】。

肖像画を描かせたのは娘の茶々?

黒い衣服に小さな烏帽子をかぶり、扇を手に座る浅井長政の肖像画。上に漢文の賛が書かれている

画像:「浅井長政像」(高野山持明院蔵)。上の文字が賛です。Wikimedia Commons(パブリックドメイン)

史料ボックス②「浅井長政像」の賛

出典:「浅井長政像」(高野山持明院蔵)の上に書かれた賛(絵にそえた文章)

内容(要約):長政は癸酉の年(天正元年・1573年)の9月1日に戦で亡くなった。それから17年後、ある人が絵師に命じて肖像を描かせ、私に賛を求めた。天正17年(己丑・1589年)12月

この記事の説明:長政の肖像画が、長政の死から17年目にあたる1589年に描かれたことがわかります。賛には描かせた人の名前は書かれていませんが、長政とお市の方の娘・茶々だと考えられています。1589年は、お市の方の七回忌(亡くなって6年目の法要)の年にもあたります

このため、夫人像も、茶々が父の十七回忌と母の七回忌にあわせて描かせたものと考えられています【有力説】。2人が亡くなってから描かれた絵なので、本人の顔をどこまで写しているかはわかりませんが、娘が両親をしのんで描かせた肖像画として、とても大切なものです。

「天下一の美人」はどこから来た?

お市の方が「天下一の美人」と呼ばれるのは、江戸時代に書かれた『祖父物語』に「天下一の美人」と評判だったと書かれていることなどによります。『賤嶽合戦記』にも、その生まれつきの気品をたたえる言葉が見えます【伝承】。江戸時代の『渓心院文』には、37歳のときにも22、3歳に見えるほど若々しかったとも書かれています【伝承】。

同じ時代の記録には、お市の方の容姿を書いたものは見当たりません。「美人だった」と確かめることはできませんが、そう語り伝えられるほど印象の強い女性だったことはうかがえます。

「顔の復元」で本当の顔がわかる?

テレビ番組などで、この肖像画をもとにお市の方の顔をCGで「復元」した例があります。ただ、もとになった肖像画が本人の顔をどこまで正確に写したものかは、わかりません。復元された顔は、肖像画から想像した姿のひとつと考えるのがよいでしょう【不明】。

お市の方ゆかりの地と墓

場所どんなところ今の住所
小谷城跡浅井家の居城。お市の方が長政と暮らした城。国の史跡滋賀県長浜市
北の庄城址・柴田公園北ノ庄城のあと。勝家をまつる柴田神社があり、境内には浅井三姉妹をまつる社もある福井県福井市
西光寺柴田家ゆかりの寺。勝家とお市の方の墓がある福井県福井市
高野山持明院浅井長政とお市の方の肖像画を伝える寺和歌山県高野町
福井市の中心部にある北の庄城址・柴田公園。奥に柴田神社の社殿と柴田勝家の銅像が見える

画像:福井市の北の庄城址・柴田公園。奥に柴田神社と柴田勝家の銅像が見えます。Wikimedia Commons(撮影:先従隗始・CC0)

木々に囲まれた小谷城跡の千畳敷の平らな草地

画像:小谷城跡の千畳敷(滋賀県長浜市)。Wikimedia Commons(撮影:ブレイズマン・パブリックドメイン)

よくある質問(FAQ)

お市の方と織田信長の関係は?

信長の妹とするのが通説です。父は織田信秀とされますが、母はわかっていません。江戸時代の書物には、信長のいとことする説も載っています。

お市の方の子どもは何人?

浅井長政との間に、茶々(淀殿)・初(常高院)・江(崇源院)の3人の娘がいました。長政の息子(万福丸など)については、お市の方の子ではないとみる見方が多くあります。柴田勝家との間に子は知られていません。

お市の方は何歳で亡くなった?死因は?

1583年、北ノ庄城の落城のときに、夫の柴田勝家とともに亡くなりました。37歳だったとされます。一般に「自害」といわれますが、落城の年に書かれた『柴田退治記』では、勝家が妻や一族を刺したあと、自らも腹を切ったと書かれています。

お市の方の身長は?

わかっていません。身長について書かれた同じ時代の記録はなく、ネットなどで見かける数字にも根拠は見当たりません。

徳川家康とお市の方は関係がある?

2人が親しかったことを示す同じ時代の記録はありません。ドラマなどで描かれる若いころの交流は創作です。ただ、お市の方の娘・江が家康の息子・秀忠と結婚したため、3代将軍の家光は、お市の方と家康の両方の孫にあたります。

大河ドラマ『豊臣兄弟!』のお市の方は史実どおり?

ドラマは史実をもとにした物語で、場面やせりふには創作が多く入っています。浅井長政との結婚、小谷城の落城、柴田勝家との再婚、北ノ庄城での最期といった大きな流れは史実ですが、人物の気持ちや会話の多くは記録に残っていません。

お市の方の墓はどこ?

福井市の西光寺に、柴田勝家とお市の方の墓があります。北ノ庄城のあと(北の庄城址・柴田公園)には、勝家をまつる柴田神社もあります。

まとめ|お市の方とは

お市の方は、織田信長の妹として浅井長政に嫁ぎ、3人の娘を産み、2度の落城を経て、2人目の夫・柴田勝家とともに北ノ庄城で亡くなった女性です。

「天下一の美人」や「小豆袋」など、よく知られた話の多くは後の時代の本に出てくるもので、同じ時代の記録からわかることは多くありません。それでも、彼女の3人の娘たちは豊臣家と徳川家の両方に深く関わり、その血筋は将軍や天皇にまでつながりました。

兄の信長については織田信長の記事、北ノ庄城を攻めた秀吉については豊臣秀吉の記事、孫の家光の祖父でもある家康については徳川家康の記事もあわせてどうぞ。信長が亡くなった本能寺の変については、明智光秀の記事で紹介しています。

ケンシン

記録は少なくとも、戦国の大きな流れの中を生きぬいた姿は、確かに見えてくる。

マサムネ

娘さんたちのその後も、もっと知りたくなりました!

参考にした史料・この記事の書き方

この記事は、おもに次の記録や資料をもとに書いています。

  • 同じ時代の記録:太田牛一『信長公記』、羽柴秀吉書状(天正11年5月15日・小早川隆景あて、『毛利家文書』)、大村由己『柴田退治記』(『柴田合戦記』とも)
  • 肖像画:「浅井長政像」(賛は天正17年)、「浅井長政夫人像」(ともに高野山持明院蔵)
  • 後の時代の記録:『祖父物語』、『賤嶽合戦記』、『朝倉家記』、『渓心院文』、『以貴小伝』、小瀬甫庵『太閤記』
  • 事典・資料:小和田哲男「小谷の方」(『日本大百科全書(ニッポニカ)』小学館)、『デジタル版 日本人名大辞典+Plus』(講談社)「お市の方」、福井市「越前北庄の城と城下」(北庄築城450年記念特別展の解説)
  • 画像:「浅井長政夫人像」「浅井長政像」の画像は Wikimedia Commons でパブリックドメインとして公開されているもの、北の庄城址と小谷城跡の写真も Wikimedia Commons のもの(CC0・パブリックドメイン)です。年表・家系図とイラストは侍ロードのオリジナルです

記事中のラベルの意味

  • 【史実】同じ時代の史料で確認できること(【史実:○○】は、その出どころ)
  • 【有力説】研究者の間で広く受け入れられている見方(【有力説:○○】は、その出どころ)
  • 【諸説あり】見解が分かれていること
  • 【不明】史料がなく、わかっていないこと
  • 【伝承】【俗説】後の時代に作られた話や、根拠がうすい言い伝え

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